いがぐり史料館

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材木町の戦

材木町の戦

 九月五日、大内関山守を失う、西軍暁霧に乗じ潜に大兵を集めて飯寺村に至り(城を距る半里)大川を隔てて連なりに乱射し飛丸雨のごとし、この地を守りし神保隊衆寡敵せず材木町の南方に退く、西軍の斥候(中津、黒羽)一小隊、先鋒(舘林)一小隊その他諸藩の兵陸続河を渡りて驀進し、火を材木町の南端に放ち兵を分つて住吉川原に向かう、川原町を守れる会義隊頭野田進等これを支えんとしたるも力能はず、佐川官兵衛は警を聞き直ちに軍務諸官と共に本営(米代一ノ丁を以て仮営と為す)を発し川原町門に至る〔若松記、自警編、続国史略後編〕、南町門を守れる水戸兵来り援く〔続国史略後編〕、この時砲兵隊の材木町を守るもの守を撤して融通町の本営に赴く、佐川叱責して再び材木町秀長寺裏より西軍を横撃せしめ、またその他の兵を片原町柳原に移して横撃す、別選組隊寄合組頭有賀齋宮は半隊の兵を率いて南町門を守りしが急を聞いて守備を遊撃隊に譲り兵を率い馳せて材木町に至り兵を柳堤に止めて飯寺方面を扼す、諏訪社を守れる別選組隊頭三坂数之丞、同組頭三井計之助等これを援け材木町裏より攻撃す、有賀は機を計りて柳堤より進み槍を揮って突撃したるが敵弾その槍を三折す、有賀直ちに刀を揮って挺進す〔若松記、自警編〕、時に南境を守れる諏訪武之進、唐木助之進の兵また来り会し吶喊合撃したれば西軍ついに大に敗れて南に走る〔自警編、続国史略後編〕、この役大砲弾薬器械毛布鹵獲する所無数なり〔若松記〕。

 別選組隊は兵を諏訪社境内に収め同隊頭一瀬一郎、同水野軍吾、甲士以下半隊を率いて諏訪社を守る〔若松記〕。

 間瀬岩五郎隊の残兵その他の兵士を藤澤茂助に属し大砲打手と為し三ノ丸不明門を守らしむ〔若松記〕。

 小原内記は大砲方頭と為り豊岡を守り小田山の西兵と応戦す、教示方戸枝平蔵、齋藤長三郎、中山治左衛門、牧原源五郎、打出高田塔寺の社人(高田伊佐須美社、塔寺八幡社の社人)遠藤亀之助以下二十六人、森岩鐡が城外にて集めたる所の兵五六十人を打手と為し戸枝平蔵に属す〔若松記〕。

 九月六日砲兵隊石塚観音を守る、この夜南方進撃の令下り米代二ノ丁伊東邸に休息す〔砲兵隊戊辰戦争記〕、田中源之進は佐川官兵衛に代わり数隊を率いて融通寺町門を守る〔七年史〕。

同七日、川原町方面の市家より必要諸品を城中に運搬す〔砲兵隊戊辰戦争記〕。

 この日砲兵隊頭田中左内隊頭を免ぜらる、けだし五日の戦に左内、材木町の守を徹したるを以て佐川官兵衛叱して返戦せしめ勝てりといえども、初め未だ戦はざるに撤退したるを罰したるなり〔若松記〕。

 これより先、砲兵一番隊小隊頭南摩彌三右衛門兄弟三人軍に従い、母勝子(四十二歳)、妻房子、弟左野荘司(故あり、佐野氏を冒す)、壽(九歳)、辛(四歳)、男萬之進は家に在り、房子は八月二十二日男を生みて猶床に在り、荘司は七月二十七日白河の戦に左股に傷を負いて歩行すること能はず家に治療せり、八月二十三日西軍の城下に迫るや荘司は家人に向かっていわく、皆敵を避けよと我は自刃せんと、勝子いわく、独り汝を棄てゝ去るべきや一同ここに死せんと、荘司いわく、否ここに死するは無益なり、我は駕篭にて非難せんと、僕清蔵等をして担ぎ出てしむ、勝子は壽、辛、萬之進を伴い、房子は赤子を懐にして共に家を出て城に入らんとしたるも路塞がりて入ることを得ず、方角を変へて西隣日向家の境に至り、荘司は駕篭を止めて水を乞いたれば勝子行きてこれを観れば已に自刃せり、勝子走りて手づから川水をすくいて之を輿ふれば荘司飲み終りて死せり年二十一、遺骸を諏訪社の境内に移したるに敵兵来り迫りたれば之を棄てゝ城の西方に遁る、村人は西軍に憚りて宿営を諾せず、ある時は古寺に入りて夜燈なく、在る時空舎に臥し飢えて食を得ず、昼は臥し夜は行き、備さに艱苦を甞む、僕清蔵常に従ってこれを護れり、町野源之助が母きと子(四十七歳)は勝子の姉なり、源之助が妻やよ子(二十四歳)、姉ふさ子(三十一歳)と長男源太郎(三歳)、女なを子(七歳)とを伴いて敵を避くるに逢い、共に大沼郡勝方村の寺院に宿せり、一日町野氏の僕走り来り鶴城陥り敵兵来り迫ると告ぐ、きと子いわく、敵に辱められんよりは寧ろ自刃すべしと、勝子これを止むれども聴かず、勝子もまたついに之に従い房子に言う、彌三右衛門は傷を負いて城中に在りと聞く、汝は二子を携え行きて之に従い家系を絶つことなかれ、我はここに死せんと、房子懇に共に敵を避けんと言うも許さず、また壽と辛とを拉し去らんと言うもまた許さず、房子止むことを得ず、萬之進および赤子を携え涕泣して訣別し城に向かって走る、時に九月六日なり、翌日町野、南摩の両家族は勝方村を距る凡そ半里の山中に入り、勝子は手つから壽、辛を刺して死す、壽死に臨み母に言う、同じく死するならば願くは敵と戦いて死せん、空しく阿母の手にするは遺憾なりと、僕清蔵は房子に従って行きしが、路に房子と相失したるにより之を尋ねて勝方村に至り、町野氏の僕に逢うて自刃の事を聞き、馳せて山中に至り寺僧と共に力を尽くして、その遺骸を移して寺中に葬る、清蔵は会津軍太郎兵衛新田の農民なり、南摩氏に事ふること数年実忠直を以て称せられる〔若松記〕。

 この日陣将佐川官兵衛は諸将と議し南進して糧に敵に依って掃攘せんと決し、即夜小野田隊、砲兵隊、別選組隊、鈴木隊、進撃隊、長谷川隊は米代一ノ丁に集合し、人毎に糧を帯びて出発し、米代四ノ丁より南郭門を出て、枚を銜んで馬橋を過ぎ一ノ丁村に達す、間謀を放って探れば本郷に屯集せる敵兵は、すでに若松に向かって去り隻影を見ずと、すなわちここに夜を明かし翌早を待って二隊を大内峠に向かわしめ、その余は面川村より河岸を経て大内村に集合することを約す〔若松記〕。






卷八会津城下の戦 其三 自八月晦日 至九月二十四日
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  1. 2013/04/09(火) 09:24:00|
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