いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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一  京都守護職の起因      『京都守護職始末1』

 鎖国から開国へ     そもそも徳川氏が豊臣氏に代わって政権を執るや、もっぱら鎌倉幕府の制にのっとり、みずからは関東八州の険要の地に拠って、まずその根本をかため、群雄を諸国に分封するに際しては、枢要な地には譜代【注一】、もしくは近親の諸将を配置して万一のときの衝にあたらしめ、京都には所司代を置いて譜代の近親をその職にあて、畿内から西の総鎮を兼ねさせることにした。
 そのようなわけで、一度命令が発せられると、いわゆる置郵して命を伝えるよりもすみやかに伝わり、すこしの凝滞もなく整然として行績の効果があがった。特に朝廷に対しては、供御の御料の増献をはじめとして、久しく絶えていた立后【注二】、立坊【注三】、大嘗会【注四】など種々の式典を再興して、皇室を敬う誠心をつくしたので、朝廷においてもまた、嘉尚のあまり優渥な待遇をたまわることとなって、上下の関係は洋洋として融和し、国内は靡然としてその徳化に浴し、昇平を唱うること二百六十余年の久しきに及んだ。武門が政権を執って以来、このようなことは未だかつてなかったことである。
 ところが安政のはじめになって、幕府は祖宗からの鎖国の制度をひるがえして、開国の方針にあらためた。これまでつづいた国是の大体を変更したのであるから、その影響はあらゆる方面に及び、漸次あらためなければならないことが次々に出てくるのは当然の情勢である。京都守護職を置くことになったのもその一例で、わが旧藩主故正三位松平容保こそ、この職についた始めで、また終わりの人であった。

 



 戊午の大獄     はじめに幕府が開国の方針を断行するについては、それがじつはわが国未曽有の大事であるのに、勅栽も待たずに決行したことは、事蒼皇に出た蹟があるので、かしこくも朝廷の嫌疑にふれ、したがって公卿や諸侯のなかにもこれを憤慨し、国是を鎖国に挽回しようとして攘夷を主張する輩が多く、ひいては草莽の徒にいたるまで滔々としてこれに雷同し、人心はようやく恟恟として、ここに内乱のきざしがあらわれくるに至った。
 この時にあたって、幕府の大老井伊掃部頭直弼朝臣は、はやくも既背の人心を収攬して幕府の権勢を発揚しようという意図から、世に言う戊午の大獄【注五】を起こしたが、その処置が貴紳草莽のけじめもつけず、当を失い、過酷きわまるものであったので、その結果は、いつそう衆心を離叛させることとなった。
 なかでも水戸藩のごときは、憤激もっともはなはだしく、その藩士たちは、直弼朝臣を不倶戴天の仇敵とし、ついに万延元年三月三日、登城の途中、桜田門に待ちうけてこれを殺害するに至った【注六】。
 これはじつに未曽有の大珍事であるうえに、御三家【注七】の一つ水戸家臣の所為というので、上下の驚愕は言うまでもなく、とりわけ将軍家はその兇暴をはげしく怒られ、にわかに溜間席【注八】の諸大名を召し、そのことについて諮詢された。
 わが公もまたこの召命をうけて、三月下旬江戸に着いた。

 



 水戸藩密勅問題     これよりさき、戊午の大獄のそもそもの原因となった、朝廷から水戸家に賜った勅書【注九】があって、幕府からそれを奉還するようしばしば水戸家に令したのだが、水戸の藩士は言を左右にして一向にその令を奉じないばかりか、あまつさえ徒党を結んで国境を守り、勅書が万一国境を出るようなことがあれば、兵力に訴えてもそれを取り戻そうなどと唱導して、幕使に礼を失するなど、その無状もまたはなはだしかった。
 わが公らが登城してみると、老中久世大和守広周朝臣、安藤対馬守信正朝臣などが台旨を伝えて、水戸藩士の兇暴の罪を鳴らし、尾張、紀伊の両家に命じ、兵力にかけて典刑を正そうと強硬な手段をもち出していた。わが公は大いにおどろいて、「なるほど水戸藩士の兇暴はじつにたとえようのないものであるが、しかし水戸藩は朝廷の御信頼もあついし、列藩の嘱望するところでもある。なによりも御三家の筆頭ではないか。思うに、今回のことは、一部藩士の過激分子が脱藩してこの挙に及んだものであり、もとより水戸家も取締り緩慢の責は免れないとしても、藩みずからが犯した事とは事情が異なるから、その顛末をよく探求し、また天下の大勢にも鑑みて、他日に累をのこさないようにするこそ今日の急務ではあるまいか」と論じたが、老中たちは、「台慮がすでに決せられたあとで今さらひるがえすべくもない、足下に申分があるなら、御自身将軍に言上なさるがよい」という返答で、意見を容れようとしない。わが公もまた、それ以上言うこともなく退出せられた。
 執権職として塩梅(あんばい)の任にある者が、この至当な建議を聞きながら、一人としてこれを執達(しったつ)するものがないのはじつに心外のきわみであるが、それによっても当時の幕府の廟議がいかに切迫していたかを、推知することができよう。
 その後いくばくもなくまたお召しがあり、将軍家から親しくわが公の意見を諮問され、その言を嘉納されて、水戸藩問罪のことは沙汰止みになった。将軍家は、わが公のはからいを深く嘉賞され、この年(万延元年)十二月十二日、左近衛権中将に官位を昇進された。
 そこでわが公は、さらに宗家と水戸家とのあいだを和融させようと、文久元年三月、家臣外島義直(機兵衛)、秋月胤永(悌次郎)の二人に旨をさずけて、上州館林につかわし、館林の藩臣岡谷繁実(当時、紐吾)が水戸家の事情にくわしいと言うので、これに就いて問わしめた。しかし繁実は、わが公の予期に反し、水戸の事情にくわしくないとわかったので、外島、秋月の二人は常陸の笠間に足をのばし、加藤有隣(後、桜老)に会って、ほぼ水戸の事情をきき知り、ただちに水戸に行って、武田正生(修理、後伊賀守、号は耕雲斎)、原忠成(市之進)に面会した。このとき正生、忠成等は、同藩の過激の徒の兇暴なふるまいが主家に累を及ぼしたことから日夜憂慮にしずみ、茫然としてなすところをしらないありさまだったので、いまわが公の意を聞くに及んで、あたかも津口で舟をみつけたように、大いによろこび、胸襟をひらいて事の顛末を陳述し、ひたすら救解を求めた。
 この復命をきいてわが公は、ただちに委細を幕府に言上して言いなだめる一方、水戸藩とはまた家臣を往復させ、切にさとして恭順の実を表すようにさせたので、一滴の血も流さずに勅書を返上させ、事なくすべてはおさまった。
 将軍家は、わが公のこの調停の労を嘉賞され、これよりときどき登城して遠慮なく年寄どもと相談するようにと台命があった。これが、わが公が将軍家の信任をこうむり、同時に幕府の諸有司に推重される始まりであって、じつは文久二年五月三日のことであった。

 



 【注】

【一 譜代】 譜代大名。江戸時代の大名の中で関ヶ原の戦以前から徳川氏の臣であった者をいう。

【二 立后】 公式に皇后を立てること。

【三 立坊】 立太子。

【四 大嘗会】 大嘗祭、おおなめまつりともいう。天皇が即位の礼ののち初めて大嘗宮で行う新嘗祭。その年の新穀をもって、みずから天照大神および天神、地祗を祀る大礼で、神事の最大のものであった。

【五 戊午の大獄】 安政の大獄ともいう。安政四年(一八五七)、アメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約の締結をせまった。幕府首脳は、これをやむをえないこととし、交渉をすすめるとともに、その勅許をえようとしたが、大名、藩士、浪人のなかに、開国に反対する攘夷派が勢力をもった。彼らは朝廷にはたらきかけ、その権威をかりて、目的を達しようとした。水戸藩前藩主徳川斉昭とその家臣が、その中心であった。
他方、当時の十三代将軍家定は、凡庸また病身であったので、そのあとつぎの問題が生じた。幕府首脳の施政に批判的な大名、藩士は、聰明の聞こえの高かった一橋慶喜(徳川斉昭の実子)をあとつぎにしようとし、これまた朝廷にはたらきかける運動をした。
越前藩主松平慶永と腹心橋本左内が、その派の中心であった。これにたいして彦根藩主井伊直弼や幕府首脳は、将軍周辺の婦人たちとむすんで、慶喜を推すことに反対し、血縁の近い紀州藩主徳川慶福を候補者に推して運動した。こうして条約問題と将軍継嗣問題が同時に起こったため、これを機会に封建支配者内部の対立は公然化した。もともと攘夷派と一橋擁立派とは、政治的立場が一致するものではなかったが、幕府の現状に批判的である点で、次第に連携がとられ、朝廷とむすんだ反幕閣の大きな勢力ができあがる形勢となった。これを見た幕府首脳は、安政五年四月、井伊直弼を大老に就任させ、幕閣を強化するとともに、強硬策をとることとなった。直弼は、一方では、勅許をえられぬままに、日米通商条約の調印を断行し、他方、慶福を将軍継嗣に決定して、そのうえで攘夷派、一橋派の弾圧をおこなった。すなわち水戸の徳川斉昭父子、尾張藩主徳川慶恕、越前の松平慶永に隠居、謹慎を命じた。ついで、梅田雲浜、頼三樹三郎ら、公卿とむすんでいた浪人たち、小林民部権大輔ら反幕派公卿の家臣、橋本左内、吉田松陰、鵜飼吉左衛門ら、水戸、越前、長州、薩摩の藩士等、百余人を逮捕し、処刑した。さらに翌年には、反幕派に加担したという理由で、左大臣近衛忠煕、右大臣鷹司輔煕、前関白鷹司政通、前内大臣三条実萬は官を辞し剃髪することとなった。この安政の大獄を契機に、幕閣批判の勢力は、尊王攘夷派として結集し、一層反幕の色彩を濃くすることとなった。

【六 殺害するに至った】 桜田門外の変という。安政の大獄の弾圧政策は、志士の間に井伊大老にたいする反感をつのらせ、大老暗殺計画がたてられた。その中心は、水戸藩の金子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介、薩州藩の有馬新七らであった。万延元年(一八六〇)桃の節句の三月三日、井伊大老が登城のため桜田門にさしかかった時、十七名の刺士がこれを襲撃した。彼らは関鉄之介ら水戸藩士と薩摩の浪人有村治左衛門であった。大老が白昼江戸城の門前で殺されたことは、幕府の権威の失墜を世人に印象づけた。

【七 御三家】 大名の最高の家格で、徳川氏の親族として、もっとも重んじられた。徳川家康の子は、重要な藩の藩主に任じられたが、その中で、尾州藩主となった九子義直、紀州藩主となった十子頼宣、水戸藩主となった十一子頼房の後だけが継続し、三家と称され、重大な政務の相談をうけ、また将軍家の系統が絶えれば、養子となって継ぐのを例とした。

【八 溜間席】 江戸城中での大名の詰所は、大名の家格によって、大廊下、大広間、溜間、帝鑑間、雁間、柳間、菊間に区別された。溜間は、徳川の分家である家門のなかの高松、桑名、会津の松平家、および譜代の名家である井伊、本多(岡崎)、酒井(庄内と姫路)、榊原の諸家が列した。また老中を退職した者は、一代限り溜間詰格を命ぜられた。すなわち幕府に近い関係の実力藩主のグループで、定日に登城して、政務に関与する特権をもっていた。

【九 水戸藩に賜わった勅書】 幕府が、勅許なしに日米通商条約に調印したことは、攘夷の意見をもつ孝明天皇や近衛忠煕、三条実萬たち朝臣の憤激をまねいた。これにはたらきかけた攘夷派志士の策動もあって、安政五年八月七日、水戸藩に勅書が下がった。その内容は「開港してはならぬという勅答にそむいて条約を結んだ幕府のやり方を不満に思う。諸大名と合議して、しかるべく幕府を助けよ」というものであった。水戸藩の志士は、この勅書を諸藩に伝達し、朝旨の実現をはかり、これによって、井伊派を攻撃し、斉昭らの処分解除をおこなわせようとした。これにたいし幕府は、勅書の伝達を禁止し、さらにこれを返還させるよう水戸藩にせまり、ついに勅諚返納の勅書をもらいうけ、これを水戸に伝えた。そこで、これにしたがおうとする水戸藩首脳と藩士穏健派にたいし、尊攘派は返納を実力で阻止しようとして、幕府と 水戸藩、また水戸藩士内部の対立は激化した。斉昭もついに勅書を幕府を通じて返納するに同意するほかはなかった。こうした情勢のなかで、尊攘派は、井伊大老暗殺を計画し、桜田門外の変をひきおこした。
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  1. 2012/10/24(水) 20:26:39|
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