いがぐり史料館

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二  将軍家望外の恩遇     『京都守護職始末2』

 将軍家参内     二十一日、将軍家の参内があり、後見職および中納言徳川茂承公(紀伊)以下、在京の諸侯がことごとく扈従した。わが公も、病をおしてこれに従った。
 その日、中川宮、二条殿下以下もことごとく列座し、聖上は特に玉座近くまで将軍を召され、左のような勅を賜うた。

嗚呼、汝、方今の形勢を如何と顧(かえりみ)る。内はすなわち、紀綱廃弛し、上下は解体し、百姓は泥炭に苦しむ。ほとんど瓦解土崩の色をあらわし、外はすなわち驕虜五大州の凌侮を受く。正に併呑の禍にからんとす。その危きこと、じつに累卵のごとく、また焦眉のごとし。朕これを思いて、夜も眠るあたわず、食も咽(のど)を下らず。
嗚呼、それ、これを如何と顧る。これ、すなわち汝の罪にあらず。朕が不徳の致すところ、その罪は朕が身にあり。天地鬼神、朕を何とか言わん。なにをもって、祖宗に地下に見(まみ)ゆることを得んや。よって思えらく、汝は朕が赤子、朕が汝を愛すること、子のごとし。汝も朕に親しむこと、父のごとくせよ。その親睦の厚き薄きが、天下挽回の成否に関係す。あに重きにあらずや。
嗚呼、汝、夙夜(しゅくや)心を尽し、思いを焦がし、勉めて征夷府の職掌をつくし、天下の人心の企望に対答せよ。それ醜夷征服は国家の大典なれば、遂に鷹懲(ようちょう)の師を興さずんばあるべからず。然りといえども、無謀の征夷は、じつに朕が好むところにあらず。然るゆえんの策略を議して、もって朕に奏せよ。朕その可否を論ずること詳悉、もって一定不抜の国是を定むべし。
朕また思えらく、古(いにしえ)より中興の大業をなさんとするや、その人を得ずんばあるべからず。朕凡百の部将を見るに、いやしくもその人ありといえども、当時、会津中将、越前中将、伊達前侍従、土佐前侍従、島津少将等のごときは、すこぶる忠実、純厚、思慮宏遠、もって国家の枢機を任ずるに足る。朕これを愛すること、子のごとし。汝もこれを愛し、これを親しみ、ともに計れよ。
嗚呼、朕と汝、誓って衰運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は万民の急を救わんと欲す。もし怠慢にして成功なくんば、殊にこれ朕と汝の罪なり。天地鬼神もこれを殛(つみ)すべし。汝、旃(これ)を勉めよ、旃を勉めよ。


 将軍は謹んでこれを拝戴し、帰城あって、今度の恩遇の望外であったことを喜び、わが公等を召し、内宴を賜い、あらかじめその準備に尽瘁した労をねんごろに慰められた。ついで二十五日、さらにわが公を召し、便殿で茶菓子を賜い、親しく去年からの労を賞して、鞍鐙料(くらあぶみ)として金一万両と縮緬(ちりめん)三巻を賜うた。

 



 聖上宸翰を賜う     二十七日、将軍家が召しによって参内された。諸侯たちの扈従することは、前日の通りである。わが公もまた病気をおしてこれに従い、竜顔を拝した。
 この日は、歴世山陵の修補【注一】が竣工したことを叡感あって、将軍家を従一位に陞(のぼ)せ、左のような宸翰【注二】を賜うた。

朕、不肖の身をもって、夙(つと)に天位を践(ふ)み、かたじけなくも万世無欠の金甌(きんおう)を受け、つねに寡徳の先皇と百姓とに背かんことを恐る。なかんずく嘉永六年以来、洋夷しきりに猖獗(しょうけつ)来港し、国体ほとんど言うべからず。諸価沸騰し、生民泥炭に苦しむ。天地鬼神、それ朕を何とか言わん。嗚呼、これ誰の過(あやまち)ぞや、夙夜(しゅくや)、これを思いて、止むことあたらわず。
かつて列卿、武将とこれを議せしむ。如何せん、昇平二百有余年、威武のもって外寇を制圧するに足らざることを。もしみだりに鷹懲の典をあげんとせば、かえって国家不測の禍に陥らんことを恐る。幕府は断然朕が意(こころ)を拡充し、十余世の旧典を改め、外には諸大名の参勤を弛め、妻子を国へ帰し、各藩に武備充実の令をつたえ、内には諸役の冗員をはぶき、入費をへらし、大いに砲艦の備えを設く。じつにこれ朕が幸のみにあらず。宗廟、生民の幸なり。且つ、去年上洛の廃典を再興せしことは、もっとも嘉賞すべし。あにはからんや、藤原(三条)実美等、鄙野の匹夫の妄説を信用し、宇内の形勢を察せず、国家の危殆を思わず、朕が命を矯(た)めて軽率に攘夷の令を布告し、みだりに討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣のごときは、その主を愚弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し【注三】、ひそかに実美らを本国に誘引す。かくのごとき狂暴の輩は、必ず罰せずんばあるべからず。然りといえども、みなこれ朕が不徳の致すところにして、じつに悔慙にたえず。朕また思えらく、我のいわゆる砲艦は、彼のいわゆる砲艦に比すれば、いまだ慢夷の胆を呑むに足らず、国威を海外に顕(あらわ)すに足らず、かえって洋夷の軽侮を受けんか。ゆえにしきりに願う。入っては天下の全力をもって摂海の要津に備え、上は山陵を安んじ奉り、下は生民をたもち、また列藩の力をもっておのおのその要港に備え、出でては数艘の軍艦を整え、無砲の醜夷を征討し、先皇の鷹懲の典を大にせよ。
それ、去年は将軍久しく在京し、今春もまた上洛せり。諸大名もまた東西に奔走し、あるいは妻子を国に帰らしむ。宣(むべ)なり、その費用の武備にまで及ばざること。今よりは、決して然るべからず。つとめて太平循の雑費を減じ、力を同じうし、心を専らにして征討の備えを精鋭にし、武臣の職掌をつくし、永く家名を辱(はず)かしむることなかれ。
嗚呼、汝、将軍および各国の大小名、皆朕が赤子なり。いまは天下の事を朕とともに一新せんことを欲す。民の財を耗(ついや)すことなく、姑息の奢りをなすことなく、鷹懲の備えをきびしくし、祖先の家業をつくせよ。もし怠惰せば、特に朕が意(こころ)にそむくのみあらず、皇神の霊に叛くなり。祖先の心に違(たが)うなり。天地鬼神もまた汝らを何と言わんか。
 文久四年甲子正月二十七日


 



 奉答書を奉る     さらに伝奏衆から、扈従の諸侯に、これを示された。越えて二月十四日、将軍家から左の奉答書を奉った。

去月二十七日に拝見仰せつけられ候宸翰の叡旨は、御即位以来、皇国の災禍を聖躬(おんみ)の御上に御反対あらせられ候勅諭にて、誠にもって恐惶、感泣の至りに存じ奉り候。
さて幕府、従前の過失を自返仕り候えば、多罪の至りに存じ奉り候。臣家茂、不肖の身をもって、いたらずに重任を辱しめ、紀綱ふるわず、内外の禍乱相踵(つ)ぎ、頻年宸襟を悩ましめ奉り候のみならず、去年上洛の筋、攘夷の勅を奉ず【注四】といえども、その事実遂に行われがたく、横浜鎖港【注五】の談判すら未だ成功の期限も測りがたき折から、再命により上洛仕り候上は、きわめて逆鱗に触れ、厳譴(げんけん)を相蒙るべきはもとより覚悟仕り候ところ、意外の宸賞を蒙り奉り候のみならず、至仁の恩諭をもって、臣家茂並びに大小名を赤子のごとく御親愛、将来を御勧誡あらせられ候条、臣家茂一身の上にとり、海嶽の鴻恩、じつにもって報答奉るべきようもこれなく候。
今より以降、万事の壅蔽(ようへい)を改め、諸侯と兄弟の思いをなし、心力を合わせ、臣子の道をつくし、つとめて太平因循の冗費をはぶき、武備を厳にし、内政をととのえ、生民を蘇息いたし、摂海の防備はもちろん諸国の兵備を充実し、洋夷の軽侮を絶ち、砲艦を整備して鷹懲の大典を興起いたし、御国威を海外に耀輝すべき条件など、いよいよもって勉励仕り、おそれながら宸襟を休憩し奉りたきことに御座候。
然しながら、鷹懲を妄挙仕るまじくと叡慮の種は、硬く遵奉仕り、必勝の大策を相立て候よう仕るべくと存じ奉り候。もっとも横浜鎖港の儀は、すでに外国へも使節差し出し候儀【注六】に御座候えば、なにぶんにも成功仕りたく存じ奉り候えども、夷情も測りがたく候えば、沿海の武備においては、ますます奮発、勉励仕り、武臣の職掌を固守し、大計、大議はことごとく国是を定め、宸断を仰ぎ奉り、皇国の衰運を挽回して、外は攘夷の胆を呑み、内は生霊を保ち、叡慮を安んじ奉り、上は皇神の霊に報い奉り、下は祖先の意志を継述仕りたく存じ奉り候。
これすなわち、臣家茂の至誠、懇祷に御座候。よってこの段、御請申し上げ奉り候。臣家茂誠恐誠惶頓首謹言。
 文久四年甲子二月十四日


 



 横浜鎖港の一条     しかるにまた、左のような御沙汰があった。

去る十四日勅答書の趣旨、横浜鎖港の一条御請不分明につき、一橋中納言へ御訊問のところ、尤も鎖港の成功は是非とも奏すべき条、さらに書取りをもって言上の旨を聞き召され候。なおまた、別紙に仰せ出だされ候通り、尽力勉励これあるべしと御沙汰に候事。   
横浜鎖港の儀は、せいぜい成功を遂ぐべく、かつまた諸国の兵備を充実致し、洋夷の軽侮を絶つべき趣、叡聞に達し候ところ、この上は総国の守禦、緊要の事に候。さしあたり摂海の要港急務の上は、神速にその功績相顕われ、人心安堵し、数年を経ずして征夷の実を相行い、叡慮を安んじ奉り候よう御沙汰に候事。


 よって、すなわち左の請文を奉った。

去る十四日差し上げ候勅答書の内、横浜鎖港の一条、御請不分明に思し食(め)さるる由、慶喜へ内内御沙汰の趣、承知仕り候。然るところ、いよいよ鎖港仕り候見込みにて、すでに外国へ使節差し立て候儀に御座候間、ぜひとも成功仕り候心得に御座候。もっとも、再度聖諭を蒙り、無謀の攘夷を仕るまじくとの趣は、畏(かしこま)り奉り候。然る上は、いよいよもって沿海の武備を充実致し候よう仕るべく、存じ奉り。よってこの段申し上げ候。以上。

 この月、京都町奉行永井主水正は、大目付に転じ、禁裡次小栗下総守政寧がこれに代り、また糟屋筑後守義明が、小栗のあとをうけて禁裡付を命ぜられた。

        



 【注】

【一 歴世山陵の修補】 一巻四一頁注二を見よ。

【二 左のような】 この宸翰は、正月二十一日の宸翰に比し、攘夷穏和の意向が一層はっきり示されたので、尊攘派は、偽の宸翰であると非難し、またその草案が薩州藩士高崎猪太郎(友愛)の手になるものと伝えられ、「宸筆極秘の叡慮、凡俗の手より出ず。実に悲むべく嘆くべき世なり」(『中山忠能日記』)との憤激の声も出た。

【三 故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し】 夷舶砲撃とは、文久三年長州藩が攘夷実行の期日と定められた五月十日に、下関海峡通過のアメリカ船、ついでフランス・オランダの軍艦を砲撃した事件。一巻一五二頁注一を見よ。
幕使の暗殺とは次の事件である。文久三年七月、幕府は使番中根一之丞(正聖)を九州方面視察と称して長州藩に派遣し、長州藩の攘夷実行と小倉藩領田の浦占拠の挙(一巻一五五頁注一)を詰問させようとした。これを知った長州藩士は、中根の乗った幕府軍艦朝陽鑑を奪い、彼を殺害した。

【四 去年上洛の節、攘夷の勅を奉ず】 一巻一〇八頁を見よ。

【五 横浜鎖港の談判】 一巻一五二頁注二および二〇八頁を見よ。

【六 外国へも使節差し出し候儀】 横浜鎖港談判のため、幕府は外国奉行池田長発を正使、同河津祐邦を副使に任命し、一行三十四名は、文久三年十二月二十九日、フランス軍船ル・モンジュ号に乗り、横浜を出帆、パリーに向った。

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  1. 2012/11/09(金) 10:47:46|
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