いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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七  軍備更張と摂海の防備     『京都守護職始末2』

 兵制を革新     二十四日、幕府はわが公に左の命を下して、軍備更張のことを委任した。

海陸の御軍備取調べ仰せ出だされ、追々御変革のかどもこれあり候えども、未だ御全備相成らず。いよいよもって御更張の御趣意につき、御自分の見込みなど役々と申し談じ、速やかに御軍備相立つよう十分指揮致さるべきこと。

 よって、わが藩ではまた大いに軍備を更張し、兵制を革新して、もっぽら西洋式を伝習させた。ついで三月朔日に、幕府は金二万両を貸与して、軍資にあてさせた。
 二十八日、幕府は家臣の小室当節、秋月胤永らに命じて、摂海の砲台築造工事を監督させた。
 それについては、去年将軍家が親しく巡視して、摂海防備について規画するところがあったし、わが公もまた家臣を従行させて、事にあずからしめたこともあるので、いまわが公が軍資更張の委任を蒙るに際して、このことを命ぜられたわけである。





 病天聴に達す     二十九日、将軍家の小納戸頭取須田淡路守を遣わされて、わが公の病を見舞い、八丈縞三反、魚一籠を賜わり、そのうえ侍医を遣わして病を診断させた。その後、連日、または隙日に、近臣もしくは侍医を遣わし、菓子や魚を賜わるなど、恩遇が甚だ渥(あつ)かった。
 三月五日、わが公の疾病のことがかしこくも天聴に達し、その日、二条殿下が訪問して恩詔をつたえられ、典薬の高階丹後守を遣わされ、来診させた。





 将軍恩遇に感激     この日、将軍家は召しによって参内し、聖上はしたしく内殿に召された。やがて、禁苑の御遊に陪席をゆるされ、御茶屋で種々の盛宴がはられ、数献の天盃で、将軍は賜酒の量をすごし、恩遇優渥、ようやく夜半におよんでから御暇をたまわり、二条城にかえった。
 すぐさま側衆土岐下野守を召して、「今日の天恩くらべるものがなく、恐喜惜くところをしらない。はやくこのことを肥後守へ告げよ」とあり、昧爽(ほのぼのあけ)、下野守はわが公用人を招いて、その台命をつたえた。そのわけは、けだし今春上洛以来、官位昇進や御料の御板輿の恩賜のことから、この日の恩遇など、とりわけ隆渥を重ねるにいたったのは、その間にあってわが公が尽力された結果であったので、将軍家はこのことを多として、特にこの命があったわけである。
 十二日、伝奏衆の飛鳥井雅典卿から勅がつたえて、わが藩の唐門、蛤門の守衛をやめ、さらに堺町門の守衛を命ぜられた。これは軍事総裁職に転じたからである。





 参豫の職を廃す     十四日、朝廷ではわが公の奏請を允(ゆる)して、参豫を罷(や)め、特に議事のあったとき参内して席につらなるように、との命があった。ひきつづいて徳川慶喜卿、松平慶永朝臣、伊達宗城朝臣、山内豊信朝臣、島津久光朝臣なども、ことごとく罷めることになった。はじめ参豫が置かれてから、その弊害として政令が多岐に出ることになり、幕府の役人と参豫の諸侯とが相扞格するような弊が生ずるに至った。長岡護美(肥後侯の弟で、後に本家を相続した)等がこのことを概(なげ)いて、「これは、朝廷が政権を幕府に委任するという主旨にもとることだ」と建議したので、朝廷は参豫の職を廃止【注一】することにしたというわけである。

 



 慶喜卿総督となる     二十日、幕府は、慶永朝臣が守護職を拝したけれども、まだ兵員が上京しないので、わが公に左のような命があった。

守護職中、御固め罷りあり候場所並びに伏見街道、稲荷山御固めの場所とも、松平大蔵大輔(慶永朝臣)家来へ引渡し候よう最前相達し候えども、引渡しはいましばらく見合わせ候よう致さるべく候。もっとも、大蔵大輔へも相達し候事。

 二十五日、幕府は徳川慶喜の後見職を罷めて、改めて禁裏守衛総督、摂海防備指揮とすることを請うた。朝議は、これを裁可した。





 長藩処分の時期切迫     二十八日、さきに幕府が毛利慶親卿へ朝旨をつたえて、末家と吉川監物らを大阪に召した。徳川茂承がおもむいて処断しようとして、その時期がようやく迫っていた。
 あたかもその時、わが公は、春以来の病気がながびき、藩医や幕府の侍医らの治療で療養していたが、なかなか快方に向かわないうちに、二月十六日、将軍家の召しに応じ、病をおして登城した。病褥を数日離れて帰っきて後、病状はさらに重きを加えた。軍事総裁職の命を受けても、未だ起き出して事にあたることができず、むなしく数十日が過ぎていった。当時、随従していた近臣某が、筆記のなかで、左のように公の容体を記している。

御不快の折、御登京の諸侯方が御用談のためにお出につき、まことに御繁用にて、自然と御無理にならせられ、この後は、しだいに御難儀あそばされ、御側を人の歩み候も御困り、夜中は御明りすらも御迷惑あそばされ候につき、遠く難し、風呂敷ようのものをかけおき、且つお次ぎ二間も、三間も隔たり居り候ところにて、人のせきを致し候すら、御響きあそばされ候につき、人々気をつけ、罷りあり候。土屋一庵も、かようの御症は、これまでの間に両三人位ならでは療治致し候ことこれなしと申し候。 
右によって、その容体の一斑を知ることができる。






 わが公辞職を請う     しかるに、いまや時局が迫っているので、職を曠(むな)しうすることを恐れ、この日、書を呈して辞職を請い、なおまた左のような書面を呈して、時事の意見を建議した。

拙者儀、不肖の身をもって京都守護職を仰せつけられ候以来、数度も重賞を蒙り、鴻恩身にあまり、重畳有難く存じ奉り罷りあり候ところ、今般当職を仰せつけられ、加えて御内命をも蒙り、部門の冥加この上なく、有難き仕合せに存じ奉り候。及ばずながら尽力、御奉公仕り候覚悟に御座候ところ、先だってより図らずも病にかかり、種々療養仕り候えども、今において平臥の体、即時全快の見込みも御座なく候。
眼前に差し見候天下重大の御処置ども、一日も等閑にすべからざるの機にのぞみ、急速に全快見えかね候病に臥し、職を曠しうして罷りあり候ては、寸時も安からず、恐縮し奉り候間、当職ならびに御内命の儀は御免下されたく願い上げ候。御重恩のこの節がら、御免願い奉り候もじつに恐懼至極に御座候えども、止むをえざる仕合せなれば、御憐察の上にて御許容下させられたく願い奉り候。以上。


別紙建議書

天下の形勢、日々姑息、苟安にながれ、ここに於て綱紀御更張これなく候わでは相成らず、つらつら勘考仕り候ところ、昨年来御上洛を勧め奉り候も、これまでのところは事にのぞみ、拙者微力を出し候事も出来致し候えども、この上は臨機応変の処置とは違い、憚りながら公方様御自身より御憤発あそばされ、したがって大小の御役々ども御志を承け、創業開基の思いを起し、尽力致し候わば、天下の総力、自然に一致に相成り、内には長州藩、外には外国の処置ども、品は変り候えども、御武威をもって綱紀御更張なされず候わでは相成らざる儀に御座候。
しかるところ、長藩の儀御取きめに相成り候御処分もこれあり、外国の義も御請【注二】仰せ上げられ候儀もこれあり候えば、この上はその見込みをもって、御手下に相成り候までは御座候。並びに長藩にても、いかが違背申すべきも計りがたく、外国にていかが不承知申し出で候も計りがたく、いずれ寸時も御油断なく、それぞれ御手配あらせられず候わでは相成らざる儀に就いても、拙者に於ては御内命仰せつけられ、奮発勉励して、鴻恩の万分を酬い奉るべきところ、別紙に申し上げ候次第にて、病症急速に全快の程見がたく、なにぶん当惑仕り候。
しかしながら、根元の政府の御威光相立ち候よう、公方様御自信より御憤発あそばされ候て、御目的は前段に申し上げ候通りに御座候間、しかるべき人物を御択び仰せつけられ、寸時も機会を御失いこれなきよう仕りたく存じ奉り候。
拙者、退職願い奉り候身として、右ようの儀を申し上げ候も、分際をこえ候次第にて、恐懼至極に御座候えども、国家の御為、心づき候ことども、すこしも伏蔵致し候ては、かえって恐れ入り候儀に御座候間、忌憚なく申し上げ奉り候。ついても別紙の趣意、急速に御許容下されたく願い上げ奉り候。以上。


 幕府は慰諭して、これを允(ゆる)さない。切に病を養って、恢復を待ってからのことにしよう、との優旨を下された。





 慶喜卿の特性     そもそも軍事総裁職は、陸海軍の総将であるから、この職に補せられることは、真に部門の光栄であること、言うまでもない。とりわけ、いま事あろうとする時機であるから、なおさら進んでその職につくべきであるところを、これを辞退されようというのは、もとより病痾のため万止むえないことに違いないが、それだけではなく、別な原因があってのことでもあるのである。
 元来、一橋慶喜卿【注三】は資性明敏で、学識もあり、その上世故に馴れているので、処断流るるがごとくであり、すこぶる人望のある人であるが、それは、単に外観だけのことで、その実、志操堅固なところがなく、しばしば思慮が変り、そのため前後でその所断を異にすることがあっても、あえて自ら反省しようともしないのが卿の特性である。
 今や、卿は総督の職にあるので、わが公は、事々にその指揮を受けないわけにゆかない。これがじつに難儀なことで、わが君臣は、切にこのことについて憂慮していたのである。また、このとき、卿は因州、備前藩士らの入説【注四】に惑わされ、長門藩の処分についても、その議論が前とはすこぶる異なってきた。





 慶喜卿の志想の一斑     当時、わが在京の重臣から、会津の重臣に送った書面がここにある。卿の志想の一斑を知るのに便利である。左のようなものである。

かねて御内命を御蒙りあらせられ候ところ、永永の御不快にいらせられ、今にも不時の変出来候とも、御出馬なされ難きことに候えば、この節、当御職ならびに御内命とも、御詫び仰せ上げられ候て宜しかるべき儀と存じ奉り候。且つ、この度一橋様御総督にならせられ候については、因、備をはじめ、暴論の徒の入説致すべく、したがって長州の御処置も最初の御模様と違い、寛大の御振合と聞え、さ候わば、追々長藩も入りこみ申すべく、その上一橋様の御気質にて、上に御立ちなされ候ては、かねての御手振もあらせられ候ことにて、おそれながら中将様の御誠意、なにぶん上下へ貫かせられ候よう相成るまじく存じ奉り候。(前後を略す)

 



 老中らの憂い     これよりさき、わが公が守護職から陸軍総裁職に転ずるという報告が関東に達すると、板倉勝静朝臣がふかく心配し、同役の井上正直朝臣、牧野忠恭朝臣らと連署で、書面を総裁職、直克朝臣など、在京の同役の面々に送った。

一翰拝啓仕り候。されば肥後殿に五万石の御加増下され候は、御尤ももの御処置と存じ奉り候。
しかるところ、守護職御免、陸軍総裁職を仰せつけられ候やの風聞これあり、まことに驚愕の至り、いかがの御趣意に候や。実のことにこれあり候えば、もはやとても御挽回は御六ヵ敷儀と、さてさて嘆息の至り御座候。
右はいかなる御存念に御座候や。右にて、御挽回御為に相成り候と申す顕然たる御見込みこれあるの儀に候わば、委細の事情相伺いたく、万万一参預の衆より申し立て、右ようの御論貫きかね候事や。ほかの儀と違い、容易ならざる儀なれば、参預の面々何と申し上げられ候ても、御英断をもって御取り計らい方もこれあるべきの儀と、甚だもって残念存じ奉り候。
肥後殿儀は、世上一同、幕府の柱石と存ぜざる者はおそらくこれあり申すまじく、公論の帰するところ、人望の□するところ、真に御一和を整わせられ候までは、決して京地を離れ候ことは出来難き人に御座候。かならず天下の動静に関係し、人心の惑乱もまたこれより起り、いかなる変事も出来(しゅったい)すべきも計り難く、くれぐれも嘆息の至りに御座候。是非なんとか御引直しの御工風これなくては、決して御為に相成らざる儀と、一同寝食を忘れ、心痛至極仕り候。厚く御賢慮これあるよう、ひとえに相願い候。一橋公へも、とくと仰せ上げられ下さるべく候。まったくの風聞に候えば、天下のため賀すべき儀と存じ奉り候。この段、とりあえず御模様伺いたく、匆々かくのごとくに御座候。以上。(二月十八日)


 勝静朝臣らは、その後も、しばしば書をもって、わが公の復職のことを在京の閣老に催促してきた。

一橋殿何と仰せられ候とも、上意をもって御押しつけなさるべく、当時の急務は肥後殿の復職、図書(小笠原長行)の再勤【注五】と存じ候。御当地にては、いかよう存じ候ても、取り計らい方も御座なく候。各様の御骨折よりほか致しかたこれなく候。毎々申し上げ候えども、この儀は是非とも御周旋なさるべく候。じつに御為によろしき儀と存じ候間、なおまた強いて申し上げ候。(前後を略す。四月四日付)

 



 茂承卿の建議     たまたまこの時、徳川茂承卿からも幕府へ建議するところがあった。その一つは、毛利慶親卿を諭して、内訌を鎮めしめること、もう一つはわが公を京都から去らしてはならぬということであった。その書は、左のようなものである。

廟堂の神算をわきまえず、みだりに申し上げ候段、まことに恐れ入り候えども、なにぶん区々の誠、黙止し難き儀もこれあり、再度の建言を仕り候。
松平肥後守儀、今般、守護職を御免に相成り候は、ふかき御趣意もこれあることと恐れ察し奉り候えども、先頃申し上げ候通り、今の時令に当り候ては、皇国の安危に関係仕り候こと故、風俗、人情に馴れ候者にこれなく候ては、然るべからずかと存じ奉り候間、肥後守儀を今しばらく輦轂の下に差し置かれ候よう、多罪をかえりみず、愚意を相尽し申し上げ候。この段、御憐察下さるべくよう願い奉り候。(前後を略す)






 慶喜卿詰問さる     越えて四月六日、幕府は、島津久光朝臣以下在京の諸侯に、時事の意見を諮詢したところ、議論は区々であったが、京都守護職については、ことごとく茂承卿の建議のごとくであった。ついで朝廷から、わが公復職の勅が幕府に下った。
 しかし、幕府はまだそのことを決行するに至らなかったところ、ある日、禁中に舞楽の催しがあった。
 親王、公卿をはじめ、召されて拝観した。そこで、総督もまた参内あったところ、二条殿下が催しのひまをみて、総督に、「前日、肥後守を再び守護職にするようにとの叡慮を通じたのに、未だその下命のないのは、どういうわけか」と詰問された。総督は恐悚して「目下、事が多いのにまぎれて、知らず識らず遷延したにすぎません」と答えた。すると、殿下は「特に叡旨を下したもうたのだ。これ以上の国家の重大事はないはずである。卿のいまの言葉は奇怪である」と、いつにない激しい顔いろ、言葉つきであった。
 総督はしどろになり、「肥後守が目下病気が甚だ重くて、万一のことがないとも保し難い状態です。切にその軽快を持っているけれども、不幸は日々重くなるのみです。それで、未だ復職の命を出さずにおりました。しかし、今日の教命で、事の重大なのがわかりましたから、早速肥後守に内諭して、叡旨を拝させることに致します」と答えて、わずかに一時を弥縫(びぼう)した。





 【注】

【一 参豫の職を廃止】 幕府と参豫大名との間の関係が冷たくなったきっかけは、横浜鎖港問題につき、一橋慶喜や幕閣が鎖港断行の強行論を唱えたのにたいし、参豫の松平慶永、島津久光、伊達宗城らはこれに反対し、このため朝議が粉砕したことにあった。しかし慶喜や幕閣が、横浜鎮港の実現に自信をもっていたのではなかった。朝廷との関係をめぐって、久光(薩州藩)と幕府、慶喜と老中の間にだれが政局の指導権をとるかの抗争があり、その複雑な駆け引きの道具に横浜鎖港問題が供されたのであった。参豫諸大名は、幕政への発言権を要求し、御用部屋に出入することが認められたが、結局自己の意見が通らぬとなると、幕政改革の熱意を失い、元治元年の二月から三月にかけ、次々に参豫の辞表を出して帰国し、ここに朝廷参豫の制は二ヵ月余で廃止されることとなった。

【二 外国の義も御請】 元治元年二月十九日、将軍は、横浜鎖港の成功を期するとの方針を奏聞し、天皇はこれを嘉納するとの御沙汰書を手交した。

【三 一橋慶喜卿は…】 慶喜にたいする本書の評価については、一巻解説二五五頁を見よ。

【四 因州、備前藩士らの入説】 因州、備前両藩の藩論は、攘夷論であり、長州藩にたいする処罰には反対であった。

【五 図書の再勤】 小笠原長行(図書頭)が老中を罷免された事情については、一巻一五一頁を見よ。

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  1. 2012/11/13(火) 16:45:15|
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