いがぐり史料館

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米澤藩降を勧む

米澤藩降を勧む

 これより先米澤藩は九月四日を以て西軍に降伏したるが、その降を乞うに当り同盟諸藩に降謝を勧誘すること、諸藩聴かざるときは之を討伐するの条件を以てせり、これにおいて上杉齊憲朝臣はその藩士松本誠蔵、山田元助をして書をもたらして我が陣将萱野権兵衛の高久の営に来らしめ藩公に呈せんことを乞う、その書の大意は土州藩書を米澤藩に贈りて言う、東軍の賊視して共に戦う所の賊にあらずして実に王師なり、越後口の総督嘉彰親王(仁和寺宮、後の小松宮彰仁親王〕、は錦旗を進めて、すでに塔寺村に在り、これに抗するは痛恨に堪えず、速に降謝して朝敵の汚名を除かざれば昔日の皇恩に報ゆるゆえんにあらず、弊藩貴藩の為に大いに之を惜しむ、願くは熟慮せよと云うにあり、権兵衛いわく、この書は若松城中に移送せんと使臣すなわち去る、権兵衛は軍事奉行添役秋月悌次郎をして入城して之を我が公に呈せしむ、我が公之を視ていわく、始め予輪王寺法親王に就きおよび二十二藩に托して哀訴すといえども省する所とならず、尋いて奥羽二十四藩の周旋により降伏謝罪書を呈せしも故なく却下せられ、みだりに兵を加え封内を却掠するは真の王師にあらずして奸臣の為す所なり、これ奥羽越同盟の成るゆえんにして列藩死力を尽くして之と戦いたるなり、今上杉齊憲始めて真王師なるを知りて降謝し、予にもまた降を勧む、もし果たして真の王師ならば何ぞ之に抗すべけんやと、すなわち重臣をして之を議せしむ〔韋軒遺稿、七年史、松平家譜〕、すでにして米澤藩兵西軍の下に属し来りて、我が森台村に屯す、十五日我が手代木直右衛門、秋月悌次郎は命を奉じ密かに城を出て米澤藩の陣営に至り、倉崎七左衛門、齋藤主計に面接し、その先導により若松西軍の本営に至り土州藩参謀板垣退助に就いて降を乞う〔韋軒遺稿、水島純談〕。

 この月八日、我が藩士桃澤彦次郎は単身米澤に至り援を請う、当時米澤はすでに西軍に降り、その藩士倉崎七左衛門等は桃澤に会津藩の帰順を勧むること甚だ切なり、桃澤は倉崎等の言により西軍が真の王師なることを知り、帰順の止むべからずを察し、その帰るに臨み米澤藩は若松城外に在りし同藩隊長河村彦左衛門の隊士針生虎之助をして桃澤と共に十一日熊倉に在りし我が軍営に来り帰順を説かしむ、これにおいて軍事奉行添役樋口源助、朱雀四番士中隊中隊頭町野主水は死を冒して十五日の朝入城し我が公に謁して進言する所あり、城中に留ること二日、然るに米澤藩に使せる手代木、秋月は未だ帰城せず、藩相等大に之を憂う、十七日我が公は更に町野主水、樋口源助、および水島辨治、小出鐡之助をして米澤藩の陣営に至り前議を述べしむ、四人使命を奉ずるの方針を議し二手に分かれ水島、小出は手代木、秋月がすでに米澤藩の応接を終り土州藩の陣営(七日町)に至りしならんと思惟し、城門を出て土州藩の本営に至らんとし藩相に申し出て方針を定む、時に若松城は重囲の中に陥り四面路塞がる、西軍の戦線は用心すこぶる厳しく会津人と認むれば戦士と常人とを問わず之を射撃し、近づけばたちまち殺戮するを以て寸歩も城外に出ること能はず、水島、小出は脱出の便法を苦慮するの際たまたま数人の城外をさ迷うする者ありて城兵に捕える、水島、小出彼を別室に延き敵状を推問したるに、彼少しも包み隠す所なく之に答ふる所を聞くにその言語は土州人なり、二人大に喜び彼を嚮導と為さば容易に土州藩の本営に至ることを得んと懇に意中を告げて嚮導たらんことを求めたるに、彼むしろ自ら進んでその任に当らんと欲するものゝ如く直ちに之を諾し、且ついわく、断髪して軍装を為すは宜しからず、結髪して余と装いを同うする者一人を伴い一旦本営に帰り、再び城に入りて郷等を嚮導すべしと、用意甚だ周至なればその言に従い水島、小出は断髪せるを以てその行を中止し、二十日命を軍事局の属吏鈴木為輔、河村三介に伝え彼間者と同装を為し重臣連署の書翰を携え彼に従って土州藩の本営に至り之を贈らしむ、その文左のごとし。

一書拝呈寒冷ノ節永々御滞陣益御壮剛可被為在欣然ノ至奉存候陳は国情の義に付歎願の筋有之使者差越申度彼是心配仕候得共四方の通路相塞がり殆んど当惑罷在候処幸に昨夕御手小者の由にて当城へ召連候に付一と通相尋御陣へ送申候尤当手の者両人附添差出候間前文の次第御許容被下候はゝ御手より御一人此者一同御遣わし被下度左候はゝ直様使者両人差出可申候間委細の儀は同人共より御聞取何分にも宜敷御取扱被下度奉伏願候謹言
 九月二十日
会津
 倉澤右兵衛
 田中源之進
 井深茂右衛門
 海老名郡治
 山川大蔵
 原田対馬
土佐御藩
 御重役中様


 三人城門を出て土州藩本営に至り鈴木、河村は右の書翰を致す、一士官出でゝ接見していわく、貴藩の降謝は手代木、秋月より上申して已に之を納れたれば更に煩はすを要せずと、これにおいて手代木、秋月は鈴木、河村と共に白旗を携え城に帰りて復命す〔水島純談、太政官日誌〕。

 次に町野主水、樋口源助は十七日の夜微行して西軍の戦線に入りしばしば危険を冒し十八日早天勝常村に至りて機会を待ち、同村肝煎金子勝之助を嚮導とし農夫の装をなし軍陣の間を過ぎ辛うじて小荒井村米澤藩の本営に至り、隊長河村彦左衛門、同佐藤武十郎、藩相芋川大膳に面し使命を致したるが、二十日米澤兵に護衛せられ芋川と共に森台村米澤藩の屯衛に至り、二十一日若松西軍参謀の本営に至る、時に手代木、秋月の歎訴はすでに参謀の受理せる後なりき〔町野主水談、古河末東所聞〕。

 これより先、桃澤彦次郎および米澤藩針生虎之助は一ノ堰において樋口、町野に別れし後なお相伴うて高田に、陣将佐川官兵衛を訪い、針生は佐川に降を勧む、佐川は軍事奉行、幌役等諸将を列坐せしめ針生に問うていわく、奥羽越同盟の趣意は足下の知る所にならんに今降を勧むるは何ぞや、よくよく列藩同盟して戦うゆえんのものは君側の姦を除かんとするにあり、足下西軍の為す所を見よ、民の財貨を奪い、無辜の民を殺し、婦女を姦し、残暴極まれり、これ姦賊にして王師にあらず、ゆえに戦はざるべからず、皇国の臣民たる者誰か、あえて天朝に抗せん、聞くが如くんば仁和寺宮錦旗を進めて塔寺村にありと誠に恐懼に堪えず、願くは余を総督府の軍門に伴はんことを、余は親しく親王に謁し哀訴して朝敵にあらざる事実を明かにすることを得ば、降伏は固より命の尽なり、もし朝敵にあらざるの事実を明かにすることを得ずんば、あえて命に従う納はずと、針生黙して去る、しかれども後佐川は我が公の諭示により帰順の命を奉ずるに至れり〔若松記、浅羽筆記〕。

九月二十一日暁天より城中発砲を止む〔浅羽筆記〕。

 我が公は重臣将校等を召し開城の意を懇諭し、且つ慰撫して謹慎天栽を待つの心事を誤ることなからしめ、また書を以て家臣に諭す。

今度大総督仁和寺宮様自国御征伐として御入込被成候条誠に以て驚愕之至恐入奉存候元来其方共自分噂朝廷へ歎願各藩へ相頼候下た及戦争遂に領民一同塗炭の苦を受け今更奉対朝廷恐懼泣血身を惜に所な苦痛の情実に察入給り度候依て今度城地差上ヶ降伏謝罪閑地に引籠謹慎罷在国民一同の義は免苦難候様奉歎願候間其方共儀も銘々の居所へ速に引移り屹度謹慎罷在可申候万一も末々の者疎暴不心得有之候ては奉対朝廷不相済は勿論自分に対し候ての不忠不過之候此段屹度相心得可申候以上
 九月二十一日
祐堂
 家老始
  諸臣中へ
尚以已後対敵と不相心得官軍王師と相心得誹謗怨望ヶ間数儀決て有之間数候
前条之趣意町在迄漏なく行及候様取計可申候〔松平家譜〕


 諸臣唯嗚咽流涕するのみ、あえて仰ぎ見る者なし、対抗の機すでに去り、衆心単に二公の一身を思うのみ、我が公は桃澤彦次郎、北原半介を使として親書を大内在陣の上田学太輔、諏訪伊助、桑原病院に在る一瀬要人、田島在陣の佐川官兵衛に輿ふ。
 
一書申遣候永々滞陣度々苦戦尽力之程察入候然処此度大総督宮近々領分迄御入込に相成王師官軍にも相違無之誠に候就而は永世朝敵之汚名に沈候而は御先祖に奉対候而も不相済候儀と一決し爰元居合之家老共懇談之上降伏謝罪開城に及候其方共苦戦の此節残残情之儀も可有之一同熟談を遂ヶ及開城度存意に候処何分切迫之場合故当所限りに而治定致候右に付而は書類彦次郎半介へ持せ委細之都合も申含遺候間両人より可承候
 九月二十一日 祐堂
学太輔へ
伊助へ
要人へ
官兵衛へ〔七年史、浅羽忠之助筆記〕


 この日開城の令下るや慷摡悲憤の余自尽して国に殉じたる者三人あり、秋山左衛門、庄田久右衛門、遠山豊三郎これなり〔白虎隊十九士伝、附録老人殉難者〕。

 秋山左衛門は日新館医学所の教授なるが入城して防戦に従事す、一日城中降伏の議起きるを聞き左衛門は之を信ぜずしていわく、古より城下の盟は人の最も恥づる所なれば今日決して斯ることあらざるべしと、しかるにこの日開城の令下りたれば左衛門怒気満面これより一言を発せず、夜に入り庭樹の下において一発の銃声と共に胸を射て自尽す、年五十六。

 庄田久右衛門は朱雀三番士中隊小隊頭庄田又助の養父なり、すでに隠居の身なるも九月十五日城中において防戦の際負傷し、爾来臥床中この日開城の事を聞きて自刃す、年六十四。

 遠山豊三郎は玄武足軽二番隊中隊頭遠山舎人の叔父なり、この日開城の令を聞き辞世の詩を残して自刃す、年五十六。

 九月二十二日巳の刻鈴木為輔、安藤熊之助をして北追手前に白旗を建てしむ〔浅羽忠之助筆記、七年史〕。

 この時、官軍の使番馬を馳せて令を各藩の陣地に伝えて発砲を止めしむ〔浅羽忠之助筆記〕。






卷八会津城下の戦 其三 自八月晦日 至九月二十四日
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  1. 2013/04/13(土) 09:42:11|
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