いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十四  二条斉敬公懇話の大略     『京都守護職始末1』

 頻々たる暴行     前殿下二条斉敬公、徳大寺公純公、近衛忠房卿らの公武一和論の人々は、過激の堂上らのもっとも忌憚するところであった。
 彼らの主張する親征の議も、叡慮がこれを好みたまわぬことをようやく伺い知り、前殿下や二条公らを威嚇して、徐々に至尊に迫り奉ろうと計り、その手段として、あるいはその諸大夫の暗殺を試み【注一】、あるいは無署名の張り文をしておどすなど、あらゆる威嚇の手段を用いてくるのであった。

 



 大野重英の復命     二十二日、二条公からわが藩臣を召されたので、わが公は家臣大野重英をやって、謁見させた。斉敬公とねんごろに話しあいがあったが、当時、重英が復命のための手控(てびかえ)があり、当時の政界のありさまをうかがうのに便利である。

 二条斉敬公懇話の大略
このあいだ中、治部(北小路治部権大夫、二条公の家臣)方へ迫り、また一作夜は無頼の徒が投げ文をいたし候。これは陽明家(近衛家)、徳大寺へも同様にいたし候につき、早速、関白、議奏へも届けに及び申し候。右の書中、姦吏に通じ、賄賂を受け候などとこれあり候ところ、幕府と別格の間柄には候えども、大樹在京中、閣老以下諸役人ついに尋問にあずかり候議はこれなく、なおさら、賄賂など申し受け候議はさらにこれなく候。
しかるに右様所置候を遺恨に存じ、余を威(おど)さんがためならん。三郎召登せの次第は【注二】、薩藩人らが陽明家へ嘆願いたし、是非とも御召し下されず候では、一統の存意もこれある由を迫り申し候につき、存意の次第を相たずねられ候。一向に申さず、気込みは一通りならず、いかにも事情切迫の様子につき、宮(中川宮)、内府(徳大寺公純公)等にて申し談じ、関白へ申し出で候ところ、関白よりの挨拶には、真木和泉守事は、国事係の気にも入りおり候間、かの者に相たずね、御挨拶いたすべしとの事に候。その後和泉に相たずね候ところ、御親征の議についてめさせられ候わば、なんの故障もこれあるまじきとの事につき、議奏へ談ぜられ、勅命相下り候儀に候。それより二日後に、水藩の原市之進、梅沢孫太郎が参り、島津三郎上京の儀を御周旋あそばされ候由、いかようの御次第に御座候や、三郎儀上京もいたし候わば、諸藩の群議沸騰いたし、たちまち内乱も生ずべき形勢に御座候と、大いにツッカカり申し聞け候につき、薩州の事情切迫の次第もこれあり候について、一列申し談じ、関白へ申し入れ候までにて、採用は職柄の仁にこれあり候事ゆえ、殿下へ申し入るべくと申し聞け候ところ、疾(と)くに申し上げ候ところ、御殿へ申し上ぐべき旨の御沙汰につき、参殿仕り候。
なにとぞ、御沙汰止みに相成り候よう御取はらかいなさるべくと申し候につき、すでに勅命下り、もはや二日も相立ち候儀に候えば、今さらいたしかたあるまじく、もっとも、あまりに勅命かるがるしく相なり候間、よんどころなき旨を申し聞かせ候ところ、よんどころなく罷りかえり申し候。
さて、その後、宮中大議論にて、すでに関白、議奏などは、三郎上京の議、そのままさし置かれ候わば群議沸騰いたし、有志五百人屯(たむろ)いたしおり候間、右の者どもいかなる暴発いたし、道路へ血を流し候ようの儀今も測りがたしと、余以下へさし迫るは必定と、名を指して申さぬばかりの仕合わせ、右の形勢なれば、ついに三郎上京の儀は、召し留められ候儀に候。


一 御親征の儀も御評議のところ、重大の事件ゆえ、諸侯を召し登され、御たずねなさるがしかるべくと申し上げ候ところ、蔭にて、今時分に右よう優長の儀どうもならぬなどと申す者も相聞え候ところ、余が存意にては、とても一列どもの力には行届きがたく候間、大あたまの大名に、鳳輦出御の折きっと押しもらいたきつもりに候。しかるに備前、因州など同様くらいの事申し候につき、まずにやにやに相成り、詰(つま)りは久留米の細川良之助【注三】(今の長岡護美)を召登せ候事に相成り候。これは、察しには、細川は轟(武兵衛)、久留米は真木(和泉)が居るゆえ、自由になるとの見込みならん。

一 御親征御用意のため、廃絶の器械の御手入れを仰せつけられ候。小栗下総守儀御使としてさし下され候ところ、小身者の儀につき、叡慮も貫徹いたしかね申すべく候間、この度は、松平式武大輔(伊予松山城主の世子)御さし下しに相成り候旨、廻状にて議奏より申しよこし候。
 
一 まことの推察に候えども、今度男山行幸【注四】を申し立て、鳳輦を八幡へすえ奉り、軍議を聞こし召さると申し、十四五日も御逗留あそばされ、浪華城へ入られ【注五】、従わざるものを征し、五畿内を召し上げられ候との密議これあるかのようにも察せられ候。

一 今日も水藩の梅沢孫太郎来り、関東よりの事情を同役より申し越し候旨にて、その大意は、今度小笠原大膳大夫(小倉藩主)、長州よりの援兵に出でず、則ち勅命に応ぜず、もっとも領分へ長州より台場を築き候を、朝命はこれあり候とも幕命これなく候では、御請け申しがたき旨にて、家老出府致し候ところ、幕吏どもは大いに同意いたし、長州を糺(ただ)し候などの議論もこれあり候由。もともと攘夷の儀は、幕府へ御委任の事なれば、幕命則ち勅命に候間、了管これあり候者は、たとえ朝命にても容易に打払いなどいたさざるは当然に候えども、かの水人らは、ただただ違勅とのみ申すかどに執着いたし、真偽を弁え候ほどの所存はこれなく候間、右ようの儀を申し聞かせ申せば、因循とか姑息とか心得、殿下、三条などへ申しふらし候間、近親の間柄に候えども、かように親密の談は、御名殿(わが公を言う)ばかりに候。この段は厚く相心得、密々に申し上げ候よう。

一 改めて御頼み入り候儀のこれあり候。この間中御用談と殿下も承知のうえ、一列の宮(中川宮)、内府(徳大寺公純公)等、度々前殿下(近衛忠煕公)並びに宮などへ参集候ところ、中条中務大輔、石薬師に罷りあり候間、始終、往来の様子を見聞いたし居り候間、大いに心配いたし、形のごとき振合(ふりあい)にては、堂上が二派に相分れ申すべしとの案じ事にて、殿下へ罷り出で、その段を申し入れ候ところ、殿下も承知のことゆえ、心付けはまことに深切なる儀に候えども、決してさようの儀にはこれなく候間、心配いたすまじき旨申し聞かされ候由。しかるところ島津の一条相起り候については、殿下を出しぬいて一列が申し談じ候よう相響き、大いに不都合のことに候。中務は正義、正直にて胸中清冷に候間、また先の勘考もこれなく、ピョイピョイと申し出で候間、案外害の生ずるをば測りがたく候間、この段御心得置きなされ、深密の事は仰せ聞かされざるよういたしたき旨申し上げ候よう。その外咄したき儀、多分にこれあり候えども、一朝一夕にはつくしがたく、その内度々参りくれ候よう。もっとも今日の談も、種々込み入り候て、不つつかの儀もこれあるべしと、御懇談の御事どもにて、暮合より四ツ少し前まで御懇談仰せ聞かされ候。

 



 高台寺に放火     この月(七月)二十日の夜、盗賊が高台寺に火を放って、焼いた。そして、寺側に左のような板札を立てていった。

高台寺の奸僧ども、朝敵春嶽の寄宿差し許しの段、不届至極につき、神火を放って焼き捨て候。向後、右ようの者これあるにおいては、同罪に処すべき者也。(亥の七月)

 これより前のこと、慶永朝臣が攘夷の勅命を辞し、命を受けないで帰国されてから、過激の堂上や浮浪の徒らは、朝敵春嶽と称して、その名は言わず、厭悪することもっとも深かった。しかしわが公は、このような多事の時に、有為な親藩をいつまでも封邑に屏居させておくのはいけないと陳じて、大いに救解につとめたので、後見職をはじめ老中の人々もこれを然りとし、謹慎を解くことになった。しかし、まだ勅勘解除の命は下りない。慶永朝臣は上国の不穏を憂うるのあまり、京師へ出てこようとした。浮浪の徒らが、この夜の暴挙に及んだのもそのためであった。(後で聞くと、これは肥前島原の梅村真守、伊藤益荒、保母建、因幡の石川一、常陸の渋谷、伊予などの浪人のしわざであると言う)。

        



 【注】

【一 あるいはその諸大夫の暗殺を試み…】 七月十九日徳大寺家臣滋賀右馬大允が襲われて重傷を負い、二十五日前吉備津宮神官大藤幽叟が三条湖畔でさらし首にされ、翌日、開国論者と目された松平慶永の宿舎と予定された東山高台寺が焼かれ、ついで本願寺用人松井中務は慶永に通じたとの理由で殺された。そのほか公卿への投書、貿易商への脅迫がしきりにおこなわれた。これらの「天誅」のねらいは、「攘夷親征」の実現を促進するにあった。

【二 三郎の召登せの次第】 島津久光は、文久三年三月二十日、京都で長州系尊攘派の勢力が強くなったのに不満をもち、帰藩した。その後姉小路公知暗殺事件によって、薩州藩は乾門守衛の任を解かれ、同藩の京都での勢力はまったく失墜した。そこで、再び島津久光を京都に召致する朝命を出させることを、薩州藩志士は運動していた。その結果、近衛忠煕、二条斉敬、中川宮の周旋で、五月二十九日久光を召すの宸翰が伝えられた。

【三 久留米の細川良之助】 細川良之助(長岡護美)は、熊本藩主細川韶邦の弟で、久留米藩ではない。

【四 男山行幸】 男山八幡宮は石清水八幡宮の別名。

【五 浪華城へ入られ…】 文久三年六月十六日、長州藩尊攘派の領袖、桂小五郎(木戸高允)、清水清太郎、佐々木男也、寺島忠三郎と真木和泉は、東山翠紅館に会合し、攘夷親征の策を協議した。この席上、和泉は「五事建策」を提示した。そのねらいは、天皇みずから攘夷の権をとることによって、一気に王政復古を実現しようとしたもので、その五事の中に、天皇が大阪に進駐すること、五畿内の土地を朝廷に収めることを論じている。この情報が二条斉敬のもとに入っていたのである。

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  1. 2012/11/04(日) 17:49:59|
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