いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十九 御宸翰ならびに御製を賜う     『京都守護職始末1』

 秘密の御内賞     この月(十月)九日、二条右大臣斉敬公から使いがあって、わが公を招かれた。致ってみると、右府は、左右の者を退けて勅旨を伝えられた。
 その大意は「さきの八月十八日の一挙に、もしその所置が当を失っていたらゆゆしき大事になるべきところを、まったく卿の指揮がよろしきをえたので、すみやかに鎮静した。深く叡感あらせられるところである。よって、重く賞賜あらせられたい叡慮ではあるが、卿のみに賞賜があると、かえって物議を生じかねない。そのようなことがあれば、卿もまた心安んじないであろう。ゆえに、予から、ひそかに宸筆の御書と御製を下し賜う次第である。もとより、ごくごく秘密な御内賞のことであるから、その点をよく心得て、表立って御礼などということは堅くつつしむように」とあって、右府から親しく左の御書と御製とを伝えられた。

堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。
 文久三年十月九日
 

 この一箱とは左の御製の入ったものである。

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の

心を喜びてよめる

和らくも武き心も相生の松の落葉のあらす栄えん

武士と心あはしていはほをも貫きてまし世々の思ひ出


 



 将軍上京の催促     十一日朝廷より将軍家を召され、わが公に左の勅書を伝えさせた。

過日、横浜の鎖港に取り掛るの旨、言上について委細を聞きしめされたく候間、一橋中納言登京あるべく仰せ出だされこれあり候えども、猶また、大樹にも尋ね仰せられたく思し召し候につき、引きつづき早々に上洛これあり候ようあそばされたき旨御沙汰候事。もっとも過日御沙汰の通り、一橋中納言にも上洛あるべき事。

 わが公はそこで家臣小室当節にこれを持たせ、東下させて、将軍家の上洛を促したが、幕府はまだ鎖港の商議が結局しないので、上洛を辞退してきた。朝議はそれをゆるさず、この月(十月)二十九日、さらに左の勅書を賜わって催促された。

大樹上洛の儀を御沙汰候ところ、当今、横浜鎖港の談判中、不安心につき上京いたしがたき趣、もっともには聞しめされ候えども、なにぶん公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第もあらせられ候間、せいぜい勘弁を加え、強いて早々に上洛これあり候ようあそばされたき旨、さらに仰せ出だされ候事。

 わが公は、家臣柴田太一郎にこれを持たせ、さらにくわしい書面を老中に贈って、叡旨の隆渥なことを説き、公武一和のために早く上洛されることをすすめた。幕府もこれを領承し、すぐさま上洛のはこびとなり、まず後見職が二十六日に海路西上する旨の復答があったので、このことを上奏した。

 



 生野の変     この月(十月)十三日、但馬出石(たじまいずし)の城主仙石讃岐守久利から檄(げき)を飛ばせて、生野銀山の代官川上猪太郎の不在をねらって、浮浪の徒が代官所を襲い【注一】、金穀を略奪し、村里を却掠した旨を報告してきた。
 わが公は、すぐにこのことを上奏し、急に姫路、宮津、竜野、篠山、豊岡、福地山などの諸藩に急報し、出石藩を応援して、草賊を掃蕩させ、かつまた、目付役戸川鉡三郎に家臣の広沢安任を副えて派遣し、その軍を監督させた。
 いくばくもなく、賊はことごとく平定した。

 



 入費多端御聴に達す     十五日、幕府はわが江戸邸の留守居役を召し、老中水野忠精朝臣から左の台命を伝えられた。

守護職を仰せつけられ候以来、入費多端の趣、御聴(きき)に達し、格別のわけをもって、陸奥国会津大沼郡御預り所の儀、御役中はすべて私領同様に進退いたすべき旨仰せ出ださる。

 十月二十日、わが公は左の書を奉ったところ、允栽をこうむった。

不肖の私、かたじけなくも守護職の任をこうむり、輦轂の下の一動一静は職分内に御座候ところ、非常急変の節、寸刻の間を争って機会を失い候場合これあり候ては、恐縮至極の儀に御座候間、以来右ようの節は、伝奏御達し方これなく候とも、すぐさま参内相成候よう、兼ねてその筋へ御達しおき下されたく願い奉り候。以上。

 この月(十月)、幕府は松平大和守直克朝臣を政事総裁職とした。

 




 浮浪の徒の処置問題     十一月八日、浮浪の徒の処置について、伝奏衆から左の勅令が伝えられた。

先般容易ならざる次第につき、人心動揺の折から、出所不正の浮浪はもちろん、その余のゆえなくて京地に出ており候、浪士らを厳重に相改めるべき旨、その筋へ仰せ出でられ候。元来、浮浪有志の輩は、朝家の御為に周旋尽力の志は神妙の至りに候えども、段々歳月を積み、その弊相生じ、すでに激論、暴行の徒もこれあり、ついに朝議を妨げ、天下の騒乱を醸成するに至り、別して残念至極に候。畢竟、官家に親炙(しんしゃ)し、進退自由の弊より、かえって素懐を失うに至るべきか。これより厳密に取調べ、その旧主へ引渡すべく候。
かつ浮浪有志の徒のよりどころなき方は、その忠忿を達するの道絶え果て、各国の士気もこれがために沮喪いたし候ては、皇国恢復の機に当り、かえって命脈を絶つの道理にて、なんとも御歎惜の御事に候。自然、よんどころなき訳柄にて引取りがたき人体は、十万石以上の諸藩へ召し抱うべく候わば、面々も懇望の国柄もこれあるべく候。望みにまかせ、忠志を達し候よう、いたすべく候。もっとも、各藩において無謀、過激の所業これなきよう、厳重に取締り申すべき旨仰せ出だされ候事。
別紙の通り仰せ出だされ候間、越前中将、その外親藩御一列へも御伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。追って、外藩一列へは別段に申し入れ候也。


 わが公はこれを拝誦して、このような儀はよろしく幕府の所断に一任あるべきである、それに、幕府でもすでに有志の浪士収養の方法があるので、左の書を伝奏衆にささげて、幕府に一任せられるように請うた。

浪士の御処置の儀は、脱藩、かれこれ出所不正の者は、その旧主へ引戻し申すべく、そのうち、かねての行状柄により、きっと取締り仰せつけられ、まことに順序正義の徒の浪々の身にて、主人これなきの輩は、すでに関東に於て新徴組【注二】と号し、浮浪の者召使いの儀これあり候間、右の御処置、幕府へ御委任仰せつけられたく存じ奉り候。
 
 しかるに、この建議はついに採用なく、先の布告が出された。この場合も、外様と譜代の諸侯を区別し、幕府へ万事委任するという叡慮に悖(もと)っている。
前後矛盾すること、かくのごとくであるから、万事やりにくいことが推して知られる。
 そのころ、、長門藩士井原主計が伏見まで来て、入京して嘆願したいと願い出た。

 



 長藩士入京を願出     朝廷では、その可否を守護職と在京の諸侯に諮詢した。わが公は、松平慶永朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光らとともに、その入京嘆訴を許せば、物議の紛擾を来すことになるのをおそれて、この勅間の意をはかり、入京を許すのはよくないと奉答した。朝議もそれに決まった。
 十一月十日、老中の人々から、将軍家の上洛が確定したことを報達してきた。その書に言う。

初冬二十九日(柴太一郎のもたらした書)付の華翰は、仲冬の四日に相達し、拝読いたし候。仰せのごとく、追々寒冷も増し候ところ、まずもって天朝ますます御安全に御座あそばされ、恐悦に存じ奉り候。次に、閣下にもいよいよ御勇猛、御勤め仕り珍重に存じ候。しからば、御上洛の儀につき、伝奏衆へ書状さし出し候ところ、なおまた、伝奏衆をもって早々御上洛の儀仰せ出だされ、則ち御書付を御廻しなされ、早速言上に及び候ところ、委細に御敬承なされ候。一同評議も尽し候ところ、いずれにも御上洛あそばされ候方と申し合せ、上にも御英断にて、いよいよ御治定に相成り候。御用意御出来次第、一日も早く御発駕あそばさるべく候。
さりながら、毎々の御旅行にて、宿駅の疲弊も少なからず候故、御軍艦にて御上洛あそばされ候思し召しに御座候。御軍艦も御数少なきの上、機械などの損所を修復これなくては、御用に立ちかね候もこれあり候につき、諸藩にて所持の蒸気船を御借受けのつもりにて、当月中には多分相揃い申すべくと存じ候。来月初旬、御出船と相成るべく候。さよう御心得下さるべく候。今般は天朝にても厚き思し召しもあらせられ、まことに公武御一和と申す御場合、大機会と思し召し候趣、委細に相心得申し候。なにとぞ今般は、万事御都合よろしく、前々の通りに真の御委任に相成り、御家御中興の御場合に至り候よう、御同前に祈り奉り候儀に御座候。なにぶんこの上とも御尽力、御精勤相祈り候。上京の諸藩も、格別に公武の御一和、皇国の御為厚く存じ込み居り候趣、誠忠の段は、上にも御満足に思し召され候事に御座候。下略(十一月五日付、老中連名)


 



 江戸城炎上     この月十五日、江戸の本城が炎上した【注三】。十九日、その報が京にとどいたので、わが公はすぐこの由を上奏した。後にひそかに聞くところによると、それが原因で将軍家の上洛が遅延するのではないかと宸念あったとのこと。
 そこでまた、家臣を東下させ、上洛を催促しようとしといたとき、たまたま慶永朝臣、宗城朝臣、島津久光などがわが公の施薬院の館に来て「関東の有司らがこの災を口実にして、将軍の上洛を延引せぬともかぎらない。そのようなことが、もしもあれば今ようやく公武一和が熟成しようとする千載一遇の好機を失い、幕府との間のとりなしようはなくなるに至るだろう。それに、本城の災で将軍家が仮御殿に移るとなれば、不便さは京師二条城に劣るであろうから、その事も辞柄にして、すみやかに上京を促しては」とのことで、公の思っていたことと符合するようであったので、ただちに老中に贈る親書をしたため、町奉行永井主水正に家臣小野権之丞を随伴せしめ、書をもたせ、旨を授けて東下させた。

 



 国事参与になる     この月(十一月)二十九日、朝廷では、中川宮、山階宮【注四】を国事掛とし、徳川慶喜卿、松平慶永朝臣、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、それにわが公を国事参与【注五】に補した。翌年になって、徳川慶勝卿、島津久光【注六】もまたこれに補された。
 はじめ、朝廷では参与の職を置かれたものの、ほとんど伝奏、議奏と相対峙することになり、往々にして政令が二途に出るという弊害が生じた。わが公は常にこのことに眉を蹙(しか)めていられた。いま参与の命を拝することは、もとより素志ではなかった。しかし、将軍家の上洛が近いこともあり、朝議の真底をうかがい知る便宜があるので、強いて御辞退もしなかったが、翌年の三月になって、ついに辞した。
 永井主水正らが江戸に着くや、幕府の諸有司はわが公の建議をもっともとしたが、たまたま外国奉行の池田筑後守、河津伊豆守、目付河田相模守らを欧米にやって、鎖港のことを説かせることになったので、その事が終って、その後に、十二月下旬、海路上洛ということに決した。そこで、十二月十二日、老中がわが家臣を召し、その旨をつたえて、いよいよ御所向(ところむき)などの都合をよろしく取り繕うことを命じた。
 この日、老中板倉勝静朝臣から、わが公の名代遠藤但馬守に台命をつたえ、今春将軍家上洛の際、内外奔走して忠勤を励んだ賞として、備前行包の刀を賜うた。

 



 中川宮を讒言     当時、聖上の信任のもっとも篤いのは、中川宮であった。宮もまた知遇の恩に感じ、至誠をもって国事につくしていた。過激の輩も、いまはただ、手をこまぬいて傍観するのみである。
 そこで、浮浪の徒は、倒幕の大本は宮を除くことにあると考え、策を按じ、宮は関東の兵力を利用して天位につく野心あると流言した。
 わが公は、もとよりこのような児戯に類した浮説(注七)が聖明の心を動かすに足りないことを知ってはいたが、衆口金を鑠す【注八】ことを恐れて、慶喜卿、慶永朝臣、黒田下野守、慶賛朝臣(筑前の世子)、宗城朝臣、稲葉正邦朝臣、島津久光、細川護久(当時長岡澄之助、細川侯の二男、後に侯爵)らと計って、連署して左の書を奉った。

この節、尹宮(中川宮が弾正尹であったので、尹宮とよぶ)の御上に於て、種々浮説を相唱え候趣承知仕り、驚愕の至りに堪えず存じ奉り候。もとより、宮の皇国の御為に御心力をつくさせられ候御誠義は一同深く感服依頼し奉り候儀に御座候ところ、右ようの流言行われ候儀は、皇国に一層の危殆を添え候儀にて、なんとも戦兢、恐懼の極地と存じ奉り候。
聖明におかせられ、それらの奸策に御動揺あらせらるる御儀とも存じ奉らず候えども、姦邪、兇險の正議を妨げ、骨肉を傷害仕り、離間をなすの策を用い候は、古今轍を同じうするの儀にて、昭然たる事には御座候えども、その策の成敗によって、天下国家の安危、存亡を分け候儀、和漢ともに、その証跡分明の事に候えば、たとえ聖明におかせられ、御嫌疑の叡念あらせられず候とも、鎖骨、鑠金の姦計【注九】、朝夜を煽惑するに至り候ては、もってのほかなる御大事にて、御間柄に於て御釁隙(きんげき)一度相ひらけ候ては、皇国の綱維、御挽回の期も絶え果て候事と相成り、臣ら、及ばずながら身命を抛ち、尽力仕り候ところ、詮もこれなく、赤誠むなしく讒間のために挫折仕り候ては、じつに飲泣にたえざるの至りに候えば、この時に当って、宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら、社稷(しゃしょく)に換え、死を誓って奏上し奉るべく候間、仰ぎねがわくば、確乎たる聖徳をいよいよ泰山の動かざるに比せられ、皇国万世の御鴻基を建てさせられ候よう、臣ら叩頭、泣血、闕下に伏して企て奉り、懇願を望み候。(十二月十五日)


 



 島津久光へ宸翰     この月、島津久光へひそかに左の宸翰を賜わった。

 極秘に愚存をしたため深く依頼候事

一 その方こと深く依頼に存じて、先頃内存を極密に相渡し候事に候。今度招きに応じ、早速の上京、感悦に候。よって、極密に申し聞かせ候事。

一 そもそも戊午以来、時勢種々変化し、苦心の儀に候。もっとも承知と存じ、巨細には注せず候。じつもって無益に、無罪の輩も災難を蒙り、朕も意外の所置候儀に候。即ち戊午の年の儀は、各落飾(らくしょく)の一件【注十】に候。じつもって朕の心中、肺肝を砕くの至り、その後、当節に至りても大小は候えども、とかく疑念、偏執も右ようの次第に発せんとす。
一天の主たるの身、あに痛心せざらんや。これによって朕の一身の儀は、毎々申し出で候えども、一向に承知の人これなく、ただただ痛心の至りに候。
その後、日を追うて、時勢も種々様々と相かわり候後、過激の儀相起り候。これも元は忠誠ながら、浪士暴論の輩に惑わされ候より、前後を弁えず、予が存意を矯(た)め候事屡々盛んに相成り、忠は不忠に変ずるの勤仕、関白も失権し、朕が座前と、退語と全く相違う考えに、両舌に相似て、重職にふさわしからぬ件件もこれあり候。したがって両役もただただ事宣を見るの勤め方にて、深く心痛、容易ならず候。
これと言うも朕の愚昧より起るところにて、非歎これに過ぎず候。これによって、尹宮は従来、股肱(ここう)の連枝(れんし)ゆえ、内密に申し断じ、会藩をたより、すでに八月十八日の一件に相成り、深く喜悦の事に候。猶また、内書をもって前関白(近衛忠煕)を深く倚頼、なにぶんにも一改革なくてはいかが故、ふかく柱杖と頼み試み候。
先の八月十八日前の憂患はほぼ攘い候えども、猶爾来のところ一大事に候えば、その方と手を組み、腹臓嫌疑等なく、まことにもって安慮の次第、深く頼むところに候事。もっとも愚昧の朕、拙筆、盲妾の書状にて赤面限りなく候えども、国家朝廷のため、ただただ存分に、耻辱を顧みずうちあけ申し候間、宜しく聞き取り、他耳を秘し、頼み入り候也。

一 攘夷の一件
右は、今さら申すまでもなく、神明神州に盟(ちか)って、皇国の輝照を汚穢せず、永代彊(かぎり)なく、万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争にて相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。当春以来の次第にては、無法の所置とは存じ候えども、多勢にて無勢、その上、朕のごとき愚昧の鈍言にては、とても申し伏せ候力なく、徒然につきあい候は、朕一身の不行届のみ他事なく候。この後のところは、なにとぞ真実の策略にて、皇国永久、無穢安慮の攘夷を迅速にこれありたく、右の建白望むところに候事。

一 関東へ委任と、王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。過日決心して申し出で候通り、いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。この儀は先だって大樹へも直(じき)に申し渡し、一橋へも直話にて今さら替り候儀はこれなく、いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。右の儀深く心得もらいたく候事。

一 八月十八日前の勅諚の事は、いかにもまた、じつもって真偽不分明に候間、不審の儀も候わば、真偽のところ一々たずねもらいたく候。十八日の一件、じつもって会津の忠働、深く感悦候事。

一 堂上暴論、過激の説になり候も、まったく諸有司(「有志」の意か)、浮浪の輩の語らい候より、日を追って根本はさておき、私の権威増長候えば、自今も、堂上家並びに地下官人共【注十一】にも、兵馬の権の輩の立入りには、よくよくその人体を撰び、みだりに入り込みこれなきよう致したく候事。
右の儀は、十八日後、両役へ申し渡し、きっと承知のはずに候えども、年月を経候えば、自然と戻りやすく候えば、一了簡の所置、頼み置き候事。

一 公武和熟は前文通りに候。しからば関東に於ても戊午の年の頃、かつこれまでの所置は、じつに改め、爾来は朕よりは深く頼み捨てざるの所置、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。

一 猶また、大樹も上京し候わば、種々倚頼申し立て候儀も候わんか。そのみぎり、その方に於ても出格の助勢を、かねて頼み置き候事。

一 八月十八日已来は、総じて朕の坐前に於ての評決に相成り、深く安心に候。右ように候えば、自然中途の計策もまずこれなくと存じ候。体により候えば、とかく次の評議になりやすきか。その辺心痛に候。自然、朕の居らざる所の評義に候えば、時々刻々と十八日前にひき戻るべくも計りがたく存じ候。この辺は、尹宮へも毎々申し聞かせ居る事に候。なにとぞ、急度(きっと)なくその方の存じつきにて、建白これありたく候事。

一 十八日の一件、掃攘改革は、真実朕の腹より発せる事に候ところ、取とめざる事ながら、真実の叡慮にあらで、尹宮、会藩または右府以下の所作のように風説候。もっとも風説故、頓着なき事ながら、またまた疑念の発言も、無益の怪我人候ては、深く心痛に候故、別紙(尤も廻覧候わん。よってここに注せず)右府以下へ廻覧せしめ候ことに候。この旨とくと聞きこみ、爾来、なんらの虚説候とも、決して信用なきよう、万一疑わしき儀は、一封にて表立てず、尹宮、前関白らをもって直(じき)にたずねくれ候よう、さ候えば真偽は明白に答うべく候。なにとぞ右虚説の取押え方、勘考これありたく候事。

一 十八日はほぼ落着し候えども、この節に至りても十分に道ひらけず候か、堂上中にも八月十八日の一件を信用せず、つまり、元三条以下を惜しみ候もようにも愚察され候。右様に候ては、爾来の所深く案ぜられ候間、なにとぞ、その方の美策、なにとぞ説得これありたく候事。

一 先年来、虚談布告になり、朕深く迷惑の次第も候。猶、爾来のところ、いかがの儀これあり候とも、真偽相正し、風説を信用これなきよう、列藩へも聞き置かせたく候。これまた直に一封にて聞きくれ、取押え方、ひたすら頼み入り候事。

一 正親町少将【注十二】は、脱走せず候えども、なにぶん中山家の胤、どうも人質よろしからず候。当時差控え申しつけおき候えども、毛利秀才【注十三】のごとく、なんらの儀にて、何時出仕も測りがたく候。右は深く朕が存慮これあり候間、正親町より辞表、辞官位、除席に相成り候よう、右の次第に相成り候上は、またなんらの事仕出さんも計りがたく候間、実父の家中山家にて堅固に籠居しかるべく存じ候。右の儀、なにとぞ熟考をめぐらし候上にて、父大納言へ急度(きっと)説得これありたく候。右の存意に候わば、申し試し頼みおき候也。

一 関白【注十四】はこのころにも、辞表に相成り候方しかるべくと存じ候。猶、賢考の上、建白これありたく候事。

一 去る八月十八日、脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、往来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、急度(きっと)厳重の処置に致したく存じ候。これによって、まず帰洛致させ候上、厳重に後禍にならざるようの手段を内談じ依頼し候。なにぶんこの姿にては、じつにせんかたよろしからずと内心心配し候。なにぶん大胆の輩故、厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候間、猶、美策これまた頼み候事。

一 元同輩にて不脱走の輩【注十五】は、当時差扣(さしひか)え、他人との面会止申しつけこれあり候。右の者、脱走せざるだけ軽罪ながら、なんらの密計も計りがたく心痛に候。右の輩は、その方の知略にて、これまでの所存を改心せしむるよう説得は相なるまじきや。ただし、十に八九までは、むずかしきやとも存じ候。右でき候えば重畳。さなくば朕、真実免すまでは、決して宥免せず、厳重に籠居のようにと存じ候。天下の主、万民子育の事、一人にても刑罰は好まず、説得にて改心なくば、一人にても無難のようと存じ候えども、寛宥に過ぎ候ては、愚計暗眼に相成り心配に候。猶、御勘考これありたく候事。
この事は、猶、熟慮の上承り候上は、またまた予の存意候えば、猶また打合わすべく候事。

一 姉小路の一件【注十六】にて、その藩へなにか疑い掛り候由、厳重の次第もこれあり、気の毒の至りに候。右も、心得のため申し聞かせ候は、決して朕の真実にあらず。その証拠は朕が疑い掛け候次第これあり候により、四五日後、関白より話のついでに承り、はじめてさようの事のこれありしやと申し居る事に候。これにて、いずこ、何人の策なるや、察しあるべく候事。

一 その方深く依頼候て、早々召すの事申し出で候えども、関白以下承知なく、すでに二日頃にか、朕深く申し張り候えども、愚昧の朕、多勢に敵しがたく、すでに万里小路博房も出頭して、強いて申し張り候て、朕が申し条を矯め切り候ことこれあり候。右は右府、前関白、内府【注十七】、佐幕下【注十八】らも同坐にて、巨細に存知候事。

一 列藩に布告の浮浪取扱いの儀は、過日来り談じ候て、布告申し付けおき候。猶、後の禍とならざるよう、せいぜい勘考頼み置き候事。

一 堂上のところ、おいおい申し聞かせたき儀も候わんか、その筋は、またまた内密の往反依頼申し置き候。猶ふくみおき頼み入り候也。

一 大樹上京も候わば、依頼候儀もこれあり候わん。右ヶ条内々申合せおきたく候。もし助勢聞きくれ候わば、荒涼ながらまたまた見させ候事。猶その節はよろしく頼みおき候也。

一 段々その方に於ても、尊王誠忠感悦せしめ候。猶爾来、朕愚昧ながら申し出でのところ周旋深く頼み置き候也。

一 深く心配候は、これまでにもとかく疑念、偏執も申しふらし候虚説が真実に相成り、無益の疑い掛け、堂上向も予の腹心と存ずる人は、とかく退居に相成り、後には内儀までえも疑い掛け、無益に、朕深く心痛、不外聞の儀外にも仕出しくれ候儀もこれあるかにて、まことに心痛し候。爾来右様の儀、決してこれなきよう、万一候とも、その方取押え方深く頼み入り候也。
          
会津も守護職の事を周旋も候えば、この書状つかわすべきや否やの模様も候わん。内密相談せしめ候事。
右の条々愚昧の存じ書、瑣細の事のみ候えども、従来の存じ込み、まず認(したた)め、一覧に入れ候。猶よろしく頼み置き候也。猶、存じ出で候えば、またまたしたため差し出すべく候事。返書はなにとぞこの箱に入れもらいたく候事。秘々。外に従来、朕が一身に深く苦心の事もこれあり候。右は猶とくと熟考の上、またまた申し聞かせ候やも計りがたく候。しかし未定に候。万一申し出だし依頼候筋は、程よく聞とり周旋成功頼み置きたく、かねて申し置き候事件、あらわれず候わでは、答もむずかしきやながら、まず可否、尋ね置き候也。
 文久三年 御花押


 



 明らかな叡慮     右の宸翰を拝読してみると、ますます叡慮のあるところを会得できるであろう。
 すなわち、公武一和が真の叡慮であって、過激の輩の称するごとく関東からの私論ではないこと、従って過激の堂上らが朝議を妨害し、おそれ多くも至尊の勅命にも服従し奉らず、聖明がそのために憂慮されていること、また申すもかしこいことであるが、至尊のわが公に対する御信任が深いことなど、炳乎(へいこ)として明らかである。それなのに、当時の檄徒がわが公を誣(し)いて、聖慮を矯める者だなどと言うのは、まったく概嘆のきわみである。
 
 



 将軍発途     十二月三日、江戸老中から報告があった。

本月二十日付の華翰(小野権之丞にもたせてきた書をいう)御家来が持参し、同二十六日相違し、拝読仕り候。仰せのごとく寒気いよいよ増し候ところ、まずもって天朝には益々御安全、東武に於ては公方様、益々御機嫌よく、御同意恐悦に存じ奉り候。二つには、閣下もいよいよ御安健にて御勤仕、珍重と存じ奉り候。
陳(の)ぶれば今度、御本城炎上につき、もし御上洛御遅緩に相なり候ては、すでに奸人の術中に陥り、御失策この上なく、第一御一和の基本も相立たず、百事瓦解と、深く御心痛のところ、委細を敬承、御尤千万と存じ候。永井主水正よりもくわしき事情承り候。先使へ申しすすめ置き候通り、上には断然御上洛あそばさるべき御見込につき、大和殿(松平直克朝臣)、同列どもも決心いたし居り候えども、諸役人向なにぶんおりあいかね、種々心痛いたし候。同列どもの場合にて、御役人向説得もできかね候と申すは、耻入り候儀にて、職掌も立兼ね候えども、なにぶん勢やむをえざる儀にて、一日々々と因循いたし候ては、まことに際限もこれなき儀と存じ、もはや衆議にも及ばず、御英断をもって御発途の御頃合い(出発の期日を言う)仰せ出ださるべくと、昨日御前御評決に相成り、すなわち今日仰せ出でらるべくと申すところへ、主水正着府故、まことに幸の儀にて、益々貴地の御模様も相分るべく、早速に御前へ召出し、御直(おんじき)に委しく御聞きあそばされ候。直に今日の御頃合い仰せ出だされ候。最初は来月の初旬に御発途の御ふくみに候ところ、なにぶん折りあい方宜しからず、かれこれにて中旬の御ふくみに候ところ、今度の炎上にて、一時は御住居も不定と申し候場合にて、諸事混雑にて、中旬のところ見留これなく、中旬と仰せ出でられて、もし御用意届きかね、下旬に延び候ては、かえって御不都合故、下旬と仰せ出でられ候て、御用意向方端誠精御手廻りに取り計らい、十八九日頃には是非々々御発途に致したしと一同申合せ、尽力いたし居り候。下略。(十一月二十六日、老中連署)


 十二月十六日、将軍不日に上洛の報が達せられたので、わが公は、施薬院の館を立ち退いて、寺町の清浄華院に移った。施薬院は、古来将軍家が上洛、参内の日の装束所になっていたからである。

 



 二条公と両敬の信     この月(十二日)、二条右大臣斉敬公が左大臣に任ぜられ、鷹司輔煕公に代って関白内覧の宣下があった。また、徳大寺内大臣公純公は右大臣に、近衛左大将忠房卿は内大臣に任ぜられた。
 斉敬公は天資篤実で、局量、寛弘であって、人に接するときはおだやかで、胸襟をひらいて応待されたので、人はみなその徳に信服した。その臣の北小路治部権大輔と高島右衛門尉も、よく公を輔けた。
主上の御椅頼も、それゆえもっとも渥(あつ)かったし、わが公もまた深く公の知遇をえて、常々肝胆を照らしあい、情好が親密であった。ついに翌年二月、公とわが公のあいだに両敬の信を結ぶに至った。(両敬というのは、近い親族として相手を遇することで、一方の使者が口上を述べる時、じぶんの主人を誰様と敬語でよび、もちろん相手方の主人を敬称するところから、敬称を両方に用いるがゆえに、両敬と称するのである。)

        



 【注】

【一 浮浪の徒が代官所を襲い…】 この事件を生野の変という。八月十八日政変直後、尊攘派志士の領袖平野国臣は、新選組の襲撃を受けたが、逃れ、但馬に入って、天誅組の挙兵に応援しようとした。たまたま薩州藩士美玉三平は、但馬養父郡能座村豪農北垣晋太郎(国道)とともに農兵組織にあたっていたので、平野は彼らとともに挙兵を決し、七卿の一人、沢宣嘉を擁して、十月十二日生野代官所を占領した。そして年貢減免、苗字帯刀御免をかかげて農民二千人を集めたが、諸藩兵の攻撃をうけると、農民は村々の庄屋、富農、商家にうちこわしをかけ、また鉾を逆さまにして志士を襲撃し、たちまち挙兵軍は四散、敗北した。

【二 新徴組】 文久三年三月、清川八郎を首領とする浪士組は、京都から江戸にもどったが(第十一章注一新選組の項参照)、清川は、江戸でも攘夷先鋒を名として、富商を脅迫するなど乱暴の行動をした。そこで、幕府は浪士取締役並出役佐々木只三郎に命じて清川を暗殺させ、一味を逮捕し、残りの浪士を新徴組に編成し、庄内藩主酒井忠篤の指揮下に、講武所師範役並松平忠敏の取締の下に、江戸の警備にあたらせた。

【三 江戸の本城が炎上】 この時、本丸、二の丸が焼失した。この前後江戸城の火災が多く、安政六年(一八五九)十月本丸、ついで文久三年六月西丸が焼失、重ねてこの十一月の炎上があり、さらに慶応三年(一八六七)十二月には二の丸が焼けた。本丸は文久三年以後再築されず、西丸の仮建築で事をすごした。

【四 山階宮】 前勧修寺門主済範。伏見宮邦家親王の子で、中川宮(朝彦親王)の兄。薩州藩は、早くから朝廷内の尊攘派と対抗するため、済範の還俗と国政参与を運動していたが、元治元年正月、還俗の勅許が出、山階宮晃親王を名乗ることとなった。

【五 国事参与】 当時の文章には「参豫」とある。その任務は、天皇の御前での朝議に参与するにあった。参与は、八月十八日の政変を実現した公武合体勢力の結集として、翌元治元年二、三月参与大名が辞任帰国するまでの間、京都政界を指導し、幕府の動きをも制肘した。

【六 島津久光】 島津久光は、すでに公武の間に大きな勢力をもっていたが、身分は薩州藩主の父というにすぎず、このため無位無官であった。元治元年(一八六四)正月十三日、従四位下左近衛権少将に任ぜられ、参与を命ぜられた。

【七 児戯に類した浮説】 このころ長州藩では、孝明天皇が密旨を三条実美に伝え、政務を委任したい意向を示されたという流言があり、これが京都に伝わって、天皇と中川宮との間柄について種々の憶測が出た。また中川宮が天皇を咒詛し、また毒殺する密計があり、その目的で八幡報恩寺の僧忍海が修法を行なったという噂が流れた。十一月忍海が何者かによって暗殺されてからは、流言は一層盛んになった。

【八 衆口金を鑠す】 史記魯・鄒列伝に「衆口金を鑠(け)し、積毀骨を鎖(け)す」とあり、讒言(ざんげん)の恐るべきことをいう。

【九 鎖骨、鑠金の姦計】 注八を見よ。

【十 各落飾の一件】 安政の大獄で、天皇が心ならずも幕府の威圧におされて、近衛忠煕、鷹司政通、同輔煕、三条実万を辞官落飾の処罰に付したこと。第一章注五を参照。

【十一 地下官人共にも…】 昇堂を許される公家を堂上家(殿上人)というのにたいし、六位以下、特に五位に進んでも昇殿できないものを地下人(じげにん)といった。地下官人とは、この地下で、宮中の事務を掌るものをいう。安政五年、条約勅許問題が粉砕すると、公卿の意見書提出が相次いだが、三月十七日には、地下官人九十七人が連署して攘夷の意見を上伸した。これ以後、政治活動に関係するようになった。

【十二 正親町少将】 正親町公薫(きんただ)。国事寄人であったが、八月十八日の政変後、差控(さしひかえ)の処分を受けていた。公薫は中山忠能(権大納言)の次男である。なお忠能は孝明天皇の権典侍慶子の父、祐宮(明治天皇)の外祖父である。

【十三 毛利秀才】 中山忠光のこと。正親町公薫の弟にあたる。文久三年宮中を出奔して、長州藩に走り、森秀斉の仮名で尊攘運動に従い、ついで上京し、大和天誅組の変の首領となった(本書二〇一頁参照)。戦に敗れ、再び長州藩に逃れたが、長州藩保守派の手によって暗殺された。

【十四 関白】 鷹司輔煕。長州藩尊攘派との関係の責任者と目され、文久三年十二月二十三日、その職を止めさせられ、右大臣二条斉敬が左大臣に任じ、関白に補せられた。これは、この天皇の諮問にたいする久光の奉答にもとづく人事であった。

【十五 不脱走の輩】 八月十八日政変当日、三条実美らと行動を共にしながら、いわゆる七卿落ちに加わらなかったものは、豊岡随資、滋野井実在、東園敬基、鳥丸光徳の四人であった。

【十六 姉小路の一件】 姉小路公知暗殺事件。暗殺の下手人は、薩州藩士田中新兵衛と考えられていた(第十八章注一を参照)。

【十七 内府】 内大臣徳大寺公純。

【十八 左幕下】 左近衛大将近衛忠房。
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  1. 2012/11/07(水) 13:50:44|
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