いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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女隊の奮戦

女隊の奮戦

 この戦に先だち中野竹子、その母こう子、妹優子、神保雪子、依田菊子、岡村ます子等ニ十余人慨然として国難に殉せんと欲し、共に結束してニ十四坂下に至り、滞陣の軍将に面し従軍を請う、軍将はその女子なるが故以て軍に編入することを許さず、竹子等切に乞うて止まざるに依り、軍将は明日衝鋒隊等が若松に向かって敵を襲撃するを以て、その陣後に伍して参戦すべきことを諭す、これにおいて竹子等縁髪を切り袴を穿ち薙刀を提げ、この日衝鋒隊後に従い縦横奮闘し、竹子ついに弾丸に当りて柳橋に死す時に年ニ十二なり、戦酷にして屍体を収容するに暇あらず、母いわく、娘の首級は敵の手に委すべからずと、竹子の妹優子これを聞き挺身行きてこれを馘り携えて退く、初め竹子の軍に従うや和歌を賦して短冊に書し、これを薙刀に結べり。

武士の猛き心にくらふれは
 数にもいらぬ我身なからも


神保雪子もまたこの日敵弾に斃れる時にニ十三歳なり〔七年史、若松記、会津会々報第十一号〕。

{竹子は中野平内の長女にして容色佳麗なり、会て江戸の藩邸に在りて妹優子と共に文武の業を修め、薙刀を藩士赤岡大助に学び、殊にその技に長じ兼て和歌を善くせり〔七年史、韋軒遺稿、若松記〕、神保雪子は神保修理が妻なり、修理死に就きしより、また脂紛を装はず、人の再嫁ほ勧むる者あるも顧みず、八月二十三日父井上丘隅の家に在り、丘隅瀧澤口の戦利あらず、退いて家に入れば婦人皆団坐し共に死せんとす、丘隅雪子を見て声を励していわく、汝は馳せて神保家に帰りて生死を共にすべし、決して此に死すべからずと、雪子直ちに訣別して家に帰るに際し、飛弾雨の如く、且つ路塞がりて行くを得ず、一時身を他所に避け、この日山内遊翁隊、衝鋒隊と共に若松に向かって進撃するに逢い、中野竹子と共にその隊後に従い、この壮挙を為せり〔七年史、会津会々報第十一号、水島菊子談〕}

 午後城の西北に当り砲声盛んに起こりしを以て進撃の令下る、大沼城之介を砲兵隊頭と為し、朱雀二番士中隊頭田中蔵人と共に出でゝこれを援けしむ、両隊融通寺町門を出づれば市家の兵火盛んにして行くを得ず、敵諏訪社に據ると聞きこれに赴きたれども隻影を見ず、更に進んで横丁に至れば兵火また盛んなり、たまたま土屋鉄之助を長命寺裏の城安寺辺りに追撃して帰り来るに遭い、三隊相議して相別れ、土屋隊は六ノ丁の土壘によって西兵を撃攘し、兵を分つて進撃し五ノ丁より大町通高橋邸前に至り黄昏城に入る、砲兵隊は湯川に沿うて西名子屋町に至り、ニッ釜より穢多町の西兵を衝かんとす、時に西名子屋町の兵火東風に煽られ黒煙濛々として彼我を弁せず、小林繁之助は偵察して西兵なるを知るも、彼は要地に據りて乱射し、我が兵は田畝溝渠の間に在りて進撃便ならず、すなわち大運寺の墓間に入りて戦いたるも衆寡敵せずして兵を城中に収む、田中隊は柳原より木戸方面に進まんとしたるに、西兵穢多町の胸壁に據りて乱射し、我が兵応戦利あらず、すなわち湯川端に進み戦い、日暮れ兵を城中に収む〔若松記、七年史〕。

 申の上刻頃西兵胸壁を甲賀町通三宅邸前に築き大砲を装置して、まさに城中を撃たんとす、我が兵これを見て先んじて彼を制せんとし北原次郎、水野軍吾、川井千代之助、三井計之助等大砲一門を曳き来りて墻後より胸壁を撃たんとしたる刹那、西兵先づ発砲して墻後の胸壁を破壊し、次郎傷き土壘より転墜す、西兵連発し、我が兵をして発射するの暇なからしむ、我が兵北追手より斜に追撃してこれに応ず、敵弾天守閣、太鼓門の辺りに雨注し城兵多く死傷す〔若松記、七年史〕。

 




卷八 会津城下の戦 其二 自八月二十五日 至八月二十九日

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  1. 2013/04/06(土) 13:00:03|
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