いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十六  土佐、会津の提携     『京都守護職始末1』

 土藩家臣の来訪     山内豊信朝臣は、有力な公武一和論者であったが、その藩論が二派に分れ、その過激論者には、豊信もほとんど駕御に苦しんでいた【注一】。
 このころ家臣の下許武兵衛、生駒清次らが、わが藩士広沢安任らの寓居を訪れて、語るには「老寡君容堂(豊信朝臣)の命をうけ、京師に来て事情を察し、力をつくしたいと思うが、同藩の過激の徒でふるくから京師にいるものを、帰国させたい老寡君のお意志であるのに、彼らは過激堂上の間に根を張っているので、老寡君にもほどこす術(すべ)がない。しかし、今ではその数も減って、止まるものは十数人のみで、武市半平太、平井収二郎の輩にすぎない。この者らは、藩では微賤の者にすぎないが、私論をもって老寡君の意を一藩の定論のごとく言いふらし、過激の堂上を欺くばかりか、また堂上に迫って老寡君を説得し、重く登庸せしめようという野心もある。老寡君が徳川二百年来の恩義を感じ、幕府を助けて尊王の実をあげたいと思っているこころは、貴藩とおなじである。これよりは、願わくば嫌を抱かないで欲しい」ということであった。
 はじめから豊信朝臣とわが公は、交情こまやかな間柄ではあったが、その藩臣同士が胸襟をひらいて語りあったことはなかった。
 ここに土佐、会津の提携がやや緒に就いた。

 



 不穏なる流説     さきに、小栗下総守が勅旨をもって東下したが、幕府は牧野鋼太郎を入れちがいに上京させたので、勅書の奉答を授けるにはいたらなかった。その後、わが公は、鋼太郎を江戸へ帰すにあたって、家臣野村直臣をさし添え、切に後見職、老中の上京を促したが、すでに後見職は辞職を奏請した後なので、これに応じようとしない。
 ところが朝議で、後見職辞退の請をゆるさず、かつ上京の催促があったので、後見職からも、近日のうちに上京するという報があった。
 わが公は、すぐさま殿下を通してこの由を内奏し、その上京の日を待っていた。
 そのころ、京中に流説があって、不日、車駕が大和に御幸があると言い、つづいて、大和行幸のあとで、火を放って京中を焼き払い、還幸の叡念を断ち、ただちに錦旗を箱根山にすすめ、幕府討伐の兵を挙げるのだと、耳から耳につたわって、人心ようやく驚動することとなった。
 わが公はこれを怪しんで、人を派して探らせたところ、某は錦旗製作の命をこうむったとか、某所で刀槍をつくっているとか、続々と報告があつまってきたばかりか、ことごとくたしかな証拠がある。

 



 大和行幸の令     はたして、八月十三日になって、伝奏衆から攘夷祈願のため大和に行幸あらせられ【注二】、畝傍山【注三】および春日神社【注四】に参拝し、それがおわるとしばらく同地に駐輦のうえ、親征の軍議を定められ、そのうえで伊勢神宮へ行幸あるとの勅命を伝え、また加賀、薩摩、長門、肥後、土佐、久留米の六藩に、右の費用金十万両をさし出すようとのことであった。
 この勅が下ると、わが公は言うに及ばず、公卿中にも、思いがけないことに喫驚するものがあり、わが公はとりあえず関東に書を送って、親征の勅と目下の京師の情況を報じ、終りに、国事についてはほとんどほどこす術がなくなったが、ただ一縷の望みがあるのみであると言ってやった。それというのも、叡旨のあるところを知って、ひそかに心に決するところがあったからである。

 



 親征の陰謀     そもそも親征の議の初唱者は、真木和泉で、長門の久坂義助、周布政之助、佐々木男也、肥後の轟武兵衛、宮部鼎蔵、河上彦斎、土佐の武市半平太、吉村寅太郎などがこれに賛同し、まず毛利定広朝臣に入説してこのことを献議したが、叡慮が採納あらせられないのを見て、また毛利慶親卿に入説して親征の建議をさせた。慶親卿がこのころ在国なので、益田右衛門介、根来上総に建言書をつくって京師に送らせた。
 姉小路少将暗殺の事があって以来、朝廷に充満した過激派の人々は、薩摩藩に嫌疑をもち、これを疎外したために、中川宮、近衛家など薩摩と親交のあった人々は、ひそかにはばかって、朝議に参列するのを避け、それ以後長門藩がにわかに勢いを得、常に公卿の門に出入し、過激論をふりまわすので、浮浪の徒もこぞってこれを推重した。
 つづいて、疎暴な外国船砲撃を敢行すると、彼らは、これを無比として賞賛し、さかんに堂上家を煽動したので、過激の堂上は日に日に勢いをえて、ついに関白、伝奏をしのぎ、勅を矯(た)めて、勝手に号令することもしばしばであった。聖上はこれを悪(にく)ませられたが、時の勢いで、いかんともなし賜うことができず、むなしく憂悶のうちに過ぎさせ賜うた。
 過激派の人々は、さきに島津三郎お召しの儀があったとき、一旦は叡慮を枉(ま)げさせ奉ったものの、事態が変ずることを感じて、にわかに関白、伝奏衆に迫って、大和行幸をすすめ奉り、さらに勅を矯めて親征を宣告するにいたったものである。

 



 中川宮左遷のたくらみ     中川宮は、主上からもっとも信任厚い方である。それに、宮は熱心な公武一和論の方なので、過激派は宮に注目し、すこしの過失でもあれば、それに乗じて退け奉ろうと考えていたが、宮の方でもはやくからその奸謀を洞察し、恭謹翼々、すこしの乗ずるすきを与えられない。
 ところで、わが公の建議で、慶喜卿の西上の期日が近づいてきたので、激徒は、その着京の前に事を挙げようと謀った。それには、宮が邪魔なので、まず宮を京師の外に出して、そのあとで事を挙げようということになり、月の七日、宮の参内せられたとき、長谷信篤卿らが宮に迫り、九州鎮撫に下られることを要請した。
 宮はこれをきいて、九州が動揺しているとはまだ聞いてないが、それならば何をいったい鎮撫するのかと反問された。しかし、十四日になって、長谷信篤卿から宮に、正式に九州鎮撫使の勅をつたえた。宮は、やむをえず、天皇の御前に咫尺(しせき)してそれから受けよう、と答えられた。





 【注】

【一 駕御に苦しんでいた】 土州藩には、小八木五兵衛(正躬)を中心とする門閥層の佐幕攘夷派と、吉田東洋の佐幕開国派と、武市瑞山(半平太)を首領とする下級藩士中心の尊王攘夷派との三派があった。佐幕攘夷派の背後には、藩主豊範の実父豊資がおり、吉田東洋を親任していたのは、前藩主山内豊信であった。安政五年、山内豊信は一橋党として活躍したため、藩主を退き隠居したが、文久二年武市瑞山らは、藩政を掌握していた吉田東洋を暗殺した。これ以後、反吉田派の保守派と尊攘派との連合政権が藩政をとったが、尊攘派は京都の勢力を背景に次第に藩の動向を支配した。豊信は文久二年四月、幕府のとがめを許されて、ふたたび中央政界と藩政に活動することとなったが、彼の穏健な公武合体論と武市瑞山らの立場とは相い容れなかった。しかし尊攘派が豊資を擁し、かつ朝廷と関係をもっていたため、豊信はこれを抑圧できず、また瑞山を東洋暗殺の罪で処罰しようとしてできず、やむなく京都藩邸留守居加役に任じ、その行動を掣肘するに止めるという有様であった。瑞山一派は、陰に豊信に反抗し、その行動を妨害し、豊信は京都政局に不満をいだいて、文久三年三月帰国してしまった。
     
【二 攘夷祈願のため大和に行幸あらせられ】 文久三年七月、長州藩は重臣益田弾正、根来上総を上京させ、攘夷親征、違勅の幕吏、諸侯の討伐を奏請することとした。 弾正らは十八日鷹司関白に親征を説いた。関白は親征の可否を在京中の因州藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政、阿波藩主あとつぎ蜂須賀茂韶、米沢藩主上杉斉憲に諮問したが、いずれも反対の意を表明した。しかし尊攘派志士は猛烈に公卿を説得し、三条実美らの尽力で、ついに八月十三日、大和行幸の詔が下った。

【三 畝傍山】 奈良県高市郡にあり、神武天皇御陵の所在地。

【四 春日神社】 奈良にあり、藤原氏の氏神として有名。

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  1. 2012/11/05(月) 13:12:24|
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