いがぐり史料館

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四  わが公守護職を罷め、軍事総裁職となる     『京都守護職始末2』

 内訌鎮定の難事を負う     ときに朝廷では、長門藩の非義を罪して、毛利慶親卿父子とその藩士の入京を禁じた。ここに至って、幕府に勅し、ひたすら顛末を糾問し、また脱走した七堂上【注一】を召還するように命ぜられ、もし毛利がふたたび違勅の罪を犯した場合は、厳重に処置すべしとのことであった。
 これによって、幕府は攘夷決行の上に、内訌鎮定という難事を添え、局面はたちまち繁劇を加えた。
殊に長藩問題のごときは、事が朝廷に関係したことで、未だその余焔が宮や堂上の間に鬱陶たるものがのこっているので、等閑に付しがたい。万一彼が違勅に及べば、干戈(かんか)をもってその罪を糺(ただ)さねばならない。事がそこまで及んでは、幕府の実力の如何を表白することになり、その戦略の良否はすなわち幕府の存亡にかかわるところとなる。故に、その処置はもっとも慎重を要する。と同時に、その局に当るものの任務は、もっとも重大である。

 



 征長軍副総督     しかるに、親藩中で兵備がよく整い、上下に信用あり、万一の場合、征討軍の総督とするに足るものと言えば、わが公ただ一人があるのみである。ただその門地の上からすると、わが公を総督とするのは、少し不適当という感がなくもない。そこで、徳川茂承を総督とし、わが公を副総督とすることに決した。
 けれども、わが公が幕府の閣議(当時御用部屋入りと言った)に参じていなければ、実際の総督の任を尽すことができないであろう。と言って、わが公の家柄は、その門地の上からすれば【注二】、老中の家柄ではない。そこで、新たに陸軍総裁職というものを置いて、内閣の一員とした。

 



 十侯に征長令を発す     この月(二月)十一日、幕府はわが公の京都守護職を罷(や)めさせ、陸軍総裁職とした。越えて十三日(年表には十五日とある)、さらに軍事総裁職と改め、左の内命があった。

この度、毛利大膳大夫父子へ御糾問の筋これあり、万一承服致さざる節は、御征伐あそばさるべき思し召しに付、その節は副将として遣わさるべく候間、用意致すべき旨、御内意仰せ出だされ候事。

 また、蜂須賀斉裕朝臣(阿波)、池田慶徳朝臣(因州)、松平定安朝臣(松江)、島津茂久朝臣(下札【注三】人数ばかり差出すべき事)、細川慶順朝臣(肥後)、浅野茂長朝臣(芸州)、池田茂政朝臣(備前)、小笠原忠幹朝臣(小倉)、阿部正方(福山)、脇阪安宅(播州龍野)の十侯に、左の令が発せられた。

この度、松平大膳大夫父子御糾問の筋これあり、万一承服致さざる筋は、御征伐あそばさるべき思し召しにつき、その筋は討手仰せ付けられ候間、用意仰せ出だされ候事。
  御名代 紀伊中納言殿
  副将 松平肥後守
  差添え 有馬遠江守
右の通り仰せ出でられ候間、諸事差図を受け、尽力致さるべく候事。


 右の遠江守というのは道純朝臣のことで、当時は老中職であった。





 重臣ら顰蹙(ひんしゅく)     この日、幕府は徳川茂承公に征長総督の内命を下し、松平慶永朝臣を、わが公に代えて京都守護職に任じた。その時、わが公は病褥にあったので、家老神保利孝が代理で行って命をうけ、帰ってそのことを報じた。そこで、重臣らにこれを議せしめたところ、みな眉をしかめ、「去秋の変以来、長門藩の者は、こぞってわが藩と薩摩藩を仇敵視している。それに今、わが公が問罪の使に立ったら、かえって激昂して、帰順の道を絶つようなものである。幕府の有司が大局を考えないこと、甚だしいと言わずばなるまい。できることなら辞退して、これ以上の局面の紛擾を絶つべきである」という意見であった。
 すると、広沢安任がそれを不可とし、進み出て言った。「方今、幕府では内外多事に苦しんでいるが、親藩中に倚頼すべき者が少ない。紀伊侯は、総督とは言ってもまだ年若く、それなればこそわが公に全局を委ねたものと考えられる。まことに重い役目である。それを、命が下って、これを辞するとしたら、わが公の幕府につくす道にそむくことになろう」と。そこでわが公は遂に意を決し、大任を受けた。

 



 軍事総裁の職掌     越えて十七日、幕府はわが公に、陸海軍奉行、講武所奉行大番頭、小姓組番頭、書院番頭、騎兵奉行、歩兵奉行、旗奉行、軍艦奉行、槍奉行、持筒頭、新番頭など、一般の武人の進退を委任された。よって後に、さらに家臣から老中を通じて軍事総裁の職掌をうかがわせたところ、左のような指令を得た。

先般相達し候通り、陸軍奉行その他の役々御委任あそばされ候儀につき、海陸軍事総裁の心得にまかりあり、御軍備に関係の儀、大事は老中より申し断じ、小事は全権をもって指揮いたし、皇国全体の御実備、厳重に相立ち、御威武海外に相輝くの策略を相施し候儀と、相心得申すべく候事。

 この日、将軍家は小納戸の溝口飛騨守をつかわし、つぶさにわが公の病状を問い、火鉢一対、鴨一番(つがい)を賜うた。

        



 【注】

【一 脱走した七堂上】 文久三年八月十八日の政変に、尊譲派公卿である三条実美、三条西李知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の七人は、長州藩兵ととに、長州藩にのがれた。勅勘をうけ、他行、他人面会を禁ぜられた身であったから、この行動は勅命違反の罪を問われることとなったのである。一巻一九七頁を見よ。

【二 門地の上からすれば】 老中は二万五千石以上の譜代大名から選任された。会津の松平家は、徳川氏の分家で家門という価格であり、譜代より高い格式であった。

【三 下札】 五八頁注四を見よ。

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/10(土) 10:18:18|
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