いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十三  わが公と近衛前殿下に賜わった御宸翰     『京都守護職始末1』

 東下の勅は偽勅     これよりさきに、主上から伝奏衆に勅書を賜わった。
 その大意は、元来容保を東下せしめることは、もともと朕の望むところではないが、いかにせん、朕はこれを支えることができない、やむなく東下の命を下したけれども、これは朕の真意でないことであり、容保がもし辞退するならば、朕がもっとも悦ぶ事なのであるから、再命しないことをあらかじめ汝らに知らせておく、今後、もし再命の勅の出ることがあっても、これは朕の真意ではないことであるから、汝ら、この書面の写しをつくって容保に示し、朕の真意を知らせるように、ということであった。
 伝奏衆は恐懼なすところをしらぬありさまであったが、今になって、わが公東下の命を偽勅だとすれば、これまでの勅が、あるいは皆偽勅だったかもしれないということになり、たちまち衆心の疑惑をひきおこし、はては天下の離乱を生ずることとなるかもしれないとして、書を奉って、真勅をわが公に伝達する事を宥恕されたい旨を請うた。おそれ多いことである。
 主上もいまは詮方なくおぼしめし、二十九日、近衛前殿下の手で、ひそかにわが公に左の宸翰を賜うにいたった。

今日その方を召しおき候は、関東の事情の検知、並びに大樹の所置の感咎との両端にてその方を使とし、下向しつくる由にて候。もっとも攘夷の次第の尋問はさもあるべき儀には候えども、このごろ、守護職のその方を使として下向の儀は、朕においては、好まず候えども、当時の役人並びに堂上の風として、申し条を言い張り候次第、とても愚昧の朕、申し出で候ともせんなき事ゆえ、各々の申す通りに相成る次第に候間、ただ今もかくのごとく厳重の沙汰のようながら、実勅にてはこれなく候間、さよう承知し、その方の領掌の可否は、存分に任せて返答すべく、決して下向(げこう)を強いて申しわたす所存にはこれなく候事。
ただし、かようの儀を申し候と存じ知り候わば、各々はまた蜂起し候わん間、中庸の商量、嘉祥たるべく候事。
 六月秘々


 前殿下にもまた、同時に左の宸翰を賜うた。

イマ会津ヲ東下セシムル者ハ、過グル日申セシ如ク、勇威ノ藩ナルニ因ッテ、ココニ居レバ奸人ノ計策行ナワレ難キガ故ニ、コレヲ他ニ移シ、事ニ托シテ守護職ヲ免ゼントスルナリ。関白モマタ、コレヲ疑エリ。コレ則チ、朕ガ尤モ会津ヲ頼ミトシ、遣ワスヲ欲セザルトコロニシテ、事アルニ臨ミテ、ソノ力ヲ得ントスルナリ。今偽勅甚ダ行ナワルルガ故ニ、コノ後何等ノ暴勅ノ下ルモ測リガタシ。真偽ノ間、会津ヨク察識スルヲ要ス。

 



 天恩の優渥に感泣     そもそもわが公は、入京のはじめから、至誠をつくして公武の一和に心力を労し、汲々として勅旨の遵奉にはげんできたけれども、もともと先例のない役であり、また君臣ともに野朴の武人であって、縉紳家の都ぶりを心得ず、いわば暗中的(まと)をねらうようであるうえに、四辺は反対の徒にかこまれ、ややもすれば陥(おとしい)れられる。公武一和論の諸侯は相前後をして京師から去り、顧みると身一つがいつ天譴にふれるかとおそろしく、瑞々(ずいずい)としてあたかも薄氷を踏むおもいでいたところへ、再応の宸翰をいただいたので、天恩の優渥なことに感泣し、同時に、聖明が常に姦人のために蒙蔽され、かしこくも御憂悶の日々をすごさせ給うのを知って憤慨にたえず、ただただ、いよいよ死を誓って、万一の時に報じ奉ろうと心に期するのみであった。
 叡慮がかくのごとくであるので、わが公の上奏は採納されたが、しかし、わが公に代わって東下する人撰が問題となった。
 わが公に代わって東下すべきは所司代であるが、ちょうど牧野忠恭朝臣が所司代の職を辞し、その後任者の任命がきまっていなかった。町奉行永井尚志(主人正)は、姉小路公知朝臣暗殺の疑惑で召し取った田中雄平の自殺の責任で屏居していたし、同役の滝川具挙(播磨守)は任を離れることができない。そこで、禁裡付武家小栗正寧(始め長門守、後に下総守)に勅をもたらせ、東下させることとなり、家臣の小室当節を随伴させることとした。

 



 真木和泉     それと言うのも、そのころ三条実美卿の威権が満朝を圧し、卿のもっとも信頼しているのが真木和泉【注一】であって、わが公の東下の策を建てたり、将軍家を譴責する勅書をつくって卿にすすめたのも、みな和泉から出たことである。
 その後、実美卿が京師を脱走したとき【注二】、狼狽のあまり一つの文函を忘れていった。それをひらいたところ、なかに和泉の書いた建策のおぼえ書の小冊子があって、他見を禁ずと表に記してあった。かの勅書を首(はじめ)に載(の)せ、ふかいおぼしめし云々の語で、幕府を威(おど)す題目とするなどと注がしてあった。これによって、勅書の出所もわかるというものである。宸翰に、真勅ではないとあったのも、このことを差したのである。





 牧野鋼太郎上京     小栗下総守が東下したのとゆきちがいに、七月十二日、江戸からの使番、牧野鋼太郎が上京し、わが公に老中からの内状と将軍家の上書、慶篤卿、慶喜卿、両殿下に宛てた書状などを示した。その書状に、

攘夷の一条は、御東下の後、早々に御取りかかりに相なるべきところ、当時の人心にてはとてもできがたく、水戸殿、一橋殿へも御相談これあり候ところ、急速の攘夷はとてもむずかしく、万国の形勢をとくと御熟慮これあり、両公より上へ御建白これあり。右については、別紙の通り、上より関白殿へ御さし出しに相成り申し候。ついては、貴所様にも御注意柄をとくと御了解のうえ、方今の時勢じつに皇国の御一大事ゆえ、とくと御熟慮、一方ならぬ御周旋をなにとぞ御成相成り候よう祈願し奉り候。(前後略、六月二十九日付、老中連名)

 将軍家より上奏の大意

今度、攘夷の儀、水戸中納言、一橋中納言と申し談じ、叡慮を貫徹仕り候よう仰せつけられ、謹承仕り候。しかるに、右両家申し談じ候ところ、方今、海外万国の形勢、皇国の人心の折り合い等、熟視詳察仕り候えば、当今の場合、攘夷の儀、軽挙妄動にては必勝の成算これなきのみならず、かえって夷狄の術中に陥り、皇国の御恥辱と相成り候ては、なんとも恐れ入り奉り候間、内治を相整え、人心一致仕り候機に臨み、闔国の力をもって掃攘仕り、叡慮を徹底相成り候よう仕るべく存じ奉り候。ついては、攘夷の期限の儀は、一切御委任下しおかれ候よう願い奉り候。これによって水戸、一橋両家よりさし出し候書面を相添え、叡覧に入れ奉り候。恐惶謹言。(六月二十九日)

 この上奏は、まことに至当なことであったが、当時攘夷で勃々たる朝議に反抗し、局面を一変させる意見であるから、後見職か老中でも上京したうえで、これを奉ると同時に、規画の順序や方策の次第等を巨細に上陳するのが至当である。すでに前日、攘夷の督促の勅命が下りたばかりであるのに、これと引きちがいに、このような上奏をすれば、過激の堂上がたちまち猛(たけ)り立って違勅よばわりし、どのような変が起らないともわからない。しかるに幕府の有司らは、京師の事情にうとく、ただ昔の慣例に従って、文章一つで事がすむと思っている。迂闊もまたはなはだしい。

 



 上書執奏せず     そこで、わが公のはからいで、将軍家からの上書を執奏しないことにして、この旨を鋼太郎に言いふくめ、ただちに東帰させ、また老中に書を贈って、事の次第を弁明した。
     
このたび御直書さしあげられ、御使者牧野鋼太郎が持参いたし、拙者、関白殿下へ、右御使を相勤め候よう仰せ下され、はたまた、御直書の写しを拝見仰せつけられ、したがって周旋いたし候よう仰せ下され候趣、謹んで承知仕り候。すぐさま殿下へ罷りいでて周旋仕るべきはずに候えども、いずれにも重大の事柄ゆえ、とくと勘考仕り候ところ、攘夷の儀は叡慮、終始易(かわ)らせられず、ふかくおぼしめし込ませられ、すでに昨年、勅書を御受けあそばされ、そのうえ、上様親しく叡慮をも御伺い、御決心あそばされ候はもちろん、その最初、水戸中納言殿、一橋中納言殿、いずれも叡慮を御遵奉なされ候儀、じつに至々極々の重大の事件に御座候ところ、御直書の通り、方今の時勢、人情やむをえざるの儀には御座候わんなれども、叡慮は終始易らせられざる御儀に候えば、右の時勢、人情、やむをえさせられざるの件々を、何ゆえ、方今万国の形勢、皇国のおり合いかた掃攘相成らざるか、何ゆえ、夷狄の術中に陥り、何ゆえ、皇国の恥辱と相成ると申すかの儀、はたまた、しからば、いかが致し候て、この末内治相整い、人心一致に赴き、いかが致し候て闔国の力をもって掃攘いたすべきなど申す成算の大略、かくのごとくに御座候間、期限一切は御委任下されたき旨、一一演説、御嘆願なされ、ついては御たずねに相成り候かどは、随って御弁折なされ候わば、自然に叡慮御感動の道もこれあるべきや。先(せん)だって小栗下総守をつかわされ候儀も、右等視察いたすべしとの御旨意に御座候。されば、いずれ事柄を着実に御取扱いなされ候御方にこれなくては、御誠意を貫徹仕りかね候間、上様へ仰せ上げられ、一橋中納言を御名代として至急に御上京、右へ各様の内事情貫通の御方が御付添い、御登京御座候うえにて仰せ上げられ候て、当然の御儀と存じ奉り候。
拙者一通り御使者相勤め候は、容易なる儀に御座候えども、当表(おもて)の模様、只今は御書さし出し候節にはこれなく、たとえ拙者が演説仕り候とも、御地の御様子、御書面外の儀は、想像いたし候のみに候えば、なにか口実のようにも相響き、かえって御不都合も計りがたく、その間の深意、筆紙につくしがたき事どもに御座候。
もっとも、朝廷御尊崇の儀に於ては重大の事柄、ここもとよりの勅使は三条中納言、姉小路小将(前年攘夷督促の勅使)へ仰せつけられ候ところ、この度、御使番をさしのぼされ候も、あまりに不次の御儀にて、旁々(かたがた)事実御不都合を生じ候てはいかがかと存じ奉り候につき、御直書は至重の儀に御座候えども、上様の御為筋を存じ奉り候上より、恐れながら拙者一まず御預り罷りあり候間、早々の御登京をひとえに待ち奉り候。
右は畢竟、事柄を重んじ、事実成就を期し、忌憚をかえりみず申し上げ奉り候(七月十五日)


 



 京師の事情を陳上     なお、家臣野村直臣を随伴させて、くわしく京師の事情を陳上させ、さきにわが公にかわって東下した小栗下総守に、左の書を送ってその斡旋方(あっせんかた)をたのんだ。

一筆申し進め候。残暑の節、長途の御旅行いよいよお障りもこれなく候や。御苦労千万、御察し申し候。
しらからばこの度、牧野鋼太郎を御使としてさし登せ候について、閣老よりその表の事情も申しつかわされ候儀もこれあり候えども、なにぶん貫通いたしがたき次第にて、御所へ申し上げ候程の儀には相成らず候間、なおまた、同人へ御用仰せつけられ、ただちに引き返し、家来も相添えさしくだし候につき、なおもっていよいよ御留府、事情を熟察いたされ、右同人等下着次第、一同にて尽力いたされたく候。もっとも、それ以前に御自分御出でたち、御上京などこれあり候ては、御所向御不都合の次第もこれあり候間、万一御出でたち候わば、途中よりにても引き戻られ候よういたしたく存じ候。事情の儀は、後より牧野下向、並びに家臣へも申し聞かせ、委細を申しふくめ候。
右、申し進めたく、わざと飛脚をさしむけ、かくのごとくに候。以上。(七月十三日)


一簡申し進め候。残暑の折、御東下ことに重大の御用向仰せを蒙られ、日夜御配慮の儀、察し入り候。
されば、前便申し述べ候牧野鋼太郎をさし登せられ候について、閣老中より申し越し候儀これあり、なお返書、別紙の通り申しつかわし候ところ、叡慮御挽回の儀は、じつに重大の御事柄にて、御自分には当表(おもて)の都合、委細御承知の通り、なかなかもって容易に相届き申すべくとも存ぜられず候。かつ御使者柄にて、天朝御尊崇の筋へ相響き、ますますもって上様のおぼしめし相届き申すまじきやと、ふかく心配いたし候間、中納言殿へ、老中差添え、登京いたされ候よう申し進め候儀に候。
この趣意を、貴所とくと御領承、国家のために幾重にも御尽力、諸役人までも御説得これあり候よう、ひとえに御頼み申し候。右、申し進めたくかくのごとくに御座候。早々頓首。
なおもって、時下、折角御自愛候ようにと存じ候。家臣野村左兵衛へ申しふくめ候儀もこれあり候間、同人よりとくと御聞き取り下さるべく候。以上。(日付不詳、ただし
 七月十三日後)


 



 所司代を更迭     この月(六月)、京都所司代牧野忠恭朝臣が、病気の理由で辞職を願い出たので、幕府では稲葉長門守正邦朝臣をその代わりとした。越えて七月二十一日、左の命が正邦朝臣に下った。わが公が去る六月の稟請を実行したものである。

以来、肥後守の指図(さしず)をえて相勤め候よう到さるべく候。非常の節、京都守護職の儀は、松平肥後守に御委任なされ候間、御警衛筋等の儀は、すべて肥後守の指図をえて相勤め候よう。大阪御城代、並びに右に付属いたし候役々の外、京地御固めの近国の諸大名、伏見、奈良の奉行をはじめ、その他の役々へ相達せらるべく候。





 激派堂上の焦り     ときに朝廷においては、長門藩が外船を砲撃したことから、有為の諸藩が必ずそれに傚(なら)うものと期待していたのに、闃(げき)としてなんの報告も来ないので、過激の堂上は大いにいらだち、ただちに諸藩にむけて左のような勅令を下した。

海岸防禦の儀、度々御沙汰のところ、往々不備の聞えこれあり候につき、今度、紀州の加田浦、播州の明石浦へ、監察使【注三】を立てられ候。これまで傍観、畏縮の藩もこれあるとの趣に候。爾後右ようの輩これあり候えば、きっと御沙汰、官位を召し上げられ候。列藩においてもその心得にこれあるべく、御沙汰候事。

 七月

別紙の趣、心得のため、幕府へ御通達これあるべく候。かつ、親藩御一列中へも、早々御伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。(七月二十三日、わが公宛、野宮定功、飛鳥井雅典、両伝奏署名)


 そこで、ただちに朝廷から外様諸侯にこれを令し、親藩、譜代諸侯へは、幕府から伝達することになった。このわけへだての処置も、それによって漸次に公武の疎隔をなさしめようとはかった、過激堂上の謀略であった。
 わが公がこのことを幕府に報告すると、幕府でも、ふたたび長門藩のような暴挙があって、国家に累を及ぼすことがあってはと慮って、左の令を頒布した。

海陸御警衛の儀については、この程相達しおき候儀もこれあり。ことにこの度、京師より仰せ出され候趣もこれあり。万一非常の節に、傍観、畏縮の輩は、官位を召し上げられ候趣も仰せ出され候間、なおこのうえも、海陸の警衛を充実いたされ、隣国応援などかねて手はずの行届き候よういたさるべく候。もっとも兵事はかれこれの曲直を相正し候儀につき、無謀妄動等はもちろん、進退攻守とも指揮を相守り申すべき事。

 



 四侯朝議に列す     すでに朝廷は、因幡(池田慶徳朝臣)、備前(池田茂政朝臣)、阿波(蜂須賀茂韶朝臣、阿波の世子)、土佐(山内豊範朝臣)、米沢(上杉斉憲朝臣)、福山(阿部正方)の藩主らを召して、幕府は攘夷を拝命していながら因循で今に至ってなお実行せず、長門藩がすでに先端を切ったのに、諸藩のあとにつづくものがない、よって、御親征あって、親しく大令を発せられようとしている、よろしくその方略を議して奏聞せよ、とあった。
 因幡侯らは、それに答えて、諸公卿はまだ軍装に馴れない様子、兵備もまだ整っていないようであるがどうかと問いただしたので、さすがの諸公卿も、返す言葉に窮した。
 因幡侯らはまた、守護職として会津侯があり、他の諸藩の兵も在京するものが多いから、よろしくその兵士の操練をさせ、親しくこれを観覧して、砲声に馴れ、兵装をつまびらかにし、その後で、御親征の可否を議論されたらよろしかろうと述べた。
 公卿らもこれに賛成し、ときおり因幡、備前、阿波、米沢の四侯を召されて、朝議に参列させ、勅令もおおむね四侯の手を経て出ることになったが、密議となると、決して参与することができなかった。
特に、いまこの御親征のような重大の件を議するに当っては、守護職すらも召さない。思うにその事情は、前日わが公に賜うた宸翰の旨に照らしてみれば、御親征がはたして叡慮に出たものか否かは、弁を費やすに及ばない。

 



 【注】

【一 真木和泉】 名は保臣。久留米水天宮神官の家に生まれ、尊攘運動に参加、倒幕と王政復古の主張を早くから明らかにしている。文久二年有馬親七ら薩州藩志士と挙兵を計画、寺田屋の変で失敗したが、同三年再び上京し、長州藩尊攘派と結んで、指導的地位を占めた。大和行幸は彼の主として計画したことであった。八月十八の政変後、元治元年(一八六四)長州藩が京都に出兵すると(禁門の変)、これに加わって天王山で自刃した。

【三 実美卿が京師を脱走したとき】 文久三年八月十八日の政変で、尊攘派の勢力が宮中から退けられ、三条実美ら尊攘派公卿七人が京都から脱走、長州に走った。いわゆる「七卿落ち」の時のことで、本書第二十八章で後述される。

【三 監察使】 文久三年七月十一日、国事寄人東園基敬は紀州藩に、同四条隆謌は明石藩におもむき、攘夷監察の任にあたることを命ぜられた。

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  1. 2012/11/04(日) 11:18:21|
  2. 京都守護職始末1
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