いがぐり史料館

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大蘆村の戦

大蘆村の戦

 九月二十四日、朝霧冥濛として人家を見ざるも山上は晴天にして日ようやく昇る、両原、喰丸の方面砲声未だ起こざれども兵機失うべからず、小野田雄之助隊士二十五人を率いて左側の山腰を巡りて大蘆村の敵営襲う、武井柯亭もまた三澤輿八を先頭とし隊兵五十余人を率いて右側よりす、兵皆銃を発するに暇なく刀を揮って敵営に突入し立ちどころに二十余人を斬る、朱雀三番士中隊は熊野の社地に據りて射撃し下りて敵営を衝く、西兵眠り未だ覚めず、狼狽して潰乱し、中津川方面に遁逃す、首を獲ること七級生擒一人弾薬糧餉小銃器械等を鹵獲す、会々朱雀三番寄合組隊半隊頭丸山友吉先鋒と為り、黒澤方面より来り援け東軍大捷を得たり、しかれども両原、喰丸に備へたる第二陣の将士機を失いて発せず、ついに退却せしば西兵(高橋、加州)、中津川より来り敗兵を援けて返戦し、衆盛にして弾丸雨注す、柯亭、雄之助衆を督して戦う、たまたま柯亭敵弾に左脚を射られて指揮すること能はず、板扉の上に横臥し之を舁かしめて退却し、途上一詩を賦していわく、

豈耐西軍毒我民、半宵衝枚度憐峋、羸将摂計君休笑、元是吟嘯月人、

 朱雀三番士中隊士角田五三郎も重傷を負いたるも戦急にして扶くること能はず、岩田秀三郎これを介錯して首級を携えて退き浅布村に埋む〔若松記、朱雀三番士中隊書出〕。

 東軍追分(大蘆を距る一里余)、を扼する為、役夫を募り山上に登り声援せしめんとし、幌役原直鐡これを監す、募に応ずる者四十人に満たず、農兵は遁走して留まる者わずかに数人、追分に至れば一人も留まらず、これにおいて付属兵を左右の山上に登らしめ、大砲を装置して西兵の援路を絶ち、火を木地小屋に放ち篝火を船ヶ鼻峠に焚きて疑兵と為し、除々に退却し亥の刻頃浅布に至り、村酒を全軍に給し戦闘の労を慰む〔朱雀三番士中隊書出〕。

 属事掛鋤柄伴之進、服部藤九郎この日追分に至り西兵の遺棄したる小銃弾薬器械若干を鹵獲し浅布に搬送せしむ、納富六郎、近藤務右衛門役夫を督して糧食を提供す〔朱雀三番士中隊書出〕。

 この日我が公は桃澤彦次郎、北原半介をして親書を大内、田島在陣の陣将上田学太輔、諏訪伊助、佐川官兵衛に致さしめ、開城の事を告ぐ、聞く者皆涙を灑ぐ〔若松記、七年史〕。

 砲兵隊宮床を発し簗鳥村に至る、西兵前方小林村に在りと聞き、二番分隊は山を越えて西兵の背後に出て、一番三番分隊は本道より進む、西兵壘を棄てゝ遁る、追撃して瀧澤村に至る、西兵伏兵を設けて我を待つ、東軍これを知らず走るを追うて村内に入りしが、伏兵四方に起こり東兵苦戦ついに退却して簗取村に次す、隊士小眞喜西兵を銃撃して首級を獲たり〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

 九月二十五日朱雀三番士中隊、進撃隊午の下刻頃浅布を発し高野に退陣す、この日開城の命に接し衆皆愕然たり〔若松記〕。

 砲兵隊は早朝簗取村を発し瀧澤村に至る、西兵すでに退く、この夜壘を不瀧村に築きて守る〔砲兵隊戊辰戦記〕。

 開城に依り肥前の参謀夏秋三兵衛、大内に来り、まさに田島に入らんとす、佐川官兵衛は浅羽忠之助をして大内に赴き夏秋参謀に面し針生、大蘆の西兵をして休戦せしめんことを請い、且つ田島に来るに際しては兵を率うる事なからんことを請はしむ、けだし兵士の衝突を生ぜんことを慮りてなり、忠之助馬を馳せて行き未だ大内に至らざるに夏秋参謀、我が軍事官香坂右内を嚮導として来るに逢い、使命を致し直ちに馬を返して復命す、夏秋参謀田島に来り佐川を召す、佐川病あり、軍事奉行相馬直登、同添役浅羽忠之助をして代わり言はしめていわく、寡君方向を誤り今日の形勢に至りしは、職として微臣等頑愚固陋にして補佐の道を失いたるに由る、実に恐懼に堪えず、よって微臣等を厳刑に処し老寡君と寡君とを寬典に処せられんことを請うと〔若松記、浅羽忠之助筆記〕。






卷九 南方の戦
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  1. 2013/04/17(水) 10:46:27|
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