いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

西郷頼母の使命

西郷頼母の使命

 この日西郷頼母越後より帰陣の陣将に伝命の使を奉じ〔栖雲記〕、高久に赴かんとしニ公に黒金門に拝辞し了て、大鼓門を出でんとし、簗瀬三左衛門に別を告ぐ、三左衛門は使を奉ずるの事情を聞き歎じていわく、これらの使命は使番にて足れり、今、国家危急に当り重臣城を去るの時にあらずとしきりにこれを止む、頼母厚情を謝して別れ、更に諸子に言っていわく、ニ十三日一家共に節に死する時、吉十郎(頼母の長子時に年十一)も死を共にすべかりしを先に入城し君側に在りてこれを果たさず、今余使を奉ずるに臨み吉十郎をここに留むれば却って繁累と為るを恐れこれを伴ふと、感漑無量悄然として城を出づ、人皆別を惜しむ〔内田藤八筆記〕、頼母ニ十七日高久に至り〔累及日録、関成章談〕、使命を陣将萱野権兵衛、上田学太輔に致し、後米澤を経て仙台に入り榎本武揚の軍に投じ、開陽艦に搭し偕に航して函館に至る〔続国史略後篇〕、あるいは曰く、頼母先に白河方面の総督たり、白河城陥るに及び海内の大勢を察し、講和の策を建言したるも行われず、その職を罷めらる、攻守急なるに及び再び起こって事を視せしむ〔続国史略後篇、内田藤八筆記〕、すでにして同僚中あるいは和を唱ふる者あり、頼母これに言っていわく、卿等前に余が和議を排しながら今日に至って和を説くは何ぞや、武門の恥辱は城下の盟より大なるはし、唯城を枕にし一死君恩に報ゆるのみと、秋月悌次郎出でゝこれを調停せんと欲す、頼母声を励ましていわく、重臣國事を議す、汝らのくちばしを容るべき所にあらずと、刀を按して起つ、悌次郎罹れて退く、梶原平馬、原田対馬、海老名郡治等これを憤り、密に相議しこれを佐川官兵衛に謀らずして我が公に白うし、頼母に命ずるに陣将萱野権兵衛と上田学太輔に命を致すを以てすと〔内田藤八筆記、古河末東所聞〕、あるいは曰く、頼母が白河に敗れて我が公に講和策を献ずるや、これより先、我が降服謝罪表が西軍薩長参謀の阻止する所となりて朝廷に達せず、仙台藩士は大に憤りて世良参謀を斬殺し、ついに奥羽越列藩の締結するに至りし際なれば、当時講和の望は絶無にして、その献策の容れられざりしは、むしろ当然の情勢なりは家老等予の献策を容れざるの致す所なりと、これを痛撃讒謗したること城中に知れ渡り、このままに放置するときは諸子を煽動し城内の一致を破るの恐あるを以て、些細の使命に托して城中より遠ざけられしなりと〔柴太一郎談〕、すでにして頼母の城を出るや大沼城之助、蘆澤生太郎をして、これを途に謀らしむ、大沼、蘆澤は頼母の峭直狐忠を憐れみ、故意に別路を追跡して逢わず、頼母は早く、すでに身を以て米澤に遁ると云う〔大沼城之介談、古川幸之進所聞、栖雲紀〕。




卷八 会津城下の戦 其二 自八月二十五日 至八月二十九日

スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/07(日) 08:50:09|
  2. 会津戊辰戦争史2
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/231-76d0184e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。