いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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五  わが公参議を辞せられる     『京都守護職始末2』

 参議推任の宣下     これよりさき、十二日(二月)、朝廷からわが公に左の恩詔を賜うて、参議に陞(のぼ)された。

かねがね皇国の御為忠節を抽(ぬき)んで、もっぱら上下の名分を正し、なおまた上京後はかれこれ周旋し、去年八月十八日の一挙につきては、鎮撫方を尽力し、守護職の職掌を励勤す。叡感斜めならず、これによって、参議に推任の宣下あらせられ候事。

 わが公はこれを拝して恐悚に堪えず、みずから省みて過当とし、恭(うやうや)しく左の表を奉ってこれを固辞し、さらにこの叡賞を藩祖に移されんことを奏請した。

謹んで申し上げ奉り候。不肖の容保、忝(かたじけな)くも守護の職を蒙り、貴重く、任大にして、じつに恐懼戦慄の至りに御座候。ただ主上聖明にして、天縦(ほしいまま)に無限の眷顧を蒙り、幸い罪科を免るるを得るさえあるに、何ぞ料(はか)らん、ふかく叡感を被り、御推任を蒙って参議に任ぜらる。天恩の隆渥なる、奉戴、感泣して、山海にも比べ難き冥加の至りに御座候えども、臣じつに功なく、不徳にして、その任に堪え難く、恐懼に存じ奉り候。そもそも容保が藩祖故中将正之は【注一】、慶安寛文の間にあたり、時未だ草創にして学術明らかならず、ひとり正之皇朝の道を好み、ひそかに王室尊崇の意をつくし、もって子孫につたえ、子孫もって事(つか)え奉り、臣今日までもって奉り上げ候は、正之の遺意に御座候。承応二年の冬に至り、幕府その功を賞し、奏して特に従三位に叙され、正之恐懼、辞して御請け仕らず候。伏して願わくば、臣に命ずるところのものをもって、転じて正之に贈賜下しおかれたく願い上げ奉り候。もし御許容なし下され候えば、祖宗の霊魂、感戴限りなく、臣の栄輝もながく窮りなく候。伏して御垂憐を乞い奉り候。恐惶恐惶、頓首頓首。

 つづいて二十日になって、重ねて左の勅令があった。

今度参議推任のこと、御沙汰あらせられ候ところ、しきりに謙譲、固辞の儀、且つこいねがわくば祖先の遺霊に報ずべきの旨趣、神妙の儀と聞し召され候えども、方今の形勢じつもって容易ならざるの儀、守護の職掌の重大なること、すでに八月十八日の一挙に尽力周旋、鎮静の処置、ひとえに叡感あらせられ候間、押して御受けこれあるべきようふたたび御沙汰候事。
 

 


 藩祖に従三位を追賞     しかしわが公は、それでも心安んぜず、ふたたび前旨を申して奏請した。

不肖の臣容保、ふたたび参議推任の特命を降し賜わり、去秋の挙動、さらに御推賞下しおかれ、臣の寵栄かぎりなく、感泣何ぞ止まん。しかれども、臣あえて謙譲をなすにあらず。俯して思うに、立法、伝志じつに正之より基き、世々遺風を守りて周旋仕り、幸い臣が身に及んで、はじめて輦轂(れんこく)の下に奉事し、時の不安に逢い、厳命を奉じ、微力を致すを得るものは、その源すなわち正之の志に御座候。ここに於て、重ねて聖聴を涜(けが)し奉り、その咎(とが)もとよりまぬかれざる儀と、鄙心いよいよ安きあたわず。伏して願わくば、山海の洪量を垂れ、猶臣の微志を矜憐し、臣に賜うところの官を移し、正之に賜わらば、臣の冥加いくばく倍し、且つ、おそれ多くもその人柄に於て相当も仕るべきやと存じ奉り候間、ふたたび尊厳を犯し、祈願し奉り候。頓首頓首。

 越えて三月四日にいたって、朝廷はこれを允(ゆる)し、左の詔を賜うた。

かねがね皇国の御為、忠節を抽(ぬき)んで、もっぱら上下の名分を正し、なおまた上京後はかれこれ周旋し、去年八月十八日の一挙【注二】についても、鎮撫の筋尽力し、守護の職掌を励勤し、叡感斜めならざるにつき、参議推任仰せ下され候ところ、先件輦轂(れんこく)の下にて力を出すことを得るも、その淵源は先代正之朝臣の遺志に基き、余風を仰ぎ候ことにもこれあり、なにとぞ肥後守への叡賞をもって先代に移し、宣下願い奉りたく再応固辞、愁訴の趣、余儀なく相聞え候故に、正之朝臣儀は、治国の政令行届き候名誉の次第もこれあり、従三位に叙せらるるといえども、謙遜をもて御受け申し上げざりし由、その末をもって、追賞されて、従三位を贈り下され候事。
 
 わが公は恩に拝し、家老一瀬要人に、宣旨を奉じて東に下らせ、土津公【注三】の霊に告げさせた。

 
 


 わが公病を押して登城     はじめ浪士をあつめて新選組【注四】を編制したとき、わが公が京都の守護職だったので、これをわが公のもとに隷属せしめていた。
 いま、公が転職するに及んで、幕府は、新選組を守護職の後任者慶永朝臣の下に属せしめようとした。新選組の棟梁たちは、去年慶永朝臣が倉皇として京都を去っていったことなどに不満だったので、しいてわが公に隷属したいと願って止まない。幕府はこの月(三月)、遂にその請を許可した。
 ときに、幕府は内外の機務が多端で、有司たちの議論も紛々として、一向に事の決定がはかどらないので、二月十五日、将軍家からの使者があり、わが公を召した。
 わが公は病褥を離れられない容態であったので、辞退したが、召命がしきりに下るので、やむをえず、十六日病を押し、抱きかかえられながら二条城に登り、賛画に時をすごした。それが終ったとき、将軍家は手はずから備前秀光の刀を賜い、守護職勤務中の労をなぐさめ、この上現職の方も勉励するように面命せられた。

 
 


 再び極秘の宸翰     その夜(十六日)、聖上はまた野宮定功をもって、左のような秘密の宸翰をわが公に賜うた。

またぞろ極秘の書状を遣わし候。過日は拙書送り候ところ、返書、逐一熟覧してふかく悦び入り候。ついては、右依頼の趣意遣わすべくと存じ候ながら、日々と用繁く、寸暇も得ず、只今に至って、未だ書取り得ず候ところ、、長州の一件につき、その方副将となるの由、よって、守護職免じ替えを春嶽となすの趣、逐一承り候。はなはだ残懐の至り、他藩と申し候えども、なにぶん重大の儀、天下の事には替えられずと一橋も申し、決定の旨どもも尤もの儀、なにぶんその方の藩中、兵威よく調(ととの)い候より、登用になり候段は賞悦の至りに候。しかしながら、守護職免じ候段は、ふかく残懐に候。
ついては内尋候は、過日の内勅の件々、とても依頼候期とは存ぜず候ながら、出立までは程も候わんも宜(むべ)ながら、周旋を依頼し候からは一両日、あるいは四日五日位に相済み候とも存ぜられず候えば、とても六ヵ敷きと存じながら、その方のところ如何候や、尋ね候うえ、事済みの上は、さらに守護職に任の儀はなるまじきや。この段内々申し聞き候間、相含み勘考を依頼候事。且つ、前文依頼の件々は、なお復職の上に致すべきや。際限の程も相分らずや。戦場にも及び候わんやの事柄ゆえ、元来重大の事件ゆえ、見通しも相つかず候。なお相談候事。くれぐれも復職の段、ふかく入魂致しおき候事。
     右二個条、内密に談話候事。
なお、返書過日のごとく申し置き候也。秘々別紙にしたため候依頼の儀は、守護職とならば重畳ながら、また右役にも限らず候わんにはゆえ、復職には程あり候えば、職に任ぜずとも周旋相成るべきや。また、一向春嶽へ通書致し試むべきや。なお内密に打明け尋ね候えば、腹臓なく存意を申し聞け、頼み候や。
同鋪者、一端依頼候事ゆえ、その方へ申し聞けおき候。至急筆にも成りがたく候えば、自然日数も経候わん方々(かたがた)、内密に談じ候事。右書状は、元来厳重の取扱いこれなく候えば、左承知おき願い候也。






 わが公の奉答文     わが公はこれを拝読して、恐悚措くところを知らず、謹んで奉答の文を草して、これを奉った。

謹んで言上し奉り候。臣不肖にして、しばしば聖明の垂憐を蒙り、今日に至るまで罪戻(ざいれい)を免かるるは、鴻恩万重、謝して尽し難く候。過日下し賜わるところの宸翰、旨遠くして詞深し。日夜、後の御沙汰を仰ぎ待ち奉り候ところ、当十一日、幕府より守護職を免じ、さらに軍事総裁職並びに副将たるべきの旨を命ぜられ、幕府において長藩の罪を糾(ただ)し、時宣次第にて干戈(かんか)を動かすにも相成り申すべきや。
しかるに一昨年、聖明の厚眷山よりも高く、海よりも深し。しばらくも輦下を離るるは、臣が情の忍びざるところ、しかれども弓馬の習いとして、尺進あるも寸退なき常にして、速やかに領承仕り候えども、任に彼地に赴き候こと、御深旨いかが思し召され候やと、鄙心寸時も安んぜず、聖旨を伺い奉りたく存じ居り候ところ、委細の勅書垂れ賜わり、とりあえず推し戴き、謹誦し奉り候。御用繁の折から、巨細を御両通示し賜わり、いよいよもって御依頼を蒙り候儀、じつに心肝に徹し、感謝、流涕、紙上にても申し上げがたく候。守護職被免の段をくれぐれも御残懐におぼしめし下され候儀、ふかく恐れ入り存じ奉り候。臣においても、すでに昨年中、東下を命ぜらるるの時に言上し奉り候通り、一藩の決心は、京都をもって墳墓の地と定め参り候えば、今更未だ宸襟を安んずる能わずして、速やかに帝都を離るること、臣一人のみならず、全藩の遺憾この上なき儀に御座候。
しかるに拙藩、兵備調(ととの)い候とて、登用致され候段、御当悦を蒙り、重大の儀なれば転職御尤もと仰せ下され、まずもって安心仕り候。したがって、御内頼の儀に御座候ところ、出立までは大分間合もこれあり、五日、十日の事にはこれあるまじく、かつ守護職の儀免職遠からず候間、臣に命ぜられ候て周旋相届き申すべきや、または、春嶽に命ぜられ候方が速やかに届き申すべきや、なにぶん、あらかじめ申し上げ難く候えども、当職の儀に御座候えば、春嶽へ御沙汰あらせられ候わば、当人も謹んで遵奉仕るべく、かえってその方が御都合しかるべきかと存じ奉り候。しかし、そのへんは御沙汰次第、いかようとも仕るべく候。
さて不肖容保、すでに山海の厚眷を蒙り、守護職免ぜられてなお復職をも思し召し下され、冥加至極と感戴に耐え難く存じ奉り候。前文にもほぼ申し上げ候通り、すでに一度守護職を辱うし候上は、ひそかに期し候よう聖慮を安んじて、四海治平に至らずば生きて還(かえ)らざるの鄙存に御座候間、ながく輦下に罷りあり候儀、もともと臣の懇願するところに御座候えども、臣の進退は臣としてなんとも申し上げ難く、もし聖慮台命仰せ聞けられ候上は、遵奉候条は相違御座なく候間、ひとえに寸衷(すんちゅう)のほど御諒察下し置かれたく願い上げ候。


 



 「御内頼」とは何か?     当時、わが公は二回の宸翰を拝読したものの、その御内頼とはどのようなことであるか、百万苦慮してみたが、遂に見当がつかず、ただ事が何であるにせよ、遵奉するのが臣子の道であるというつもりで、上に掲げたような答書を奉ったのである。
 そもそも去年、島津久光朝臣に下賜された宸翰【注五】を拝読してみると、「ほかに従来朕一身にふかく苦心のこともこれあり候伝々」(全文は前にある)とある。それに対して久光朝臣は、「ほかに従来御苦心の御事があらせられ候間、御依頼の節は周旋仕るようにとかねて仰せつけられ候旨、委細拝承し奉り候。恐れながら、御談合なんとも承知仕らず候えば、いかようとも申し上げ難く候。御趣意承知仕り候わば、その節はなにぶん申し上げ奉り候」とお答えしたとのことである。つまり、事柄によっては叡慮を佐(たす)け奉ろう、というもののようである。
 わが公に宸翰を賜わったのは、久光朝臣が在京していたときのことで、しかも同朝臣が「肥後守へこの宸翰を同様に下されたしとの叡慮は、じつもって有難き御趣意には候えども、この儀はまず御猶予あそばされたく存じ奉り候」と奉答したにもかかわらず、「可否の答書もらいたく候。右いよいよ承知にこれある時は伝々」の言葉のある宸翰を賜わったのは、ふかい叡慮があったのだろうと考えられる。

 
 


 朝廷の大革新か?     御内頼に関して、いま叡慮のあるところを推察し奉るのは、恐れ多いことではあるが、それはおそらく朝廷の大革新のことではなかったかと思われる。
 その当時の朝廷のありさまをみると、数十年の積弊がわだかまっていて、勅諚があっても、廷臣どもがややもすると遵奉せず、甚だしいときは叡慮に反したことでも枉(ま)げて叡慮となし、偽勅をすらも発布するようになったのは、近々数年間の例であって、聖上も、これをどうなさることもできないまでに至ってしまった。
 去年、実美らの人々が西方へ奔(はし)り、また同臭の堂上の多数が勅勘の身となった当時でさえも、事が叡慮の通りに行われない事が多かった。そのことは、後に掲げるが、叡慮では、いっさいの事を挙げて幕府に依任するという詔(みことのり)があったにもかかわらず、世に発表される勅令は、その御主旨に反したことが一二ではなく、また、勅令と叡慮との齟齬(そご)していたことも少なくなかった。と言うのも、けだし当路の公卿たちが、叡慮を蔑(ないがしろ)にするつもりはないにしても、積年の弊習で叡慮がなかなか下達しないことが多いのは、察するにあまりあるであろう。いま、この失体を一新しようとなされば、旧慣を株守している堂上が、じぶんたちに不利な刷新に反対することは炳乎(へいこ)として明らかである。これが「なにぶん多人数を承知させる儀、兵権なくては」と詔のあった理由ではなかったのか。また、それなればこそ「関白以下へも一言も申さず」と詔(みことの)らせられたのであろう。
 御内頼の件が、以上推察し奉った通りでないにしても、長州のことと関係のないことは、宸翰の文言に明らかである。また、攘夷に関したことであったとしたら、関白殿下にまで秘密にしておく必要はないであろう。また、わが公の一身に関する事でないことは、「春嶽へ通書を致し読むべきや」とあるから、それで明白である。
 この御内頼を、討幕のことであると言うものもあるが、それは、当時の情勢を知らないものの言うことである。幕府の親藩である慶永朝臣とわが公とを特に選んで、この御内頼のあったのは、常識あるものの眼からは考えられないことであるばかりか、公武一和して、旧により幕府に委任せられるとの叡慮は、久光朝臣に下賜された宸翰が証明して、疑う余地はない。
 そうなれば、御内頼とは、朝廷革新の外助のほかに察しようがないのではなかろうか。であればこそ、慶応年間、過激堂上が漸次斥けられ、叡慮が旧にくらべて貫徹する日がきたので、遂に御内頼に関して、二度内勅が下らなかったのであろう。

 【注】

【一 藩祖故中将正之】 保科正之。一六一一(慶長一六年)~七二(寛文一二年)。徳川秀忠の妾腹の子で家光の異母弟。信濃高遠藩主保科正光の養子となり、寛永八年藩主となった。のち出羽山形二六万石に移り、同二十年会津二三万石の大名となった。正之は名君と称され、藩政に治績をあげたが、また家光の遺言によって、幼少の将軍家綱の補佐として、家光死後の幕政の安定をはかった。朱子学と吉川神道の熱心な信奉者であり、彼の執筆にかかる「会津家訓」(中扉裏図版を見よ)は、藩政の基本方針を示すものとして、御世まで尊重された。

【二 八月十八日の一挙】 一巻一八九頁を見よ。

【三 土津公】 正之の諡号(しごう)。彼が死んだ時、儒礼をもって会津磐梯山の南麓に葬り、私に諡(おくりな)して土津霊神と号した。

【四 新選組】 一巻八七頁を見よ。

【五 久光朝臣に下賜された宸翰】 一巻二二一頁を見よ。

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  1. 2012/11/11(日) 10:25:04|
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