いがぐり史料館

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飯盛山の壮烈殉国

飯盛山の壮烈殉国

 また同白虎隊の一部同半隊頭原田克吉、隊士城取豊太郎、笹原傳太郎七士を率い戸の口より退却し、飯盛山に登り鶴ヶ城を望見して、これまた落城したるものと信じ、共にまさに自殺せんとしたる際、たまたま此処を通過せし敢死隊士に諌められて止り、入城せしと云う〔原田克吉談〕。

 義集隊頭辰野源左衛門は歩兵三十人を率いて戸の口原の兵を援けんと欲し沓掛に来り、大に叫びて敗兵を激励す、西兵勝に乗じて進撃し我が兵沓掛、金堀の嶮を扼して防戦す、奇勝隊頭上田新八郎衆を督し奮戦してこれを死す〔若松記、七年史〕。

 赤井村小坂に在りし入江庄兵衛、強清水に在りし佐川官兵衛、秋月悌次郎等大杉を経て院内村に至る、遊軍隊組頭浅羽忠之助、敢死隊、奇勝隊、水戸兵もまた冬坂を越え院内村に至りて集合し、新橋を渡りて城に入る〔若松記〕。

 西軍進んで瀧澤坂を上り林間に出没して射撃す、弾丸瀧澤村の本営に達す、辰の下刻、我が公瀧澤町に移る、黒河内式部、竹村助兵衛等止まりて敗兵を激励すといえども如何ともすること能はず、瀧澤町に至れば敗兵大に集る、我が公馬を駐めて衆を麾き自ら決戦せんと欲す、左右諌むるに、その機にあらざるを以てす、我が公松平定敬朝臣を顧みていわく、城陥らば身は社稷と共に亡ぶるの決心なり、卿はここを去りて同盟列藩と今後の謀を為せと、定敬朝臣請うていわく、京都以来阿兄と死生を共にせんと覚悟せりと、我が公聴かず別れて馬を回して甲賀町口に向かい、定敬朝臣は将士九十六人と米澤街道に向かって去る。
 この日藩士櫻井常四郎は瀧澤坂上の舟石において怨敵退散の祈祷を為し居りしが、敵の来るに逢い自刃せり、初め常四郎家を出づる時、妻たみ子に言う、我生命のあらん限り敵をして瀧澤坂を越えしめず、ゆえに敵もし城下に侵入せば我が死したることを知るべしと、この日、たみ子敵の侵入を聞き自刃して常四郎の跡を追いたり〔白虎隊十九士伝附録〕。

 国産奉行河原善左衛門、国産奉行副役大野英馬、善左衛門弟岩次郎、長男勝太郎、属吏松田俊蔵、芥川大助、絲川勇次、金子次助、木村信蔵等三十余人を率い、中村を過ぎ田畝を経て瀧澤村一箕山八幡宮の社前に進む、西軍銃丸を乱発す、善左衛門槍を揮って縦横馳突し、弟岩次郎と共にこれに死す、大野英馬、芥川、絲川等前後皆斃る、わずかに免れたる者は城に向かって退却す、勝太郎年十五、傷を負い未だ死せず、松田俊蔵これを扶け、まさに城に入らんとす、勝太郎一歩も退くの意なく中村に来る、俊蔵涙を揮いこれを介錯して退く〔若松記、河原勝治思出記〕、我が公且つ戦い、且つ退き蚕養口に至る、西郷勇左衛門、黒河内式部敗兵を止めて共に戦わんと欲す、西軍すでに兵を分ち一は慶山の麓を過ぎ東方より城に迫らんとし、一は同心町中村に侵入し連射して我が軍の前路を絶ち、まさに外郭に入らんとす、この形勢を見て防戦の利あらざるを知り、勇左衛門は六日町口より田中大海は甲賀町口に至れば、郭門の守兵公命なりと称し堅く鎖し、わずかに小門を開くに過ぎず、ゆえに一ノ町より郭門に至るまで我が兵充満し、ほとんど立錐の地なし、西兵これを追撃したるも我が兵門に入ることを得ず、式部令して門を開かしめんとす、守兵可かず、式部声を励していわく、余仮令公命を犯すも我が兵を敵手に委するに忍ばず、汝ら守兵を衝て門を開けと、これにおいて兵士数人刀を揮って門に迫れば守兵恐れて退く、すなわち入りて門を開く、皆入ることを得たり。

 藩相田中大海は郭門に在り、兵を指揮して藩士の別邸より畳を運ばしめ、これを郭門に積み累ねて胸壁と為さんとしたるも事急にして、わずかに数畳を横列したるに過ぎず、敵弾これを貫きて防御の効なし、我が兵門柱あるいは木石等に身を蔽い、あるいは白虎隊をして三宅邸後の土堀に上りて射撃せしむ、この時我が公は郭門に在りて指揮し、田中大海、黒河内式部、井上丘隅、山内遊翁、牧原一郎、原新五右衛門、春日郡蔵、高橋伴之助、三宅彌七、多賀谷勝左衛門、丸山彌次衛門、柳田自休、宇南山良蔵等奮戦すといえども、西兵ますます加わり戦最も苦しむ〔若松記、七年史〕、牧原一郎は我が公に謁し憤然としていわく、臣衰老の身を以て国難に逢い、累代の御恩に報ゆる能はざるは終世の遺憾ながら謹みて御暇申し上ぐと、我が公厚くこれを慰諭したるも一郎我が家に入りて自刃し、四男豊四郎介錯して入城せり〔落合経三郎談〕、左右の士はしばしば我が公に入城を請いたれば、公は馬首を回へし五ノ丁を過ぐ、たまたま敵丸公の乗馬に当りて馬斃る、公徒歩して甲賀町通を経て入城す〔若松記、七年史、内田藤八筆記〕、時に徳川氏の騎兵指図役小川某我が公の馬側に従い懇ろにこれを助けたるが、入城の後弾丸に当り城中三階模後方の土堀の上に死せりと云う〔内田藤八談、木村丑徳談〕。






卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日
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  1. 2013/04/02(火) 09:02:46|
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