いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十九  長行朝臣がわが公に送った陳情書     『京都守護職始末1』

一 償金は止むをえざる次第これあり、独存にてさしつかわし候始末は、申し上げ候ようかしこまり奉り候。右は、最初は尾張殿、水戸殿より、まず償金をさしつかわし候うえにて攘夷の応接に取りかかり候ようにと、度々仰せ聞かされ候えども、それにてはなはだ御不都合につき、たとえ償金をさしつかわし候にいたせ、まず一応、攘夷の応接仕り候後にこれなくては宜しからざる旨を、遮(さえぎ)って申し上げ候ところ、しからば証書 ばかりにてもまずつかわしおき候よう、強いて仰せ聞かされ候間、これもって宜しからざる旨再三申しあげ候えども、御聞入れこれなく、その外、豊前守殿、河内守殿も是非さしつかわし候よう申され、ついに豊前守殿と私との連名の証書だけをさしつかわし候。
しかるに、四月二十二、三日ごろの事と存じ奉り候が、彼より四万ドルだけをまず御つかわしくだされ候よう願い出て候につき、またぞろ是非ともつかわすようにと尾張殿、水戸殿が仰せ聞かされ、その外満朝残らずつかわすようにと申し聞け、じつに喧ましきことに御座候。
しかるに私一人不承知を申し張り候につき、すでに寺社奉行などは、私の前に詰めかけ、大議論を仕り、やっとの事にてさし押え、その日さしつかわし候は見合せと相成り候えども、尾張殿、水戸殿大いに御立腹、いずれも立腹の様子に御座候。(その後、水戸殿より、償金は決してさしつかわさざる事に決定いたせし趣を京師へ仰せ上げられ候由を、跡にて承知仕り候。御引込みまでは、右の儀私は御一言も伺い申さず候。)
その後も、日々、償金をつかわす、つかわさぬの論のみはげしくて、すでに五月四、五日ごろと相おぼえ候償金の儀はしばらくさし延べ、ひとまず攘夷の応接をいたしたく、面会の儀を英の船将へ申しつかわし候。その節の書翰は、豊前殿も河内殿も御連名は堅く御断りにつき、よんどころなく私一名にて書翰をさしつかわし候ところ、最初につかわし候証書を、もはや本国へ相贈り候間、日延べの儀はなにぶんにも承引仕りがたき旨のみ申し出で、応接の日限の儀は、さらに答もこれなく、はなはだ当惑仕り候間、まずそのままにいたしおき候。もっともこれは私の少々不快にて引きこもりの中の事に御座候。(証書を本国へ相贈り候儀は、四月二十二、三日ごろ、菊池伊代、柴田貞太郎、横浜へまいり候節、軍艦にて護送いたすをたしかに見うけ候旨、そのころ両人より申し出でこれあり候。)
その後、三港拒絶の儀仰せ出でられ候につき、早々右の応接に取りかかるべきところ、一橋殿よりは五月十日前にても応接に取りかかり候よう、御旅中より仰せ越され候えども、武田耕雲斎なにぶんにも不承知にて、十日後にこれなくては御不都合の旨強いてさし留め候間、一旦はその意に任せ、応接を見あわせ罷(まか)りあり候ところ、私儀、折角の応接御委任もこれあり候事にて、一橋殿御着前に一応接も仕らず候では相済まざる儀と心付き候間、横浜へまかり越し、面会の儀申し込み候ところ、断(ことわり)につき、なお再三申込み候えどもなにぶん承引仕らず、そのころはもはや償金の儀などは一言も申さず、ただただ日本は不信不義の国とのみ申しおり、すでに各国よりも触(ふ)れ流し候やの趣、承り候。
これはまったく、最初の証書中に償金相渡し候日限までほとんど相したためこれあり候ところ、追々延引と相成り候ゆえ、右様の悪評を申しふらし候事に御座候。これまで日本は信義を貴ぶ国と申すこと、遠く万国に称せられ、これすなわち吾国が東海中に屹立して、いまだかつて人に屈せざる所以(ゆえん)に御座候。
しかるに今度、償金の一条より無上の悪声を蒙り、賤しめおとされ候事。これほどの国辱はこれあるまじく、残念至極に存じ奉り候。
かつ面会致さずとこれあり候ては、さし向き御差支えに相成り候。それも、曲(きょく)が彼に御座候ならばいささかの頓着も致さず候えども、前文の次第ゆえ、よんどころなく五月九日に償金を相渡し候は、私の独存の指図にて取りはからい候えども、元来は衆議止むをえざる次第に御座候。
さて、同時に、近日応接に及ぶべき段を書翰をもって申し入れ候ところ、もっての外の激怒の返翰さしよこし、当惑仕り候折から、一橋殿より極々秘密の御使として、井上信濃守をつかわされ、償金は早々さしつかわし、すぐさま英鑑へ乗込み、各国へ使節として罷り越し候よう仰せられ候えども、御主意もとくと相弁ぜず、うかと罷り越しかね候趣申し上げ候ところ、なおまた、御使にて早々帰府仕り候よう仰せ下され候間、即刻帰府仕り候。
そもそも償金相渡し候儀は、衆議やむをえず、その意に任せ候えども、一 橋殿御沙汰の品もこれあり候間、このうえ取戻し方もこれあるべきやと種々肝胆を砕き候えども、なにぶんにも皇国を不信不義の国となし候ては、右に換えがたき御国の御不為と存じ候間、軽重厚薄を熟図仕り、よんどころなく指図に及び、相渡し候事に御座候。
右は償金さしつかわし候手続(てつづき)の大略、かくのごとくに御座候。併せて、これは極々の大略にて、委細の儀は口上にこれなくては尽し難く候まま、右等の意味合い、よろしく御推察希い奉り候。尤も金川(かながわ)の事情だけは、浅野伊賀守へ御たずね御座候わば、御分り相成るべくやに存じ奉り候。(長行朝臣のこの書は、誤字でもあるのか、不審な個所がある)
    
一 押して上京のうえ、攘夷の叡慮を反すべくと相巧み候儀と御疑惑これあり候につき、委細申し上げ候よう、かしこまり奉り候。
右は、一橋殿御着府のうえ、御目通り仰せつけられ、種々御談判御座候うちに、償金の儀をつかわし候わば、上京いたし候てその次第を申し上げ候よう度々仰せ聞かされ、なお、役々へも仰せ聞かされ候。もっとも、一橋殿にも御上京なさるべき趣に御座候間、私儀もその節御付添え上京仕り候心得にまかりあり候ところ、その後一橋殿御不快にて、御発途追々に御延引と相成り、かつは、もはや御解職の御内願も御さし出しに相成り候由、さりながら、御上京御差止めと申す儀はいまだしかとは仰せ出だされず候えども、右の次第ゆえ、追々と御延引については、償金の儀の申し上げも、かれこれと遅く相成り候につき、私儀早々上京仕り、償金の儀、並びに一橋殿御上京の御延引の次第等申し上げ候よう、なお一橋殿へも一刻も早く御上京の儀御すすめ申し上ぐべき趣、豊前守殿、河内守殿その他の役々にも申し聞かせ、すなわち上京の御達(おたっし)も 御座候間、御請け申し上げ候ところ、折悪しく少々風邪気にて、即日出立仕り難く、右のゆえに一橋殿へ御吹聴、御暇乞も遅滞仕り候えども、相なるべくは自身罷りいでたくと養生一向に取紛れおり候うち、少々快方に罷りなり候間、取りあえず、無理々々発途仕り候次第にて、なにぶん御暇乞に罷りいで候間合(まあい)もこれなく、よって、兼ねて仰せ聞かされ候通り、償金手続き言上のために上京を仰せつけられ候について、不快には御座候えども、今日推して発途仕り候。
なにぶん御暇乞に罷り出で候間合(まあい)これなく、恐入り奉り候段相したため、使者をもって申し上げ、途にのぼりつかまつり、浅野伊賀守その外を乗組ませ申すべきため、金川へ罷り越しおり候ところ、一橋殿より、上京の主意をなおまた御たずねゆえ、くわしく申し上げ候ところ、ついに御会得相成り、勝手次第に上京仕り候よう仰せ聞かされ候間、金川を出船仕り候。
もっとも、発途の砌(みぎ)りさし上げ候書状のいまだとどかざるうち御使を下され、少々御張込ようの儀も御座候えども、これはまったくの行違いにて、暫時に御了解相成り候。
さて大阪より上陸して橋本まで罷り越し候ところ、私の上京を御差留の儀承知仕り候えども、同所は小駅にて、不都合の事どもこれあり、淀に僅かに一里の事ゆえ、淀まで罷り越し、差しひかえ慎んで罷りあり候儀にて、もとより押して上京仕り候宿意など、まったくもってこれなき段御推察冀(ねが)い奉り候。
攘夷の儀は、いささかも違背など仕り候所存は毛頭これなく候えども、処置の穏急により無量の利害、得失を生じ、じつに皇国の御安危、永世の御栄辱にも相拘(かかわ)り候儀、いささか心付き候事もこれあり候間、償金の事を申し上げ候ついでに、公方様へ言上仕り候心得に御座候。不肖の身分にて重き御役柄をも相勤めおり、心付き候儀を言上仕らず候では、不忠の極み、この上なき大罪と存じ奉り候。もっとも、御取捨は、奉上にあらせられ候事ゆえ、ただただ献芹の微衷をつくし候のみに御座候。
恐れながら、御所に対してかれこれ建白がましき儀を仕り候心底は、最初よりさらにこれなく候。攘夷の叡慮を反えすべくと相巧み候儀との御疑惑は、誠に存じもよらざる儀にて、じつにもって驚き入り奉り候。畢竟、叡慮を奉戴仕りたき至情より、愚意をも申し上げ奉りたく存じ込み候外、他事なく御座候。赤心の段、ひとえに御諒察願い上げ奉り候。謹言。(六月十二日)


 いま長行朝臣の陳情書を、慶喜卿の書と照らし合わせてみると、井上信濃守の密使の件など、齟齬(そご)したところがあって、どちらが真実かわからないので、ここにはただ両氏の手書を掲げて、疑いのままにしておいた。

 



 将軍東帰は叡慮に非ず     これよりさき、鷹司殿下は後見職の辞職の書面を受けとり、攘夷の行なわれないのを見て、憂慮にたえず、まず近衛前殿下に謀って、伝議の両奏と国事係の諸公卿にも示し、そのことを天聴に達した。朝議の結果は、このうえは、さっそく将軍家を東に帰して、攘夷を決行させることに一決した。
 しかし、叡慮は将軍家の東帰を心細く思われ、ひそかに宸翰を近衛前殿下に賜わり、将軍家を東帰させないで攘夷を決行する方策はないかとのことであった。前殿下はその宸翰を徳川慶勝卿とわが公とに示して、左のような叡慮をつたえた。
     
唯今は一封、いずれも落手いたし候。今日関白殿下と対話の趣、申し入れ候わんと存じ候ところ、いずれも承り候。実もって容易ならざる形勢、大苦心に候。今日、関白の申し入れの儀は、とんと致しかたなく候。
水戸の家来男也が来臨し、段々目代(もくだい)を辞する事、一橋儀段々後見職辞退の儀も申し談じ話すところへ、老中両人も来り、談話の事に候。尾州もこのうえは、とても御請申すまじき旨、なにぶん老中まで、趣意違い候間、輔翼の詮もこれなき旨、段々申し入れ候由、この間も右府、前関白、中川宮、内府、左大将等集会して、評議の模様も承り、まずまずその辺ならば、又々議奏も評議に拘わるべしと内実は楽しみおり候て、内々前関白へも書状をもって往返いたしおり候ところ、姉小路の一件にて、薩人は一人も九門内へ入り候こと無用と、きびしく相成り候て、これまた各熟計尽き候。内実に困り入り候と申す話に候。
その後、議奏四人を召し評議にて、三条が一と鼻立て言上と申す次第にて、今日老中参内あって、一橋、水戸とのところ、なんとなく辞職、大樹輔翼の様を段々申し聞け候次第、大樹にはいよいよ東下のこと、今日内意にておよそ来月二日暇参内とほぼ治定との事、とてもとてもこのうえは、予の力なく、フンフンと申すほか致しかたなく、悲嘆これにすぎず候。尾州のところも承知なきやながら、今日一応召し候よう。
不参なれば成瀬(正肥、尾張付家老)を召しよせ、今一段のところ申し聞くべく候と申し候ところ、三条は、尾州を捨てものにいたしおり候様子に見うけ候。先に申しつけ候えども、その後のところはいかがにや、只今はまだ不参にて候。
なにぶん右の通り、薩人も禁制に相成り、はなはだもってむずかしき事より外他なく候。尾前大(慶勝)にも尽力頼むの外これなく、なにぶんにも大樹、今すこし留めおき、一和にて攘夷を祈るところに候なり。
 五月二十九日






 東帰中止に努力     叡慮はこのとおりであるが、すでに朝議で将軍家の東帰と決してしまったので、さなきだに帰心勃々の幕府の有司たちは、この機をのがしてはと、東帰をせきたてて他を顧みない。
 わが公が、叡慮のあるところを説いて、切に有司の人々に将軍家の滞京をすすめるようにと言っても、てんで耳を貸そうともせず、そのとき、たまたま小笠原長行朝臣の西上の噂が あって、一時朝廷をおどろかしたので、幕府の有司らのすすめで、将軍家が大阪に出むき、長行朝臣の来意を訊問し、その軽忽を罰し、そのあとで上京し、顛末を上奏し、それから東に帰って攘夷を決行するということになった。
 六月三日、将軍家は参内してこの由を上奏し、八日に二条城を発して大阪に赴いた。
 わが公は、将軍家が大阪から上奏のため一旦京師へ帰ってくるなどということは、もとより幕府有司らが京師を出るためにつくった一時の口実で、帰る気持などないことがわかっていたが、如何(いかん)ともしようがなく、また、朝議は攘夷に専心していたので、将軍家の東帰を歓迎していた。
 ひとり叡慮はこれと相意して、徳川慶勝卿を東下させ、代わりに攘夷のことに当らせ、将軍家をなおも輦下に引き留めて、公武一和の実をあげさせようと、近衛前殿下に宸翰を賜わり、そのことを謀らせた。
前殿下は、すぐさまその宸翰を慶勝卿とわが公に示し、叡慮にそうように、将軍家の東帰を止めることを尽力させた。
 わが公はそこで、家臣の小野権之丞と松坂三内に旨を授けて、大阪につかわし、有司に建議させることにした。そのときの宸翰は次のようなものである。

さて関白にただ今面会、様子を考え候ところ、関白の口振りにては、尾州の申し条ウケわるき方にてもこれなく、実は私も滞在し方宜しくと存じ候えども、三条、徳大寺、両中納言その外参政のところ不承知にて、なかなか申し出し候ても採用成らずと申し居り候。
この事工合ならば、まずまず関白の心はよろしきや。さりながら、むらむらいたし候関白の心ゆえ、一定せず候。その節申し居り候は、尾前大申し候には、なにとぞ御直(おんじき)に申し入れ、叡慮も伺いたしと申し居る由申し候間、これこそまことに予の望むところ。当時の勅諚これと申して真実予の心はとんと貫徹せず、中妨に成り候間、兼ねてむらむら存じ居り候ところゆえ、尾前大と直対は、まことに好むところに候。
さりながら、厳重の場所にて各々列座にてはとても十分に成らず候間、非常の沙汰にてとんと差し向い、関白、中川、その公共ならば、十分に予の心底申したくと申し居り候。関白も随分に存ぜられ候様子ながら、とても議奏、参政など不承知申し立て候事と申し居られ候。これは、さもあるべき事に候。
なにとぞその公、ふかく勘考にて、まず内の掃除、議奏(徳大寺、三条)、参政と、ここにて引きしめて、とくと熟談はならざるや。また引きすきみにてこれなくば、長土の両藩の尻押しいたさぬよう手段にて、次にひたすら尾州の同志の者と、各々強情の堂上を引きつけ候手段はなるまじきや。なにとぞ三郎(久光)上京の事、官位推任これを叙するの儀も、予も存じ候えども、当時はなにぶん立たざるの時節ゆえ、とてもむすがしきと心配候。なにとぞその公、中川ら同志の輩を御拵(こしら)えにて、申し立ては成るまじきや。なにぶん初発よりの予の存意、ここにて帰府は、実もって好ましからず候えども、いたしかたなく候。なにとぞ尾州いずくまでも申し張り候よう、内々御申しつかわし、予の極意は公武の真実一和にて、此処にては滞在、または浪華城なりとも、なにぶん帰府は好もしからず、なにぶん当時権威は下にあり、予が申し出し候儀立たず候間、苦心斜(ななめ)ならず候。尾州と直談は至極好むところと申す儀を、内々その公より申し入れ、成るたけ頼み入り存じ候。この段内々申し入れおき候。なおまた、勘考のうえ承るべく候。またまた承り候儀も候わば、内々に申し入れ候事。


 



 聖上の逆鱗     けだしこのとき、島津三郎および薩摩藩士は、姉小路公知朝臣の事があってから、嫌疑を避けて一時京師を去り、公命を持って入京したいと請うた。
 それ以来、長門藩や浮浪の徒らははばかるものがないので、すこぶる疎暴をきわめた。聖上はこれを憂え給うて、三郎を召し、守護職に力をあわせて制圧を加えようとおぼしめしたが、満延の議論が紛然として捲きおこり、長州びいきの公卿らが百万力をつくしてこれに反対した。ただ近衛前殿下、二条右府、徳大寺内府、近衛左大将らが叡旨を遵奉しようとつとめたが、鷹司殿下と実美卿らが強硬に争った。
 聖上の逆鱗ははなはだしく、朕が不徳なために汝らは常に朕が意を拒むのだと言われたが、それでも御意志どおりに行なわれなかった。謹んでこの宸翰を拝読すると、当時、議奏、参政らの諸卿(いわゆる過激の堂上)なかでも三条、徳大寺の両卿が常に朝議を左右して、叡慮を矯めた一班がうかがわれるし、過激堂上に対する叡慮の在るところと、公武一和、すなわち幕府への主上の信任の優渥であったことを知るに余りがある。
 しかし、そのときすでに、朝廷は内命を下して、三郎を召したもうた。

 



 権之丞ら大阪へ     はじめ小笠原長行朝臣が入京しようとしたとき、老中水野忠精朝臣がこれを淀に迎え、その来意を問うた。わが藩の小野権之丞、秋月胤永もまた、わが公の旨をうけて、朝旨を示して入京をさし止めた。
 長行朝臣はその厚意を謝し、来意は親しく将軍家に言上し、そのあとでたとえ死を賜うても悔いなない、ただそれ以前に他の人に告げれば、あるいは流伝していたずらに物議をかもすようなことにもなりかねないと言って、話そうとしない。忠精朝臣もまた、無理に強いず、ただ権之丞らはひそかに井上、向山らから来意を聞き出そうとしてみたが、彼らもまた詳しいことは言わない。しかし、攘夷の実行のむずかしいことや、諸外国公使との応接の情況から外交の通義を概論するのを聞いているうちに、いささか一班がつかめたように思われた。
 将軍家が下坂されたことを聞いて、長行朝臣も下坂して、命を待つことにした。権之丞らもまた大阪に往った。





 柴田貞太郎の熱弁     わが公が小野権之丞、松坂三内を大阪につかわすとき、幕府が万一わが公の建議を容れないで、将軍家が東帰されるようなことがあったら、御袴の裾に取りついてでも留め奉れとの内旨を授けた。
 それで二人は、切にわが公の旨を陳述して、有司の間を奔走していたが、そのときはからずも、江戸から外国奉行柴田貞太郎(後日向守)が急行して大阪に着き、「このほどの通商拒絶についてのわが処置が、ことごとく外交の通義にもとることだとして、各国の使臣が大いに憤慨し、わが無礼をなじり、不信不義呼ばわりをするばかりか、五月十日米国商船が馬関海峡を通過した際、長門藩が無謀にも発砲【注一】したことを訴え、その償金をよこせと迫り、万一遅延して等閑に付すようなことがあれば、断然戦端を開くと言ってきて、事体がきわめて切迫している。江戸の市民はこれを聞いて、恟々として心安んぜす、荷造りをして東西に走るありさま。旗下の有司の輩にいたっては、なにかにつけて威厳を損ずるばかりで、なんの得策もないのに、根本の紛擾を顧みもせず、台駕が久しく京師に駐(とど)まっているのはどういうわけだと息まき、なかには、御迎として西上するものもあるなど、物議は日を追って喧囂をきわめてきた。よろしく早々にお帰りあって鎮静されなければ、ついに臍(ほぞ)を噛んでも及ばないことになろう」と 言々痛切、真に止むをえない状況が歴々(ありあり)と目に見えてくるようであった。
 もとより帰心燃ゆるがごとき幕府の諸有司は、いまこの言葉を聞くに及んで、なんの猶予もあるはずがなく、長行朝臣を処置する遑(いとま)もなく、あとの事は慶勝卿、わが公と、大阪城代松平伊豆守信古朝臣に托して、にわかに十三日(六月)汽船で東帰することに決まってしまった。





 諫止成らず     権之丞らは、そのことを聞いて、板倉勝静朝臣にたのんで諫止しようとしたが、早くも将軍家は出城されたので、追随(おいしたが)って船中に出かけ、勝静朝臣に謁して話してみたが、事がここまできてしまっては、いまさらどうすることもできなかった。わずかに陳謝の書を受け取って、むなしく京師に戻った。
 両閣老署名の返書は左のとおりである。

しからば今日御東下の儀は、昨日委細御文通に及び候次第にて、止むをえざる事にて御治定に相成り候事、今日船中まで権之丞、三内が罷り越し、心配の趣段々申し聞き、尤もの事に候えども、なにぶん今さら御見せにも相成りかね、委細の事情も申し聞かせおき候。御聞取り下さる候。余は東下のうえ、万々申し上ぐべく候。(前後を略す。六月十三日付、両閣老署名)

 ついで、紀州大島港から、両閣老が左の書を贈ってきた。

大阪より書面をもって委細申し上げ候通り、余儀なき御場合にて、水路御東下あそばされ候次第は、御承知のことと存じ奉り候。然るところ、段々御承知の通り、江戸より御親衛の歩兵騎隊等追々と上京、大名にも阿部播磨、酒井若狭、永井肥後などすでに上途の趣にて、その余も罷りのぼり候趣、右は永々の御滞京にて、種々風聞を承り込み、御案じ申し上げ候のあまり、御警衛、御迎えに出で候つもりに候えども、事情行きちがい、図書頭一同と引きつづきに相成り候ゆえ、彼の兵威をもって迫り候状態にも聞き取れ、上にもはなはだもって御心配あそばされ、御差し留めこれあり候ても、とても止り申さぬ勢い、多人数の上京の以前に御東下あそばされ候えば、一同も是非なく下り申すべく、上方に御滞在のかぎりは、陸続と出京して、御所向の御疑い御弁解もはなはだもってむずかしく、御暇の後、国事の重き御因循は諸藩へ対せられ候ても相済まず、かつ、先ごろも申し上げ候長州の一条にて横浜の夷人どもも不穏の趣も候えば、かれこれ御勘考なされ候ても、御東下なされ候えば、諸事は一旦治り申すべしとの御見据え。ことに、図書の一件もおおよそ取調べもつき候事ゆえ、御東下と相成り候次第、まことによんどころなき場合に御座候。
御家従に託し、一封上り候えども、船中にて取急ぎ、事情をつくさず候間、なお一書をもって貴意を得候。
この旨、前老公(慶勝卿)へもしかるべく仰せ上げられ、御所向のところも、しかるべく仰せ述べられ下さるべく候。なお、図書は死刑にいたり申さざるよう、あくまで御周旋相願い候。
万々一、死刑など相成り候ては、実に天下の御政道は相立ち申さず、すなわち天朝の御不徳と相成りて、恐れ入り候次第と存じ奉り候。そのへんはしかるべく御取計らい、ひとえに願い上げ奉り候。(前後を略す。六月十四日付、両閣老署名)


 



 幕臣の無能     江戸の形成が右のとおりなので、書中にあることに、あるいは疑わしい点があるとしても、江戸の人心の紛擾は、膝元の動揺として幕府の諸有司が最も憂うるところであるが、大勢の上から観察するとき、かえってそれは枝葉のことである。なぜならば、聖上の叡慮としては、ふかく幕府を御信任であるから、将軍家もまたこれを体し、京師に留まって、ときどき天顔に咫尺(しせき)し奉り、その御信任をますます深めるようにすれば、たとえ過激の堂上らが嫉妬の心を逞しうするとしても、施すすべがなかろう。
 攘夷のことにしても、まちがいなく三港通商拒絶の商議【注二】を五月十日で開始したならば、もとより無謀なことは朝廷も戒めたまうところであるから、兵端をひらくまでには、おのずから順序がある。外交となれば、なおさらのことで、みだりに疎暴なふるまいに出るべきではない。よし満朝が外国を夷狄あつかいしても、夷狄にも道理がある。夷狄に笑われるようなことがあれば、これより大きい国辱はない。
公武の一和がよく熟する時を持って、幕府からおもむろにこの理を上奏すれば、聖明は必ず照鑒(しょうかん)を垂れ給うであろう。そうなれば、過激の輩が物議の紛擾をかもすことがあっても、なんなく処置することができよう。
 江戸の人心の不安などは、憂は憂にちがいないとしても、その根原が外交上の紛乱からはじまったことであるから、外交方針が一定して、むやみなことをしかけてこないようになれば、自然に鎮静することは疑いない。惜しいかな。幕府の有司はそこに気がつかず、枝葉のことに恟々とするばかりで、大勢を挽回できなかったことは遺憾である。





 浪華城守護の儀     このとき、副啓をもって、また左のとおり件々の委託の命を伝られた。

さては御所向をはじめ、御増進の儀は、中条(信札)より段々に掛合い、取調べつき候うえは、伏見まで中条罷り出で、伺いのうえ御治定相成り候わずに申し聞き候ところ、海路を御東下については、その議も出来申さず候間、貴所様が御覧なされ候て、早々仰せ立てられ候よう御取り計らいなさるべく(中略)、兼ねて御承知の通り、浪華城を尾張大納言(茂徳卿)が御守護の儀は、仰せつけられ候えども、とかく御不快にて、急に御手での儀は御断りについては、その間は、先老公(慶勝卿)が浪華へお出でのところ御下坂前も度々仰せつかわされ候えども、御断りにつき、田沼玄蕃頭をもって御使にて仰せつかわされ候事ゆえ、貴所様も右の御趣意を厚く御含み、前老公が浪花に御出での儀くれぐれも仰せ出だされ候よう御願い申し候。以上。

 



 両閣老の書状     水野、板倉両閣老の大阪よりの書状(ここに掲げない)に対するわが公の返書。

二条を御発興の前に御取計らい残しの由について、拙者へ取計らい候よう仰せ聞かされ、承知仕り候。事件の内、援兵、攘夷につき伝奏よりお下げの御書付、御受け取り申し上げ、その節に御所置方も一応相伺うべきのところ、御取込みの節にて伺い落し申し候。その後、勘考中、中条中務大輔儀外の御用にて参内の折、伝奏より拙者へことづてにて、過日和泉へ達しおき候御沙汰の次第は、いまだに布告相成らざる由、すでに朝廷よりは、それぞれ御沙汰に相成りたしとの御催促これあり候。右の勅書は、この節柄、捨ておき候事柄にもこれあるまじく候間、急速をもって申し上げ候。外藩などへ、それぞれ朝廷よりはすでに御沙汰に相成り、公辺にて仰せ出でこれなく候では、御不都合に御座候間、急に御評議のうえ、御布告に相成り候ように仕りたく存じ奉り候。もっとも、右は重大の件ゆえ、前大納言殿へも相伺い、町奉行の見込みも相たずねて評決のうえ、申し上げ候儀に御座候。 

     (前後略)

副翰呈上仕り候。しからば去る十三日、俄かに御出帆の御様子、大阪へさしつかわし候家臣共より申しつかわされ、まことにもって驚愕の至り、ただちに早追(はやおい)にて家臣をさし出し候えども、至々極の残情このことに御座候。これに依る御所向の御都合もふかく心配仕り候えども、せん方これなく罷りあり、その内、留坂の御目付より当町奉行へ御出帆の趣を通達これあり。すなわち御届仕りおき、おっつけ水野彦三郎(尾州藩士)へ御待たせの御状も相達し、委細を拝誦仕り、とかくの御疑念も計りがたく候間、すぐさま使をもって御書状のまま殿下へ差し出し候ところ、かえって御放快相成り候御様子に御座候。

一 十四日、拙者参内して御よんどころなく御東下の次第を申し上げ、かつ図書頭殿の一条の書付、尾公御さし出しの書付等を御同方の御申し聞けにつき、少子より御同人の御さし出しの訳を言い添えて差出し候ところ、とくと一覧のうえにて、と申すくらいの事にて相済み申し候(中略)。今日、尾州殿にて承り候には、長州にて兵端を開き候おりからなれば、御東下もよんどころなき儀と鷹司公のお話の趣、隼人(成瀬隼人正正肥朝臣)より承り申し候。その後、尾州殿より御手紙にて、中条がまいり、承り候には、御増祿の一条も至極御都合よろしき様子にて、大慶(おおよろこび)いたし候。図書の一条も同様の由仰せくだされ、まずもって恐悦、安心仕り候事に御座候。右等の事も、さぞや御心配ならせられ候事と、実に御察し申し上げ候。今日までは私へなんらの挨拶も御座なく候。

一 前大公(慶勝卿)浪華へお移りの儀御進め申し上げ候ようの趣、委細拝承仕り候ところ、俄かに御帰国なされたき趣にて、すでに明日は御暇乞いの御参内と申すことを承り、実もって驚愕、ただちに前文申し上げ候通り、今日罷り出でて種々申し上げ候えども、なにぶん御不承知にて、とてもむずかしき御様子、せめて御滞京の儀を申し上げ候えども、これもってなおさらむずかしく、よんどころなく隼人へ、なおもとくと相頼んで退殿仕り候。重役参殿、隼人へ強いて申し候ところ、とにかくも御むずかしく、隼人も心配の様子に御座候。実に少子も不行届の段、なんとも恐縮の至りに御座候。摂城に御出で御座候わば、大きに心強く御座候ところ、御帰国にては少子も心痛仕り候次第に候。ひとえに御憐察希い奉り候。(前後略、六月十六付)


 大島港からの書状への返書に、

尾州殿の御事は、先書にも申し上げ候通り御帰国のおぼしめしにて、はなはだ当惑、種々申し上げ候ところ、なにぶん御承引御座なく、心配仕りおり候ところへ、この度の貴書相達し、すでに一昨夜、家臣より段々申し上げ候ところにて、もはや今日は出立と御決心の事ゆえ、なにぶんむずかしく、なお昨日御暇乞に罷り出で、なおくどくど申し上げ候えども相叶わず、今朝早く御出立に相成り申し候。なんとも不行届の段、御憐察希い奉り候。(前後略、六月二十一日付)

 



 御料増進の問題     閣老の書中にあった、御所向はじめ御増進の儀というのは、わが公が上京された当初に、供御の御料の些少なことと、小祿の堂上の窮乏のありさまを見て、第一に恐悚の感をおこしたからのことである。それで、幕府にその増進を建議したが、諸有司はもとより京師の事情に暗くて、始めのうちは、これを思いもよらぬこととしたもののようで、一時的に金帛、米穀を献じようとの論議も出たが、その後、年々米七万俵を献ずることになり、このことを朝廷に内奏した。
 ところが、国事係、参政、寄人等の堂上がこれを不足として却下したので、幕府の諸有司も案に相違して、事はそのままになってしまった。後にわが公は、七万俵でも、堂上家は受けたかったのであるが、一、二の抗議に圧されて口外することができなかった、ということを漏れ聞いた。
 後、さらに勅が下って、堂上一般に増祿があるようにとの議があったが、少額を拒絶して多額を要求したという誹(そしり)を気にかけて、そのことはそれで中止になった。
 このようなわけで、わが公は、さらに幕府に、年年十五万俵を献納あるようにと建議し、いまだに裁可にいたらずにあったのが、将軍家の東下があったので、いまこれが裁可され、その処置を命ぜられたのである。
 公はすぐさまこのことを上奏し、決定に至った。
 また、浪華城云々のことは、わが公が、前掲の書面でしきりに慶勝卿に勧めてみたが、卿は病気と言って、ついに応じなかった。そのいきさつは書中に記してあるとおりである。

 



 図書処分の問題     また、小笠原図書云々については、将軍家がさきに下坂された理由も、その処置のためで、伝奏衆からも老中に書を贈り、再三の催促のうえ、まず図書頭の官位を停止した。そこで、図書の身柄を大阪城代松平伊豆守信古朝臣にあずけおき、将軍家は東下されたので、いまこの託があったわけである。
 わが公は家臣をつかわし、その上洛の意志を訊問したところ、図書頭の答は事理明白で、すこしも罪すべきところがない(陳情書は前に掲げた)。そこで、そのことを鷹司殿下に告げ、伝奏衆にも救解をもとめた。ところが、それが片づかないうちに、幕府からわが公と大阪城あてに書面がとどいて、図書を江戸へさし下すようと言ってきた。わが公は、朝譴がまだ釈けないのに東下させては、と大阪城代にその意を通じたが、城代はすでに(七月十日)図書を東下させたあとで、いまは追いかけても及ばない。やむをえず、この由を殿下および伝奏衆に開陳したところ、ちょうど嫌疑も了解した折であったので、長行の官位を褫奪(ちだつ)しただけで事は片づいた。

        



 【注】

【一 無謀にも発砲】 幕府は文久三年五月十日を攘夷期日と上奏したが、実行の意志はないと見た長州藩尊攘夷は、自藩の手で、攘夷の烽火をあげようとした。期日の五月十日、折から下関海峡にさしかかった米国商戦ペムブローグ号にむかって、砲台から放火をあびせ、遁走させた。この時、藩首脳は躊躇したが、久坂玄瑞ら尊攘派がこれを強行した。ついで二十三日、仏国軍艦キンシャン号とオランダ軍艦メデュサ号に向かって砲撃した。

【二 三港通商拒絶の商議】 老中小笠原長行は慶喜の中止命令があったにかかわらず、独断で償金支払の約束を備行することを決意し、五月九日横浜におもむいて、償金を交付した。それとともに、各国公使に、京都からの将軍の命により、横浜、長崎、箱館三港閉鎖の交渉を開始したいと申し入れた。これにたいし各国公使は拒否した。ところで、慶喜は八日江戸に着き、翌日登城して、町奉行井上清直、目付杉浦鉦一郎を鎖港談判委員に任命し、十日を期して談判を開始させた。しかし実際には、交渉に入ることなく終わった。慶喜は表面は償金支払反対の態度をとったのだが、内心では支払はやむをえぬと考え、江戸到着以前に支払を終えてしまわせようと、わざわざ旅行の速度をゆるめ、また長行の独断についても、慶喜との間に「黙契」ができていたと『徳川慶喜公伝』は記している。長行にしても、慶喜にしても、鎖港談判はできぬことを熟知していながら、朝廷への対面上、形だけ整えたのであろう。
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  1. 2012/11/02(金) 17:57:19|
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