いがぐり史料館

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長岡兵の殉難

長岡兵の殉難

 これより先長岡城再び陥落におよび、同藩大隊長山本帯刀は会津に投じて再挙を謀らんと欲し、兵百人を率い我が兵と共に八十里越を守り姑く柳津に在り、この日我が兵と共に高田より若松城に入らんとして飯寺村に向かって進み、朝霧に乗じ我が軍と共に蟻無ノ宮に西軍を横撃し、ほとんど之を屠らんとしたるも、たまたま敵の援軍至り、その重囲に陥り山本帯刀以下将卒西軍の捕ふる所と為る、西軍の軍監三宮幸庵、藤村四郎、帯刀の膽略を愛し降を勧めたるに、帯刀憤然声を厲していわく、予藩主の命を聞きて来り戦うも敵に降るの命を聞かずとついに屈せず、これにおいて帯刀以下ついに斬らる、帯刀の従者渡部豹吉もまた斬られんとするに際し敵将に言っていわく、我が命惜しむに足らず、主人を葬り、しかる後、死に就かんと哀願止まず、敵将いわく、遺骸を葬るは我らこれを為すべしとついに斬らる、帯刀、豹吉共に二十四歳なり〔北征日記、山本義路碑文〕。

{宇都宮の戦における東軍戦死者の墳墓は宇都宮市の西端に在り、その境内に墓表を建て小区割を為したるは旧宇都宮藩士戸田三男外十三名と為す、戸田は戊辰の役宇都宮藩の大隊長と一部隊長とを兼ね兵を率い南方より会津に入り田島、大内等に転戦し、九月八日飯寺村に戦い長岡藩兵数十人を捕ふ、長岡藩の将山本帯刀もまたその中に在り、これにおいて戸田はその処分を軍監中村半次郎(後、桐野利秋)に禀申す、中村いわく、山本は越後口より若松に入りたる軍監に付し、その他は斬首すべしと、すなわち山本には一人の兵を従わして之を軍監に送る、戸田等武士の末路誠に同情の感に堪えずといえども止むを得ず、その他の長岡藩士を大川磧に出し、まさに之を斬らんと欲す、願わくは之を受けよと、戸田はその意を諒し金貳百余両を収め後、戦終りて藩に帰り議して斯金を以て東軍戦死者の墓表を建てんことを計画し、有志者の賛成を得て竣功するに至れり、山本帯刀の佩刀は戸田これを鹵獲したりしが銀の半太刀造にて名刀なりとの評あり、後、戸田子爵の有に帰し、現今国弊中社二荒神社の寶庫に托して保存すと云う。
肥料商岩本彌太郎なる者あり、大正二年の頃より東軍戦死者墳墓の近傍荒蕪の地に家を建てて移住し、墳墓崇敬して灑掃し妻子に至るまで日々拝禮して怠ることなし、従来市民皆殉難の士なりとて弔祭したりといえども岩本移住以来一層の注意を惹き今日は香花を供する者ほとんど絶ゆることなきに至れり、岩本は毎年宇都宮戦争のありし四月二十三日および一月七月に祭典を行い、特に大正六年の戊辰五十年祭に際し有志者と相謀り大旗二旒花瓶一対を納め、また従来有志者の納めたる石鳥居が已に破壊したるにより、この祭典を機とし金五百拾余圓を義捐して再びこれを建てたり、前に戸田三男あり、後に岩本彌太郎あり、実に双絶の美談と言うべし〔会津会々報所載、小山満峻談〕。}


この日将長の死傷左のごとし(士卒はこれを略す)

 死
結義隊頭目付席 渡部英次郎


 傷
諸生隊々 相澤平右衛門
青龍三番士中隊組頭 杉浦佐伯
同隊右筆上席 山室鐡蔵(後死)
同隊半隊頭 米倉美軒(後死)〔結草録〕


長岡藩の戦死左のごとし
 隊長 山本帯刀
 銃卒隊長 千本木林吉

外に兵士寺田善左衛門外三十七人なり〔河井継之助伝〕


 九月十二日、これより先、第二遊撃隊頭相澤平右衛門負傷により小山田傳四郎その隊頭を命ぜられ、組頭安部井彦之助、北原直衛と兵を率いて城を出で諏訪社内を守衛す〔若松記〕。

 九月十三日、この日夜、北出丸の総督原田対馬、三ノ丸の総督内藤介右衛門諸隊を率いて城東外郭の敵壘を攻撃す、原田は北追手を出て、内藤は不明門を出て、大砲を列ねて連射すること二時間皆敵壘に破裂す、樋口久吾、一瀬勘助、高橋只五郎、川崎尚之助等射撃最も力む、時に幼少隊従軍したるが敵弾雨のごとし、原田これを憫み慰諭して城に帰らしむ、部将宗川熊四郎等奮戦す、西軍敗れて走り死傷多し〔原田種龍筆記、続国史略後篇〕。

 この日青龍士中隊は隊頭有賀総左衛門これを率い、本三ノ丁下および桂林寺町郭門左右堤に交替守衛を命ぜられ午後守兵を配置す、本三ノ丁桂林林寺町通角は石山郷右衛門以下九人をして守らしめ、桂林寺町郭門東方の土手一の胸壁は小川端午以下八人をして守らしめ、二の胸壁は矢島恒三郎以下九人をして守らしめ、三の胸壁は永本傳治以下九人をして守らしめ、桂林寺町郭門胸壁は矢島傳蔵以下九人をして守らしめ、郭門東の胸壁は生田寅虎之助以下九人をして守らしめ、本営を郭門の西に置く、この他河原町口には赤羽主計隊、融通寺町口には高津仲三郎隊、花畑口には土屋鐡之助隊あり〔若松記〕。

 この夜は即ち九月十三日夜に当り、秋天拭ふがごとく月色清朗なりければ、風雅の士は城中の庭上に会して最後の月を賞せんと、詩を賦し歌を詠じて夜半に至れり。
 九月十四日早朝戦止む、内藤介右衛門、原田対馬は二公に黒金門に謁し戦状を言上す〔原田種龍筆記〕。





卷八会津城下の戦 其三 自八月晦日 至九月二十四日



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  1. 2013/04/10(水) 09:15:51|
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