いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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会津藩執政年表

会津藩執政年表

 本年表は我が藩人林少左衛門良材が編輯せしところ、寬永八年より文化十三年まで百八十六年の間、会津藩執政の人々、即ち大老、家老、若年寄、奉行(勘定奉行)の任免を表出せるものなるが、文化十三年より明治元年に至る間は後人の書き加えたるものなり、今文久二年我が公京都守護職就任の年より明治元年に至る七年の分を抄出す、但し大老は当時欠員なりしにより別に欄を設けず、また若年寄、奉行の欄には書き落とし多きが如きも増補する道なければ元のまま抄出せり、また表中帰職元之立場とあるは退職せし者を元の職に復帰せしめ、退職前の席次を輿ふる優遇法を云う。

文久二壬戌年
家老 
 六月思召有之御免
簗瀬三左衛門眞粹
萱野権兵衛長裕

 月依願御免
高橋外記重弘
横山主税常徳

 閏八月依願隠居
諏訪大四郎頼徳

若年寄
 閏八月廿五日被仰付
一瀬監物直久

--------------------

文久三癸亥年

家老
 七月依願隠居
萱野権兵衛長裕
横山主税常徳

 月被仰付
田中土佐玄清

 月被仰付十月御免御叱
西郷頼母近悳
神保内蔵助利孝
山崎小助実久

 六月被仰付
一瀬要人隆鎮

若年寄
 四月九日帰職元之立場被仰付六月六日御家老
一瀬要人隆鎮

一瀬監直久

奉行
上田一学兼教

間瀬新兵衛

西郷文吾近潔

山田新八

 九月依願御免
樋口源治

--------------------

元治元甲子年

家老
 三月十五日帰職元之立場
高橋外記重弘

 八月死去
横山主税常徳
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 六月依願御免
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮

 十一月被仰付
北原采女光美

若年寄
一瀬勘兵衛直久

 四月四日被仰付
井深茂右衛門重常

 同上
内藤介右衛門信節

 十一月七日被仰付
西郷勇左衛門近潔

 十一十九日被仰付
萱野恒治長修

奉行
上田一学兼教
間瀬新兵衛
西郷勇左衛門近潔

 九月
山田力衛

 正月被仰付
神尾織部

 九月被仰付
北原采女光美

 十一月被仰付
田中蔵人

--------------------

慶応元乙丑年

家老
 十一月依願御免
高橋外記重弘
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 二月帰職元之立場
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮
北原采女光美

 五月被仰付
萱野権兵衛長修

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常

 八月晦御免
内藤介右衛門信節
西郷勇左衛門近潔

 五月御家老
萱野権兵衛長修

 二月十五日被仰付
上田学太夫兼教

 五月被仰付
梶原悌彦景武

奉行
 二月十五日若年寄
上田学太夫兼教
間瀬新兵衛

 二月廿六日帰職
樋口源治

梶原織部

田中蔵人

--------------------

慶応二丙寅年

家老
 依願御免九月帰職元之立場
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 四月隠居
山崎小助実久

一瀬要人隆鎮

 十月晦思召有之御免
北原采女光美
萱野権兵衛長修

 三月被仰付
梶原平馬景武

 九月被仰付
上田学太夫兼教

 同上
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 九月御家老
上田学太夫兼教

 三月御家老
梶原平馬景武

 九月帰職元之立場同日御家老
内藤介右衛門信節

 八月廿三日被仰付
諏訪伊助頼信

 十月九日被仰付
一瀬傳五郎隆知

--------------------

慶応三丁卯年

家老
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔
諏訪伊助頼信
一瀬傳五郎隆知

--------------------

明治元戊辰年

家老
 八月廿三日甲賀町口に而戦死
田中土佐玄清

 帰職元之立場
西郷頼母近悳

 八月廿三日甲賀町口に而戦死
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

 正月二日被仰付
諏訪伊助頼信

 九月十五日一の堰に而手負後死去
一瀬要人隆知

 八月被仰付
原田対馬種龍

 同上
山川大蔵重栄
佐川官兵衛直清

 八月廿五日被仰付
海老名郡治李昌

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 正月二日御家老
諏訪伊助頼信

 御家来
一瀬要人隆知

 五月一日白河に而戦死
横山主税常守

 三月廿四日被仰付八月御家来
原田対馬種龍

 三月廿四日被仰付八月御家老
山川大蔵重栄

 七月廿七日被仰付
 八月廿五日御家来
海老名郡治李昌
田中源之進玄直上田八郎右衛門氏雅
萱野右兵衛長誠
倉澤右兵衛重為
手代木直右衛門勝任

奉行
萱野右兵衛長誠

 三月廿四日被仰付
 七月廿七日若年寄
海老名郡治李昌

山内大学


会津藩にて家老の上席たりしは、寬永八年城代保科民部正近、翌年家司任命の同人、慶安三年家司任命の北原釆女次、寬文六年家司任命の田中三郎兵衛正玄なり、正玄寬文十二年に歿し、十数年家司を置かず、元禄二年に至り西郷頼母近房家司に類する家老主に任ぜられ、近房元禄十四年に歿してより九十余年間上席者なし、寬政五年北原内膳光保大老(これ家司、家老主に類するものなり)に任ぜられ、同十年に歿し其の後四年間欠員にて、享和三年田中三郎兵衛玄宰大老に任ぜらる、文化五年に玄宰歿し六年に内藤源助信周任ぜられ、七年同人歿し同年北原釆女光裕その後任なり、文化十四年に歿し翌年政元年西郷頼母近光大老となり翌年歿す、これより戊辰の年に至るまで五十余年の間家老の上席者を置かず。
 家老には定員と云うものなかりしが如し、家司、家老主、大老の外三名以上六名以内なりしが、戊辰の年には軍国多事の為必要に迫られ、別表の如く多数の家老を任命せられたり。
 文化五年門閥家九条の制を定む、この九家の人々は等輩を踰えて上官に任じ、若死するにあらざれば大抵は家老になり得しなり、九家の戊辰の年の戸主の氏名また代々の内の名知行高左の如し。

北原釆女(勘解由、内膳、出雲等) 二千八百石

内藤介右衛門(元武川、文化の初に本姓に改む、五十郎、源助、近之助等) 二千二百石

簗瀬三左衛門(救馬等) 二千石

田中土佐(三郎兵衛、加兵衛等) 千八百石

西郷頼母(民部等) 千七百石

三宅半吾(孫兵衛、対馬等) 千四百石

小原美濃(五郎右衛門等) 千ニ百石

井深茂右衛門(平左衛門等) 千石

梶原平馬 千石


{北原の老役荒川類右衛門の『明治日誌』に、千三百石の高橋外記を九家に入れ、『後世に至り千石梶原平馬を九家の列に加えらる』とあり、何れが正なるを知らず。}

 会津の如き大藩にては万石以上の高禄を有する者あるを常とせしが、右の如く会津藩にては北原釆女の二千八百石を最高禄とせり、けだし成るべく多数の藩士を養う為、少数者に高禄を輿へざる方針なりしによる、ゆえに戊辰の年には千石以上の禄を有せしは右の九家を除き十二家に過ぎざりき。
 会津藩士は知行地を有するものなし、皆知行高に対する蔵米を支給せられしなり、けだし斯くすれば煩雑と入費とを省略する益あるを以てなり、ゆえに原則としては千石の知行に対し、四公六民の割合にて米斗入り千俵を給すべきなれども戊辰の年頃は千石に対し六百俵余外に金数十両ならでは支給せられざりき、昔いつの頃にやありけん、豊作続き米値非常に降り(金十両につき四斗俵七十俵かと記憶す)藩士大に窮苦せるにより家禄の四分の一を遙かに高値(金十両につき四十俵かと記憶す)に見積りて金給せられしなり、この制度を四ヶ一の制度と云いき、しかるに後に米価騰貴しても換金の率依然として昔時と同じかりしかば、恩恵的の制度も後には藩士の負擔を増せるに均しかりき、また借知と云うことあり、これは藩が藩士より知行の内を借り入るゝことなり、但し名は借なれども返償せざる例なりき、この如きにより実収は表面の高より遙かに少なかりき〔会津藩執政年表、明治日誌、会津外史、編者記憶等〕。






卷十一 附録
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  1. 2013/04/23(火) 09:44:27|
  2. 会津戊辰戦争史2
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