いがぐり史料館

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山川大蔵の入城及更に守城の部署を定む

山川大蔵の入城及更に守城の部署を定む

これより先、五十里駅に滞陣せし家老山川大蔵は、我が公の命に接し、八月二十二日田島に退軍し、諸将と議し田中蔵人隊を発して先発せしめ、軍事奉行小山田伝四郎をして南方面守衛の任に当らしめ、自ら朱雀三番寄合組隊中隊頭鈴木一郎右衛門、別選組隊頭春日佐久良(一説に別選組隊頭は黒河内左力なしと云う)、狙撃隊長竹村幸之進および小出鐡之助、水島辨治の諸隊を率いて田島を発し昼夜兼行若松に向かう、この日大内峠に至れば砲声しきりに聞こえ若松は稲煙の中に在り、大川を渡り飯寺村に至れば加賀山潜龍の率いたる敢死組その他敗兵四五十人相集り大蔵を遮り説いていわく、今や若松城は敵兵四方に充満して容易に入るを得ず、しかして城中の苦しむ所は小田山よりの砲声に在り、願はくは、将軍入城に先だちて小田山の敵を一掃せられんことを某等一死以て先鋒たらんと、大蔵いわく、一城の安危は旦夕に迫る、今予君命を奉じ城に入らんと欲す、他を顧るに暇あらずと、これにおいて全軍川原町を過ぎ米代一ノ丁を経て西追手門より城に入らんとするに当り、城中より敵兵と見誤られんことを慮り一計を案じ、兵士をして大鼓および横笛を求め彼岸獅子の囃子を吹奏して城中に行進せしむ、城兵これを聞き、我が兵なりと察してこれを待つ、しかして西軍はこれを怪しみ敢て迫らず、ために一兵を損せず城中に入ることを得たり、人皆その機智を称す、我が公および喜徳公直ちに諸将を黒金門に延見して労を慰し謀策を大蔵に問う、大蔵謹んで答えていわく、臣先に在りてしばしば敵軍と戦うといえども、これ閭巷の小戦に過ぎず、今やこの名城により、公の面前において薩長の大敵と決戦することを得、臣の光労これに過ぎず、臨機の画策は臣の方寸に在り、幸に高慮を労することなかれと我が公大に喜ぶ〔若松記、七年史、水島純談〕。

 山川大蔵の入城するや我が公は諸重臣と議し、更に城内外の部署を定む、藩相内藤介右衛門をして三ノ丸を、藩相原田対馬をして西出丸を、若年寄倉澤右兵衛をして二ノ丸を守備せしめ、藩相梶原平馬をして本丸に在りて政務を総掌せしめ、また新たに登庸せられたる藩相佐川官兵衛をして城外に在りて諸軍を督せしめ、しかして藩相山川大蔵をして本丸に在りて軍事を総督せしむ、これにおいて文武各方面の区画を明らかにし、従って指揮統御の系統整然として大に旧来の面目を一変せり〔水島純談〕。

 この日朱雀三番寄合組隊の城に入りたる者七十三人なり、同隊の入城に先だち敵兵融通寺町に横行するの報あり、よって同隊より一番小隊をして巡邏せしめたるが西兵皆遁れ止まる者なお一人あり二本松藩兵と称す、しかれども言語薩兵に似たり、松本八太郎等捕え糺問してその実を得、これを斬り、首級および双刀後装銃を陣将の検閲に供す〔若松記〕。

 この時に当り西軍肥前、紀州の兵は白河より入り、芸州、宇都宮、太田原の兵は藤原より行く行く沿道の兵を撃って皆若松城下に会す。

 正午頃肥前、薩州および松代の兵共に小山田および建福寺前より連弾猛撃す、我が兵天神口より四斤砲を連射して応戦す、青龍一番足軽隊、坂平三郎隊、草風隊をして小山田の敵を進撃せしむ、この日早朝坂隊は若葉町より直進して前面を攻撃し、朱雀三番寄合組隊は青木村より西兵の背後を衝かんとす、草風隊これを援け朱雀三番寄合隊は潜に小山田に登り瞰射して西兵の備へざるを襲い、西兵を退くること四五町薄暮戦を止めて山を下る、朱雀三番寄合組隊半隊頭森幾右衛門傷を負い兵士の死傷数人、城兵山上の戦を望み有泉壽彦、井深守之進、土屋鐡之助の諸隊をしてこれを援けしむ、しかれども機に後れ諸隊青木村または堤澤村に陣す〔若松記、七年史〕。

 この夜一ノ町に在る西軍本営を進撃するの令下る、鈴木一郎右衛門は一中隊、竹村幸之進は一小隊、春日佐久良は一小隊を率い発するに臨み、二公将士を召し見て酒殽を賜う、朱雀三番寄合組隊、別選組隊は融通寺町門より進発す、狙撃隊先鋒たり、進んで七日町近傍に至るや西兵すでに七日町に在りてすなわち応戦す、朱雀三番寄合組隊小隊頭神尾左仲は兵を率いて彼の備へざるを襲わんとし、桂林寺町門を入り大町に進み六ノ丁に至りて戦う、衆寡敵せず本三ノ丁より本二ノ丁を経て融通寺町門に至れば大垣の兵来り戦う、我が兵利あらずして退く〔若松記、七年史〕。

 八月二十七日、これより先、八月二十二日、平尾豊之助に米澤および荘内に使せしむるの命あり、平尾即日発足して二十三日の夜米澤に至るやたまたま我が永岡敬次郎、仙台より来りてここに在り、相見て方略を陳し永岡は再び仙台に赴く、平尾は米澤の士某に面し、我が藩の急を告げて援を請い切に猪苗代城の敵を襲撃するの策を説く、彼いわく、貴藩の急は固より救はざるべからずといえども、弊藩もまた切迫し国を空うして境を守り留まる者は惟老幼と負傷者とのみと、翌朝その人再び来りていわく、昨夜急に令して東境の兵を引き挙げしめたれば、帰着一両日を出でざるべきに就きその兵を以て貴藩を援けんと、会々我が佐久間平介若松より来り昨日西軍若松城を包囲することを報ず、これにおいて平尾米澤人に前約の履行を促し、米澤を発し綱木に至り桑名侯に謁していわく、若松城陥らば奥羽瓦解し大事去らん、侯願くは米澤に至り上杉侯に説くに大義を以てし、共に将士を激励し、急に進んで猪苗代城を襲撃せば捷を得ること必せりと、二十五日平尾綱木を発せんとするに当り、大鳥圭介等大兵を率いて米澤に至るに逢う、平尾は圭介に米澤の態度を説きたるに、圭介奮励していわく、勝軍山守を失い、我ら何の面目ありて諸子を見んや、今決死奮闘して謝せんのみ、請う宰相公に吾言を致されんことをと、二十六日圭介兵を班へし平尾と共に鹽川に来り、相謀り二十八日天未だ明けざるに我が兵を率いて北より進撃し、砲声震う頃、精兵城より出て高久の兵は西より進み三面合撃せば城下の西兵を一掃すべきなりと一決せり、これにおいて平尾は高久の本営に至り陣将萱野権兵衛にこれを告げ、潜行して二十七日暁天若松城に達し、黒金門において二公に謁して復命し、且つ三面合撃の策を白うす、我が公慰労して特に親ら盃を賜い軍事奉行添役と為し大目付に班す、時に佐川官兵衛まさに精兵一千余人を選び期を刻して決戦せんとす、けだし佐川の意は城中の精鋭少なからず、しかれども未だ会て大挙決戦せず、我が技倆を示すは、この挙にあり、何ぞ他の援を要せんやと云うに在り、ゆえに三面合撃の策は、ついに行はれざりき〔自警編、続国史略後篇〕。

 青木、堤澤に陣したる有泉壽彦、井深守之進の一隊は小山田上の西軍大に加わり我が進攻の効らざるを察して城に入る、独り土屋鐡之助は一戦に及ばずして城に入るを恥じ、兵を率いて川原町に至り進んで極楽寺より手明町に至り大垣の兵を撃破して入城せり〔若松記、七年史〕

 この日西軍東北より齊しく城を攻撃し、小田山の砲台より大砲を連射することますます烈しく、屋瓦飛び柱壁砕け煙塵室に満ちて昼なお暗く、火しばしば起こりといえども幸に消し止むることを得たり、しかれども死傷相継ぎ、あるいは城の支え難きを察し慷慨して自刃する者あり、謀議の士は黒金門に会し軍議に日を累ぬるも良策の施すべきものなし、津田範三これの形勢を見て宗川勇之進(茂弘、時に年七十、会て容敬公、容保公に侍讀たり)を顧みていわく、士気振興の策如何と、勇之進いわく、当局者日々軍議を累ぬるも果たして何の効かある、敵兵このごとく城に迫るに及びては陣将たる者皆出でゝ防戦の指揮を為さゞるべからずと、範三いわく、昔東照宮は一生四十八戦自ら兵馬の間に奔走せられたり、今老公(容保)、我が公(喜徳公)にもまた馬を進めて三軍に号令せらるれば士気自ら振興せん、弾丸雨注の下危険ならざるにあらずといえども、城の運命旦夕に迫りては実に止むを得ざるを以て敢て言上せんと、勇之進流涕していわく、貴意尤も善し敢て言上せよと、これにおいて範三は奥番望月辨次郎に就いてこれを請いたるに、辨次郎はしばらく待つべしと言いて君前に伺候し、やがて出で来りて公の召見を伝ふ、範三双刀を脱し命に従い二公の前に咫尺し謹みて微衷を言上す、我が公これを嘉していわく、汝の言時宜に適せり、ことごとくこれを採用すと、範三感泣して退出す、これより二公しばしば親しく城中の陣地を巡視して将士を慰労せられたれば、衆皆感激し三軍の士気ますます振作するに至れり〔若松記、津田範三筆記〕。

この日、田中左内第一砲兵隊頭と為る〔若松記、砲兵隊諸出〕。

 大砲隊士戸枝栄五郎、鯨岡平太郎および川崎尚之助等野戦四斤砲に装置して小田山を迎撃す、西軍大に苦む〔若松記、七年史、角秀壽談〕。

日向彌志摩兵を励し西兵を撃退せんとし城を出でゝ飯寺村に陣す〔若年寄、七年史〕。

木本内蔵之丞は隊士五十八人を督して小田山を進撃すること前後二回すでに利あらず、内蔵之丞重傷を負う、よって兵を城に収む〔若松記、七年史〕。

 八月二十八日、有賀総左衛門青龍一番士中隊中隊頭と為る、けだし木本内蔵之丞傷を負いたるに由るなり〔若松記〕。

 青龍三番足軽隊中隊頭日向彌志摩は長命寺の西兵を撃攘せんとし、隊兵を率いて飯寺村を発し兵を分つて長命寺の前後より西軍を襲いたるも利あらず、飯寺村に退陣す〔若松記、七年史〕。

 この時に当り西軍城下に入りしより已に数日を過ぎ、城の東北より西北に渡りて数万の敵兵数十の壘壁により日夜銃砲を発して孤城を攻撃す、電光空に閃き万雷地に震う、郭内外の邸宅市店は兵火または放火の為に一空荒野と為り、戦没したる壮士流弾に斃れたる婦女は骸を晒し、屍を横たえて収むることを得ず、流血淋漓腥風鼻を撲ち、その惨状は目も当てられず〔累及日録〕、西兵の残暴なる農商の家見る所の財貨剽竊せざるなく、これを牛馬に満載して運搬し去り、あるいは鶏牛を掠奪し、あるいは無辜の民を殺害し、あるいは婦女を姦し憚る所なし、これにおいて我が公は佐川官兵衛を総督とし朱雀二番士中隊中隊頭田中蔵人、朱雀三番士中隊中隊頭原田主馬、進撃隊頭小室金吾左衛門、別選組隊頭春日佐久良、砲兵隊頭田中左内、正奇隊頭杉浦丈右衛門、歩兵隊頭辰野源左衛門、朱雀二番足軽中隊頭間瀬岩五郎、会義隊頭野田進等をして進撃せしめんとし、この夜二公は将士を黒金門に召し見て慰労し酒餅を賜う、官兵衛謹んで白うしていわく、臣誓って西兵を撃攘せん、もし不幸にして利あらずんば再び入城して尊顔を拝せずと、声涙倶に下る、我が公もまた涙を垂れ親ら正宗の刀を賜う、衆感喜す、すなわち部署を定め二十九日早朝を以て進撃の期と為す〔若松記、七年史、続国史略後篇〕。 






卷八 会津城下の戦 其二 自八月二十五日 至八月二十九日

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