いがぐり史料館

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保内村の戦(全軍退却)

保内村の戦(全軍退却)

 この日卯の刻頃佐藤織之進は新遊撃隊を率いて保内村(加茂の西南半里)に出で胸壁を築き、原駒之進は一隊を率いて街道の左方に埋伏し、齋藤伊織もまた一隊を率いて胸壁の右方に埋伏し、敵を村裡に誘導せんと計画し原駒之進隊より敵兵を望んで砲撃し七八人を斃したるが、敵に波涛のごとく押寄せ来り、我が軍苦戦に陥り胸壁によって防戦す、新遊撃隊組頭田中末次郎これに死し、我が軍ようやく崩る、これにおいて同隊は誠心隊と合して返戦したるも敵軍次第に加わる、我が軍且つ戦い、且つ走り、桑名兵の守れる下条村(加茂の西南の郊外)の胸壁に至り翌暁まで防戦す、たまたま加茂を守れる我が本隊の退却し来るを聴き、黒水村においてこれと合して退却せり、けだし加茂より国境へ帰るには村松を経過するは順路なるも村松すでに敵の有となりしにより黒水、高石を経る間道を取るには村松を経過するは順路なるも村松すでに敵の有となりしにより黒水、高石を経る間道を取ること必要となりしならん〔西記〕。

 八月五日早天諸将校地理を検し、高石村の前方二十余町小面谷中川原(高石の西に在り村松より高石の道なり)の両岸に胸壁を築く〔結草録〕、川の南岸は町野隊これを守る、この一隊を川内谷と云う、桑名藩の領地なり、深山の間一水その中に西流す、土橋を架して来徃す、沼越の路は川の北岸に沿う、町野隊の守りし胸壁は橋より上ること一二町にして実に死地に在り、雨水漲る時は上流といえども徒渉すべからず〔累及日録〕。

 午後鎮将隊組頭河瀬重次郎馳せ来りていわく、兵を分つて釜の鐔村(不明)の間道に備えよと、これにおいて青龍三番士中隊と水戸兵とを高石に止め、沼越峠は玄武隊これを守り、石間街道は新遊撃隊これを守るべきの令ありしが終に止む〔結草録〕、西兵来り迫り石間口兵寡きを以て朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊をしてこれを守らしむ、杉浦佐伯はこの三隊の軍目たり、庄内兵はすでに本国に退き、桑名兵は若松城下に至り藩侯に従う〔結草録〕。

 八月六日青龍三番士中隊、新遊撃隊は高石村を守り、巳の刻朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊は高石村を発し三月澤山の絶頂に登る(これより我が封内に入る)、釣浜村の渡口より石間村に至れば日暮れる、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊一小隊は先づ渡る、会々大雨河水漲りて夜渡る能はず、朱雀二番寄合組隊一小隊、砲兵隊は河岸釣浜村に次す〔結草録〕、西兵は保田村を本営とし、胸壁を石間街道赤坂山に築きてこれに據る〔横山留総日記〕、町野隊は長谷川に次す〔累及日録〕。

 同七日早天諸隊阿賀野川を渡りて石間に至る、陣将萱野右兵衛、軍事奉行日向左傅、朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛、朱雀二番寄合組隊中隊頭西郷刑部、砲兵隊組頭市岡守衛、朱雀足軽隊片桐喜八、築城隊指図役安部井壽太郎、結義隊々頭渡部英次郎、井上哲作等石間に在り、砲兵隊をして川を渡り左取山(阿賀野川の前岸)に出で、白虎二番寄合組隊、別楯寄合組隊を援けしむ〔結草録〕。

 八月八日早天軍事奉行日向左傅は朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、築城隊を督し胸壁を国境に築いて防備を修む、会々西兵国境に迫り砲撃す、諸隊退いて小松村に至る、陣将萱野右兵衛は杉浦佐伯に命じていわく、昨日砲兵隊を左取村に出して援けしめたるが汝徃いて要害に據り防戦せよと、杉浦すなわち左取村に赴く〔結草録〕。

同九日小松関門の防備この日の暁天に至りて始めて成る〔横山留日記〕。

 佐川官兵衛藩相と為り、町野主水その後を承け朱雀四番士中隊中隊頭と為り八月十一日着任す、よって町野隊を以てその付属と為す、大熊作武弥、有賀圓治を小隊長と為し、関場辰治、中川景次郎、眞柄十郎次郎を半隊頭と為す〔累及日録〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/22(金) 10:49:48|
  2. 会津戊辰戦争史2
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