いがぐり史料館

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二十  長藩の外舶砲撃     『京都守護職始末1』

 小倉藩の罪を問う     これよりさき、長門藩は、馬関海峡を通過する外国船を砲撃したが、小倉藩(小笠原左京大夫忠幹朝臣)が応援しなかったのを罪とし【注一】、その罪状を朝廷に訴えてきた。
 朝議では、小倉藩を違勅の罪に問うことになったので、小倉藩の君臣は大いに驚き、使を走らせ、わが公にその違勅でないことを弁じて、救解を求めてきた。
 わが公は慶勝卿と謀って、二条城敬公のもとを訪れ、幕府が攘夷の勅を奉じたと言っても、まだ戦端を開いたというわけではないから、諸藩も外国船舶を見つけ次第砲撃していいわけではなく、従って小倉藩が違勅ということにはならないと、条理を立てて説明したので、公もそれで納得がゆき、朝議をひるがえして、その事は中止となった。
 一方、長門藩の外舶砲撃が奏聞されるや、過激の堂上はこもごもに歓呼して迎え、これこそ攘夷の実行で、第一の忠勲であると賞誉し、これに応じなかった諸藩を因循として罵倒した。朝議もついにそれを支持することになり、この月(六月)十六日、正親町少将公董朝臣を観察使として長門へやり、伝奏衆からは、ただちに諸藩へ、長門藩はすでに叡慮を遵奉して掃攘の実を挙げたから、諸藩も外夷の近づくのを見かけ次第二念なく打払い、また、警衛の藩は互いに相授け、力をつくして防禦せよ、万一、因循傍観の諸藩があったら、厳重にお咎めがあるであろうという勅諚がつたえられた。そこで長門藩は、ここぞと隣国の傍観を絶叫しつづけた。
 外国の使臣たちは、長門藩のこの暴挙を憤り、次次に幕府に迫って償金を要求してきたが、朝廷はそれを意ともせず、前に攘夷のことや諸藩の統率はいっさい幕府に一任したことも忘れたように、諸藩を催促して、長門藩のあとにつづかせようと命令するのであった。
 いったい朝議が是か。幕府が非なのか。そのことは論ずるには及ばないが、公武の意見がいつもこんなふうに表裏するので、尾張慶勝卿もこの難局に当るのを苦に病み、そのうえ、大納言茂徳卿が江戸の留主居で失敗してから、国中で慶勝卿を慕うものが多く、人心が二派に分れる情勢となってきたので、内の気がかりも深刻で、ついに病気と言って出てこず、わが公が目下の大勢を説いて協力を再三懇告してみたが、卿はすこしも応じようとせず、忿々(ふんぷん)として、二十一日(六月)封土に帰国してしまった。
 いまでは、公武の間に立って、双方の議の表裏をとりはからって一和を図るのは、ただひとりわが公あるのみ。しかも、一旦大事件が起っても、相談にのる有力な人がなく、守護職はまったく孤立の勢となった。





 【注】

【一 …を罪として】 五月十日、長州藩がペムブローク号を砲撃した際、同じ下関海峡に面する小倉藩は、砲撃に出ず傍観した。小倉藩としては、無謀過激の行動がないようにとの幕命に従ったまでであった。しかし長州藩尊攘派は憤激し、使者を遣わして難詰し、六月二十四日には、長州藩尊攘派の騎兵隊は、小倉藩領の田の浦を占拠し、ここに砲台を築造した。また尊攘派の申し入れをうけた朝廷は、諸藩にたいし、傍観をいましめる沙汰を伝え、国事寄人正親町公董を攘夷監察使に任じて長州におもむかせ、攘夷を激励したことは本文の伝えるとおりである。しかし、外国側のきびしい抗議をうけていた幕府は、長州藩にたいし、みだりに外船に発砲してはならぬと命じ、使番中根一之丞を長州藩に派して、外船砲撃と小倉藩領侵入の科(とが)を糺問させた。

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/03(土) 10:41:39|
  2. 京都守護職始末1
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