いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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君臣訣別

君臣訣別

 二公は式了るの後城中に帰り重臣将校を召してその苦戦辛勤をねぎらい訣別の意を表し、しかる後城中の空井および二ノ丸の墓地に至り香花を供して令拝し、諸隊の前に至り一隊毎に辛勤の労を慰して訣別を告げたるに、三軍の将校皆恨を忍び涙を呑み仰ぎ見る者なし〔浅羽忠之助筆記、七年史〕。

 やがて二公は本丸を出て重臣以下大鼓門に送る、それより駕籠にて北追手を出づれば薩土の兵二小隊これを御衛す、佩刀は袋に入れて侍臣これを持ち家臣扈従す〔浅羽忠之助筆記〕、軍曹山縣小太郎は馬を下り進んで二公の駕篭に向かい慇懃に目礼したれば、二公駕篭を下りて之に答礼し、更に山縣に向かって我ら両人病気の為、輿に乗ることを怒せらるべしと挨拶あり、これより山縣は再び馬に騎り二公の先頭に立ち甲賀町通より上一ノ町、博労町、瀧澤町を経て瀧澤村妙国寺に入る、照姫は後れて城を出てまた妙国寺に入る〔浅羽忠之助筆記、内藤藤八筆記〕。

我が公に侍する者左のごとし。
用人 大薮俊蔵
奥番 丸山主水
膳番 加藤内記
膳番 大薮左司馬
膳番 武井小橘
刀番 吉田誠一郎
平番 赤羽鍈太郎
同上 樋口得之進
同上 井上友彦
同上 外島助之進
同上 向山仙吾
 龍造寺帯刀
 吉村重太郎
 長坂源吾

喜徳公に侍する者左のごとし。
家老 梶原平馬
応接方 清水作右衛門
奥番 黒河内総之助
同上 望月辨次郎
膳番 小松喜代之助
同上 篠澤虎之進
平番 丸山幸之助
同上 左竹小太郎
刀番 日向弘之進
同上 左竹直衛
 中山甚之助
 森禎蔵
 野村卯之助
側医 東條元碩
 八島岩之助



照姫に侍する者左のごとし
家老 萱野権兵衛
若年寄 井深茂右衛門
用局 馬場輿次右衛門
同上 服部錠次郎
 三澤助左衛門
側医 馬島瑞園
 高橋房之進
 石岡祖左衛門
 渡部常之助
 井上金吾
徒 島影幸助
同 鈴木陽助
同 林源八郎
同 太田傳蔵
同 東原政右衛門
同 国井熊三郎
同 梅津力四郎
同 池上武次郎
同 清水主計
同 久保田丈八
同 深瀬隼太


 妙国寺は土州、越前の兵警護し、大砲五六門を装置し、砲口を同時に向け夜々篝火を焚けり〔浅羽忠之助筆記〕。

この日総督一瀬要人は桑原村病院に死す。

参謀へ左の書を提出する。

一 人員書
一 他邦応接掛姓名書
一 大小銃挺類書


 但城内に罷在候人別並小銃の分は急速の取調にて万一増減等御座候はゝ猶又御届申上候此段御聞置被下度奉存候

内政に預候人別


萱野権兵衛
梶原平馬
内藤介右衛門
原田対馬
山川大蔵
海老名郡治
井深茂右衛門
田中源之進
倉澤右兵衛
手代木右衛門
小森一貫齋
黒河内傳八
神尾織部
井深守之進
黒河内秀之助
竹村助兵衛
辰野源之丞
野口九郎太夫
桃澤彦次郎
吉川尚喜
騎西信蔵
秋月悌次郎
中林三郎左衛門
春日郡吾
清水作右衛門
小森駿馬
黒河内一八
筒井茂助
水島辨治
小出鐡之助
大江和右衛門
飯田左門
中山甚之助
村岡友之進
服部錠次郎
林房之助
堀悌助
小池帯刀


総人員
一 百六十人(但軍事局) 治官士中
一 六百四十六人 兵卒の外下々迄
一 七百六十四人 兵隊士分
一 千六百九人 同士分以下
一 九捨七人 他邦者
一 四拾二人 士中ノ僕
一 四捨二人 鳶ノ者
一 五百七拾人 婦女子
一 ニ百八十四人 病者
一 五百七拾五人 老幼
一 二拾人 仕立所女中
一 三拾二人 若狭伯母附
一 二拾五人 圓隆院、誠慎民了、奥女中
一 七人 下女共
一 拾五人 器械掛士中
一 六拾八人 役人
 計 四千九百五拾六人


 城中人員右之通に御座候得共城外出張の人数は追而取調可申上候以上〔浅羽忠之助筆記〕。

 会津開城に就き大垣藩奥羽征討資料に左の記事あり。

一、官軍八月二十三日会津城下へ討入り以来三旬此間会津臣民は老幼を問わず生命を賭し只君主の為、互いに奬揚しつ、戦いしも弾丸兵食相殫き、且つ寒気相加わり一層困難人民塗炭の疾苦を憂慮し遂に降参せり戦敗は時運によるのみ今日の場合その進退を官軍に任せて多く士卒を害せず人民を塗炭に苦しめざりしは是大勇の致す処識者は必ず感歎すべし嗚呼人傑多きかな

一、君侯父子および重臣は(上下着用無刀)追手門外に出て別紙歎願書(略す)を軍監中村半次郎へ渡され終りて一旦城に戻り老君侯父子血涙を呑んで臣下と生別し家族と共に輿に乗り十時退城山縣軍曹騎馬にて前駆し薩土の二小隊前後を擁し城外瀧澤村妙国寺に至り謹慎せらる諸藩の官軍途中に之を目送す、嗟々戦国の習とは言いながら皆落涙衣襟を濕さゞるものなし殊に大垣藩に至りては蔓延以来京都にありて互いに忠勤を尽くし特に今春相提携して洛皆に於いて薩長と銃砲を交え今秋は会藩と旧好の情一瞬間に相反目し槍剣を戦はす寔に時勢とは言いながら会藩と共に京都御守衛に相任じ国家の安危を憂へ尊王の志厚かりしに朝議一変して相共に朝敵となり再変して今日の場合に至る同藩の眞情嗟嘆に堪えず又鳥羽戦争に携わりたる大垣藩隊士等非常の感動胸中に湧出し悲喜交々至り戦争の悲哀は今も昔も変りなしとて涕泣禁ぜざるものあり


 九月二十三日巳の刻我が将士皆双刀を佩び三ノ丸埋門を出て本一ノ丁、天寧寺町を経て石引道より瀧澤村を過ぎ猪苗代に至る、米澤藩兵これを御衛す、途上官軍の兵士集まりて罵詈を逞うす、勢家走狗の状憎むべし、猪苗代に至れば彦根、大村二藩の兵これを御衛す〔浅羽忠之助筆記〕。

 この日桃澤彦次郎、北原半介は大内、田島に至り我が公の親書を上田学太輔、諏訪伊助、佐川官兵衛に致す、将士皆慷慨悲泣して兵を収め鹽川に至り謹慎して命を待つ〔浅羽忠之助筆記、七年史〕。

 傷病者は青木村に移らしめ婦人および六十歳以上十四歳以下の男子は任意に各処に移らしむ〔七年史〕。

 川崎尚之助の妻八重子は山本覚馬の妹なり、囲城中に在り髪を断ち男子の軍装を為し、銃を執って城壁また城樓よりしばしば敵を斃せり、覚馬は西洋砲術を以て名あり、八重子は平生これを兄に学びて練修し万一の用意を為せしなり、ある人婦人の戦に参するを諌めたるも八重子聴かず、進撃ある毎に必ず密かに隊後に加われり、この日八重子は城兵と共に城を出でんとするに当り和歌を賦し潜然として涕泣す、人皆同情の感に堪えざりきと云う〔松のこほれは、丸山幸之助、山室重明談〕。

明日の夜はいつこの誰かなかむらん
 なれし大城にのこす月影


 この日見彌山土津神社の神体を猪苗代磐崎神社に奉遷す〔内田藤八筆記、原新太郎談〕。

 九月二十四日巳の刻、軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九来りて城を収む、藩相山川大蔵、軍事奉行小森一貫齋、大目付竹村助兵衛、器械奉行相馬繋、作事奉行在竹四郎太、目付日向新右衛門等これを追手中門に迎い、大書院の床に三幅対の掛物を掛けてこれを延き、銃砲兵器の目録を提出し、その他は城中に蔵むるまま軍監に交付す。

一 大砲(但弾薬付) 五十挺
一 小銃 二千八百四十五挺
一 胴乱 十八箱
一 小銃弾薬 二十三万発
一 槍 一千三百二十筋
一 長刀 八十一振


 山川大蔵、海老名郡治以下猪苗代に至り謹慎して命を待つ。
 我が公官軍の許可を得奥番望月辨次郎、膳番武井小橘を青木村病院に遣わし傷病者を慰問せしむ〔浅羽忠之助筆記〕。






卷八会津城下の戦 其三 自八月晦日 至九月二十四日
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  1. 2013/04/14(日) 08:20:25|
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