いがぐり史料館

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会津藩の教育

会津藩の教育

 藩祖保科正之公幼より学を好んで和漢諸種の書を読破す、承応元年公四十二歳にして初めて宋の朱熹の小学を読み大に発明する所あり、身を修め家を齊い国を治むるの正学此れに在ることを知り、爾来朱子学および宋の程子の説く所によってますます研鑚を積み、これにおいて朱子学を以て藩学を輿すの誌あり、当時諸藩を通じて学校を設くるもの多からず、会津においては寬文四年藩儒横田俊益、藩士浮洲重治同志と謀り若松桂林寺町に学舎を創建し、稽古堂と称す、俊益この堂の記を作り、且つ溝筵の式を定む、時に臨済宗の禅僧にして肥前の人岡田如黙なる者数年前会津に来り耶麻郡落合村に庵室を結びて之に居り扁して無為庵と曰う、その人博学多識特に経学に精しきを以て稽古堂に招聘して教せしめたるに、家老田中正玄、簗瀬正眞を初め藩士は云うに及ばず農商工の子弟に至るまで来り学ぶ者多し、正之公これを聞きて大に悦び黙に十五人扶持を賜い、その他の租税を免除し、且つ稽古堂に学科五十石を給す、この後年藩学設立の端諸なり。
 延寶二年郭内本一ノ丁甲賀町通に学問所を設けて講所と称し学科百石を給す、是即ち藩校にして藩士子弟の入学を許す、元禄二年講所内に孔廟を建築し孔子の像を安置す、この像は先年山崎闇齊が京都に於いて獲る所の銅像にして闇齊により正之公に献ぜしものなり。
 同年甲賀町口に学問所を設け町講所と称し士民の入学を許す、同時に稽古堂を廃しその学科五十石を町講所に給せらる、後この町講所を青藍舎と称し、またその北郭外に在るを以て北学館と呼ぶ。
 天明八年郭内大町通に更に学問所を建て西講所と称し、本一ノ丁の講所を東講所と称す。
 同年花畑において新に町講所を設け友善舎と称す、また城の南方に在るを以て南学館と呼ぶ。
 講所および町講所の授業は本邦当時の学問たる支那経書、歴史類の素読、講釈にして後書学、禮法および和学等を併せ教ふるに至れり。
 士人に最も必要なる武術は初め学校においてこれを教授せず、これその設備なきを以てなり、藩士の子弟は諸芸者の道場および馬場に就き弓、馬、刀の武技を学びたりしが、天明八年始めて西講所に武学寮を置き諸武技を教授せり。
 東西両講所は元来士族の邸宅を補修して充用せしものなれば、学堂として不完備なるを以てこれを一箇所に拡張改造することに決し、寬政十一年四月米代二ノ丁に工を起こし五年を経て享和三年十月落成せり、日新館即ちこれなり、学校周六丁余、中に聖堂、東西四塾に分ちたる素読所、習書寮、医学寮、講釈所即ち大学たる止善堂、禮式、算術、天文、神道、和学、茶儀の各教授所、天文台、開版方即ち出版所、文庫あり、また武学にありては槍、刀、弓、柔術、各流の道場、武講所、放銃場、水練場皆備はれり。
 会津の学校は以上記せる日新館および南北両学館の外に猪苗代に亀城学館、江戸和田倉会津藩邸内に成章館あり、この他若松市内には一町または二三町毎に素読、書学、算術を教授する者あり、軽輩の士女または商家の子女は之に就いて学ぶことを得、また各村に文武の私塾あり、地方御家人、同心および農夫等の就学に供せり。
 会津の学風は土津公(正之公)以来世々朱子学を以て教化の基礎とせり、天和の頃藩内に心学流行の兆あり、これと前後して王陽明の学を講ずる者あり、これらの故にや寶永五年藩士に孔孟程朱の学流を講習し他の教法は講ずべからざる旨を達せり、しかるに此の頃物徂徠の徒、古学を唱い一時天下を風靡せり、古学とは漢唐儒者の註解に基き経書および論語等を講ずるの学なり、会津藩においては寬政二年折衷派の古学者肥後藩士古屋重次郎を招聘して生徒に古学を講ぜしめ爾来文化七年まで藩学を古学に変更したるが、同年再び朱子学に復旧せり。

{寬政二年古屋重次郎を会津に聘し古学を講ぜしめしより、文化七年に至る二十一年間は従来朱子学たりし藩学を古学に変更せりとは諸書の記する所なり、しかるに会津藩の家政実記によれば、文化年中江戸昌平校の儒者尾藤良助が我が藩に対し会津藩の学風は藩祖土津公以来朱子学を採用せられたることは天下の周く知る所なるに、近来古学に変更せられたりと云うは果たして真実なるや、もし真実ならば何故にこれを変更せられたるかと質問書を贈りたるが、江戸会津藩邸在勤儒者松本和平は之に対し会津藩が朱子学を廃して古学を採用したりとの風説は訛伝なり、我が藩教の朱子学に遵據することは今も猶昔の如く依然変更せず、但一派の学説のみを専修するときは動もすれば固陋沈滞の弊に陥るの恐れあるを以て、修学上の参孝として生徒に折衷的古学を併せ講じたるに過ぎずと弁明したるを以て見れば、この二十一年間は必ずしも藩学を全然変更したりと断定すべからざるが如し。}

 会津教学の主義は前記のごとく一時古学を採用したる形跡なきにあらずといえども、たちまち旧に復し朱子学の教えに従い実学を重んじ、空理に流るゝことを避け、孝悌忠信の風を奨励し、長者を敬い、以て一藩剛健の士気を養成することを勉めたり、これに関する教令は歴代しばしば発せられるが玆に其の一例として特に文化十年五月在江戸の藩子弟に発したる教令の趣意を左に摘禄すべし。
 
一 文武の芸を研磨するは士人の常道なり、しかれども心魂鄙劣なるにおいては仮令諸芸に上達すといえども士とは云うべからざるなり、故に主として士風を励み、礼儀廉耻を先にし、義気を重んずること肝要なり。

一 尊喜長者を敬ひ不孫の風なきことを勤むべし。

一 朋友相会し書を読み文を講じ、および古今の武勇談を為すことは殊勝なれども、猥りに集会し無用の雑談に耽り、甚だしきは飲食を縦まゝにする如きは、士人の体面を損するものなれば深く戒むべし。

一 御家風を守り武士の本意を失はざる様常に心を用ふべし、江戸は地方の風移り易き土地なれば、服装言語は勿論身の帯ぶる諸具に至るまで虚飾を避け質素を尚び、以て軽浮の態に陥らず、律儀実態の風を守るべし。

一 御家中の士は其の身分に応じて交際し、信義を重んじ徳を磨き下等賤輩に交り汚風に染むべからず、これ後年徳器養成の妨と為るを以てなり、また幼少より淫風遊惰を深く戒むべし。


 これを以て其の一斑を察すべし、学校において倫理を教え文武の芸を授くるは、徳性を養い才能を長し以て実用に供せしめんとするにあり、其の品行方正にして学問武芸に達し、または少なくも一芸に通ずる者は、家格により技倆に応じて父の業を継がしめ又は新に採用し、しかして一芸だも善くせざる者は家督相続の際小普請料を納めて修業を断続せしめ、後日修業を了したる後始めて小普請料を免ず゛(小普請料とは文武未熟者より徴収して道路修理に充つる費目なりと云う)、この法を実効せんが為、天明八年講所(日新館の前身)の功令を定め、これを六科糾則と称して発令せり。

六科

一曰、古を稽ひ事に明かに沿道に通し人の長所を知る者、

二曰、人を愛して物に及ほし教化安民の道に志ある者、

三曰、神道和学に達し吉凶の禮吉凶実を弁へ時々損益することを知り、清廉にして能く欽慎なる者、

四曰、古聖人の善とする所を知り、時宜に従い事を処し、武備教練の意を会得し、沈勇にして決断ある者、

五曰、人の為に謀り人の労に代わる己か事の如く、心を尽くし忠信にして獄訟律学に長したる者、

六曰、和順にして物の性に悖らず、土木百工の材能ある者、


 六科中に就いて大に得たる者は大に用い、少しく得たる者は小に用い、これを審かにするに六行を以てす。



六行

一曰、善く父母に孝なる者。

二曰、善く父母に事ひ弟を愛し長を敬し幼を恵む者。

三曰、善く家内および新族に和睦なる者。

四曰、善く外親に至る迄を親み本を忘れざる者。

五曰、友に信ありて人に任ぜられ、その事を擔当して久しきに耐える者。

六曰、親戚朋友に災厄疾病貧窮等あれば、厚く之を賑恤する己の憂に遭ふが如くする者。




八則

一曰、言行を慎まずして父母を危し、事に順ならず、喪に居て哀戚の容なく、懶惰の行ある者。

二曰、薄情にして家内親戚和せざる者。

三曰、兄弟に友ならず師教に循はず、長を侮り幼を愛せざる者。

四曰、言行信ならず、面従後言或は男女穢褻の行ありて近隣朋友に疎まるゝ者。

五曰、怠慢残忍にして親戚朋友等の艱難苦痛を救恤せざる者。

六曰、漫りに浮言を造て衆を惑はし、また非理なるを強弁し道理に従わず、その行悖りて紛飾する者。

七曰、聖人の道を信ぜず、党を結び猥に政令法度および他人を誹譏し、世俗の浮説を信して私智に矜り、弁舌を以て事を壊る者。

八曰、文武は相資する者偏廃すべからず、己が学ぶ所に執滞く能を妬み技を謗り猥に偏執の心を懐く者。


 この日八過の内一も其の身にあれば、仮令才智芸能ありといえども其の咎逃るべからず、常にし心に存して慎むべし。
 玆に子弟入学修業の一斑を挙ぐれば、日新館および南北両学館は士人の階級によりて入学せしむ、日新館の素読所は四塾に分ち、毛詩、三禮、尚書、二経と称したるが、一時これを守約齊、存心齊、服膺齊、持志齊と改称したることあり、郭外に在る北学館、南学館もまた素読所なり。

 素読所は当時における普通教育を授くる所なり、その教育の令条は創定以来多少の変更ありしといえども、その大綱は異なる所なし、左に之を概記。

令条

一、学校は孝悌を本とし子弟をして徳を為し材を達せしめ以て実用の器を養成するにあり(本文只孝悌と云て忠信を云はざるは、孝悌は徳を成すの本なれば、幼時より孝悌を教ふれば従って忠信の道に至るを以てなり)。

一、学校における生徒の席順は尊卑によらず年齢によるものとす(学級によりて場所を異にするは勿論なれども同一学級に在りては身分の尊卑によらず、また優劣によらず長幼によりて席順を定むるなり)。

一、十歳より入学し素読を受け兼ねて筆蹟、諸禮を学び、また希望によりて雅楽を学ぶ。

一、十三より算術を学ぶ。

一、十五歳より弓術馬術槍術剣術を学び、その他の武芸は希望によりて学ぶ。

一、十八歳より兵学を修む。

一、二十二歳より二男以下諸芸の出席随意なり。

一、毎日学校において塾の出入りその他一切の事は什長の指揮に従う、什長は通学生住宅各方面における組合の長にして、多くは年長且つ学芸優秀の者を以てこれに充つ。


 当時学校の課業は各藩を通じて大同小異なるが、日新館においては初めて入学する者は四等に入り、孝経、大学、論語、孟子、中庸、小学、詩経、書経、禮記、易経、春秋、童子訓の素読を受け、これを卒業すれば三等に進み、四書、小学の本文および朱子の註、春秋左氏伝の素読を受け、これを卒業すれば二等に進み、四書、小学の本文、および朱子の註、禮記集註、十八史略、蒙求の素読および解釈を受け、これを卒業すれば一等に進み、四書、近思録、二程治教録、伊洛三子伝心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏伝、春秋左氏伝、国語、史記、前漢書、後漢書を読講す、しかして一等生は先づ内試験を受けて及第し、更に本試験を受けて及第すれば大学即ち講釈所に入るなり。
 講釈所は止善堂と称し、素読所即ち小学の師表たり、入学生は儒者に就き、または輪講会に出席して経書、歴史および雑書を研究し、併せて詩文を学習す、しかして入学生は学問の外弓馬槍刀の武芸を怠るを得ざるなり。
 藩学日新館の教育は前記のごとく、もっぱら漢学によりしといえども、別に神道および和学科あり、子弟の希望によりて之を教授せり、藩祖土津公は吉川惟足を聘して神書を講ぜしめ、その奥秘を受け、以て中古以来衰微せし神道の復興に力を尽くせり、爾来歴世公の意思を継ぎ、藩学に神道および和学科を置き、神道は卜部、垂加の二派に分ち、その希望によりて教授せり、その書目は中臣秡、日本紀神代卷にして古事記、旧事記は参考として之を教授せり。
和学は一に皇学と称し、人王以降の令典を授く、その書目は令義解、律疏義、三代格、延喜式、六国史および文章、和歌等なり。
 武芸は各種また各流派に就いて稽古場あり、生徒の席順は学校、学館と異なり、入門の前後によりて定む。
 男子十歳にして入学すれば近傍の学友と交際するの義務あり、日々八ッ半時退出するも直ちに家に帰らず必ず朋友の宅に集合し、十三四歳の年長者より忠信孝悌の道を説き、且つ教師長者の教導に従うべきことを励む、もし之に従わず不行蹟の者なれば反覆これを訓戒し、しかも猶改悛の状なき者は其の制裁として、あるいは之を打擲し、あるいは絶交を宣告することあり、その絶交したる者にして改悛の状著しき者は再び交際を断続す、十五歳に至れば昼間武芸に出場するを以て年少者の集会に出席することを得ず、よって彼らは十七八歳未満の朋友と夜間相集会し、前人の嘉言善行を話し、一朝他方面の団体と学校の内外において衝突することあらば、激烈なる争闘を演じ甚だしきに至りては藩の責を蒙ることなきにあらず、これを要するに会津武士剛健の気風は、藩の教令、父師の教導に兼ねて朋友相互奨励より自然に培養せられたる結果なりと云うもべきなり〔会津藩教育考、家政実記、日新館志、及聞書〕。






卷十一 附録
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  1. 2013/04/23(火) 11:27:30|
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