いがぐり史料館

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萱野国老の殉国

萱野国老の殉国

 五月十八日朝廷保科正益主に命じて、我が藩の首謀藩相萱野権兵衛を斬に処せしむ、実は保科家において自刃の方式により武士の対面を全うせしめたるなり、その顛末左のごとし。

 これより先、この月十四日軍務官より保科家に左の命あり。

 保科弾正忠へ
作臘依御沙汰取調差出候松平容保家来叛逆首謀萱野権兵衛今般刎首被付候条於其方致処置可言上候事
 但叛逆首謀之内田中土佐神保内蔵助既に落命に付不能其儀候へ共存命候はゝ刎首可被仰付事
 五月 軍務官


 これにおいて翌十五日梶原平馬は、故神保内蔵助二男北原半介と共に、喜徳公および権兵衛の幽錮せらるゝ芝赤羽橋畔の有馬家に赴き、喜徳公に謁し、その令書寫覧したるに、公は大にこれを憫惜し直ちに権兵衛をその座に召して之を告げ、且ついわく、汝は我ら父子に代わって国に殉ずる者なりと、予め準備せる白衣および襯衣を取り出し、公一旦着用し更に脱して之を権兵衛に賜い、また遺族に手当として金五十両を賜う、権兵衛は既に死を決したることなれば、今公より斬首に処するの朝命を伝へらるゝも少しも驚惶の態なく泰然自若たり、唯公に向ってその厚遇を謝するのみ、公はまた半介を召して懇諭し且ついわく、汝権兵衛の男初之助に代わりて能く事を処すべしと、土佐、内蔵助の遺族に手当として金五十両を賜う、半介厚謝して辞し去る(松平家よりの待遇は田中、神保、萱野三家は同等なりき、只田中、神保は既に死せるにより親書を賜はらざるのみなりき。)

 五月十六日山川大蔵は故田中土佐の長子小三郎、二子機八郎と共に有馬家に赴き喜徳公に謁す、その待遇および二子の厚謝総て前日のごとし。
 同十八日六ッ半時刻に有馬家より保科家に権兵衛を交付あるべきを以て、保科家の隊長中村精十郎は一小隊の兵を率いて有馬家に赴きたるの報あり、これにおいて梶原平馬、山川大蔵は朝五ッ時刻にその寓居を出て広尾の保科家別挺の茶亭に赴きたるが、権兵衛の輿未だ到らず、上田八郎右衛門、権兵衛親戚北原半介等五六人来り会す、尋いで飯野藩中老大出十郎右衛門、大目付玉置予兵衛来りたれば、平馬、大蔵は両士に面し前年国難以来飯野藩の我に対する厚意および今回権兵衛の事に関し特別の厚意に対し慇懃に謝辞を述ぶ、既にして大出、玉置座を退くや会々権兵衛の乗れる輿は茶亭の檐端に着し、権兵衛は輿を下りて直ちに隣室に入る、保科の家臣は平馬、大蔵に謂っていわく、公等面談終わるを待ち大出等萱野氏に対面せん、その時大出は藩主弾正忠名代として朝旨を伝達すべきを以て予め公等よりこの事を萱野氏に伝へられよと、両士これを頷し隣室に入り権兵衛に面してこの事を告げ、しかして我が公より権兵衛に賜はりし親書および照姫君の手書を交付す。

今般御沙汰之趣窃に致承知恐入候次第に候右は全く我ら不行届より斯に相致候儀に候処立場柄父子始一藩に代わり呉候段に立至り不堪痛哭候扨々不便之至候面会も相成候身分に候はゝ是非逢度候へ共其儀も及兼遺憾此事に候其方忠実之段厚心得候事に候間後々の儀等は毛頭不心置此上為国家潔く遂最期呉候様頼入候也
 五月十六日 祐堂(忠誠公致仕後の雅号なり)
 萱野権兵衛へ


扨此度之儀誠に恐入候次第全く御二方様御身代りと存自分に於いても何共申候様無之気の毒舌言語惜候事に存候右見舞の為進候
 五月十六日 照
 権兵衛殿へ


夢うつゝ思いも分す惜むそよ
 まことある名は世に残るとも


 権兵衛謹みて涙潜然として下り両氏に言っていわく、今回君国の為に死するは、すでに覚悟の事なれば少しも非む所にあらざるのみならず寧ろ光栄とする所なり、しかるに我が公並びに照姫君より懇書を賜り、且つ厚遇に浴すること誠に恐懼の至に堪えずと、両氏これを聴きて倶に涙を拭う、尋いで八郎右衛門も入り来り対顔す、すでにして保科家侯より酒肴を賜う、これにおいて権兵衛は三士と離杯を酌む中に半介および遺族の者も入り来り、各々獻酬し了りて一同まさに室を出でんとして別を惜しむ、就中平馬、大蔵はこれまで同僚の職に在り、ただ権兵衛は家老上席なるが為に職に殉ずるものなるを以て、両士哀別の情尤も切にして手を分つに忍びざるの状あり、しかれども既定の時刻進行し、この上躊躇するを許さず、ようやく別離を告げ両士は室外に出で帰路に就けり。
 代わりて保科家の中老大出十郎右衛門、大目付玉置予兵衛その室に入り来り権兵衛に面し、保科侯に代わりて朝命を伝へ、尋いで携ふる所の白無紋体服一着を保科侯より賜う旨を述べこれを交付して退座す、次いで同家臣にして介錯の命を受けたる澤田武司入り来りて対面し、かつて侯家より賜はりし刀を権兵衛に示していわく、これを以て介錯の用に供せんと、すでにして武司の去るや半介等室内を整理し、自刃に処する準備を為してこれを武司に告げ、且つ囑していわく、自刃の式了らば直ちにこれを吾らに告げよと、これにおいて半介等は構内の長屋に入りてその報を待つ。
 半介等一同長屋に入りてその報を待つこと少時にして自刃の式を了りし報あり、半介等導かれてその室に入る、ただ見る屍体は蒲團を以てこれを掩ひその前方に白木三宝あり、白紙を以て包みたる扇子は三宝の辺に墜落しあり、後に聞けば自刃の当時座に列せる者は大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎、御目付今井喜十郎、介錯澤田武司、助員中川熊太郎その他小頭三人なりしが、この時は予兵衛、武司のみ座に在り、すなわち屍体を精拭して棺に入れ、保科家より軍務官に急使を馳せて、会津藩首謀萱野権兵衛を刎首の刑に処したることを届け出で、屍体の処置に就き命を請いたるに、軍務官よりその藩において処置すべき旨指令あり、これにおいて棺は浅黄木綿を以て蔽い、外面は貨物のごとく装い、これを芝白金輿禅寺に送る、けだし権兵衛の遺志に従うなり、保科家よりは澤田武司、中川雄之介葬を送り、北原半介等会津人は途上より送葬す、輿禅寺においては藩大夫以上の葬儀に準じ、僧侶十余人出座供養しこれを寺内墓地に埋葬す。
 保科家より権兵衛自刃の介錯を命ぜられたる同藩士澤田武司は人と為り沈毅にして度量あり、撃剣および柔術を能くす、この日武司、権兵衛自刃の状を語りていわく、その人死に臨み従容自若顔色少しも変ぜず平生のごとし。
 この日保科家より権兵衛に香奠千疋を供し、家臣大目付玉置予兵衛、同樋口彌三郎、勘定方中川雄之助、澤田武司よりも各香資を供せり。
 我が公より権兵衛および我が藩首謀にして戦死せる田中土佐、神保内蔵助に香奠各銀子二十枚を、喜徳より香奠各同十枚を、照姫君、厚姫君よりも各同二枚宛を賜う、厚姫君は容大公の姉君後の峰姫君なり、また両公より三家の遺族に菓子料各銀子三枚を賜う〔御隠居様御幽閉中覚書〕。

 




卷十 戦後の処置
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/20(土) 09:53:05|
  2. 会津戊辰戦争史2
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