いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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西軍の侵入

西軍の侵入

 初め西軍の会津に侵入せんとするや、参謀大村益次郎の計画せる枝葉を刈りて根本を枯らすの策に據り、一方日光、今市、宇都宮を控制し、主として白河を衝きて漸次仙台、米澤に兵を進め、別に海路より兵を東海岸に送り平、棚倉、三春、二本松を攻略し、一方は海陸より兵を北越に出し西軍に抗する諸藩を破り、しかるに後、一挙して四境より会津に迫らんとするにあり、参謀土佐藩板垣退助は初めこの方略に従い土佐軍を率いて野州に出兵したるも、地勢嶮岨にして進軍に便ならざるのみならず、この地に向かいし会津軍また屈強にして容易に破り難きを察し、且つ別に見る所あり、これにおいて肥前兵と代わり退助はその軍を率いて白河を出で、諸軍と共に棚倉を陥れ、反覆表裏の三春を従い、その嚮導によりて諸軍と共に二本松城を屠るや、八月十九日退助は参謀薩藩伊地知正治と相議していわく、会津は根本なり、仙台、米澤のごときは枝葉なり、枝を刈りて根を残す、ゆえに従って滅ぼせば従って起る、早く根本を絶たば枝葉随って落ちん、今や会津は兵を四境に分ち、その中央は空虚なり、しかして若松の降雪は今より三十日を出でず、降雪の後は容易く進むを得ず、兵を進むるは今日に在り、機失うべからずと、これにおいて軍議を開き西軍石筵口に出で方成峠(勝軍山)を陥るも、東軍猪苗代を焼き、更に退いて十六橋を破壊し瀧澤峠において防禦せば西軍の勢頓挫の恐れあるを以て、中山口より進攻すと声言して東軍をして、その方面に力を傾けしめ、その虚に乗じて勝軍山を攻陥し一気に新軍するに決し、すなわち陽はに全軍中山口より進討すべしと声言し、実はその主力たる薩、長、土、大垣、大村三千余の大軍は八月二十日二本松を発して石筵に向かい、しかして薩、長、大垣等の別軍は本営より中山峠に向かって進み、その日両軍は会津街道玉ノ井村において相会合したるを以て、明日総軍勝軍山に進撃せんとす、この時勝軍山を守れる東軍は伝習隊(旧幕脱走兵)を前面とし、仙台兵、我が兵を右翼とし、二本松兵を左翼とし、山を下り奮戦して西兵を追撃すること十余町、西軍は左翼の兵を逐うて山に登り却って前面の隊後より撃つ、伝習隊すなわち山上に退き西兵を駆逐せんとす、前面の西兵また進み来りて来撃す、伝習隊苦戦利あらず、ついに山上の営を退く、この戦に伝習隊頭取浅田麟之助は重傷を破り、兵士の死傷およそ三十人なり、東軍思えらく、明日西兵必ず来り襲わんと、その部署を定め西兵来らば萩岡の砲台にて木砲二発を放ちて報ずるを約す、よくよく勝軍山の地勢たる山岳相連り、その間、平垣の処ありて二本松城に臨み、樹木稀疎にして野草茫々たり、防御線は南北に亘りて三里におよび、小径すこぶる多く大道の通ずるものなし、西北より東南に険谷あり、これを勝沼と云い、東に出て南に近きを萩岡と云う、中央高き岡陵はすなわち勝軍山なり、皆壘壁を築く、高く北にそびえるを硫黄山と云い、その麗に接するを勝岩と云う、会津の四境は二十の道路あり、何れも険にして守備するに便なり、ただ、この一道のみは拡々たる山野にして彼と我とその兵数略々同じからざれば断じて守る能はず、しかるに東軍は、わずかに六七百人にして新募の農兵は、その半に居り、その他もまた多くは客兵なり、素より勝算なしといえども、強いてこれを守るに過ぎず〔七年史、南柯紀行、大垣藩奥羽征討史、水島純談〕。

この日、太田原藩主太田原鉎丸の臣太田原一学左の書を若松城に贈りて忠告す〔七年史、遺老筆記〕。

治乱は人の所為にあらず天明然らしむると雖も今尊君朝敵と成て干戈を動かすこと是れ尊君の方寸より出るに似たり然らば干戈を治めんことも尊君の方寸によらざらんや尊君今官軍に抗するの事其情実は不識と雖も粗察する所を以て言はんに基元因は伏見戦争にあるべし徳川公奏聞の故を以て参内の折節薩長の徒路を要し是非の談判より終に発砲既に暴に及ぶの時尊君乃ち徳川公君臣の間不得止夫より頻りに官軍に抗し不憚錦旗朝敵の名顕るゝに至れり然りと雖も尊君徳川家への尽忠天下誰人か不識んや又対天朝精忠の奉職既に先帝の御仁恵有りしこと是れ亦人悪の知る所なり然れば尊君朝廷へ異心なきこと不待言語明なり玆に於いて窃に察するに尊君如此精忠の意あるを何の故を以てか薩長の徒深く拒み恐れ多くも主上御少年に在しますを以て各随意の処置を言上し関西の諸侯を誣て直に官軍の名を輝し尊君の国界へ発向し一の応接にも不至襲撃せんとの勢に一国憤然不止に至り益抗拒し防戦の用意則其故を以て奥羽の諸藩も即尊君の真意難黙止同盟し終に方今の大事件に至りしなるべし依て僕熟々顧ふに言理あり然らずんば奥羽の諸藩争うてか同盟せん然りと雖も此に又不得止の説あり天理の不動も勢の織なるには如何ともすることなし今尊君の言は理なり官軍は勢なり如何となれば官軍朝命を奉戴し来る勢必定不可止なり尊君の強国なるを以て奥羽の各藩同盟せは争でか容易に戦止べけんや官軍も亦不能止然る時は皇国一時悉く疲弊せんこと掌中に在り然て後万一も外国の患等あらば誰か国力を尽くす者あらん其期に至らは実に御国体に拘り可申必しも此儀無しとのみ可申や懼る可きの第一ならずや天朝深く被為悩宸襟候は此一大事にて又万方の罪は被為在玉体候と迄被為遊綸言候は誠に勿体なきことにて難有次第なり如何にもして早く天下を御平治万民塗炭の疾苦を救せられ度と旦暮被為廻叡慮候段亨に以て恐懼尊君真に天下へ御奉公の御志願に候はゞ抗官軍の理はありと雖も天下の大事に比さば私情ならん願くは天下の為めに其理を被為忍迄官軍へ抗するの罪を謝し其実効相立ば即ち過て不憚改の金言天朝元より干戈を止んこと御志願に候へば速に御許容あらんこと必定なるべし左あらば上は抗するときは以怨報怨以火消火が如く官軍の勢不可止終に前件のあるいは立至り尊君の国亡んのみならず皇国をして御安危に至らしめんこと豈君子の意ならんや仰き冀くは理勢の域を分弁し国家の為めに憤りを止め大義を明論し速に謝罪の道を立んこと伏せて奉懇願候是即ち治も亦尊君の方寸によるにあらずや誠恐誠惶頓首謹言
 太田原鉎丸家来
 太田原一学愛敬


 八月二十一日暁霧濃かなり、卯の刻、西軍来り攻む、萩岡の前営大砲二発を放ちてこれを報ず、勝軍山より望見すれば西軍二道より来る、一は南方の渓間よりし、一は北方の渓間より、一は北方の山上よりす、猪苗代隊田中源之進は勝軍山に赴き、旧幕軍の総督大鳥圭介は大隊および二本松の兵を率いて勝岩に登り北方の西軍に当る、先づ幕将本多幸七郎、大川正二郎兵を督して渓を隔てゝ連なりに砲戦す、別に第一大隊および新選組ありて勝岩の下に戦う、砲声雷の如し、巳の下刻、萩岡支ふる能はず火を放ちて退く、火延いて野草を焼き西兵勝岩に進むことを得ず、すなわち路を転じて南方に進む、勝岩の砲やや衰ふ、よって第二大隊の中一小隊を分ちて勝軍山を援けんとし上ること十町許、砲声ようやく近く東岸退却せんとす、辰の刻頃西兵間道を潜行して背後の丘上に来り迫る、圭介等残兵を指揮して戦わんとす、たまたま本営火を失う、東軍ついに潰走し止むべからず、西兵また背後を襲い飛弾雨のごとし、時に胸壁に止まる田中源之進、北原半介、大鳥圭介等数人のみ、相議していわく、今徒に此に死すべからず退きて後図を謀らんと、けだし猪苗代城に據らんと欲するなり、西兵迫り来りて連なりに狙撃す、東軍行々防戦して退くこと二里余、すなわち林間に笛声起こる、衆思えらく我が敗兵ならんと、進みてこれを見れば西兵の間道を走り来りて我が退路を要するなり、すなわちその乱射する所と為り、東兵咄歎身を躍らして草間に伏す、草深くして人を没し皆相失す、半介等懸岸を攀ぢ荊棘を分け備さに艱難を侵し、明日辛うじて秋元原に至り、大鳥圭介、二本松藩相丹羽丹波、田中源之進等に再開し、正午共に秋元原を発し若松城に入るを得たり〔七年史、南柯紀行〕。






卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日
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  1. 2013/03/31(日) 11:56:55|
  2. 会津戊辰戦争史2
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