いがぐり史料館

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高田の小戦

高田の小戦

 同九日我が軍大川を渡り小野村に至る、食うに米なく栗を炊きて飢餓を医す、大内に西軍の糧食兵器ありと聞き間道より炬火を消し、嶮阻の山路を登る、夜黒うして咫尺を弁ぜず、行軍すこぶる困しみ拂暁大内に至るや、西兵(宇都宮兵)は前夜これを探知し狼狽して遁走し、許多の糧食弾薬砲弾器械等を遺棄す、村民雀躍して東軍を迎え、あるいは喜び極って泣く者あり、西軍糧食弾薬を倉谷村(大内を距る二里余)に遺棄すと聞き、東軍申の刻、大内を発し倉谷村に向かう、途中村民出でゝ迎い炬火を照らし東軍を導く、果たして糧食弾薬後装銃器械等枚挙に暇あらず、皆土州、芸州、宇都宮等の標札を附す、これを面川軍事局に運搬して城中に入れしむ〔若松記、砲兵隊戊辰戦記、小野田隊記事〕、この日赤留村の西兵ニ百人許吶喊して高田を襲う、会々東兵の高田に在る者沼澤出雲隊その他合わせて約六七十人に過ぎず、しかして銃を執る者半に過ぎず、各刀槍を揮って迎え戦う、西兵の近づくにおよび東兵撒兵に展開し銃を発して吶喊す、西兵敗走して赤留村を経て中の山に退き処々に篝火を焚いて守る、東兵追撃して赤留村に至り守を置いて防備を厳にす、この時に当り西兵銀山街道よりする者は軽井沢村を本営とし、長尾新田よりする者は逆瀬川村を本営とし、根岸、中田村、上ノ山、一本松の近傍に守を置き大砲を装置す、勝方村より軽井沢に至るまで皆西軍の占拠する所と為る〔一柳盛之允書出〕。

 九月十日砲兵隊倉谷村を発して田島に至る、これより先、白井傳左衛門なる者南方糧食搬送の任務を以てここに在りしが、西兵の襲撃を避けて黒澤村付近に潜匿し、村民をして西兵に対し会津兵二千余人前方まで押寄せ来る、貴軍の小勢にては恐らくは敵すべからず、急に之を避けられては如何と欺き告げしめたり、西兵これを聞いて驚き恐れ村民を先導として遁逃したるが、村民殊更に路窮る処、あるいは路なき処に誘致したれば、西兵これを信じて深く山中に入り行くには路なく大に困しむ、村民これに乗じて竹槍あるいは鈍刀を揮ってこれを刺殺し、あるいはこれを生擒して我が軍に致し以て大功を奏せり〔若松記〕。

 東軍は小野村、大内村を下り、小川窪より高田、永井野に至るまで兵を部署し、高田の東軍は逆瀬川より寺崎、雀林方面の敵へ備へ、永井野には水戸の朝比奈、筧、我が朱雀二番士中隊等、松岸、仁王方面に備へ皆壘を築きてこれに據れり〔津田範三筆記〕。

 九月十一日、時に城中糧食多からず、使を遣わして佐川陣将に報じ糧道を開かしむ、時に高田を守する者もまた急を告ぐ、ここにおいて佐川兵を分ちて朱雀三番士中隊、進撃の二隊を留めて南方を扼し、朱雀三番寄合組隊をして本道を守らしめ、自ら砲兵隊、別選組隊、朱雀二番士中隊および水戸の兵三百余人を率いて大内を発し日暮れ高田に至る、これより人を西方に出して糧食を集め、敵の囲を破って糧食を納れしむ、時に高田の四面は皆西軍にて固めたり〔続国史略後編、若松記〕。

 同十二日神戸内蔵を兵粮奉行兼郡奉行と為し、篠田数馬を軍事方目付仮役と為し、柳澤良衛を郡奉行と為し、樋口彌兵衛これに属し、城外各村より米豆薪炭等購求徴発の事を掌らしむ、属吏中野輿五郎、栗村又市、福田辰次郎、寶田勇八、秋山房之丞、草刈粂太、好川喜代美、鈴木源次郎、山村藤助、山田林之助等奔走周旋す〔若松記〕。

 また西郷内蔵之進、一柳盛之允をして各村より糧米を徴発または購入せしむ、高田方面東軍日に加わりたれば、之に糧食提供必要あるを以て宮袋、本多十二所、本多新田、館内、宮ノ下、上海津その他大川近傍の肝煎をして米豆を徴発せしめたるが、四面皆敵にして城中に入るゝこと能はず、夜間密かにこれを袋村に集む、属吏渡部栄八、大山岩吉、戸田忠吉等奔走斡旋す、高田村肝煎須藤和右衛門、佐藤清左衛門、浅野圓之助等多数の村民を発して南方の糧食運搬に力を尽くし、また社倉米を城中に納る、各代官所の所在地は皆西兵の據る所と為りしが、独り高田は敵手に落ちざりしに由り必要の諸品を集めて城中に納るゝこと終始一日のごとくなりき、高田代官所帳付津田新三郎は糧食の運搬に努力して功あり、後開城の日和右衛門、圓之助は各金拾両、清左衛門は金参両を城中に献ぜり〔若松記〕。
 
 九月十三日、吉村津右衛門、栗村又市が兵二十人、林信太郎が兵十人巡邏して宮下村に至る、西兵小祖山、宮下、安田の三所に屯す、東兵これを攻撃して破り、北ぐるを追うて四人を斃し一人を傷く、栗村兵、騎兵の西兵(新発田兵)、を斃し双刀陣笠戎衣等を鹵獲す〔一柳盛之允書出〕。

 西兵八木澤方面を襲いたる時、境野村を守れる武井柯亭撃ってこれを退く、この時沖津庄之助中田村に在り、西兵の生擒する所と為りしが、西兵これを棄てゝ敗走したるを以て庄之助は免るゝことを得たり〔一柳盛之允書出〕。

 同十四日、佐川官兵衛北方面に在りし陣将萱野権兵衛、上田学太輔、諏訪伊助、一瀬要人、若年寄飯田兵左衛門等兵を収めて上荒井村に至るを聞き、浅羽忠之助をして諸隊に面し相会して謀議の要あれば一人来談あらんことを乞はしむ、忠之助馬を馳せて上荒井村に至れば、幌役横山錈三郎これに面していわく、米澤同盟に反き西軍に属し来りて我を攻撃すと、忠之助大に驚き使命を萱野権兵衛に致し高田に帰りて復命し、且つ米澤の事情を報ず、陣将はついに一人も来らざりき〔浅羽忠之助筆記〕。

 九月十六日、早天西兵天狗宮の地形によりて兵を部署し永井野村の東兵を攻撃せんとす、時に水戸の将朝比奈弥太郎は兵を南方の山腰に配置し、同藩筧助太夫および我が長谷川勝太郎は東方高橋川に沿うて西向して陣し、砲兵隊は高橋川を隔て尾俣窪の山上に陣す、すでにして開戦し東兵は西兵の前面を突撃し、すなわち左右翼を張りて攻撃し、西兵敗走の色あり、東兵西軍先登の勇士二人を斬りてその首級を獲、また壮士一人を生擒す、鳴美祐太郎と称し年二十四なり、彼いわく、京都より有栖川宮に随い来り後高崎の兵と共にこの地に来ると、所謂御新兵と称するものなり、越えて九月十八日東軍高田を退く時これを斬る〔津田範三筆記〕、天狗岩の西兵松岸、仁王を経て上甲村に敗走す、東兵守を仁王村に置き永井野に屯営す、上甲村の西兵は水戸の彪党および高橋の兵なり、山頭に篝火を焚きて守る〔津田範三郎〕。

 同十七日、永井野村を守れる朱雀二番士中隊中隊頭長谷川勝太郎未だ兵の交替せざるに隊兵を率いて陣地を退きたるが、水戸の兵(寅党)大に怒り痛論して止まず、幌役津田範三弁解して事纔に息む〔津田範三筆記〕、陣将上田学太輔、諏訪伊助一ノ堰村を退き高田に至る〔小川直余之戦争日記〕。

 西兵大挙して高田を攻撃せんとするや、佐川接戦の利あらざるを知り浅羽忠之助をして退却の令を伝へしむ、忠之助馬を馳せて永井野村に至り令を水戸の兵に伝う、途上東北を望めば火光天に張る、面川村兵燹に罹るなり、この夜忠之助再び馬を班へして境野村に至り令を武井柯亭に伝ふ〔浅羽忠之助筆記〕。






卷九 南方の戦
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  1. 2013/04/16(火) 09:29:06|
  2. 会津戊辰戦争史2
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