いがぐり史料館

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高田破る

高田破る

 九月十八日辰の刻、西軍尾岐村、赤留村、坂下村の三方より大兵を進めて高田を襲う、大川近傍よりもまた砲撃してこれを援く、前藩相北原釆女、陣将佐川官兵衛、上田学太輔、諏訪伊助等、伊佐須美神社の境内に入り東兵多く退却す、すでにして西兵迫り来り弾丸社前に落下す、境内に在りし兵こくごとく大川を渡り東に向って退却す、西兵大砲発して追撃す、この日朱雀二番士中隊中隊頭長谷川勝太郎負傷し後死し、その他死傷多し〔浅羽忠之助筆記、会津史〕。

 北原釆女は福永に退き〔小川直余之戦争史〕、佐川、上田、諏訪諸陣将は諸隊と共に間道より市野村に至りしが、退却せる東軍群集雑踏甚だし、砲兵隊、寄合組滞を陞せて皆二ノ寄合と為す、同隊市野峠を発し大内村に陣し、二番分隊は市野峠を守る、夜半三番分隊と交替す、この夜寒威凛烈北風肌を劈き終宵眠を成さず〔砲兵隊戊辰戦記〕、兵士皆夏李の戎装を著けて寒冷の候に遭いたる事なれば、その艱難筆舌の尽くす所にあらず、加ふるに鞋襪皆破れ全隊徒跣して戦うに至れり〔浅羽忠之助筆記、会津史〕。

 同十九日、大内村に在りし東兵を二分し、一は留まりて大内村を守り、一は進んで田島に向かう、砲兵隊は酉の刻頃出発して半夜田島に至る〔砲兵隊戊辰戦記〕。

 九月二十二日夜砲兵隊伊南、伊北に進軍の令あり、鈴木多門、田中左内の後を襲ぎ砲兵隊々頭と為り暁天出発す〔砲兵隊戊辰戦記〕、間謀報じていわく、敵大蘆村、両原村、喰丸村に集合し大蘆村を本営と為すと、これにおいて進撃の令朱雀三番士中隊進撃隊に下る〔若松記〕。

 同二十三日砲兵隊針生峠を越えたる頃先鋒戦起こり砲声山岳に震ふ、河原田治部先鋒たり、山を下る頃河原原田隊弾薬尽きて退却す、これにおいて砲兵隊の弾薬を提供して軍を反さしめ共に進撃して入小屋に至れば、西兵自ら屯営を焚きて遁逃す、我が軍追跡して山口に至る、西兵すでに退却す、たまたま別選組隊、立岩の西兵前岸を敗走するを見てこれを追撃す、砲兵隊は本道の西兵を追撃して宮床に至れば日すでに暮る、すなわち此に次す〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

 朱雀三番士中隊、進撃隊、田島を発し浅布に次す、明日早天を以て進撃の期と為す〔若松記〕、津田範三を軍監と為し、朱雀三番士中隊に属せしむ〔津田範三筆記〕。

 小野田雄之助、鈴木一郎右衛門、津田範三浅布村に至り武井枸亭と会し大蘆襲撃の部署を定む〔津田範三筆記〕。

 これにより先、田島にて捕えたる大蘆村の農夫に地形敵状を問うに西軍の大蘆に在るは加州、高崎の兵六百余人胸壁を両原、喰丸の二村に築き守を置き防備を厳にすと云う、しからば則ち大蘆の方面は船ヶ鼻の險を越え山地を跋渉し早天に襲撃せば如何と問へば、農夫いわく、その地険阻にして樹木密生して行くべからずと、津田範三云う、山地連亘せば縦令険なりとも何ぞ行くべからざらんと、すなわち農夫二人を嚮導と為し、子の刻、朱雀三番士中隊、進撃隊、朱雀三番寄合組隊、浅布村を発し兵を分つて両道より進む、朱雀三番寄合組隊は黒澤通よりし、朱雀三番士中隊、進撃の両隊は浅布よりす、朱雀三番士中隊士名越治左衛門、安恵又三郎をして偵察せしめ、隊伍を整い浅布峠の険を越えて行くこと二里余にして両原、喰丸と大蘆との岐路あり、この要地に大砲を装置し、第二陣幌役原直鐡、農兵指図役頭取一瀬一馬をして農兵を率いて西兵を抑制せしめ、且つ、その砲声に応じて舟ヶ鼻の険路を越えて、まさに大蘆村の背後を衝かんとす〔朱雀三番士中隊書出、津田範三筆記〕。

 朱雀三番士中隊、進撃の両隊は兵を按して日の暮るゝを待ち、夜に入り月黒く満点墨のごときに乗じ、船ヶ鼻峠に至り広原の村落を経て両原、喰丸と大蘆との岐路より左方の険阻を攀ぢ、密林の間を行くこと四十余町にして翌朝大蘆村を瞮望す〔津田範三筆記〕。






卷九 南方の戦
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  1. 2013/04/16(火) 10:33:13|
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