いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

婦人及び老幼の殉節

婦人及び老幼の殉節

 この日敵兵城下に侵入したる為、男子の創を療し、また病に臥して戦闘に堪えざる者は、妻児を刺して従容義に就き、また婦人の節を守り国に殉じたる者挙げて数ふべからず、左に殉難の状判明したるものを掲ぐ。
 この日、歌人野矢常方、桂林寺町口の郭門を守る、敵兵進撃するや守兵退きて内城に入る、当方独り踏み止まり槍を揮って敵一人を突き伏せ、なお衆敵に当るの余勇を示せしが、丸に当りて死す年六十七〔野矢常方伝〕。
 黒河内伝五郎は諸武術を善くす、晩年盲目と為り家に在り、この日敵の城下に侵入するを聞き、慨然として大息し、敵咫尺にあるも我これを屠りて国恩に報ずる能はざるかと言い了り、割腹して死す年六十五、次子百次郎越後に出戦負傷して家に還り療養せしが、父と共に屠腹して死す〔大日本人名辞書〕。

 甲賀町郭門を守りし佐藤輿左衛門は七十四の高齢なるが、この日土州兵の攻め来りし際、輿左衛門は門内より躍り出で、槍を以て一敵を刺し返す槍の石突を以て一敵を衝き、銃撃せられて斃れる、時に輿左衛門の孫勝之助は十四歳の少年なるが、これを見て大に怒り、槍を揮って敵中に突入し、縦横奮闘ついに乱丸に斃れる〔河原勝治筆記〕。
 
 吉川権蔵は年七十四、この日敵城下に入るの報に接して多年蓄積せる金銭を家人に輿へ城に赴かしむ、家人共に行かんことを勤むれども聴かずしていわく、我一歩も門を出でず敵の来るを待ち戦って死せんのみと、家人その動かすべからざるを知り別れ去る、後その屍を邸内に得たり〔白虎隊十九士伝附録〕。
 
 玉水兵左衛門は、すでに致仕して家に在り、この日家族をして城に入らしめ、自ら槍を掲げて家を出て途中敵弾に傷きたれば、途上に倒れて飢犬の食と為るを恥ぢ、家に帰りて屠腹す年七十六〔白虎隊十九士伝附録〕。

 藩相西郷頼母の母律子、妻千重子は子女に向かって曰う、我らも城に入り君公に従わんとすれども幼子を伴い却って繁累と為らんことを恐る、寧ろ自刃して国難に殉せん、今日は実に汝らの死すべきの時なり、徒に生を盗みて恥じを残すことなかれと、子女皆これに同意したれば、律子は先づ古人の詩を誦して絶命の詩に代えたれば、皆これに次ぎて和歌を詠ぜり。

 母 律子(五十八歳)
秋霜飛兮金風冷、白雲去兮月輪高

 妻 千重子(三十四歳)
なよ竹の風にまかする身なからも
 たわまぬ節はありとこそきけ

 妹 眉壽子(二十六歳)
しにかへり幾度世には生るとも
 ますら武雄となりなんものを

 妹 由布子
武士の道と聞しをたよりにて
 思ひたち黄泉の旅かな

 十三歳なる二女瀑布子(たきこ)口吟して曰く
手をとりてともに行なはまよはしよ

 と、十六歳なる長女細布子(たいこ)下句を加えて曰く
いさたとらまし死出の山みち


 と、千重子は長子吉十郎をして城に入らしめ、婢僕は諭して難を避けしめ、すなわち田鶴子(九歳)、常盤子(四歳)、李子(二歳)を刺し母妹と共に刃に伏して死せり〔栖雲記、村井弦齋筆記、会津会々報第十一号〕。

 この外西郷邸に自刃したる者は西郷氏の支族西郷鐡之助(近虎、六十七歳)、妻きく子(五十九歳)、小森駿馬の祖母ひで子(頼母外祖母七十九歳)、妻みわ子(二十四歳)、長男千代吉(五歳)、妹つち子(二歳)、軍事奉行町田伝八(五十歳)、妻ふさ子(五十九歳)、妹浦路(六十五歳)、朱雀三番士中隊半隊頭浅井信次郎妻たつ子(町田伝八二女二十四歳)、長男彦(二歳)なり、小森、町田は西郷氏の親戚にして、浅井は町田氏の親戚なり、この年三月、江戸藩邸を去りて会津に帰り共に本一ノ丁西郷邸に在りしなり。
 この日、若松城を奪わんと欲し、第一に兵を率いて郭内に入りたるは土州藩中島信行(後の衆議院議長男爵)なり、城兵連なりに銃を発して近づくを得ず、城の前面に宏壮の邸宅あり、この中に入りて射撃を避けんと欲し、矯試みに銃を発すれども応ずる者なし、すなわち進みて内に入り長廊を過ぎて奥の間に入れば婦人多く刃に伏して死せり、中に嬋娟たる一女子あり歳十七八未だ絶息せず、足音を聞き少しく身を起こしたれども視ること能はず、声微かに我が兵か敵兵かと問う、信行故らに答えていわく、我が兵なりと、これを聞きて女子は身辺を探り短刀を取り出す、信行はこれを以て命を絶たんことを欲するならんと察し、直ちに介錯して出でたるが、短刀の柄に九曜の徽章ありしと云う、九曜は西郷氏の徽章なり、その別邸は西郷邸にして細布子が臨終の時なりしを知る〔栖雲記〕。

 沼澤小八郎の母道子(木本氏五十二歳)は城に入りて衆と共に国難に殉せんとしたるが、姑貞子(西郷氏八十六歳)老病歩すること能はず、すなわち轎に乗らしめ小八郎姉ゆや子(二十七歳)、同すか子(二十三歳)と共に僕を従えて家を出づ、轎夫弾に当りて斃れたるにより、家臣鈴木勝之丞、貞子を負うて進むこと数歩にして又弾に当りて斃れる、旧家臣内川源吾これを助けんとして又斃れる、道子は二女および侍女等と共に貞子を助け道を転じて本二ノ丁より進まんとしたるも路すでに塞がりて進むこと能はず、よってまた家に帰り支族沼澤辰の子栄之進(十二歳)に命じていわく、汝は幼なりといえども、すでに十歳を過ぎたれば小八郎が陣営に至りて今日の事を告げよ、しかれば思い残す所なしと諭して家を去らしむ、皆涕泣して別る、道子姑貞子を介錯し、ゆや子、すか子と共に火を家に放ちて自刃す〔沼澤道子伝〕。

 河原善左衛門の妻あさ子(原源右衛門長女)は、この日、白衣を著け袖を掲け小袴を穿ち白布を以て頭髪を巻き、薙刀を提け袖に河原善左衛門妻と書す、善左衛門母の甥高木友之進の姉妹二人、善左衛門の母菊子(六十五歳)、長女國子(八歳)、僕を従い本一ノ丁の自宅を出て城に入らんとしたるも、飛騨猛烈にして進む能はず、よって川原町口郭門を出て石塚観音の祠堂に至る、時に市民皆難を避けて留まるものなし、菊子いわく、最早城に入ること能はず方さに死すべきの時なり、平生尊信する所の観世音の御堂前に死するを得ば我が願い足れりと、直ちに短刀を執りて喉を貫きたれば、皆驚きてその短刀を抜きたるに未だ絶息せず、早く介錯せよと叫びたるに付、あさ子これを介錯し、國子に向かい、汝敵兵に殺さるゝよりは我が手に死して祖母と父兄とに地下に従うべしと云う、國子端坐合掌して斬らる、あさ子は母と長女との首級を衣裳に包み、僕をして大窪山の墓地に葬らしめ、高木氏の姉妹と共に湯川の橋を渡り、花畑を経て南町口郭門より城に入らんとしたる折柄、西兵は大町通の北方より、城兵は西出丸より乱射し進む能はず、すなわち杉本邸の門内に避け、わずかに讃岐門より入り、梶原平馬に今日の顛末を報じ隊後に従って進撃せんことを請いたるも許されず、我が公、照姫、あさ子を召し見て厚くこれを慰諭し、照姫に侍して傷病者を看護せしむ〔河原勝治思出の記〕。

 朱雀士中隊中隊頭永井左京は兵を率いて北越の軍に従って功ありしが、傷を右腕に負い、家に帰りて療養す、この日、長子尚千代(十五歳)に向かっていわく、汝は直ちに城に入りて我が公に従うべしと、伝家の刀を授け、僕安吉をして従はしむ、次いで母つる子(六十二歳)、妻すみ子(三十歳)、姉やゑ子(三十八歳)、長女ふぢ子(十四歳)、二男英吉(十三歳)、三男某(八歳)を一室に集めていわく、余傷を負い国家存亡の秋に際し戦うこと能はざるは終天の遺憾なり、戦うこと能はざるの身を以て城に入るを欲せず、むしろ自刃して国難に殉ずべしと、皆これに従い共に死せんことを請う、左京喜びて一々これを介錯し火を家に放ちて自刃す、僕安吉は開城の後本二ノ丁主家の焼け跡に至り、七人の白骨を収めて香華院に葬り、住僧に請うて法名を得、これを袋中に納めて首に懸け終身これを離さゞりしと云う〔七年史〕。

 幼少寄合組隊中隊頭井上丘隅この日出でゝ瀧澤口に戦い敗れて退き、甲賀町口郭門に止まり衆を励まして防戦せしもついに利あらず、家は郭門の傍に在り、馳せて入れば妻とめ子(五十二歳)、長女ちか子(三十一歳)、三女雪子(神保修理の妻)一室に集まり自刃の用意を為す、丘隅雪子をして神保氏の家に帰らしめ、妻と長女とを介錯して自刃す、臼木又兵衛長女さだ子(四十五歳)もまた同家に在りて共に自刃す〔七年史〕。

 青龍一番寄合組隊中隊頭木村兵庫は棚倉方面の戦に負傷し、弟大作(二十七歳)は衝鋒隊頭と為り、越後国小栗山の戦に負傷し、共に帰りて家に療養せり、この日兵庫は二人の児子を叔父に托して城に入らしめ、長女すが子(八歳)、二女えん子(六歳)を刺し殺し、養父忠左衛門(六十歳)、実父幸蔵(六十二歳)、養母なみ子(五十九歳)、実母なを子(五十歳)、妻かよ子(三十一歳)、妹こと子(二十五歳)と共に甲賀町通の家に自刃す〔若松記〕。

 軍事奉行添役柴太一郎は北越に出陣し、弟謙助(二十五歳)は野州に戦没し、三弟五三郎は一隊に将として境上に防戦し、四弟四朗はたまたま病みて家に在り、二十二日勝軍山の敗報至るや、母は小弟五郎を僕に托し、城外面川村親戚の家に去らしむ、四朗は疾を力めて出軍の決心を為し家人に別を告ぐ、顔色蒼然意気揚がらず、母叱責していわく、汝幼なりといえども武士の子なり、戦場に臨み敵将を斬りて潔く打死して家声を堕いすことなかれと、四朗蹶起して家を出て家人送って門に至る、この時祖母は四朗に向かい、我先づ黄泉に在りて汝の来るを待たんと呼びたり、姉妹もまた涙を垂れて別を告ぐ、すでにして一同仏前に集まり、祖先の霊を拝し後事を親戚柴清助(七十歳)に托し、祖母つね子(八十一歳)、母ふじ子(五十歳)、妻とく子(二十歳)、妹そゑ子(十九歳)、妹さつ子(七歳)相共に本二ノ丁の家に自刃す(東海散史筆記、会津会々報第十一号)。

 和田甚吾の継母みわ子は赤羽内匠の長女にして、妻なか子は入江庄兵衛の長女なり、父勇蔵はすでに退隠せしも伏見鳥羽の戦以来父子共に国事に奔走して家に在らず、この年八月敵軍四境に迫るを聞き、みわ子は一旦危急に迫らば婦人といえども恥辱を受くべからずと決心せり、この日隣家佐藤、諏訪両家の妻女来り共に入城を勧めたるも、みわ子事に托して従わず、家人一室に端坐して訣別の盃を酌み、なか子は先づ長女を刺し殺し、火を本二ノ丁の家に放ち、みわ子と共に自刃せり、時にみわ子四十一歳、なか子二十一歳、長女こま子三歳なり、九月乱平くの後父勇蔵宅跡に来り灰燼を探りて白骨と短刀とを獲て大窪山の墓地に埋葬せり〔辰野勇筆記〕。

 中澤志津馬は砲兵隊組頭として越後に出征戦死せり、その父十郎は家に在り、この日国難に殉せんと決心し、母てる子(六十歳)、妻きせ子(四十五歳)、志津馬の妻すて子(二十一歳)、孫義彦(一歳)を刺し殺し、火を本一ノ丁の家に縦ちて入城せり、開城の後十郎は猪苗代に幽せられしが、時々人に向かっていわく、余は当時、死を期して妻子を殺し、しかも機を失いて死する能はず、当時を追懐して甚だ遺憾に堪えずと歎息せりと云う。
 青龍二番足軽隊中隊頭諏訪武之助の妻いし子(二十八歳)は親戚中澤志津馬の家族と共に自刃す〔会津会々報第十一号)。

 江戸詰武具役人野中此右衛門(五十一歳)は久しく病に罹りて衰弱し歩行意の如くならず、この日妻子を病床に呼びていわく、我が藩の士風を顕はすはこの時に在り、我身体自由ならざれども予め弾丸を貯へて万一に備へたり、これを射尽さゞれば死せず、汝ら我に先ちて難に殉ぜよ、我はこれを果たして後汝らと冥土に逢はんと、妻子皆これに同意す、此右衛門欣然としていわく、汝らの覚悟は殊勝なりと、やがて妻某(三十八歳)、長男六郎(八歳)、長女某(年齢末詳)、二女某(十八歳)、五女某(十歳)、六女某(五歳)を介錯し、火を千石町の家に放ち、病駆を力めて家を出づれば敵兵すでに面前に在り、直ちに携ふる所の銃を以て射撃し、弾丸尽くるに及び大声に我は会津藩士野中此右衛門なり、来りて我が首級を獲よと呼ばわりながら腹を屠って死せり〔七年史、会津会々報第十一号、若松記〕。

 遠藤元之助の妻某(三十四歳)は敵兵城下に迫ると聞き悲憤の情に堪えず、人に向かって身は女ながらも恥じを忍びて生き残らんよりは潔く国難に殉じ、一は歴代の君恩に報い、一は我が藩の士気を顕はさんと云い、二男元次郎(七歳)、長女某(十四歳)、二女某(三歳)を刺し、火を南堅町の家に放ちて自殺せり〔会津会々報第十一号〕。

 高木豊次郎は出軍し、弟竹之助は戦争に負傷し家に帰りて療養せり、この日事急にして家人を伴うて城に入ること能はず、これにおいて豊次郎妻すて子(二十八歳)は、長女しん子(十四歳)、二女はつ子(二歳)を刺し殺したる後、継母すい子(五十三歳)、竹之助と共に甲賀町通の自邸に自刃す〔若松記、会津会々報第十一号〕。

 青龍三番士中隊小隊頭西郷寧太郎の妻やほ子は黒河内式部の二女なり、今玆十六歳にして寧太郎に嫁せり、この日祖母なほ子(六十歳)、母みね子(四十五歳)、姉うら子(二十歳)と共に本三ノ丁の家に出て、郭内総鎮守諏訪神社(神社は西郷邸を距ること二町許に在り)に至り自刃す、その時やほ子先づ匕首を執って喉を刺したるも急所を外れて絶息せず、姑みね子に介錯を乞いたりしに、みね子声を励まして曰へけるは、汝武門に生まれ自ら死すること能はざるかと、やほ子これを恥じ再び匕首を執り直し喉を貫いて死せり、家僕これを目撃し後人にその状を語れりと云う〔会津会々報第十一号〕。

 中野慎之丞は今玆伏見の戦に負傷せしが帰国の後再び従軍す、長男武之助(十八歳)は朱雀二番士中隊に属し、六月二十四日棚倉の戦に死せり、父大次郎は年老いて歩行意の如くならず、妻やす子(三十四歳)は永岡敬次郎の姉にして志操雄壮男子に譲らず、この日やす子は大次郎(七十二歳)、母ゆを子(六十七歳)を介錯し、長女しん子(十五歳)、二男省吾(十三歳)、二女みつ子(九歳)、三女たけ子(三歳)を刺し殺し、慎之丞の弟久五郎妻某にその幼子を伴いて家を去らしめ、火を本一ノ丁の家に放ち、自刃のまま井中に投じて死せり、時に親戚樋口良之助の妻某同家に在りたるが、共に死せんとし、やす子に介錯を乞いたりしに、やす子は我が家族にあらざればとて、これを辞し難を避けんことを勤む、樋口の妻は、ついに死せずして後当日の状を人に語れりと云う〔会津会々報第十二号、澤井勝美談〕。

 朱雀二番寄合組隊中隊頭西郷刑部は越後口に出戦し、父勇左衛門も従軍して家に在らず、この日刑部の妻糸子(二十七歳)は敵が城下に押寄せたりと聞き家族と死出の装束を為し、家婢に向かい我ら一同国難に殉ずるにより、汝はこれを見て家に火を放ちて遁れ出で、夫君刑部を尋ね出しこの状を伝えよと遣命し、長男敬一郎(二歳)、かね子(六歳)を刺し殺し、刑部の母いわ子(五十一歳)、同妹すか子(十九歳)を介錯し、最後に自頸して死せり、忠実なる家婢鐡子は流涕して五人の屍体を拝し、家に火炎の揚がるを見て去り、数日の後、刑部を館ノ原の陣中に捜出し、糸子の遺言と一家殉難の状とを告げたりと云う〔宮本五三郎〕。

 砲兵一番小隊頭竹本登の父勝秀(六十歳)は致仕して鴨夢と称せしが、この日軍装を為し、その妻つや子(五十七歳)、女まさ子(三十七歳)、登の妻とき子(二十八歳)に別を告げていわく、我老いたりといえども、なお君側に侍し奮戦して死すべし、汝らは婦女子の身なれども苟くも武士の家に生まれたれば自らその覚悟あるべし、今相別るゝ不日泉下に於いて再開せんと、槍を執って入城し後負傷して死す、つや子、まさ子、とき子は勝秀の出門を見送りて共に死を決し、家に火を放ちて自刃し、家僕某は三女の介錯を為せり〔白虎隊十九士伝附録〕。

 三宅式太郎の祖母某は年老い、且つ十数年来足疾の為、歩行自由ならず、この日家僕に負はれて家を出で南町の弘眞院に至りしが、事に托して家僕を去らしめ自刃せり〔白虎隊十九士伝附録〕。

 日向信之丞の妻某はこの日朝、家族を促して石塚観音堂に至りて待たしめ、自ら幼女を負い、やや遅れて観音堂に至る、時に避難の人々講内に充満し百万捜索したるも、ついに家族に逢わず、思えらく或は皆すでに禍難に罹りしならん、我独り遁れ去り生を貧るべからずと、先づ女児を刺し殺し自ら喉を貫きて死せり〔白虎隊十九士伝附録〕。

 日向左衛門の伯母たか子(六十三歳)は夫の日向伝蔵死去の後寡居し、且つ盲目の身なるが、この日難を避くるを欲せずして身を隠し、戦後遺骨をその家の灰燼中に発見せりと云う〔殉節婦人の事蹟〕。

 この他婦人の自刃また敵弾に当りて国難に殉せし者少なからず、しかしてその死に臨むの状詳ならざる者は、使命、年齢、死所および殉難月日を左に録す。

 八月二十三日
石川作治母やへ(五十九歳)槻木町自宅自刃。
石川又右衛門妻某、院内自刃。
蜷川貞母某、自宅自刃。
西村伴蔵妻某、自刃。
諸生組頭小山田伝四郎母しん(六十八歳)、妻なみ(四十五歳)、女みね(三十歳)、五ノ丁邸に於いて父多門(八十歳)と共に自刃。
青龍三番足軽隊小隊頭大竹勝左衛門長男儀八(六歳)、妻いく子(二十六歳)、姉やゑ(三十五歳)日新館に於いて自刃。
青龍三番足軽半隊頭小澤八弥母つや(七十歳)、三男直五郎(三歳)、長女すみ(十歳)、二女まさ(六歳)、自宅自刃。
軍事方岡田又五郎妻きの(三十五歳)、自宅自刃。
太田貞蔵母某(五十二歳)、自刃。
若林源蔵柏母みわ(五十五歳)、米代四ノ丁自宅自刃。
垣見幾五郎母ひさ(六十四歳)、願成就寺前自宅自刃。
輿力年割岡本丈助妻ゆう(四十歳)、二男友彦(十歳)、女よん(十四歳)、臺ノ町自宅自刃。
多賀谷勝之進祖母まき、母しげ、伯母やす、きい、りせ、弟政五郎(十二歳)、五七郎(七歳)、本二ノ丁自宅自刃。
一柳伊右衛門母某(七十四歳)、多賀谷邸自刃。
遊軍寄合組々頭安藤物集馬姉ひさ(四十七歳)、多賀谷邸自刃。
玄武士中隊半隊頭高木助三郎妻るい(四十八歳)、嫁やい(二十一歳)、女某(十四歳)、孫はつ(二歳)、郭内諏訪社自刃。
台所目付田村佐次郎妻ちよ(四十六歳)、本一ノ丁割場内自刃。
地方家人頭相馬直登妹とい(四十歳)、米代三ノ丁自邸自刃。
高橋茂三郎妻某、蟹川渡場。
高橋喜助嫁某、孫女(七歳)、飯寺川原。
高畑徳三郎母みつ(五十二歳)、六日町自宅前。
前家老北原釆女母きよ(六十三歳)、西郷刑部邸自刃。
芥川十蔵妻とゑ(五十一歳)、嫁某、姉某、西郷刑部邸自刃。
朱雀二番士中隊田中蔵人隊甲士柴太助母しを(四十六歳)、妻ひさ(十九歳)、女つね(二歳)、本三ノ丁自邸自刃。
島田覚四郎女某、自邸自刃。
山崎半蔵妻きよ(四十八歳)、傷翌日死。
誠志隊小隊頭樋口友樹母きよ、花畠自宅自刃。
守屋岡右衛門妻とり(五十歳)、博労町自宅自刃。
進撃小室隊二瓶陶五郎母某、自宅自刃。
猪俣輿吉母、湯本本道に於いて中弾。
青龍三番士中木本隊甲士遠野常五郎妻某、本三ノ丁中弾。
熊谷治兵衛妻りよ(四十六歳)、用屋敷裏門前傷、後城中に死、長男長助(十三歳)、四男熊之助(八歳)、同門前に死。
三男三郎もまた同所に死すとの説あり。
深田金八母、蟹川渡場。
深田保弘母つね(三十三歳)、蟹川渡場。
土屋鐡之助姉かね(五十歳)、坂井清八妻ならんと云う、蟹川渡場。
東海林勇吉母ふさ子追手前傷、十月中幕の内に於いて死。
青龍一番足軽隊頭鈴木式部祖母さの(五十八歳)、小松渡場。
吉村左次右衛門嫁きの(十九歳)、鳥居町自宅前中弾。
高木久之進(あるいは房之進)姉某(二十二歳)本二ノ丁下中弾
山田信蔵祖母(九十余歳)、手明町中弾。
青龍一番士中隊中隊頭有賀惣左衛門妻ひで(二十七歳)、女うら(一歳)、諏訪社内自刃。
石山源之進母げん、本二ノ丁又は甲賀町通。
用所密事庄司勇助妻こと(十九歳)甲賀町通中弾。
樋口久馬祖母某、三ノ丸中弾
中島忠次郎母えつ(五十四歳)、用屋敷門前傷、後軽井沢にて死。
鈴木辰吉祖母甲賀町中弾。

 
 八月二十四日
白虎二番寄合組隊中隊頭太田小兵衛二男助三郎(九歳)城中中弾。
齋藤甚左衛門妻のぶ(六十四歳)、小田村。


 八月二十五日
元青龍一番足軽隊中隊頭杉田兵庫やえ(五十七歳)、伯母みわ(五十七歳)、長男薫治(三歳)、城中自刃あるいは九月二十日とも云う。
野村新平祖母某、城中北出丸中弾あるいは二十六日とも云う。
砲兵隊小隊頭簗瀬辰之助妻まち(三十歳)、城中中弾。
三浦重八母某、荒久田村中弾。
相馬直登女某、大曲村。


 八月二十九日
伊輿田勇治妻某、中弾。


 八月中(日不詳)
敢死隊指図役二ノ寄合林源輔妻某、堤澤村中弾。


 九月朔日
小姓山際永吾伯母なみ(七十歳)、城中中弾。


 九月三日
内田武八三女つや(二十四歳)、城中中弾。


 九月四日
軍事奉行添役和田太助母かつ(六十五歳)、大沼郡赤留村中弾。


 九月十一日
森幾衛門男亥八(十二歳)、父共に従軍熊倉村負傷、十月三日大塩村にて死。


 九月十三日
城取新九郎姉やい(四十三歳)、二ノ丸中弾。
山本丈八母某谷ヶ地村。


 九月十四日
大河原源八女某(九歳)、城中中弾。
内田藤八妻たけ(二十歳)、城中中弾。
三村豊次郎妻まち(三十歳)、長男太郎(三歳)、城中中弾。
小出彦右衛門妻とみ(五十三歳)、城中中弾。
高木三平妻なを(五十三歳)、城中中弾。
芳賀市左衛門女いね(五歳)、城中傷、二十二日死。


 九月十七日
遠藤久衛女とく(三十二歳)、御山村自宅傷、十月十七日死。


 九月十八日
遊撃隊頭三宅小左衛門二男初次郎(十三歳)、城中中弾。


 九月十九日
朱雀三番士中隊小隊頭小原厳祖母ゆき(五十二歳)、継母しげ(四十七歳)、叔母とみ(十五歳)、長女ひで(九歳)、城中中弾。
朱雀三番士中小野田雄之助隊甲士角田助次郎母きや(六十一歳)、妻さよ(三十八歳)、城中中弾。


 九月二十日
青龍二番士中隊中隊頭有泉壽彦母千代(八十歳)、城中中弾。


 九月二十三日
朱雀足軽隊中隊頭武川頭軒祖母なを(八十四歳)、城中中弾。


 九月二十七日
鈴木八郎女いち(四十六歳)、河沼郡塚原村自刃。


 九月中(日不詳)
今村幸之助祖母某、一ノ堰村中弾。
服部左膳孫某、城中中弾。


 十月六日
朱雀一番足軽隊中隊頭間瀬岩五郎妹某(十九歳)、郡山にて死。


 以下月日その他不詳
朱雀一番足軽隊小隊頭神田小一右衛門母某、島高瀬村。
医師河村謙益妻某、男某、戦乱中子を見失い申譯なしとて自刃。
束原助三郎祖母某、永井野村。
中澤善次郎妻某。
野村勝之助祖母某、堤澤または塩澤。
高橋清八母某
赤羽幸之進祖母某、飯寺村。
赤羽祖母母某、小田村。
佐藤富太郎母某、女某、飯寺村。
阿部庄左衛門女某、御山村。
雪下左次郎母某、蘆ノ牧村。
雪下熊蔵妻さだ(三十六歳)、塩川村自刃。
小原藤五郎妻某、嫁某、孫女某、城中(藤五郎当時二十二歳なれば、嫁および孫女あらざるべし、誤りあるべし)。
大石彌五右衛門母某。
砲兵隊頭千葉権助女某。
簗瀬豊之進妻とめ(三十二歳)、小田垣。
矢野善八母某、旗町。
松野久吉家族全部。
遊軍寄合組隊頭小池繁次郎姉ちよ(六十一歳)、九月城中負傷、御山にて死。
遊撃隊頭三宅小左衛門妻某。
大砲隊組頭中澤三郎三男時彦(六歳)。
星精蔵忰万吉(十二歳)、山三郷赤岩村。


 これより先、城中より藩士に対して万一危急に迫れば警鐘を鳴らして合図を為すべければ、これを聞かば直ちに入城すべしと布令したるが、この日戦機迅速にして市街処々に火揚るに及びて初めて警鐘を連打せり、これにおいて家に在る老女婦女は大に驚き、にわかに刀を佩び、あるいは薙刀を提け老を助け幼を負い争うて城に入り、後れて到る者は、また収容の余地なく、城門すでに鎖して入ること能はず、人々は城の北追手および埋門の近傍に群集して立錐の地なく、加ふるに弾丸は頭上を掠むるの有様なり、すなわち一騎士あり鞭を挙げて来り大に呼んでいわく、ここに留まるなかれ、速に西南の方に避けよと、人々馳せて本一ノ丁を過ぎて川原町口の郭門を出でんとすれば、守兵は君命なりと称して門を開かず、門前に来り集る者無数皆進退に窮す、時に唐澤長九郎(年六十三、四歳)、馳せ来り刀を按し守兵を托していわく、斯る非常の場合に当り縦令君命といえども開門せずして老幼婦女を見殺しにするかと、守兵怖れて門を開く、人々争うて出づる有様は、あたかも大河を決するが如く疾く走りて大川の渡場に至る(若松を距る数町)、折節秋雨の為、水漲り渡るべき様なし、沿岸の村民鐘を鳴らして馳せ集まり小舟を出してこれを渡す、舟少なく人多くして容易に捗らず、難を避くる者は河辺の沙上に充満し、その数幾千なるを知らず、士女は雙刀あるいは一刀を佩び、白布を以て頭を捲き、あるいは薙刀を杖つく者あり、藩校の書生にして十二、三の少年は雙刀を佩び雨中に立ちて朝より夜に至り、漫身淋漓たるも、あえて動かず、砲声耳をつんざき猛火身に及ばんとするが如く光景転た慘澹たり〔古河末東実歴〕、沿岸の村民は難を避けず全力を傾けて徹宵救護に従事したるにより溺死者は極めて少かりしと云う〔若松記、七年史〕。






卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/04(木) 10:20:08|
  2. 会津戊辰戦争史2
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/222-cb207028
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。