いがぐり史料館

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軍政改革

軍政改革

 三月十日軍制を改革し、その編成を定む、初め我が藩の軍政は河陽流に據りて編成せしが、天明年間軍事奉行黒河内十太夫の建議により、長沼澹齋著す所の兵要録、所云長沼流の兵法によりて軍政を改め、藩主国に就く毎に鳥狩を郊外に演じ、節制布置皆澹齋の法を用ふ、先に文久三年八月孝明天皇の我が練兵を建春門に叡覧せらるゝや、すなわちこの軍政を用ふ、その後時勢の変遷に伴い、幕府および列藩皆競うて軍政を洋式に変更せり、我が藩もまたこれに習うて訓練を為せり、しかれども未だ全然西洋制と為すに至らざりしが、会々伏見、鳥羽戦の経験によって従前戦法の不利を認め、これにおいて改革を断行するに至れり。

{伏見、鳥羽戦の時、我が兵中鉄砲を持せざるもの甚だ多し、別選組の如き善く戦いたれども鉄砲を持せるもの極めて少し、ゆえに接戦に至る迄は戦を観望するのみなりき、また番頭隊には六十の老翁も十五六の少年もあるが故に、全隊の歩調を統一するには、これらの老少者を標準とせざるべからざるにより活動を鈍くするの憂あり、改革の最大理由はこの二ヶ条なりき。}

 藩士十八歳より三十五歳に至るを朱雀隊とし、もっぱら実戦に当らしむ、三十六歳より四十九歳に至るを青龍隊とし、もっぱら国境を守らしむ、五十歳以上を玄武隊とし、十六歳十七歳を白虎隊と為し、兵の不足を補ふ。

{青龍、白虎、朱雀、玄武は夫々東西南北の神なり、青龍をセイリュウ、朱雀をシュジャクと発音せり。}

 朱雀士中隊一番より四番に至る四隊と為し、朱雀寄合組隊、朱雀足軽隊もまた各同数の番隊を置き、その隊中を分つて二小隊と為し、小隊を分つて分隊と為す、青龍は士中三隊、寄合組隊二隊、足軽四隊、玄武は士中、寄合組隊各一隊、足軽隊二隊、白虎は士中、寄合組、足軽各二隊とす、その組織は朱雀隊に同じ、中隊の士数おおよそ百名、ただし白虎隊はその約半数とす、砲兵隊、築城兵あり、中軍には陣将、軍事奉行、同添役、幌役を置き略々洋制に模倣す、この他有志および農工商等の強健なる者を募集して士卒と為し、以て各隊を編成し、各種の隊名を附したるものまた多し。

農町兵の募集編成に就ては後に定むる所あり、別に記す。

隊頭の職掌左のごとし。

 隊頭職掌之事

一 中隊頭は小隊頭半隊頭差配致候様

一 小隊頭は中隊頭得差配隊差配致候様

 但寄合組隊足軽隊半隊頭は中隊頭支配に相心得候様

一 一門司令官は士中隊半隊頭同様相心得候様

一 隊頭左之通定席被仰付候其余隊中何れも持席持各に相心得候様

一 士中隊中隊頭 番頭対席

一 士中隊小隊頭 奏者番打込

一 士中隊半隊頭 目付打込

一 寄合組隊中隊頭 書簡打込

一 寄合組隊小隊頭 使番打込

一 寄合組隊半隊頭 供番席

一 足軽隊中隊頭 平士ノ上席

一 足軽隊小隊頭 供番ノ上席

一 足軽隊半隊頭 獨禮席

一 幼少士中隊隊頭 番頭対席

一 幼少士中隊小隊頭 奏者番打込

一 幼少寄合組隊隊頭 書簡打込

一 幼少寄合組隊小隊頭 使番打込

一 砲兵隊頭 番頭対席

一 砲兵隊小隊頭 奏者番打込

{按ずるに支配、差配は命令に等差を付したるにて、支配は差配より重かりしなり、承合とは、上官へ伺の上命令を発するを云う、対席は打込と差なし番頭に限りて云うものゝ如し、持席、持格とは同一にて、無役となりたるか又下級の官に就きたるとき前官席次を有する優遇法あり、この席次を持席、持格と云う。}

 初め我が藩に軍政改革の議定まりとき(時日不明)、旧幕府に教官派遣のことを稟請せしが之を許可せられ、この頃、歩兵指図役頭取畠山五郎七郎、砲兵指図役布施七郎、騎兵指図役梅津金彌、会津に着す。

{兵乱治まる後、脱走して会津に来り投ぜる幕人大抵罰を蒙りしも上の三氏は命令を受けて会津に来れるにより所罰なかりきと云う。}

 伝習歩兵第二大隊長歩兵頭並沼間慎次郎は歩兵指図役頭取武蔵櫻橘、同松浦巳三郎、歩兵指図役高林礒之進、同杉江誠一郎、歩兵指図役並高木詮之助、同山内英太郎、事務官須藤時一郎、並びに下士十一名を引き連れ来り投ず。畠山の一行、沼間の一行は三の丸において我が藩士を教練せり、沼間の一行はその後南口に出張して伝習隊に加入せるが、畠山の一行は後までも教練に従事せり。

 会津藩は、すでにして軍政を改革し、および四境の防備部署を定めたりといえども、初めは薩長等の兵を迎ひ、後には、ほとんど天下の大兵を敵と為して戦はざるべからざるの時に迫りて、軍政改革の実効を期するは実に至難の事に属す、あたかも好し我が四境に敵を迎ふるの初めに当り、すでに記せし如く徳川氏の将校我が藩の招聘に応じて来れる畠山五郎七郎等あり、尋いで旧幕麾下の優柔為す無きを憤り脱走して我に身を寄する沼間慎次郎等一行あり、すなわち之に囑するに隊兵の訓練を以てし、フランス式の練兵を演習せしむること日以て夜に継ぐといえども多年薫陶したる長沼流運用の精練に及ばざること遠く、随って洋式に依る用兵練熟の将校を得ること難し、加之我が藩東陬に在り、兵士の大半を以て皇城の守護に尽瘁し、国力を傾注すること七年に及ぶ、故に財力窮乏して洋制の兵器軍需等を充実するの余裕なく、且つ伏見、鳥羽の戦敗れ帰国するに臨み、ことごとく兵器を収むること能はず、江戸を去るに当り緩急に備へんが為め力を尽くして之を購ひ、あるいは徳川氏の陸軍所よりこれを移し、あるいは帰りて新製したりといえども、爾来戦線の拡大するに随ひ欠乏を告ぐること日一日より甚だしく、ついに和銃あるいは猟銃を用ひ、その後ますます欠乏して城下の戦には刀槍に頼るの止むなきに至れり、これらの欠陥就中兵器の不完全および提供不足は、西軍の兵器の精新にして、しかも提供の自由豊富なるに比し、全局の勝敗に至大の関係を及ぼせしものと言うべし〔手代木勝任柴太一郎談〕。

越えて三月十二日に至り、四境防備の一部を左のごとく改む。

津川方面 木村隊(忠右衛門か) 諏訪隊(武之助か)

浜崎方面 堀隊(半右衛門か) 蜷川隊(友次郎か)

三代方面 横山隊(伝蔵か) 鈴木隊(一郎右衛門か)

田島方面 原隊(平太夫か) 有賀隊(左司馬か)〔諸月番申渡書〕


 三月十九日古屋佐久左衛門の兵尽く若松に帰りて日新館に次し、古屋等登城して容保喜徳両公に謁す。
 同二十四日古屋佐久左衛門は簗田戦没の士柳田藤太郎以下六十四人の霊を若松輿徳寺に祭り尋いでその兵五百余人を率いて越後に赴く。
 同二十八日奥羽鎮撫総督九条道孝卿仙台に入る、参謀世良修藏会津征伐を促す、形勢このごとくなれば我が藩もまた兵を発して封境を守らざるを得ざるに至れり。
 四月の上旬仙台の使節玉蟲佐太夫、若生文十郎、米澤の使節木滑要人、片山仁一郎来りて両藩主の意見を伝え我が藩の為に謀るところあり、尋いで仙台の横田官平もまた来る、後数日梶原平馬、伊東左太夫、手代木直右衛門等を米澤に遣わす。
 四月二十九日仙台藩相坂英力、但木土佐、米澤藩相木滑要人、片山仁一郎等関宿において我が使節梶原平馬等に会見す、すなわち閏四月朔梶原平馬馳せて若松に帰り仙米両藩の情況を報ずるに及び家老西郷頼母、梶原平馬、一瀬要人等連署して上書し哀を乞う。
 六月二日輪王寺法親王の執当覚王院義観は陸路勢至堂を経て若松に入り、これより先若松へ来りたる日光の大楽院と共に登城し藩相萱野権兵衛、同諏訪伊助立ち合い我が公に謁す。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2
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  1. 2013/03/28(木) 09:41:12|
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