いがぐり史料館

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軍政改革以前国境の防備

軍政改革以前国境の防備

 慶応四戊辰年二月五日喜徳公、まさに江戸に至らんとし若松城を発す、すでにして故あり二月十日良駅より帰城す。
 二月七日藩士の子弟並びに地方の兵(我が藩の制郷村に存在して家禄ある士を地方御家人、略して地方と云う)、農兵を部署し、若松城および四境の防備を定むること左の如し。

『会津へ入る口々』の章を参照すべし(本書附録に在り)。

津川赤谷より三月澤に至る〔津川赤谷東蒲原郡に在り、三月澤も同断、沼越峠を越えて中蒲原郡へ出る口を云うなるべし)
長坂隊 番頭長坂本太夫隊
大銃打手(後に遊撃隊とも云ひき) 木村忠右衛門隊
不時備組 町野伊左衛門隊
同獨禮以下一隊 柴定蔵隊
小川庄觸下地方士並農兵

 旧来の会津領を四区に分ち、これを觸下と云う郡と云うが如し、ただし古来よりの郡にあらず、附録『農兵編成の計画』を見よ。

赤津福良大平口(赤津、福良は安積郡に在り、大平は今岩瀬郡湯本村に属す、当時会津領ならざりしも之を阨すれば、湯の入り口、すなわち錦澤口、葦野原口、白岩口、水門口に入る能はざるにより、この処まで兵を出せしものゝ如し。
山崎隊 番頭山崎主計隊
不時備組一隊 小野田雄之助隊
同獨禮以下一隊 簗瀬源吾隊
安積郡觸下地方士並農兵

柳原口より村杉に至る(村杉澤は耶麻郡朝倉村に在り、加納鉱山の西に当る)。
一番組 隊長の名を佚す

長沼流の軍制によれば、番頭もしくは新番頭隊三個と、家老の直轄する一隊と、凢て四個隊を以て一陣とし、その家老もしくは若年寄陣将としてこれを率いる、本藩には番頭隊八個、新番頭隊一個、陣将直轄隊三個ありて三陣を構成す、しかして陣将隊を一二三番組と称す、陣将隊は番頭隊に比し、人員少しく多きのみにて編成に大差なし。
不時備組一隊 和田太兵衛隊
同獨禮以下一隊 能見武右衛門隊
耶麻郡觸下地方士並農兵

田島熨斗戸組以東(田島、熨斗戸南会津の南部に在り、
加須屋隊 番頭加須屋左近隊
不時備組一隊 山田内蔵隊
同獨禮以下一隊 常盤輿兵衛隊
御倉入農兵

今の南会津郡並に大沼郡の一部は久しく領地なりしが、数年前会津領となれり、併し旧称により猶御蔵入と称しき。

伊南、伊北、桧枝岐より八十里越に至る。
右の三村は南会津郡の西部にして越後に境せるところなり。
不時備組一隊 隊長の名を佚す
同獨禮以下一隊 丸山彌次衛門隊

猪苗代
猪苗代士
同足軽
同地方士並農兵

若松
大銃打手一隊 山内遊翁隊
不時備組一隊 伊東清左衛門隊
不時備組一隊 柳田小右衛門隊
不時備組一隊 木村四郎左衛門
別楯軍事奉行付属吏員
奉行所支配諸吏員
学校奉行支配
普請奉行支配
割方支配無役並浮人
無役方吏員
会津郡觸下町兵
会津郡觸下地方士
旗ノ者
長柄ノ者
供番

大組足軽
徒目付
甲賀ノ者
三役
使番
奏者番
持筒弓ノ者

右の諸隊は陣将隊、番頭隊を除き本藩の正規兵にあらず、臨時に編成せられたるものなり、諸隊長の官名は何々隊長何席、仮令ば番頭対席とか、御側席とかなりしなるべし。


二月十九日左の令を発す。

著服之儀当分平常何品によらず筒袖そき袖細袴之類勝手次第御名代御告(祖先朝所への報告を云う)之外上下之廉<(上下を着せし定め今後平服にすべしとの義なり)平服に心得候様(諸月番申渡書、是藩士への命令なり)

二月二十一日容保公名を逸堂と改め後祐堂と称す〔諸月番申渡書〕。

 二月二十二日我が公会津に帰り城外に屛居謹慎す、これより先、公江戸を去るに臨み輪王寺宮に就いて慶喜公の為に救解を訴え、また我が藩相等は二十二藩に就いて我が公の為に救解を請う所あり、ゆえに公の帰国するや一意屛居謹慎して朝廷の恩命を待つこと一日千秋のごとし、藩士等思えらく我が公闔藩の力を尽くし、職を輦下に奉ずること六年、内外多艱の時に当り鞠躬尽瘁あえて一日も安居せず、幸に先帝の殊遇をこうむり故将軍(徳川家茂)の倚頼また驚きを以て感激止まず、君臣誓って京師を以て墳墓の地と為し生きて還るを期せず、その後前将軍至誠の心を以て時勢を洞察し、ついに幕府三百年の政権を奉還し勤めて天下の公議を尽くし皇基を更張せんとす、しかるに薩長等一味の公卿と徒党してその誠意を中阻し、先帝の信任を蒙れる摂政、親王および宿徳の公卿を退け、二三の藩士等を挙用し、幼冲の至尊を挟みて聖明を壅蔽し、擅に未曾有の大変革を決行す、加之朝権を借りて、すでに一諸侯と為りし徳川家の削封を企て、関東地方を暴掠して良民を苦め、自ら戦端を京郊に開き以て前将軍の奉勅入京を拒み、ついに精忠至誠の我が公に負はしむるに朝敵の汚名を以てす、仮令我が公朝廷を憚り屛居謹慎すといえども之が臣たる者豈に能く忍ぶべけんや、しかして彼ら戦捷の余威に乗じ猥りに兵を我に加えんとす、これ真の王師にあらずして姦賊なり、我が軍死力を尽くしてこれを撃退せざるべからずと憤激して起つ、しかれども過激の挙動に出でざりしは我が公の善くこれを制御せられたるを以てなり〔松平家譜〕。

二月二十四日喜徳公年少の故を以て政務を容保公に托す〔諸月番申渡書〕。

左の令あり。

総髪(頭の前部を剃りたるを止むる事)、刺髪(頭毛を全て剃り去ること)、摘髪(髪を全て領元にて斬ること、故に前髪は長く後髪は短し)、撫附(摘髪に比し前髪やや短く順次に短くすること、これらは全て願を要せしも今後願を出すを要せざる旨の令なり)等願に不及勝手次第ノ事〔諸月番申渡書〕。

同月二十七日容保公藩士に告ぐること左のごとし。

此度不容易形勢に相成候は畢竟自分不行届よりして此に至候義別て面皮を失候次第に候一統も嘸々残念に思候事と察入候就ても直様於江戸表回復致度偽に候得共公辺御都合も有之一先帰国致候処今般討会之命諸藩へ相下候由に候間今にも人数可相進も難計此上は兵備を第一と致候外無之候間一致一和に相成諸事疑立等不致何と歟して国辱を雪呉候様此段頼入候也

またよ喜徳公藩士に告ぐること左のごとし。

先般は銘々存分之苦戦致呉感慨至極に存候此度京地戦争之儀は彼より発砲応戦致候義にて元来朝廷へ被為対毫髪も御異心不被為存候義は天下所知にして申迄も無之義に候処上様御一同朝敵之名を被為負候段臣子之身分何共絶言語不堪切歯次第に候然処不図も上様上野へ御入寺之上御恭順之道被為盡候との御沙汰有之此度之義御一身に御引受被遊候上は御家に於いても夫のみに難被為在御都合有之別紙之通御歎願書被差出候義に候処勅使下向之聞も有之仙台米澤等へ討会之命も下候由にて如何様之難事到来可致哉も難計知至々極々御大切成場合に相至候処元来姦邪之所為にて真に叡慮に不出は判然と差(この字不明)見候義には候得共御家来之身分何辺迄も御免届相解候様難願致若彼より粗暴之仕向有之候はゞ武門之習断然然至当之所へ立居り御処置被遊候外無之偽に候依て御家来は不申及町在之者に至迄今より軍中之心得にて几て之義存分簡易無造作に致し衣食住飢寒を凌候迄にて死地に陥り御国威を充分に押張り闔藩一致一力に相成必死覚悟を究め粉骨碎身累代之御厚恩奉報候は此時と一統へ可申聞(諸月番申渡書)

これ先に朝廷より我が藩に追討の令下ると聞き歎願書を呈せりといえども、薩長二藩が私怨を報ぜんが為、あるいは之を中阻し漫りに王師の名を借りて兵を加えんとするの恐あるを以て、二公より藩士に戒告するに至りしなり、斯くのごとく、一方においては寃枉を訴ふると同時に、地方においては藩士に非常の変に処するの注意を促すに至りし当時闔藩君臣苦心の状一斑を察すべし。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2
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  1. 2013/03/27(水) 10:18:39|
  2. 会津戊辰戦争史2
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