いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

客兵の入国を禁ず

客兵の入国を禁ず

 我が公の皇室に対して至誠謹慎なるや、独り藩士の激昂を制止戒飭するのみに止まらず、また戦略上非常の不利を忍んで客兵の我が国境に入ることを禁じたり、我が藩君臣は正月伏見、鳥羽に於いて薩長軍に挑戦せられて敗を取りし以来江戸を経て帰藩し、爾後四方防備に汲々せるは只来襲の薩長軍に対抗するの外他意あらざるなり、しかるに王師東征の声を聞きては闔藩君臣心を安ずる能はず、幸にこの際仙台、米澤の周旋により奥羽諸藩連合して我が藩の為に救解の道を講じ、我が藩は自ら顧みて何ら罪責を認めざるも、ただ徹底的に誠意を表せんが為に奥羽諸藩に依頼して降伏謝罪表を呈せしといえども、奥羽鎮撫総督府参謀世良修藏の為に峻拒せられ、ついに奥羽越三十一藩の攻守同盟と為り、なお太政官に哀訴建白したることは別に記述せし所のごとし、これ決して薩長の暴力に屈せんとするにあらず、王師に抗するの意なきを表するに外ならざるなり、ゆえに我が公は当時自ら屛居謹慎の際、客兵の国境に入り来るは朝廷に対して誠意を欠くの恐れありと為し、五月上旬大鳥圭介が軍を率いて会津領に入らんとするや、我が公は使を発して、その入国を謝絶せしが、糧食窮乏の愁訴により唯その入国だけを許し、後講和の道全く絶えたるを以て始めて参戦を許せり、しかして野州軍が日光神廟の兵燹に罹るを恐れ、東照宮の神輿を護送して会津領に入らんとせしに、これを拒みたるが如きも要するにまた此の意に外ならず(その後日光は西軍の據る所と為りしを以て、ついに同神輿の入国を諾せり)。

 次に水戸結城党市川三左衛門、朝比奈彌太郎、佐藤図書等七八人の兵を率いて来り応援したるが、当時我が藩は朝廷の恩命を持てる最中なりしを以て、水戸兵の国内に留まることを欲せず、厚謝温言その退去を求めたるを以て、水戸兵はその意を領し相率いて越後に赴けり、幾ばくもなく水戸藤田党の鈴木縫殿等一隊の兵を率い、結城党を追跡して国境勢至堂に来り、兵を屯して、その将校六七輩我が陣営に至りいわく、我ら藩命を受けてここに至る、願わくば結城党を交付せられんことをと、よって木村熊之進をして応援せしむ、熊之進直ちに水戸兵の屯所を訪うていわく、市川、朝比奈一行の幣藩内に来れるは事実なり、しかれども我は朝廷をして国に退去せしめたり、諸君もしこれを疑はゝ随意に国内を探索せよ、余は諸君の為に嚮導の労を執らんと、水戸の士は熊之進の言貌により疑惑、すなわち氷解せりといえども、そのまま帰国するは軽率なりと思いしが、一隊の士は熊之進に従い若松に至りしも、結城党の隻影を見ず、辞して帰国せり、却越後に入りし水戸兵は諸所の戦闘に参加し、越後退軍の後は、また会津に来り参戦せしが開城の後帰国せり。
 旧幕士古屋佐久左衛門の率いし衝鋒隊は三月九日上州梁田において西軍と戦い敗退して若松に来り、登城して二公に謁し市内輿徳寺において梁田戦死者の追悼法会を行いたる後、信越方面に赴けり、その後再び会津に来り戦闘に参加したるは溝和絶望の後なりき〔以上、幕末実戦史、手代木勝任、水島純談〕。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/30(土) 07:58:44|
  2. 会津戊辰戦争史2
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/209-258deadb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。