いがぐり史料館

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会津藩の領地並に知行高

会津藩の領地並に知行高

 会津とは会津、(今の南北会津)耶麻、大沼、河沼四郡の総称なりしが、後世に至り四郡の名紛乱して会津郡を失い、大沼、耶麻、稲河、河沼を会津四郡とす、寛永二十年上使伊丹順齊等より受け取られし領地目録には、大沼郡之内川沼郡、山之郡、稲川郡、小川庄(これ今の東蒲原郡を云う)、猪苗代、安積郡之内(三代、福島、赤津、浜坪、中地の五村なり)とあり、寬文の頃土津公典籍を考え地理を按じ、古文書古器銘により、大沼郡の東南を割いて会津郡を復し、稲河郡を河沼郡に併せて四郡の古に復せらる。
伊丹順齊等の引き渡し目録によれば、引き渡せし領地高は、

二二二三四二、一九三石 本高
 一〇七五六、〇九三石 改出
 二一三八一、七六八石 新田
総計
二五四四八〇、〇五四石


なり、本高とは新検地前の高にして、改出とは新検地により増加せし高なるべし、今本高と改出とを加ふれば、

二三三〇九八、二八六石

を得、三千石余を算用に入れず、また新田をも除きて表高を単に二拾三万石としたるものゝ如し、この時の会津領は今の北会津郡、耶麻郡、河沼郡、越後国の今の東蒲原郡(北蒲原の赤谷部落を含み)の全部、今の大沼郡の東部(面積は今の大沼全郡の一小部分なれど平地多く良好の地なり)なり、しかして今の南会津郡の全部、今の大沼郡の残部、並に下野国塩谷郡の一部(三依村、上三依村、中三依村、獨鈷澤村、五十里村、芹沢村の六箇村、今の藤原村の一部)を領地とせられしなり。
安政七年即ち萬延元年幕府代変わりの時、藩より届け出で幕府の承認を得たる目録に、

 陸奥国

会津郡之内(今の北会津郡なり) 百二十一箇村(若松町を一箇村とす)
 高 四二三六九、〇九〇五石

耶麻郡之内 二百三十五箇村
 高 八二七五八、六七三六一石

大河郡之内 四十九箇村
 高 二二一七九、八一四七石

河沼郡全部 百九十四箇村
 高 五四七六〇、九五一三石

安積郡内 五箇村
 高 六〇八〇、〇五八石



 
 越後国

蒲原郡之内(今の東蒲原郡なり、北蒲原郡の赤谷部落を含む) 七十三箇村
 高 八九七三、三八八石




 安房国

安房郡之内 十箇村
 高 二七二三、七二八七二石

朝夷郡之内 四十一箇村 
 高 一三九二五、九九六一七石



総計
 二三三七七一、七〇一石


 弘化年代に房総沿岸の警備を命ぜられし時、便宜の為、安房国において一萬六千石余の地を賜い、次いで耶麻郡の内一萬五千石の地を収公せられ、直ちに之を預けらる、此の安房国の一部を戊辰の年まで領有せしや否不明なり、如し収公せられしとせば耶麻郡の公地(藩の領地)は直ちに賜はりしなるべきより総高に変化なし。

 右の如く萬延の届け出は二十三万石余りにして、寬永の引き渡し高二十五万石と差違あるは何故なるか知るべからずも、何か形式上斯くすべき必要ありしなるべし。
 藩撰の家政実記に年々の領地の草高を記載す。

{因に記す幕府の頃の知行地は其の領地の総草高なり、草高とは国郡村の台帳に載せたる田畑の数量、等級、収獲率により算出したる総収獲の予定額なり、この草高は新田の開墾古田の荒廃等の為、検地を改め行うにより変すれども、年の豊凶により変ずることなし。}

今、寬永二十年より毎十年の会津領の草高左の如し(斗以下を四捨五入す)

寬永二十年 二五四七〇〇石(藩の検地によるものにて、引き渡し目録の二十五万四千四百八十石と合はず)

承応二年 二四二三九一石

寬文三年 二四八〇七三石

延寶元年 二六六八六二石

天和三年 二六八三八一石

元禄六年 二七八一八四石

元禄十六年 二八一一七二石

正徳三年 二九二一五四石

享保八年 二九七一四三石

享保十八年 二九七六四二石

寬保三年 三〇四〇五二石

寶歴三年 三〇三七七二石

寶歴十三年 三〇一六二四石

安永二年 三〇一二〇〇石

天明三年 三〇〇八〇八石

寬政五年 三〇〇二四一石

享和三年 三〇一〇五二石

 享和三年の後二年

文化二年 三〇一〇九五石


 家政実記は文化三年正月を以て擱筆せしにより、文化二年の草高は実記最終の調なり、その後の調に関しては記録の存するものなし、思うに寬保三年より文化二年まで六十二年の間三十万石余にて増減甚だ少し、これによって見れば文化二年より慶応三年に至る六十二年間の増減もまた甚だ少なかるべし、故に慶応三年においては会津松平家の旧領地高を三十万石と断定して大差なからべし。
 元治元年二月十日京都守護職就任以来の功労を賞し封五万石を加賜し、次いで賜うところの地を近江国の内一万五千石、和泉国の内一万石、越後国の内二万五千石とせり。
 文久二年守護職就任の時、近江の内並びにその他にて役知(職俸)五万石を賜う。
 文久三年累代の領地(寬永後両回収公せられし事あり)、陸奥国会津郡の内並びに大沼郡の内(俗に之を南の山と云う)五万五千石を役知として増賜あり。
 元治元年守護職中費用多端を察し月々金一万両米二千俵を賜う。

{右の手当を内願したる時公用人外島機兵衛が、幕府の勘定奉行松平石見守と交渉の顛末を江戸より京都へ報告せし書面の内に、『機兵衛石見守殿へ相縋り非常御逼迫之様子申述相頼候次第右に付而は精々相心得可申聞候得共御役知拾万外に二万俵(月々二千俵なれば二万四千俵の誤なるべし)つゝ御蔵庭相場に而俵代銀御渡並五万石御加増(増封なり)も有之彼是凡拾七万石余にも相当り可申此上月々一万両つつ御渡と申に而はて一ヶ年拾二万両にも相成一昨年御役知五万石に当り代銀三万両御渡之御都合を以積候へは二拾万石に相当り可申候左すれは都合凡三拾七万石余相成候は御勘定局御規則を以は迚も相整い可申御手順共不被考候間伝々}

 右の如く幕府の方にては余程六ヶ敷模様なりしも遂に聞届けられしなり。
 松平石見守の算用によれば慶応三年末(守護職廃止の時)に於ける松平家家禄は次のごとし。

一 三十万石 旧領
一、五万石 増封
一、五万石 第一回の職俸
一、五万五千石 第二回の職俸、但し累代の領地たる南の山
一、二万四千石 月々二千俵に相当する石高
一、二十万石 月々一万両に相当する石高
 計六十七万千石


 附図(図は割愛する)の黒線内は会津の旧領なり、但し耶麻郡中の預地並びに安積郡中湖水東浜の領地(月形村並びに中野村の一部、尤も此の五部落は領地にあらずして領地なりとの説あり)を含む〔新編会津風土記、家政実記、領地目録、京都守護職始末、会津藩庁記録、古老談話、編者記憶等)。






卷十一 附録
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  1. 2013/04/22(月) 10:34:11|
  2. 会津戊辰戦争史2
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