いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十五  馬揃の天覧     『京都守護職始末1』

 公卿砲声を厭う     二十四日、伝奏衆からわが公に、きたる二十八日、建春門前で馬揃(軍隊操練)をして天覧に供するように、ただし、雨天ならば順延せよとの勅命が伝えられた。
 わが公は、そこでまず、練兵の次第書を奉った。なかに、大小砲空発のくだりがあったが、諸公卿は評議して、これを許可しない。わが公は、砲があるのに発砲しなければ、操練がはなはだふるわないものになる、二、三発でも発することにしてはと提言すると、諸公卿の言い条では、煙硝の臭気や砲声で禁裏近くをみだすのは憚り多いとのことで、あえて肯(がえ)んじない。しかし、強いて論じてはじめて許可を得たが、すでに親征を主張していながら、煙硝の臭いや砲声を厭(いと)うなどと公言して慚(は)じない。わが君臣はただ茫然とするのみであった。





 整然たる操練     すでに二十八日、当日は雨ふりで、二十九日になっても止まない。三十日もまだ止まない。さきに雨天には順延と命令があったので、順延すべきやを伺った。すると、伝奏衆から命があって、およそ急の出陣の時は、時日を選ばず、雨や雪、夜間でも躊躇すべきではない、今日の微雨などものの数ではないという達しである。使者の往復のあいだに時は移って、未の刻〔午後二時ごろ〕になった。
 わが公は、さっさく令を下して黒谷を出発し、士卒をいそいで凝華洞にあつめた。あつまる者はことごとく甲冑姿で、鉦(かね)、太鼓、 法螺貝に五方旗(五色の信号旗)を樹てるなど、みな藩の制に従い、家につたわる参内傘の馬じるしと、白地に皇八幡宮加茂皇大神と書いた二流の旗を、馬前におし建てた。この参内傘の馬じるしは、藩祖正之公が、かつて上京して参内の節使用した傘に、その形を模して製作したもので、子孫に伝え、須叟(すゆ)も尊王の志を忘れないように子孫を訓誡したものである。
 隊伍粛々として、御所の西北をめぐって練兵場に出た。その場所は建春門の北数十歩の所で、高いところに天覧所を設け、聖上の御席とし、公卿、諸侯が左右に居流れて陪覧することになっていた。各官位の品等に従って席順がきまる。わが君臣は、雨をいとわず、泥濘を踏んで、馳駈、進止の操練を一周すませると、すでに暮方となった。
 そこで、ところどころに篝り火をたいたが、炎の光が甲冑に映じて閃然たるうえに、雨がふりそそぎ、ほとんどが真戦場のごとき迫力であった。とり止めの命があって、日をあらためて、他日また見せよとのことであった。

 



 恩賜を拝す     翌日、詔があってわが公を召されたが、わが公は病いがあって、中条信礼が代わって参内したところ、左の恩賜を拝した。

馬揃え叡慮の儀、雨天に候わば日送りのはずに候ところ、俄かに御覧あそばさるべき旨仰せ出だされ、いささかの差支えもなく大軍火急にさし出し候段、かねて武備充実、行届き候段、深く叡感思し召され、じつに御頼母しく思し召し候。よって目録の通り下賜候事。
 御目録
 大和錦 二巻
 白金  二百枚


 わが公は謹んでこれを拝戴し、賜わった銀を士卒に分け与えた。士卒はみな天恩の渥(あつ)いのに感泣し、報効の念はますます堅かった。
 その日は、朝から降雨しきりで、前に雨天順延の命があったので、過激の堂上の人々が、きっとわが藩が油断していることと思い、急に叡覧の命を下し、不意をついてわが藩の狼狽、遅滞するのを待って、大いに武備の不整を鳴らし、わが公に怠慢の恥辱を与えようとの魂胆であったのが、準備一つも欠けるところなく、すぐさま大軍の操練を叡覧に供え、意外の賞賜までこうむったので、案に相違した彼の人人は、これより、さらにわれわれを憎む心をつのらせたと言う。

 



 日光戦袍に輝く     八月五日、ふたたび馬揃を催して、天覧に供した。その儀はすべて三十日のときと同じである。
 わが公は、前日賜わった大和錦を、戦袍〔陣羽織〕につくってこれを着て、軍隊を指揮した。
 その日は天気晴朗で、日光が戦袍に映え、璨然(さんぜん)として、あたかも天恩を一身に荷う栄を耀(かが)やかすかの観があった。薄暮に調練が終り、諸隊粛々として退場した。聖上は、特にわが公を戎衣のままで、御車寄(おくるまよせ)の階(きざはし)の下まで召され、叡感の詔があったゆえ、水干(すいかん)と鞍、黄金三枚を添えて賜わった。
 わが公が最初入京したときは、都の人々は、東北の雄藩とはつたえきいていたが、まだその実力を見たことがなかったので、ひそかに軽視する輩も多かったが、今目のあたりその操練を見て、進退、肘が指を使うごとくであり、また兵仗の具備しているのを知って、初めて噂ばかりでないことがわかったという。(この日、わが藩の練兵の後で、因幡、米沢、備前、阿波などの練兵もあった。)

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/05(月) 11:41:26|
  2. 京都守護職始末1
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