いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十八  九門守備の配備     『京都守護職始末1』

 九門守備を命ず     このことを聞いて、わが公は大いにおどろき、家臣をつかわして、公知朝臣暗殺の賊の捜索に当らせたが、伝奏衆からもまた、諸藩に左のような命を伝えて、九門を守らせた。

清和院門……土佐

寺町門……肥後

堺町門……長門

下立売門……仙台

蛤門……水戸

今出川門……備前

乾門……薩摩

中立売門……因幡

石薬師門……阿波


 禁門

南門……薩摩

建春門……米沢

朔平門……奥平

唐門……会津

台所門……所司代

准后門……所司代
昨夜、朔平門辺において、姉小路少将刃傷の儀これあり、はなはだもって容易ならず候間、右九門、今晩よりこれを固むるの儀(人数の儀は、相応に考えこれあるべく候)仰せつけられ候。


 わが公は、左のような書をたてまつった。

この程、御築地(おついじ)内にて狂暴の所行致し候者これあり、御場所柄と申し、重貴を憚(はばか)らざること言語に絶し候次第に御座候。ついては、九門など、それぞれに御固め仰せつけられ候ところ、かねて御所並びに御築地内とも御警備向き御手うすに存じ奉り候。これまでも御警衛の人数さし上げおきたく愚考仕りおり候ところ、当職にまかりあり、この度の儀出来仕り候ては、寸刻も安からず存じ奉り候間、御所内、御築地内へも人数さし上げおきたく候えば、この段、御聞きおき下されたく、よっては右さしおき候御場所を至急に御指図下されたく存じ奉り候。
ただし、御所内に相応の御番所御貸しわたし下され、御築地内の儀は、学習院か、白川のあき御殿にても拝借
仰せつけ下されて、交代致したく存じ奉り候。以上。(五月二十二日)


 そこで水戸藩の守衛を免じ、蛤(はまぐり)門および唐門の守衛をわが藩に命じた。

 



 田中雄平らを逮捕     わが公は上京以来、黒谷に館していたが、禁闕(きんけつ)とは遠く距っているので、万一の時に間にあわないことを常々心配して、禁門付近にわが兵を屯(たむろ)させようと請うても允(ゆる)されなかったのが、今度、はじめて九門内にわが兵営を置くことができた。
 越えて二十五日の深更に、伝奏衆の坊城俊克卿がわが公に命をつたえて、薩摩藩の田中雄平【注一】と仁礼源之丞を捕えるようとのことであった。鎮英と縁頭(ふちがしら)に象眼されていた名は、雄平の実名で、刀は彼が平常佩(お)びていたものと、同臭のものがひそかに訴え出たからである。
 わが公は、さっそく士卒をつかわして雄平たちを捕え、町奉行に命じて監禁させ、外島義直を俊克卿の第(やしき)にやって、その由を報告させた。囚人をわが藩であずかるようにとの俊克卿の言葉に、義直は、守護職の役柄は囚人などをあずかるべきものではないことを陳(の)べ、雄平らを町奉行に引き渡した。

 



 薩の名声落つ     そのとき、薩摩藩邸の留守居役、内田仲之助(後の政風)が、わが営に駆けつけてきて、雄平らを捕えた事由を詰問し、はじめはただならぬ見幕であったが、外島義直がしずかにその事が勅旨から出たもので、捕うるについても武士の礼をつくしたことを告げると、政風は慚懼(ざんく)し、厚く礼を述べてかえっていった。彼としては、わが藩士があるいは疎暴なあつかいをしたのではないかと疑ったのである。
 翌日、伝奏衆は、わが公と上杉斉憲に、雄平らを糺問するように命をつたえた。わが公はすなわち、人を糺問するのは町奉行の役で、守護職がかるがるしくそのような事にあずかるべきではないとし、上杉斉憲朝臣にしても京都参勤の一諸侯で、宮門の守衛は当然の任であるが、これまた訴訟裁判などに関与すべきではないとして、その命令を受けなかった。当時の堂上連が事の軽重をわきまえないことは、およそこの類であった。
 その夜、雄平は自刃して死んだ。
 この事件のために、薩摩藩の乾門の守護はやめられ、その藩士が九門内にふみ入ることも禁じられた。ふだん薩摩藩と折合(おりあい)のわるい堂上をはじめとして、下は浮浪の徒にいたるまでが薩摩を嫌悪することはなはだしく、そのために、これまで薩摩藩をたよりにしていられた中川宮も、嫌疑のかかるのを避けて、その藩士の邸への出入りをさし止められ、薩摩藩の人気はほとんど地に墜ちてしまった。

 



 小笠原上京の噂     六月二日、わが公が召によって参内してみると、伝奏衆が忿忙(ふんぼう)として勅旨を伝えて言うには、小笠原図書頭(長行朝臣)が意を決して【注二】、にわかに汽船で上京するとの噂だが、兵を発して急いで食いとめるようとのことで、言葉つきもしどろで、ひどくあわてた様子であった。わが公は腑に落ちず、意を決するとはなんのことかと反問すると、死を決して京師に攻め入ることというのであった。
 わが公は笑って、図書頭を留めるのには一人の使いですむので、多勢の兵をうごかす必要はない、それに図書頭が朝命を拒むようなことはないと弁明した。しかし、そのことについては、幕府の諸有司も知らないことなので、推して問いただそうとすると、伝奏衆は、知らないというのを疑うもののように、おずおずとして、言葉も顔色も変わっているのを見て、わが公もそれ以上問いつめるわけにもいかず、退朝した。

 



 小笠原上京の顛末     まもなく江戸からの報告に接し、その顛末がはっきりした。
 はじめ尾張大納言茂徳卿が江戸城の留守をあずかっていた時、攘夷の勅旨が下ったので、江戸府内の人心が恟々として取りしずめきれなくなっていたところへ、英国軍艦が横浜に来航し、償金を要求し、その決答をしきりに求めてきた。そこで、幕府は、将軍の東帰が三月中であるから、それまで延期をしてほしいと言って、返事を延引していたが、すでに四月朔日になったので、英国公使は書を贈って、将軍家の東帰がこのうえ延びるなら待ってはいられない、速刻返答が聞きたいと迫ってきた。外国奉行の竹本甲斐守らが横浜に出かけて、彼と応接し、将軍家はまだ急には東帰されまい、従って、償金のことは決めるわけにはゆかないと述べた。英国公使は大いに怒り、このうえはただちに薩摩に出むいて、生麦の仇を報ずるばかりである、ただし、償金は政府から受け取る権利がある、もし肯んじなければ、兵端を開くより他はないと息まいた。竹本らは、再三懇論して、わずかに数日の日延べをしてもらって江戸に帰ってきた。ちょうどそのとき、徳川慶篤卿が攘夷の勅旨を奉じて東下してきたので、このことを相談してみたが、卿としてもいかんともなすすべなく、とりあえず茂徳卿が上京して、将軍家の旨を執(と)ることにすることになって、蒼皇としてその途に上った。前大納言慶勝卿は京師にあってこのことをきき、大いにおどろき、家臣をやって途中で引き止めさせた。茂徳卿は、病気と称して名古屋の居城に帰り、ふたたび出てこなかった。
 英国の督促はますます厳しいので、留守居の老中松平豊前守信篤朝臣、井上河内守正直朝臣らは、その処置に苦しみ、病をかこつけて出仕しない。そのために老中の登城のないこと数日に及んだので、慶篤卿はやむをえず老中と謀って、太田備中守資功の父、隠居入道道淳(備後守資治朝臣)を起用して、老中とすることにした。たまたま小笠原長行朝臣が東下して、外国のことに当ることになったので、道淳朝臣はその職を罷(や)めた。長行朝臣は東下にあたって、償金拒絶の勅旨を銜(ふく)んできたのであったが、それより以前に、老中の人々が英国の要求に対して議論が紛々としてまとまらず、徳川慶篤卿の東下があってから、やっと要求を容れることに決って、その旨を公使あてに通諜した。そのあとわずか数日経って、長行朝臣が到着したのであった。帰ってきて、これを聞いて、その早計を難論してもあとの祭りであった。つづいて東下の途中の後見職から使を走らせて、五月十日以前に諸外国との通商拒絶の商議を開始するようにとの指令があった。
 そこで長行朝臣は、みずからその衝にあたる決意を固めて、まず三港通商拒絶の通諜を調(ととの)え、松平信義朝臣以下同列の人たちの連署を求めた。同列はその不成功を痛論して、応じようとしない。長行朝臣は、独名で、勅旨によって三港の通商を拒絶する旨を通牒したところ、諸外国の公使はあえて応諾しようとしない。英国のごときは、これに対して、日本は不信不義の国だときめつけ、さらに日をきめて償金の受取り方を迫ってきた。
長行朝臣は横浜に出向き、外国公使を引見して、ともに商議をしようと言ってやったが、外国公使たちは、不信不義の人と会いたくないと言って出てこようとしない。長行朝臣は、やみをえず、まず償金を与えてこちらの信義を示し、その後で商議にかかろうと肚をきめ、英国公使に書を贈ったが、それでもなお英人は出てこない。長行朝臣はついに償金を英国人に交付し、その後で外国奉行井上信濃守、目付向山栄五郎(後に隼人正と称し、維新後に黄村と号した)、水野癡雲らを引きつれて海路を西にのぼり、償金交付の始末を上奏する目的で、その途についた。井上ら三人は、当時有為の材で、この人たちと上京するのは、外国交際の範例から、世界の大勢を詳細に知らせて、死をもって争ってでも大いに局面を一変させようと思い立ったからであった。
 
 



 後見職の辞意     後見職は長行朝臣の ただならぬことを察して、大いにおどろき、水戸藩士梅沢孫太郎に手紙をもたせて、ひそかに鷹司殿下の手もとまで差し出して、後見職辞職の意を述べた。その署名に言う。
     
拙書をもって、拝(うやうや)しく啓(もう)し上げ奉り候。向暑の節に御座候えども、益々御清安にあそばされ候由、恐悦の至りに存じ奉り候。さて私儀、不肖の身分にて当職にまかりあること恐れ入り奉り候間、御免(ゆるし)相成るよう内願の趣は、先便にて大略申しあげ奉り候ところ、攘夷の儀行ないかね候意味あい、並びに御地出立後、昨夜までの事情、左に申し上げ奉り候。
    
一 去月二十六日、御地を出立仕り候。二十六日熱田に着仕り候ところ、目付堀内宮内と申す者上京の途中同所に着き候につき、江戸表の模様、並びに償金の儀相たずね候ところ、償金相渡し候方に評決いたし候由申し聞き候。私儀大いに驚愕仕り、右はかねがね御所へ申し上げの趣もこれあり、天下へ布告に相成り候儀にて、今さら変改いたし候儀は相成らざる次第にて、右様に評決いたし候は、さだめし江戸表にての取計らいにこれあるべしと推察仕り候間、償金は決してつかわし申すまじき旨相したため、江戸表老中一同へあらあら申しつかわし候えども、なお不安心につき、いよいよもって償金をつかわすまじく、拒絶の応接早々に取りかかり申すべく、尤も一日も早き方然るべく相したため、家来へ口上を委細申しふくめ、浜松宿より大急ぎの便をもって、図書頭へ申しつかわし候えども、返書到来致さず候間、心配仕り、去る八日、神奈川宿を通行の節、同所奉行浅野伊賀守、山口信濃守を呼出し、英夷の様子相たずね候ところ、両人の申し聞け候には、当月三日、償金を相渡し申すべき旨証書まで、先月中に英夷へ相渡し置き、私の旅中より申しつかわし候両度の差留これあり候につき、三日の当朝に至り、にわかに償金つかわすまじき旨図書頭より両人まで差留を申し越し候。よって償金渡し兼ね候趣を奉行共より英夷へ談判におよび候ところ、英夷ことのほかに立腹致し候。
一旦証書まで差し贈り候儀を今さら変改致し候は、はなはだもって不信の至り、このうえは存じよりもこれあり候間、もはや閣老にても、誰にても面会を致し申さずとて、切に戦争に取りかかり申すべき体につき、仏郎西(フランス)人を頼んで当時談判中の由申し立て候間、さようにては償金は相渡し申すまじき旨申しつけ候ところ、さ候わば、今晩にも必ず戦争を相始め申すべく、戦争と相成り候節は、私どもより相渡し申さず候とも、必ず差しつかわし候もの出来申すべき旨を申し、取りあい申さず候。拒絶の儀も、手強(てごわ)の応接仕るべき旨を申し聞かせ候ところ、両人とも怒色相発し、いかなる訳にて私、攘夷の御請けをいたし帰府仕り候やと、種々評論におよび候ゆえ、御趣意の委細を相咄(はな)し、この度は是非とも攘夷あそばされず候では、第一将軍家の御請けの証(あかし)も相立ちがたく、職掌へ対し済(す)まざる次第、かつは将軍家の身の上のことも塾考仕るべき旨、段々説ききかせ候ところ、将軍家の儀はいかよう相成るとも、皇国の御為には換えがたき旨申し張り、これまた一向に取合い申さず、かえって両人の申し聞け候には、強いて攘夷を主張いたし候わば、私儀、刺客の害に逢い申すべしなど申し聞け、あまりに不審のことに存じ候ところ、図書頭上京いたし候由にて、すでに出帆致し、まだこの辺に居り申すべしとのこと、なにゆえの上京ぞと相たずね候ところ、子細は存ぜず候えども、その償金の事にもこれあるべきやと申し聞け候。後にて承り候えば、図書頭は独断にて償金相渡し候由。この日、神奈川着は八ツ時のことにて、問答中に七時過と相成り候間、両人共まず引取らせ申し候。いったい九日着のつもりに御座候ところ、江戸表の様子いかにも案ぜられ候間、川崎宿より乗切(のりき)りにて、近習ばかりを召しつれ、同夜四つ時に帰着仕り、翌日登城のうえ、老中並びに諸役人一同と面会し、御趣意の趣を委細申し聞かせ、拒絶の儀もまたつぶさに申し聞かせ、かつ大樹の御請申し上げ候次第、並びに私へ全権授けられ候証書まで内見致させ候えども、諸役人一同は、皇国の御為に相成らず候ゆえ、御請仕りがたき旨一同申し述べ候間、天勅、君命に相背き候ように当り申すべしと再応諭し申し候ところ、攘夷の儀は御為に宜しからずと存じ奉り候ゆえに御請仕らず候えども、是非とも攘夷あせばされ候わば、それは別段の事と答え候までにて、取合う者これなく候。いったい老中を始め諸役人、なにゆえにやこの間中より引込多く、ことにより候えば登城一人もこれなき日も御座候由、右不審と存じ、短気に議論仕らず、まずその日は退出知り候。
その後、風聞承り候えば、諸役人のうち、私の心底を疑い候者これありて種々取沙汰仕り候由、また承り候えば、私が禍心を包蔵仕り候ゆえ、攘夷を主張仕り候由、大いに嫌疑を生じ候説も御座候由、また、たびたび横浜において人払いの応接これあり候ゆえ、姦計これありと申す風評も御座候由にて、有志のものども痛心仕り候由、承り及び申し候。
もとより雑説に候えども、諸役人の心底は分り兼ね候間、まず図書頭を横浜より呼戻し、諸役人一同の申し立ての品もこれあり候間、長崎、箱館の儀はまず差しおいて、横浜鎖港を早々懸合(かけあ)いに及ぶべき旨申し聞かせ候ところ、その儀はともかくも図書頭に任しおかれ、私儀は重大至難の攘夷を御請け仕り候えども、当時の形勢は開国論にこれなく候では相成らず候間、早々上京して建白仕り候ようにと、老中並びに諸役人こぞって申し聞え候。
さ候わば、それぞれ存じ寄りの見込みの趣、委細書面に相したため、早々さし出し申すべく、右の書面をとっくと熟考のうえ、尤もの次第に候わば、上京して言上致すべく候間、早々さし出し申すべき旨を申しわたし候ところ、書面さし出し候儀は迷惑の旨一同申し聞え候間、さようの節はこれあるまじく、右書面早々さし出し申すべき旨、厳しく申し諭(さと)し、承知仕らせたく催促に及び候えども、十二日より今日まで、書面さし出し候者は一人もこれなく候。右はいかなる次第に候や、畢竟、私を疑い候ゆえに候やと存じ奉り候。
私儀、先年以来、嫌疑の際に相交り、はなはだもって痛心し候えども、誠にもって天恩身にあまり候身分にて、叡慮を貫徹仕り候よう、及ばずながら心掛け、只今当職にまかりあり候えども、前文のもようゆえ、攘夷の儀はまずさしおいて、人心の鎮定のところも、深々心配仕り候次第に御座候。よって、先便にても申し上げ候とおり、なにとぞ当職を御免相成り候よう、ひとえに懇願し奉り候。出格の御垂憐をもって内願のとおり仰せいでられ候わば、実(じつ)もって大幸と存じ奉り候。右申し上げ奉りたくかくのごとくに御座候。誠恐誠惶、頓首再拝。
 五月二十五日 慶喜

 殿下
別紙に申し上げ候本文の趣、委細は梅沢孫太郎へ申し合せ候事に御座候。また、あまりにしたためかね候風説などは、同人より御承知あそばされ候よう願い上げ奉り候。謹白。
 五月二十六日


 同時に孫太郎へ慶喜卿の命ぜられし件、同人の心覚えの件々

一 小笠原公、威力をもって公卿方を取締り候つもりにて、歩兵千人程、すでに道中にあり。

一 神奈川奉行が一橋公へ申し上げ候事。

一 小閣老京師よりおかしな書付来り候とて取合い申さず、公卿方首刎(くびはね)云々。

一 小閣老上京の儀は、攘夷を破り、開港説を申し上げ、右御聞きずみこれなき節は公方様を御つれ、御帰府を取りはからい候事。

一 関東の申し立て通りでき申さず候節には、御所に火をかけ、公卿方を縛し候つもり云々。

一 長薩へ軍艦をさしむけ、京師を屠(ほふ)り候事。

一 小笠原が独断にて償金を相渡し候事。かつまた、同人一人にて夷人と応接に及び候事。

一 一橋公に天下を奪い候底意のこれあると申しふれ候事。

一 若老酒井飛騨引きこもられ候よう二条城より御沙汰これあり候ところ、小笠原閣老大立腹にて、そのまま勤めおかせ、水野癡雲一同乗船いたし、京師へまかり越し候よう申しふれ、この節横浜に滞船いたし居り、舟中へ政府を開き、人撰などの評議これある由。

一 小栗豊後、薬師寺等まかり出て候風説のこれあり候こと。

一 ひとり公(慶喜卿をさす)鎖港説を唱えて御下向なれども、関東にはこれなく、しからば右等の徒を掃除して、万世永久の交易を結ぶゆえ、それまでは鎮静に致しくれるよう、夷人へ小閣老より談これあり候由。
 已上


 



 不可解なる事実     右の書中で、長行朝臣が上京し、兵力で朝廷を威圧するとあるのは、ちょうど攘夷決行という折から、幕府の歩騎兵数隊が、将軍家の手勢が少ないのを危ぶんで、守衛のために続々と西上したのを附会したものである。
 水戸藩士がこのようなことを述べ立てたわけは、はじめに慶篤卿が鷹司殿下に書を呈して、償金は出さずに攘夷を決行すると報じたので、殿下はさっそくそのことを上奏し、公卿一般にも示したのに、長行朝臣が東下してみると、慶篤卿の方針はこれに反して、すでに償金を与える通諜を英国公使に発したあとだったので、長行朝臣は、厲
(きび)しくこのことについて抗議し、後見職が東下したときにも、しばしばこのことで抗争した。結局、両卿ともに勅旨を実行しなかったので、言訳が立たなくなり、はるかに殿下に書を呈して後見職を辞退し、このようなゆきがかりになったのである。
 しかし、幕府に対してはふかく秘していたので、わが公も、老中の人々も、はじめはこの事情がわからず、大いに怪しんだわけである。それにしても、慶喜卿が将軍家の後見職の身でありながら、幕府の顕職で、しかも有為の士が、至当な処置をとったのに対して、かえってとるにも足らない浮説を並べ立て、その人を朝廷に讒誣(ざんぷ)するがごときは、奇怪至極なことというべきである。また、堂上の人々も、日ごろは好んで過激な議論を喋々するくせに、風声鶴唳にひとしいことにもあわてふためくありさまは、児戯にひとしいが、長袖連の常套として、ふかく咎めるほどのことではない。
 後に長行朝臣がわが公に送ってきた陳情の書を見れば、慶喜卿の言うのとは、事実がだいぶちがっているもののようである。その書面は次章のようなものである。

        



 【注】

【一 田中雄平】 通称は新兵衛。薩州藩士。安政年間から尊攘派の一人として活躍、文久二年七月、安政の大獄に井伊と結託したとの理由で、九条家々臣島田左近を暗殺した。姉小路公知暗殺の現場に残された刀が雄平のものであることは、当時薩州藩邸に寄寓していた土州脱藩の士、那須信吾(重民)の証言により明らかとなり、逮捕されることとなった。那須は武市瑞山らの土佐尊攘派に属し、公武合体を唱える藩重役吉田東洋の暗殺に参加し、のち文久三年八月天誅組の変に加わって戦死した。雄平は獄中で自殺したので、真犯人であるかどうかは不明となった。下手人は彼ではなく、ある者が祇園新地の妓楼でこの刀を奪い、彼に罪を嫁するため、故意に現場に刀を遺棄したとの噂もあった。しかし諸藩有志は、姉小路家の菩提所清浄華院に集り、審議した結果、衆議は、雄平が犯人ということに決し、事を落着させた。要するに尊攘派内部の薩、長、土三藩の間の複雑な対立関係がこの事件の背後に伏在していたと思われる。

【二 小笠原図書頭が意を決して…】 老中小笠原長行(図書頭)は、文久三年五月九日、償金を英国に支払ったのち、兵を率いて上京する計画をたて、英国代理公使ニールに交渉して船を借り入れ、晦日大阪に上陸した。随行者は外国奉行井上清直、目付向山一履、同士屋正直、元勘定奉行水野忠徳をはじめ、歩騎砲兵千六百人であった。
小笠原の率兵上京の目的については朝廷側は、本書に記載する慶喜の書状につけられた梅沢孫太郎の情報にもとづいていた。梅沢は水戸藩士で、同藩家老武田耕雲斎の部下として、慶喜の上京に随従し、一橋家用人となり、のち慶喜が将軍に就任した時、目付に登庸されてその腹心となった人物である。小笠原の意図が、この梅沢の情報のごときものであったかどうか、本書は、むしろ小笠原の弁明に依拠する見解を示しているが、現在の学界でも、対立した見方がある。すなわち一つの見方は、英、仏両国の幕府軍事援助計画に支持され、その諒解をえた、尊攘派打倒のためのクーデター計画であると考えるのである。他の見方は、小笠原の当面の目的は、あくまで朝廷の攘夷実行政策を翻意させる説得にあり、兵力は、人質同様の境地にあった将軍の守衛を目的とするものであったと見るのである。諸般の情勢から見て、ただちに軍事クーデターの着手をもくろんでいたとは考えにくいが、間接にせよ、その軍事力によって、京都の情勢の変改をねらったことは、明らかである。
小笠原が京都に向ったとの報が入ると、京都尊攘派は驚愕した。在京幕閣は若年寄稲葉正巳を派遣して上京を止めたが、小笠原は淀まで進んだ。六月四日、将軍は老中水野忠精をつかわし、上京の理由を詰問し、さらに、上京はかえって幕府に不利益になるとの意を伝えたので、ようやく小笠原は納得した。すでに前月二十四日に将軍が江戸に帰ることを許すとの勅旨が出ていたから、強いて上京することをあきらめたのであろう。六月六日、朝廷は小笠原の処罰を要求し、九日幕府は、彼の職を免じ、井上、向山、水野に差控を命じた。将軍は大阪で小笠原と面会したが、在阪の幕吏中に小笠原の処罰に反対する声が多かったので、小笠原もそれ以上の処罰をうけることなく帰府した。
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  1. 2012/11/01(木) 11:45:32|
  2. 京都守護職始末1
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