いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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源忠誠公略年譜     『京都守護職始末1』

 公は諱を容保、号は祐堂、または芳山と言う。陸奥の国、会津の城主松平氏第八世忠恭公の嫡子となったが、じつは美濃の国高須の城主従四位下左近衛権少将、中務大輔松平義建朝臣の第六子で、母は古森氏、天保六年十二月二十九日、江戸四谷の第(やしき)で生まれた。小字は銈之丞、弘化三年四月二十七日、忠恭公の嫡子となり、その女を配された。
 八月十五日、はじめて大将軍徳川家慶公に謁した。十二月十六日従四位下侍従に叙任し、若狭守を兼ね、家例をもって溜間詰となった。嘉永五年二月十日、父公が薨ぜられた。潤の二月二十五日封を襲ぎ、肥後守に遷る。この月、家老六人が大将軍の謁をたまうなど、すべて家例どおりである。十二月二十六日、左近衛権少将に進んだ。
 六年四月、安房、上総の戍所を巡視して、士卒の操練、舟船の運用などを視てあるき、また封内の孝義者および力田の者を賞し、高齢者に賑給した。
 六月米国使節ペルリが相模国浦賀に来航し、国書を幕府に呈して、和親条約を結ぶことを請うた。幕府はすなわち有司をつかわしてこれを久里浜に延いて会見するに当たり、わが藩は命をうけて舟師を出し、これに備えた。幕府は和親条約の許否について、諸大名の議を徴した。公は、同班の井伊掃部頭らとともに、宇内の情勢を論じて許可すべしと建言した。この時、わが藩兵は大いに房総守衛の警備を張り、城邑の兵もまた馳せ参じた。後に、幕府はその労を賞した。十月幕府はわが房総の戍衛を免じ、さらに品川湾第二砲台の戍衛を命じた。
 安政元年正月、米国使節がふたたび来航して、幕府に回答を求めた。公はまた前の意見を執って、進言するところがあった。幕府はついに和親を許すこととなった。
 六年九月、幕府はわが品川湾砲台の戍衛を免じ、蝦夷の地(東西別より西沢喜に至る。その間網走地方を除き、海岸およそ九十里)を賜うた。ここにおいて士卒を移して、拓地および漁事を監督させた。
 万延元年三月、江戸桜田門の変があった。幕府は急に溜間の諸侯を召した。公は道をいそいで江戸に到り、ついで、幕府と水戸藩のあいだを調停するところがあった。十二月十二日、左近衛権中将にすすむ。
 文久元年十月、夫人卒去された。
 二年五月三日、幕府は公に命じて大政に参与させた。潤八月朔日、幕府は公を京都守護職とし、正四位下にのぼせ、職棒五万石を賜うた。十二月九日、上京の途にのぼり、二十四日京師に入り、黒谷金戒光明寺を宿館とした。
 三年正月二日、はじめて参内、就任のことを奏し、物を献上した。親王、準后にもおなじく献上した。この日、小御所で竜顔を拝し、天盃を賜い、そのうえ御料の純緋の御衣を賜わった。さきに幕府に建議して、勅使待遇の礼を改正させた功を賞し給うたのである。四月、ふたたび参内、正月の賀を奉り、物を献じた。以後それが例となった。これよりしばしば参内、または親王、摂関、公卿の間を来往し、大いに公武一和のために尽瘁した。よってかしこくも聖上から御信任をこうむり、恩遇日に優渥を加えた。
 三月四日、大将軍家茂公が上洛した。公はそのため、公武のあいだに尽瘁した(それより再三上洛があったが、くわしいことは本書のなかにあるので、略して記さない)。
 七月二十九日、はじめて軍隊操練を天覧に供え、その翌日、大和錦二巻、白銀二百枚を賞賜あり。八月五日、ふたたびこれを天覧に供え畢って、水干、馬具、黄金、などを賜わった。十八日、長門藩士が堺町御門の守衛を免ぜられた事件があった。公が参内して鎮撫にあたったが、そのことも本編にくわしく記してある。
 二十四日、幕府は将軍家佩用の双刀を賜うた。その時の功を賞したものである。二十六日、朝廷でもまたその功を賞し、御待古しの御末広と絹五匹を賜い、かつ兵士たちには金若干を恩賜せられた。十月九日、さらに宸翰と御製二首を賜わって、公の忠誠を優賞し給うた。
 十五日、幕府は、わが守護職就任以来、用途多端なことを察して、累代の領地陸奥会津大沼郡五万石の地を役知として賜うた。十二月十三日、幕府、備前行包の刀を賜い、さきに将軍家上洛のあいだの輔弼の功を賞した。
 元治元年二月ふたたび宸翰を賜わり、公武一和についての叡旨数カ条を下し賜うた。十日、幕府は公の就任以来の励精を賞して封五万石を加え賜うた。
 十一日、幕府は勅を奉じて、毛利慶親卿父子の罪を問おうとした。そこで、公は守護職を罷め、陸軍総裁職となり、ついで軍事総裁職と改めた。
 十二日、朝廷は、公の就任以来の功労を嘉賞あって、参議就任の詔があったが、公はそれを辞退した。さらに、この叡賞を祖宗正之公に移し賜わんことを奏請し、允栽があり、正之公に従三位を贈られた。十六日、また宸翰を賜わり、御依頼の内旨を下し給うた。この日、将軍家は御手ずから備前秀光の刀を賜い、守護職勤中の労を慰められた。三月十四日、朝廷は奏請をゆるして参議を免じた(これよりさき、公卿、諸侯を国事参与としたが、わが公もまたこれに輔された)。四月七日、幕府は公の軍事総裁職を免じて、ふたたび京都守護職に任じた。けだし叡慮から出たものである。
 六月、毛利慶親卿はその家老福原越後らに兵を授けて上京させ、七月十九日、長門藩士国司信濃らが兵を率いて禁闕に迫った。公は病を冒して参内、防備を指揮し、ついにこれを撃退した。その後、禁内に数十日宿衛をつづけ、そのため病重く、奏請して旅館に療養した。
 九月五日、朝廷は公の忠勤を嘉賞あり、兼恒作蒔絵装飾の短刀を賜うた。六日、聖上は公の病悩を宸憂あらせられ、特に内侍所にその平癒を祈らせ給い、御幣、洗米を賜わった。
 十四日、幕府はわが守護職中の費用の多端を察し、月々金一万両、米二千俵を賜うた。二十二日、また大和包清作の刀を賜い、さきの将軍家滞京の輔弼の功を賞した。十二月十八日、幕府は去る七月十九日の功を賞して、筑前国弘作の装刀を賜うた。
 慶応元年四月九日、聖上は公の病が小康をえたと聞こしめされ、関白二条斉敬に詔をつたえ、杉折と御物数品を賜うた。
 二年七日、大将軍家茂公は大阪城にあって、病いがつのり、二十日、ついに薨じた。一橋慶喜公が入って宗家を嗣ぎ、十二月五日、征夷大将軍に任ぜられた。この月、水戸の故中納言斉昭卿の第十九子、余九麿を養嫡子ときめた。後、将軍家はこれに首服を加え、偏諱を賜うて、喜徳とあらため、従四位下侍従に叙し、若狭守を兼ねた。
 この月、聖上御悩、公は日夜参内し、天機をうかがい奉った。二十九日、ついに崩御。公は御葬送の供奉を勤めた。
 慶応三年正月、御大葬によって征長解兵の例が出た。四月四日先帝の御遺物を拝蔵した。二十三日、参議に推された。この日、兵庫開港の勅許が出た。
 これによりさきに、英仏等の諸外国の公使が、幕府にこれを請うことしきりであった。わが公は将軍家の旨を奉じて、時勢のやむをえないことを論じて、公卿、諸侯に説いたので、ついにここに至って請を允された次第である。
 十月四日、土佐藩士後藤象次郎が主命をもって、幕府に政権奉還をすすめた。公は、それに賛同であった。
 十四日、将軍家政権奉還を奏請した。翌日にその允栽があった。二十四日、征夷大将軍の職を解かれんことを奏請し、即日允栽があったが、なおしばらくは旧通り政事にあたらせられた。
 十二月九日詔があって、摂関、幕府、伝議両奏、守護職、所司代等が廃された。そこで十二日、徳川内府以下がことごとく大阪に退いた。
 四年正月、徳川内府が詔によって上京した。わが公もこれに従うた。
 三日、わが前駆の一隊が京師守兵の砲撃に逢い、対抗したが、ついに利なく、大阪に還った。つづいて内府以下、東下の途についたが、わが公もまた同道した。
 十二日、江戸に還った。その時に、朝廷から徳川氏征討の大号令があったことを伝え聞いた。そこで二月四日、書を輪王寺宮にたてまつり、救解を哀請し、即日致仕した。
 この日、わが家老連署で、尾張以下二十二藩の救解を願い出た。十六日、わが公は江戸を発し、二十二日、会津に帰った。
 その時に、朝廷から、わが隣藩に命じてわが藩を征するという報があった。そこで書を贈って、その冤を弁疏した。また仙台、米沢以下の諸藩も連署して、鎮撫総督に書を呈し、わが藩の無罪を訴えたが、その言が聴かれず、賊に味方するものとされた。ここにいたって哀訴の路が絶え、ついに奥羽同盟が成立した。
 八月、西軍がわが封境に迫った。君臣籠城し、死守防戦、数旬にわたったが、衆寡敵せず、城をあけわたして罪を請うた。
 十月十九日、公父子は会津を発し、十一月二日東京に入った。即日、公は因幡藩に、世子は久留米藩に幽閉された。十二月七日、さらに両藩に永の預けということになった。
 明治二年五月、わが家老萱野長修は首謀の罪で死刑に処せられ、その余はことごとく、死を宥された。六月三日、容大公が生まれた。
 九月二十八日、家名再興の恩命があり、十一月四日、華族に列せられ、陸奥国で高三万石支配を命ぜられた。十二月七日、さらに公を和歌山に遷した。
 四年三月十四日、公父子の御預けが解け、家にあって謹慎することになった。
 五年正月六日、謹慎を解かれた。九年十一月一日、特旨をもって、従五位に叙された。
 十三年二月二日、東照宮々司に補された。三月十三日、上野東照宮々司を兼任した。五月十八日、特旨によって正四位にのぼり、六月二十一日、岩代国土津神社祠官を兼ねた。十七年、願いによって東照宮々司を免ぜられた。
 二十年九月、ふたたび東照宮々司に補された。二荒山神社宮司を兼ねる。十二月六日、従三位にのぼった。二十六年九月二十二日、願によって二荒山神社宮司を免ぜられた。十二月四日、特旨をもって正三位にのぼった。
 五日、病んで薨じた。年五十八。諡して忠誠霊神という。九日、東京内藤新宿正受院域中に神葬された。
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  1. 2012/10/23(火) 18:16:26|
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