いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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城中の糧食

城中の糧食

 次に糧食に就いて言うに、米は平時城内貯蔵の外に城南外郭内に米庫俗に十八倉と称する倉庫あり、五ノ丁にも米庫あり、開戦の初め十八倉は特に米を充実して他日の用に備ふ、すでにして敵兵次第に国境に迫るにおよび、軍事奉行飯田兵左衛門は建議して城外諸倉の米を城中に搬入し以て非常の変に応ぜんことを請う、庸使等これを以て兵左衛門が徒らに不祥の言を放ちて軍気を阻喪するものと為し、交々これを君前に誣謗し、ついに兵衛左門は軍事奉行を免ぜられ、玄武足軽隊中隊頭に遷さるゝに至れり、幾ばくもなく八月下旬敵兵城下に侵入するや、兵士の入城に次ぐに藩士の家族争うて城中に入るものと相待って、ついに数千の人口を増し、城中の倉米次第に減少を告ぐるのみ、この時十八倉の陰に敵兵潜居して城兵を狙撃するの恐れあるを以て藩相梶原平馬は兵士に命じて倉庫を焼却せしめたり、これにおいて人皆始めて兵左衛門の先見に服するも、あぁ、また遅かりき、我が公は兵左衛門の材識大に用ふべきを知り、直ちに軍事奉行に復任せしめのみならず、余恩を延いて、その子大次郎に及べり、八月二十三日我が公瀧澤より帰城三之丸を通過せらるゝや、この日敵兵城下に侵入したるを以て、藩士の家族老侯幼婦女相率いて城内に避難し、旁午雑踏ほとんど収拾すべからず、しかしてこれを指揮配置する者なし、我が公馬上より従臣中に兵左衛門の子大次郎を看出し、自ら携ふる所の采配の一片を割取し大次郎に輿へていわく、この場整理の事、一に汝に命ず、すなわちこの摩片を以て証と為すと、けだし兵左衛門先見の功を嘉みしその子を不時擢用せられたるなり〔内田藤八談、海老名郡治談〕。

 越えて九月に至り城中蔵米ますます欠乏を告ぐるを以て、使を南方出陣の総督佐川官兵衛に発して糧道を開かしむ、これにおいて官兵衛は諸隊をして米穀蔬菜に徴発せしめ、社倉米と共にこれを城中に入れ、以て開城に至るまで辛うじて食用を弁ずるを得たり。

{会津藩の社倉は土津公の時承応元年朱子の法により備荒の為に設置せらる、当時金拾両に米七拾参俵の割にて七千俵購入貯蔵せしに、寛文三年に至り各郷貳拾参ヶ所に米倉を設置し、在米増加貳万参千俵となり、これを各代官に管理せしむ、その後寛文十一年常平倉に改め糴糶の法を以て米値の調整を施行せり、土津公家訓に『社倉為民置之為永利者也、歳飢則可発出済之不可他用之』、斯く、社倉米は飢餓の際民を済ふ、外これを使用すべからざるものなれども、国家危急の時なれば非常手段を取りしなるべし。}






卷七 会津の形勢会津辰戦史2
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/30(土) 08:58:13|
  2. 会津戊辰戦争史2
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