いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

二十八  七堂上の西奔     『京都守護職始末1』

 脱走堂上の官位を奪う     この御沙汰で退散した国事掛の人人もあったが、実美、李知、随資、実在、基敬、通禧、基修、隆謌、光徳、宣嘉などの人々は、長州兵と守衛兵の一部、浮浪の徒などを引きつれて、妙法院(大仏)に退き、毛利元純、吉川経幹、益田右衛門介、久坂義助、佐々木男也(以上長州藩人)、真木和泉守、水野丹後(後の渓雲斎)、淵上郁太郎(以上久留米藩士)、土方楠左衛門、静岡半四郎(今の公張、以上は土佐藩人)、宮部鼎蔵(肥後藩人)、美玉三平(薩摩藩人)、南部甕夫等と会して評議をこらした末、ついに西奔と決し、その後の勅命を持つにも及ばず、未明に大仏を発して長州に向った。そのうち、随資、実在、光徳などの人々は異見があって、西奔に加わらず、自宅に帰って謹慎していたということである。
 ここにおいて中川宮は、さきに鷹司殿下が、実美卿を寃(むじつ)として庇ったのはどんなつもりかと詰(なじ)った。
殿下は答える辞(ことば)がなく、咎を引いて、職を辞そうと奏請したので、宮はまた殿下を救護し、元の職にあって事局のあとじまりをつけるようにと奏請した。
聖断は、これを允(ゆる)された。そこで、七人の脱走堂上の非義を罪して、その官位を褫奪した。
 七人が京師を去ったのは、その名目は攘夷の先鋒にあるが、その実は謹慎、蟄居を命ぜられた身でありながら、守衛兵を勝手に指揮して、鷹司邸に集合させたことなど、その罪の軽くないことを知っていて、罰を恐れて逃亡したものである。

 



 建言秘録     後になって、真木和泉の書いた建言秘録【注一】と題した冊子を入手したが、そのなかに、親征の部署としての堂上諸侯の配置、鳳輦(ほうれん)の左右前後の備えからはじめて、その大略を記し、また土地人民を収める条には、行幸の途からにわかに公卿二人、侯伯一人に詔をさずけて東下せしむべし、奉承すると、しないのとは、論ずるところではない、彼の手に入ってしまえば事はそれで終りであると記し、終りに詔の草案を漢文で書いて、その文中に、尾張以西は朕みずからこれを守り、三河以東は汝に委ねるとあった。親征の議の出所を、それで知ることができる。

 



 浮浪の徒さらに暴行     長門藩の外舶砲撃の挙があった時から、京都在住の浮浪の徒は、俄然勢いづいて、ふたたび兇暴を逞しくし、六月二十日の夜には二条家の諸大夫、北小路治部権大輔の家に数人が抜刀して闖入したが、北小路は不在だったので、兇刃を免れることができた。
 そして、二条家の門内に、左のような封書を投げこんで恐嚇した。

謹んで言上し奉り候。尊公様御事、高位にあらせられ、当御時節柄いよいよもって精忠を御励まし、叡慮を貫徹いたし候よう御尽力御座あるべく候ところ、かえって姦吏に通じ、種々奸媒をめぐらし御周旋なされ候事、あげて数うべからざる開には、攘夷は幕府に御委任しかるべく、御親政はよろしからずなどと御拒絶候よう承り候。
かの毒を献じ、宝祚を移し奉り相謀り候者に、皇国の一大事を御委任とは、いかがの事に候や。逆賊よりの賄賂を受け、王政に災するは逆賊の奴隷に御座候。
並びに近日、島津三郎御召し登せの一条は、中川王及び近衛殿、一条殿、九条殿など、姦謀を通じ、種々御周旋と承り及び候。ぜんたい薩州は、姉小路殿の一条よりは、不審の者に候ところ、事蹟いまだに分明ならず、ただ世上の風説かつ一両度存じ申さぬ旨陳謝仕り候とも、なんの証拠もこれなく、外に罪人も出来(しゅったい)申さざるに、何ゆえに急々召し寄せられ、その藩人も御築地(おつうじ)内の徘徊を御免に相成り候よう御周旋、御尽力なされしや。右の次第にては、九門の御守衛もあるかなきかのごとく、これまた金穀(きんもく)を貪りて御周旋と察せられ候。
それ金穀のために正道を捨つるは小人の志にて、大臣の所為にあらず、この段厚く御考察あらせらるべく候。爾来、御改正、御国威相立ち候よう、忠勤これなきにおいては、官位の重きといえど、止むことをえず推参仕るべく候。誠恐誠惶謹言。
この封、御主人様へ早速御さし出さるべく候。もし遅滞候わば、島田、宇郷(島田左兵衛権大尉、文久二年七月暗殺され、宇郷玄蕃頭は同年八月暗殺された。いずれも九条家の家臣)のごとく天誅を加うべきもの也。(表書は二条家諸大夫宛)


 同夜、徳大寺家にも同文の封書を投げ込み、そのうえ、その諸大夫滋賀右馬大允の家に、数人抜刀して闖入し、右馬と妻子を殺傷し、
「この者姦吏の賄を貪り、主家を因循に陥れた。よって天誅を加える」
 と張り紙をして立ち去った。つづいて、油商の八幡屋卯兵衛を殺してその首を梟(さら)し、攘夷の血祭りにするなど、日々残虐行為が絶えない。
 わが公は町奉行に令をくだして厳重に犯人を逮捕させたが、得るところがなかった。いま、真木和泉らの仲間が、長門藩士と京師を立ち去ると同時に、ぱったりと物騒なことはなくなり、京中はもとの平安にもどった。

 



 変を関東に報ず     この夜、わが公は所司代と連署で、京師のこの度の変を関東に報告した。
   
昨十七日夜、九時半、中川宮より御使者をもって、宮並びに二条殿、その外摂家衆のこらず参内これあり候につき、私共儀も即刻罷り越し候ように仰せ下され候につき、肥後守同道にて参内候ところ、議奏加勢の葉室より、書付をもって、薩州の御警衛以前の通り仰せつけられ、長州の堺町御門の御固めを御免と相成り、右の代りに所司代へ仰せつけられ候旨仰せ出だされ候について、その旨相達し候。
その後、在京の国持はじめ諸大名、のこらず差し出し候よう申しつかわすべき旨仰せ出だされ候ところ、十八日の午の刻(正午頃)までにのこらず出揃い申し候。
その以前に両役並びに参政衆、御国事掛、寄人まで、参内差し留むべき旨仰せ出だされ、堂上方のうち、中山、正親町三条、阿野ら、俄かに召し候旨仰せ出だされ候ところ、朝の四時より少々あて世間騒々しく相成り、堺町御門の番所の長州の人数とかく引払わず、異論などこれある由、差し留められ候堂上方は多分関白殿の御留守館へ集会し、その余の浪士の類も同所に集会仕り候趣、そのうち、御築地の内外など具足または甲冑、陣羽織など着用の者徘徊し、大砲など持ちはこび候につき、それぞれの大名へ御同所に出張し、持ち場などを仰せつけられ、めいめいに人数並びに武器をも取りよせ、夕方よりいよいよ盛んに相成り、すでに大事にも及ぶべき形勢に相見え候ところ、七つ半時すぎに相成り、柳原勅使に相越され、なお今朝、堺町御門に出張し、長州家来へ直談に相及び申すべきはずのところ、その儀にも及ばず、長州人数は、首尾よく引き取り申し候。
関白殿へは、堂上方十五人ばかり出むき候て、対談いたされ候やのところ、これまた打ち散じ候由、まず六つ半頃には、ようやく一時事しずまり申し候て、いささか人々安心仕り候儀に御座候。
さりながら、平穏と申すにてもこれなく候につき、今晩はいずれも、御門々々に差し出し候人数は、そのままにさし置き、もっとも主人には、諸大夫の間へ相詰め候ようにと、両伝奏をもって仰せ出だされ候。もっとも、伝奏は終夜参内に御座候。御推察下さるべく候。
そのうち、大幸の儀、大和行幸並びに御親征の御軍議の御延引も仰せ出でられ候ことに御座候。右等の書類は、そのうち取調べ、近々の内に申し上ぐべく候。
まずは右の次第、容易ならざる事ゆえ、ちょっと申し上げ候。恐惶謹言。(八月十八日夜、戌の刻に認む。閣老五名宛)


 この書面によれば、両伝奏衆もはじめは参内を止められ、後になって召されたものと見える。

 



 わが公の尽力     わが公は、十七日夜半に召されて宮中に伺候してから、しばらくも退休しなかった。十九日の夜になって、聖上は特にその労を思し召され、退いて休むようにと仰せ出だされた。そして、黒谷の館では遠いというので、施薬院を仮りの住居にあてよとのことであった。
 他の諸侯たちも、それぞれ薩摩兵の守っている九門内の営所に、宿泊をゆるされた。
 それからは、毎日わが公は参内して、しばしば朝議にも参画し、時には、徹夜で、施薬院の宿に退休するときには、夜があけかけていることもあるなど、心力をつくして万一に 報じられた。

 



 天誅組の変     はじめ親征の偽勅が下ったとき、かつて学習院に出仕を命ぜられていた藤本津之助、松本謙三郎、吉村虎太郎ら七十人が徒党をつくり、堂上の脱籍者中山忠光(忠光は大納言中山忠能卿の二男であるが、性来勇壮で、浮浪の輩と交際があり、時事に慷慨し、この年四月、朝廷に上書して攘夷の先鋒を志して九州に赴くと告げ、京師を出奔し、毛利秋斉と名を変えた。朝廷ではそのほしいままな行為を罰して、官位を褫奪した。その後、長門で暗殺された。)を首魁に仰ぎ、この月十七日、大和の国、五条の代官所に乱入し【注二】、代官鈴木源内をはじめ、家人たちをことごとく殺戮して、その首級を村はずれに梟(さら)した。そのかたわらに、
「この者共、近年、違勅の幕府の逆意をうけ、朝廷と幕府を同一とこころえ、聚斂(しゅうれん)をもっぱらとするにより、天誅を加える」
 と掲示し、代官所に火を放ち、百姓を駆り立てて、代官所有の金穀を略奪し、それを桜井寺まではこばせて本営とした。また、村役人を呼び集め「五条代官支配の土地は、今から天朝の御直支配となった。その祝に今年の租税の半分を免除する」と命令した。
 十八日、学習院出仕、島村寿之助、土方楠左衛門に書をよこして、「天兵のむかうところ草木もなびき、五条代官所支配の七万石の地と、旗下の領村十三ヵ村の百姓どもがことごとく服してきて、すみやかに御親征を待っている」と言ってきた。しかし、すでにその時には、島村たちは、長門藩士とともに実美公について脱走したあとであったので、手には入るずに終わった。

 



 賊潰滅す     しばらくして、奈良奉行山岡備後守景泰、高取の城主植村出羽守家保らから、一揆の襲来、応戦、斬獲などの報が続いたので、わが公はそれを一々上奏した。聖上は深く宸怒あり、伝奏衆からわが公に、急いで大和付近の諸藩を催促し、賊を掃蕩せよとの勅命があった。そこで、すぐさま檄(げき)を紀伊、平根、津、郡山などの近くの諸藩に飛ばして、掃蕩させた 。

一揆蜂起の趣、追々に天聞に達し、きびしく追討致すべき旨、野宮宰相中将をもって仰せ出だされ候事。
 八月廿九日 松平肥後守


 朝廷では、御使番の渡辺相模守、東辻図書権助をつかわして鎮撫させた。わが藩士外島義直、薩摩藩士三島弥平(後の通庸)、志々目献吉、土佐藩士福富健次、生駒清次らがこれに随行した。
 日ならず賊は平らいだ。
 十八日(八月十八日の変)の報告が江戸に着くと、その月二十四日、幕府はわが藩の家老田中玄清を召し出し、将軍家から親しくわが公の当日の労をなぐさめて、佩用の大小刀(大刀は筑前国貞行、脇差は備前国長船の住人守重)を賜い、厚く在京の家臣を褒せられた。

 



 偽勅説への対策     二十六日、聖上は在京の諸侯を召されて、親しく左の詔があった。

これまで勅命に真偽の不分明の儀これあり候えども、去る十八日以来申し出で候儀は、真実の朕の存意に候間、この辺、諸藩一同にも心得違いあるべからず。

 そもそもこのような勅諚の出た理由は、過激な堂上や浮浪の徒らが、八月十八日以後は朝廷での立場を失い、いまはなすすべなく、十八日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは、中川宮、松平肥後守などの奸臣どもが勝手につくり出した偽勅であると宣言したからである。
 浮浪の徒が偽造した宣言が、いかに叡慮を悩まされたかは、この年、島津久光に賜うた宸翰(後に全文を掲げる)を見れば知ることができる。

 



 奇怪なる流言     またこのころ、中川宮、斉敬公、忠熙公に連名で賜わった宸翰は左のとおりである。

元来、攘夷は皇国の一大事にて、なんとも苦心に堪え難く候。さりながら、三条はじめ暴烈の所置は深く痛心の次第。いささかも朕の了簡を採用せず、そのうえに言上もなく浪士輩と申し合せ、勝手次第の所置多端、表には朝威を相立て候などと申し候えども、真実の朕の趣意相立たず、誠に我儘(わがまま)、下より出る叡慮のみ、いささかも朕の存意は貫徹せず、じつに取退けたき段、かねがね各々へ申し聞かせおり候ところ、去る十八日に至り、望み通りに忌むべき輩を取退け深く深く悦び入り候事に候。
官位を解くの事も、急速に取計らい候よう、過日より度々申し聞かせ候ところ、ようやく承知いたしくれ、喜悦の事に候。重々不埒の国賊の三条はじめ取退け、じつに国家のための幸福。このうえは朕の趣意の相立ち候事と深く悦び入り候事。和州浮浪の一件も【注三】、容易ならざる事、右はどこまでも追討申しつけ候。すみやかに下知これあり候よう、浮浪も真実の朕の意を相立て候わば、依頼にも存じ候えども、三条はじめ暴烈に随従し、じつに罰すべき者に候。早々追討のよう分けて存じ候。
長州父子は温純の人ながら、藩士の暴烈おびただしく、右は厳重に罰したきことに候。各々精勤を頼み入り候。これまで度々、暴烈を取退けたき段、各々へ申し聞かせ候えども、一向応ぜず、深く朕の身に迫り難渋のところ、今日の姿に相成り、安心の事に候。
今度召し候諸藩の上着のうえは、朕の趣意貫徹を祈り入り、とかく末の見留なく暴烈にては、後患これあるべく、深く深く心配の事に候也。
 右大臣
 尹 宮
 前関白


 これほどまで叡慮が明白であるのにもかかわらず、浮浪の徒は論ずるまでもないとしても、慶親卿らの一派が、いまだに中川宮やわが公を叡慮を矯める奸臣である、などと流言していることこそ奇怪である。

 



 わが公へ恩賜     この月、伝奏衆からわが公に、左のような恩賜があった。

去る十八日、召しによって参内し、禁闕守衛に尽力の儀、厚く叡感候。これによって、御持ふるしの末広並びに絹五疋、これを賜わり候。かつ兵士の末々まで苦労に思し召され候につき、賜わり物それぞれ配分すべき事。(わが藩、その他二十余藩へ金一万両を賜い、士卒に分与せしめた。)

 



 毛利父子へ下命     二十九日、勅によって参政、国事係、寄人の職が廃された。また、朝廷から、左の命を毛利慶親卿ならびに定広朝臣に下された。

去る十八日、毛利讃岐守、吉川監物以下、家来共に不束(ふつつか)の取計らいこれあり、いかがかと思し召され候間、宰相父子へ取調べ仰せつけられ候。よって、しばらく九門内へ藩中の輩の往来は無用たるべく御沙汰候。かつ過日の行幸御治定につき、父子のうち上京すべきやの由に候えども、行幸は御延引の事 ゆえ、上京の儀も相見合わすべく、追って御沙汰これあるべき事。
去る十八日、増田右衛門介より勅使へ差し出し候書付二通返却の事。(八月二十九日)


 別紙
留守居並びに添役一両人は滞京し、その余は御用なく候間、帰国これあるべく候事。

 



 守衛兵を解散     九月三日、幕府はわが江戸邸留主居を召し、京師守衛の功を賞し、かつ費用の多端を察して、金五万両を賜うた。
 六日、さきに朝廷から諸藩に勅して守衛兵を徴発したのは、その実、過激の堂上がおのおの自家の爪牙にあてるためにしたことであったので、三条実美がこれを統率していた。実美らが京師から脱走したとき、守衛兵はこれに随伴しなかったので、朝廷では彼らの処分に困っていたところ、八月二十五日、薩摩、土佐の両藩は守衛兵の解散を建議してきた。その書に、

御守衛兵の儀は、これまで御先規もあらせられず候ところ、暴論の徒追々建白仕り候段これあり、畢竟兵力を借りて高貴の御方へ迫り、自己の暴威を廻し、あるいは、無名の刑獄を起し、遂に叡旨を矯め候に至り、京師の騒擾をかもし候事、実にもって国家の妨害甚だしかるべからざる御事と存じ奉り候。万一暖急の変出来候節も、畢竟烏合の徒にて、元帥任も御座なく、なんの御用にも相立ち申すまじく存じ候。方今、列藩の兵をもって警衛仕り候うえは、なおもってすみやかに相免ぜられ候て、各藩へさしかえされ候ように仕りたく存じ奉り候。
 
 この日、左の趣旨をもって、これを帰休させた。

御守衛のため、諸藩石高に応じ、強幹忠勇の選士を貢献の儀、御沙汰について先頃以来おいおい貢献、深く御満足に思し召し候。然るところ当節、富国強兵、武備充実専用の折から、各藩の選士を貢献候ては、自然費用も相かさみ、疲弊の一端にも相成り候ては、御不本意に思し召し候間、御残念には、思し召し候えども、各々さし返され候旨仰せ出だされ候事。

 はじめ守衛兵を置いてから、一年たたないあいだに、ついにこの令が出た。

 



 攘夷別勅使     さきに、幕府から三港の通商拒絶の商議を開始する報があったのに、後になって、攘夷のなすべきでない事由を上奏するように言ってきた。わが公は、そのことが叡慮に反することなので、書面と使いとをやり、後見職と老中の上京を催促した。朝廷もまた後見職を召したが、いまだに上京せず、そのうえに拒絶商議の消息については絶えてないので、わが公としても、その要領を上奏することができず、荏苒(じんぜん)数ヵ月をすごした。
 ことここに至ったので、かしこくも御焦慮のあまり【注四】、有栖川熾仁親王を攘夷別勅使とし、わが公にその随伴を命ぜられたが、そのころ、京中の人心はまだまったく平穏とは言えず、加うるに、京師脱奔の浮浪たちが畿内のあちこちに出没するなど、すこぶる多難で、守護職の役にあるものが寸時も輦轂のもとを離れていられない情況であるので、左のような書を奉って、随伴の役を辞退した。

短才、不肖の容保、帝都守護職の命をこうむり、寵栄すでに身にあまり、いままた、勅使の副行を命ぜられ、天恩の隆渥なることを感泣に堪えず、畏れ奉り候。
然るに、守護の任に鷹(あた)りて以来、容保以下家臣の末々にいたるまで、遠く祖先墳墓の地を離れ、父母妻子に決別し、主従とも二念なく、一藩を傾けて帝都を守護し奉り、大樹(将軍)の尊王の誠意を達し、宸襟を安んじさせられ候ようこれありたきこと、容保の素心にして、一藩の願う所にも御座候。なかんずく登京以来、攘夷の叡慮を親しく伺い奉り候えども、延引今に貫徹仕りがたく、臣、実に涕泣に堪えず、深く苦心罷りあり候。
すでに大樹の東下後も、書簡をもって促し候事十余度、家臣をして東下せしめ、催促候こと三度、徳川中納言、板倉周防守ら、もとより勅意を遵奉し、鞅掌(おうしょう)、周旋、まったく懈怠にあらず、時勢のやむをえざる儀と察せられ候。ただ臣が憂うるところは、日月延引していまだに鎖港吉報をえず、いよいよもって叡慮を悩まし奉り候儀、恐懼の至り、じつに臣ら諸有司の不行届の儀に御座候。
これによって、今般重く御沙汰をこうむり候うえは、命を奉じて早速に東下し、鎖港の事件を検知し、宸襟を安んじる奉るべき儀に候えども、つらつら勘考仕り候ところ、先般事なきの日に東下の命をこうむり候ても、職掌において引き離れがたき段嘆願し奉って、御許容下しおかれ候。なおさら方今、輦轂の下に騒擾、しかのみならず、畿内の一揆の蜂起もいまだ追討成功をえず候間、須叟(しばらく)も輦下を離れ候ては、まことにもって安んぜず、臣の職掌も相立ちがたく、去留の事件の軽重は、委縷申し上げず候とも、明白顕然の儀と存じ奉り候。
かつは家臣ら山国の頑固、朴直の者共、一途な決心して滞京罷りあり候儀にて、今さら東行を申しきかせ候わば、失意耐え難き輩もこれあり申すべく候。
再応厚く重命をこうむりながら、強いて御辞退申し候儀は、恐縮の至りと存じ奉り候えども、まことにもってやむをえざる件々、御垂鑒なしくだされ、かたがたもって、この度副行の命御宥免下しおかれ、守護向いよいよ厳重を加え、鎖港の儀においては、なおきびしく催促せしめ、叡慮を貫徹候よう尽力仕りたく存じ奉り候。


 



 鎖港談判始まる     まもなく二十七日に、後見職と老中とから、左の上奏書がとどいた。その大意は、

去る十四日より、横浜において鎖港の談判にとりかかり候儀は、相違なく御座候。いささか宸襟を安んぜさせられ下されたく存じ奉り候。

 老中からは、

外国奉行池田筑後守、河津伊豆守を横浜につかわし【注五】、仏蘭西人、英吉利人へ横浜鎖港の談判にかからしむ。この段、叡聞に達すべし。

 わが公は、このことを上奏した。親王別勅使のことはそれで沙汰止みとなり、左の勅を賜うた。

関東において、鎖港の談判に及び候間、攘夷の儀はすべて幕府の指揮をえ、軽挙、暴発の輩これなきよう、諸藩の末々まで示し聞かせらるべき事。

 




 薩藩との親交     さきに八月十八日の挙があってから、わが藩と薩摩藩とは、唇歯の親しい間柄となって王事につとめた。
 すでに十月三日には、島津久光は召されて入京し、すぐさま重臣をわが公のもとにつかわして交誼をあたため、また家臣たちが毎々援助されたことを鳴謝した。わが方からもまた重臣をやって、答謝をした。交誼親睦はいっそう加わったが、後に京中に張り札をするものがしばしばあり、その文言に、「松平肥後守は薩奸の愚弄に甘んじ云々」などとあり、末には、「肥後が天誅を免れているのは、東照宮の血をひいて頑陋で、物わかりのわるいのを憐んで、ゆるしておくのである。このうえ自省をしないようなら、皇国のため粉韲(ふんさい)するであろう」とあったが、わが公は、わざとその犯人を推究させないでおいた。
 十月七日、伝奏衆から左の達しがあった。

春以来、堂上しばしば叡旨を矯め候に至るも、必竟、藩臣、浮浪の者共、堂上へ立入り、悪(あし)き入説をいたし候ゆえの儀に候間、右等の者を各藩において、きっと取り調べ致すべき事。
右御沙汰候。御一列へも伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。(十月七日)
 

        



 【注】

【一 建言秘録】 第二五章注五に 記す「五事建策」のこと。

【二 五条の代官所に乱入し…】 これを天誅組の変という。吉村虎(寅)太郎(重郷)は、土佐勤王党の中心人物である。藤本津之助(鉄石)は 、備前脱藩の士で伏見に軍学の塾を開いていた。松本謙三郎(奎堂)は刈谷藩士で、吉村と親交があった。彼らは、中山忠光を擁して、大和行幸の先駆の役目を果たそうとし、五条代官所を襲撃し、管下を朝廷領とし、年貢半減を命じた。三条実美、真木和泉らは、かえって親征行幸に障害をきたすと考え、平野国臣を派して、鎮撫させたが、忠光らは聞き入れなかった。
その後、彼らは八月十八日の政変の報をきいて落胆したが、十津川郷士を募って兵力を増やそうと計った。応募した郷士は一時は千人に達したが、高取城攻撃に失敗し、紀州、彦根、津、郡山の諸藩兵の討伐を受けると、十津川郷士は離反し、長州にのがれた忠光のほかは、ほとんど戦死または捕縛された。尊攘派が農民の武力に結ぼうとして失敗した事例として、生野の変とともに注目される事件である。

【三 和州浮浪の一件】 大和天誅組の変。


【四 かしこくも御焦慮のあまり…】 八月十八日の政変後も、孝明天皇の攘夷の意志は変わらず、政変の翌日、松平容保と所司代稲葉正邦に攘夷の成功を奏すべしとの御沙汰があった。政変に功のあった池田慶徳、蜂須賀茂韶、池田茂政、上杉斉憲は二十四日連署して、勅使を関東に派遣し、幕府の攘夷実行を監察せられたいと上申した。朝議はこれを容れ、九月一日、熾仁親王を別勅使、大原重徳を副使とし、松平容保、池田茂政に随従せしめることを決定した(この企ては中止された)。ついで幕府は、老中酒井忠績(雅楽守)を上京させ、攘夷遅延の理由を説明したが、忠績にたいし攘夷督促の朝旨が伝えられた。

【五 横浜につかわし…】 三港、せめて横浜鎖港の交渉をすすめることは、八月十八日の政変によって確立した、公武合体派の勢力を維持するうえで必要であった。幕府は九月十四日、比較的好意があると考えていた、米国公使とオランダ総領事に横浜鎖港を提議したが、両国代表からは、その無謀を忠告された。幕府が交渉にゆきづまった時、たまたま仏国側は、下関でのキンシャン号砲撃事件および横浜近郊での陸軍士官カミュス殺害事件の賠償問題をかかえていたので、その解決のため、使節を本国に派遣することをすすめた。幕府はこの提案に乗って、鎖港談判のため使節をフランスに送ることとなり、十一月二十八日、外国奉行池田長発(筑後守)、同河津祐邦(伊豆守)をこれに任命した。幕府も鎖港の交渉が成功するとは考えていなかったが、少なくとも使節が帰朝するまでは、朝廷からの攘夷の督促を緩和できると、ここに望みをかけたのである。

スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/05(月) 16:34:24|
  2. 京都守護職始末1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/31-e0853b1d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。