いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十七  薩摩、会津の提携     『京都守護職始末1』

 君側の奸     この月(八月十三日)、薩摩藩士高崎佐太郎(今の正風)が、わが藩の秋月胤永の住居を訪れ「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わが輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思うに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」と、その意気昂然たるものがあった。胤永らも、はじめからその気持ちがあるものの、勝手に協力を諾すわけにもゆかず、ただちに黒谷に急いで、そのことをわが公に啓(もう)した。
 わが公もその意(こころ)なので、許容し、まず胤永と佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の由を白(もう)させた。宮は大いに悦び、身を抛(なげう)って宸翰を安んじ奉ろうと誓い賜うた。

 



 二条公らを説得     そのとき、たまたま聖上は神事を行なわれていたので、宮はまだ法体であるため宸翰に近づき給うことができず、十六日、神事の終るのを待って、ただちに参内し、事の顛末を奏し、勅許をえて事をはかろうと企画を立てたが、これほどの大事を決行するのには、主上の御親任ふかい近衛前殿下御父子並びに二条右府の賛助をえなければならない。そこで、薩摩の士が近衛御父子に説くことを約束し、二条公の方をわが藩士が説得することに手はずをきめた。
 わが公は、大野重英を二条邸につかわし、大野が公と謁見し、くわしく事情を陳述し、非常手段で革新を計るのでなければ、国事はついになしがたいと、至情面(おもて)にあらわれて、縷々(るる)数千言を陳べたので、公もやや覚る色があったが、会津と薩摩の兵力で、過激の浪士や長州兵を圧伏することがはたしてできるかと疑い、たやすく賛同しようとはされなかった。
けだし、なまじいな事をしでかして、不測の過乱のもとになっては、という心づかいからであった。
 重英はそこで、皇極天皇の御世、御祖先の鎌足公【注一】が中大兄皇子を助けて、賊臣蘇我入鹿を誅し賜うたことを思し召せば、今日の場合、躊躇なさることはすこしもないことを色を正して言上したところ、斉敬公は、膝をはたと拍(たた)いて、「汝の言う事はもっとも至極である、ともに力をつくそう」と言われた。また、前殿下御父子の方は、薩摩の藩士の力で説を入れ、ことなく賛同された。

 



 帰国の兵を召喚     わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、藩制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。
 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

 



 浮浪の徒ら騒ぐ     浮浪の徒らは、しきりに市民を煽動して、堀川通の糸問屋某の家に放火したりなど、狼藉至らぬところはなかった。
 町奉行の同心らが見かねて制止したが、及ばない。
もっとも糸問屋某は、平生貪慾で悪(にく)まれていたうえ生糸を外国人と貿易していたので、浮浪の徒がこの挙に及んだものである。町奉行は人を走らせて、わが兵を出して鎮撫するよう乞うてきたので、わが兵が行ってみると浮浪の徒は立ち去ったあとであった。
 このほか、京師での浮浪の徒の暴状は一日も止まず、わが藩が帰途の兵をよびもどして、二陣の兵を屯在させても、人はみな浪士鎮圧のためと思って、わが藩深謀を気づく者はなかった。

 



 中川宮の密奏     十六日、寅の刻(午前四時頃)、中川宮は、九州鎮撫使を辞退のため上奏するという風をよそおって参内したが、誰もこれを疑うものはなかった。そこで宮は、ひそかに奸臣を除く議を奏上した。主上ももとよりその叡念があらせられたが、時機については、まだまだ危疑したもうところがあったので、すぐそれとはおゆるしがなく、辰の刻(午前八時頃)になって、宮はついに退出された。
 その朝、安任(広沢富次郎、会津藩士)、胤永らが佐太郎とともに中川宮家に伺候したところ、宮は未明に参朝され、早天に勅許を手に入れ、諸堂上がまだ参朝しない前に、会、薩の兵にいちはやく禁門を堅めさせ、勅許のある堂上のほかは、一人も入朝をゆるさないで、そのあいだに事を謀ろうという手はずになっていた。それに、宮がなかなか退朝されないので、堂上の人々のなかでも過激派の国事掛が続々と参内してきて、当初の計画が行われそうもない形勢になってきた。
 安任、佐太郎らは、事すでに破れたと思い、一方では賀陽殿(中川宮邸)に候し、一方では黒谷に急を報じた。
 やがて宮が退出されたので、謁して様子をうかがうと、まだ事がやぶれたというわけではない。しかし、万一密議が洩泄するような場合、宮の御身にとってゆゆしい大事となることは必然であるから、宮も大いに御苦慮の態(てい)で、もし事がもれたとなったら、すみやかに東行して【注二】名護屋にゆくほかはあるまいと大息をついていられたという。

 



 兵力で国家の害を除くべし     この夕(十六日)、主上から中川宮に宸翰を賜い、因州、会津の兵に令して、兵力をもって国家の害を除くべし、と勅したもうた。
 主上が特に因州を指定されたのには、ゆえのある事である。前に、池田義徳朝臣が叡慮のあるところを知って、親征を諫め奉ろうと思い、そのことを二条斉敬公に謀った。公もまた池田の意見を然りとし、中川宮にこれを謀った。宮はそのことを内奏されたので、朝廷で論議させたうえで、嘉納されようとした。
 慶徳朝臣はそこで、池田茂政朝臣、蜂須賀茂韶朝臣、上杉斉憲朝臣らと議し、ともに参内して親征の不可を論議した。殿下と過激の堂上らは、朝臣の議を聞いて一座よろこばず、殿下は怒って退朝され、しばらくあって勅を四侯に伝えた。
 それには「幕府の怠慢はすでに久しい。朕の意は決した。汝らはしたいようにするがよい。朕は大和行を止めることはできない」とあったので、四侯はただ恐懼して退いた。叡慮は嘉納されようとしたけれども、ついに叡慮のとおりにならなかったことは、おそれ多いことである。
 慶徳朝臣は、叡意のあるところに惑い、真の逆鱗にふれたかと思って、待罪書を出された。主上がいま、とくに因州の兵と詔を賜うたのは、その時のことがお心にあったからのことだということである。

 



 深夜参内の命     翌十七日の夜、中川宮、近衛前殿下、同左大将、二条右府、徳大寺内府らの同志の人々は急に令旨を下して、非常の大義があるにより、守護職、所司代、それぞれ人数を引率して、翌十八日の子の半刻〔深夜十二時頃〕に参内するよう、かつ薩摩藩にもこの旨を通達するようにとあった。
 それでわが公は、いそいで兵を率いて参内した。中川宮、近衛前殿下、二条斉敬公、徳大寺公純公、近衛忠房卿らもまた相前後して参内された。議奏加勢の葉室長順卿によって、禁門はことごとく鎖(と)ざされ、わが藩兵と薩摩藩、所司代の兵がそれを守ることになり、非番の堂上の参内を停め、守護職、所司代および薩摩、因幡、備前、越前、米沢のほかは諸藩の士の九門に入ることを禁ずる由、命を伝えられた。

 



 八月十八日の変     天(そら)明けはなれて、因幡、備前、米沢の三侯と、阿波の世子茂韶朝臣、山内豊積(豊信朝臣の弟、兵之助と称した)等の人々が、おいおい参内した。後に勅して、中山忠能、正親町三条実愛、阿野公誠の三卿を議奏に復職させたが、三卿はそれを辞退したので、柳原光愛、庭田重胤の二卿を議奏加勢とした。
 中川宮は勅を宣(の)べられた。

この頃、議奏並びに国事掛の輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざる事を御沙汰の由に申し候事少なからず、なかんずく御親征、行幸などの事に至りては、即今いまだ機会来らずとおぼしめされ候を矯(た)めて、叡慮の趣に施工候段、逆鱗少なからず。攘夷の叡慮は動き給わざるも、行幸はしばらく御延引あそばされ候。いったい右様の過激、疎暴の所業あるは、まったく議奏並びに国事掛の輩が、長州の容易ならざる企てに同意し、聖上へ迫り奉り候は不忠の至りにつき、三条中納言始め、おって取調べ相成るべく、先ず禁足し、他人との面会は止められ候事。

 よって、実美卿はじめ議奏、国事掛の人々二十余人に禁足、他人との面会を止め、左のように達せられた。

思し召しをもって、参内並びに他行、他人との面会は無用の旨を仰せ出だされ候。よって申し入れ候也

 



 堺町門の守衛を解く     やがて、鷹司殿下が召しによって参内した。三条実美卿のために救解しようとしたが、近衛忠房卿がこれを駁し、いそぎ彼を召して、前日来の事々に証拠をつきつけて詰問しようと息まいたので、延上はようやく動揺したが、わが公が進み出て、いま実美を召して詰問することは妥当なことであるとしても、いたずらに紛議をまねくにすぎないからと言ってこれを制した。衆議もそれに賛同して、このことは収まった。
 これらの論議で刻(とき)が移り、午後となり、執次鳥山三河介を使いとして、長門藩の堺町門の守衛を解き、所司代の兵がそれに代わった。

 



 長藩ら開戦の勢     これよりさきに、毛利讃岐守元純(長州清末藩主)、吉川監物経幹(周防岩国の藩主、毛利の付庸)、増田右衛門介らは、変を聞いて藩邸から兵を率いて来り、助けた。勅が下っても、あえて命を奉じようとせず、甲冑姿で長槍をたずさえるものもあった。また、銃隊を門の左右に並ばせ、大砲を備えて、放射の位置を試すなど、ほとんどまさに戦を始めるばかりの形勢であった。
 薩藩の兵がこれを見て、勅が下っても奉じようともしないのは、明らかに違勅である、すみやかに掃蕩すべきであると、そのことを請うた。わが公は大いにこれを不可とし、切に諭して、軽挙を止めた。
 このころ、実美卿もまた、三条西李知、東久世通禧、豊岡随資、日野資宗、万里小路博房、滋野井実在、川鰭公述、橋本実梁、東園基敬、壬生基修、四条隆謌、錦子路頼徳、鳥丸光徳、沢宣嘉などの人々と、かつて朝廷から微集した守衛兵や諸浮浪を合わせて二千人ほどを引きつれ、鷹司邸に集合し、長州人とともに、勅命に楯つこうとしているもののようであった。すでにして、殿下の言葉によれば、長州勢はおよそ三万あって、その優勢当るべからずとのことであった。

 



 諸公卿色を失う     思うに、朝議を傾けるための威嚇とわかっているのに、はたして諸公卿は、おどろきのあまり顔色を失い、ひさかにわが公にむかって、貴藩の兵は幾許(いくばく)かなどと、しきりに問いかける。公は、もとより、長州兵や浮浪の徒がわれに敵すべくもないことを知っているので、弊藩は小藩ながら精兵二千を在京させているから、めったなことで敗北することはない 、心配は御無用、と言っても、堂上の人々はなかなか納得せず、会津兵が強悍だとしても、二千と三万では勝負になるまいとひそひそと私語しあい、動揺の色が濃くなってきた。
 わが藩士は勇を鼓し、勢を張って、一挙に彼を圧しようと、薩摩の藩兵とともに、後命を持っていた。

 



 実美らに退散命令     時に朝廷では、柳原中納言光愛卿を使いとして、長州藩の営に行って諭してみたが、彼らはなおも命を奉じようとしない。そこで、さらに上杉斉憲朝臣に命じて諭させたが、斉憲朝臣が堺町門まで着いたときは、長州の隊将増田右衛門介は一書をのこし、兵を率いて立ち退いたあとであった。その書の大意は、帰国して攘夷の先鋒となると言うことのみであった。
 実美卿らが勅命に背いて、鷹司邸に参会していることが朝廷の耳に入ったので、宰相中将公正卿(清水谷)が勅使となって、左の朝命をもたらした。

思し召し以て、参内並びに他行、他人面会無用の旨を、今朝仰せ出だされ候ところ、鷹司家に集会の由、容易ならざるの儀、違勅軽いからず候。参政、国事寄人止められ候。早々に退散すべく候事。





【注】

【一 御祖先の鎌足公が…】 六四五年、中大兄皇子(後の天智天皇)は藤原鎌足らと、当時権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿父子を誅し、大化改新への道をひらいた。その故事をさす。

【二 東行して】 「西行」の誤りであろう。名護屋におもむくとは、九州鎮撫使に就任、筑前名護屋に赴任することをさす。

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  1. 2012/11/05(月) 14:00:58|
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