いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十  横浜鎖港と長門の処置に関する勅書     『京都守護職始末2』

 長藩問罪の挙迫る     十九日、幕府は、いよいよ長門藩の罪を問おうというので、守衛、総督、守護職、所司代らに命じて、兵を部置し、京都中の警邏に当らせた。この日、幕府はわが藩の伏見稲荷山の警衛を罷(や)めさせ、丸岡藩(有馬遠江守道純朝臣)をそれに代らせた。
 二十日、朝廷は、横浜鎖港と長門藩の処置について、左の勅を幕府に下した。

幕府の儀、内は皇国を治安せしめ、外は夷狄を征伐致すべき職掌に候ところ、泰平うちつづき、上下遊惰に流れ、外夷は驕暴に、万民は安からず、ついに今日の形勢とも相成り候ことゆえ、癸丑(きちゆう)の年〔嘉永六年〕以来、深く叡慮を悩ませられ、これまで種々仰せ出だされ候儀もこれあり候ところ、この度大樹上洛し、列藩より国是の建議【注一】もこれあり候間、別段の聖慮をもって、先達て幕府へ一切御委任【注二】あそばされ候ことゆえ、以来政令は一途より出で、人心疑惑を生ぜざるようあそばされたく思し召し候。ついては、別紙の通り相心得、きっと職掌相立ち候よう致すべく候こと。
但し、国家の大政、大儀は、奏聞を遂(と)ぐべきこと。


  別紙
一 横浜の儀は、是非とも鎖港の成功を奏上あるべきこと。但し、先達て仰せ出だされ候通り、無謀の攘夷は勿論致すまじきこと。

一 海外の防禦の儀は、急務専一に相心得、備えを致すべく候こと。

一 長州の処置の儀は、藤原実美以下、脱走の面々並びに宰相【注三】の暴臣にいたるまで、一切朝廷より御指図はあそばされず候間、御委任のかどをもって、十分見込み通り処置致すべく候こと。
但し、先達て仰せ出だされ候御趣意を奉じ、処置致すべきこと。

一 方今必要の諸品高価につき、万民難渋に忍びざる次第、早々勘弁致し、人心折合いの処置を致すべく候こと。(四月二十九日)






 将軍家の奉答     将軍家はこれを奉戴して、左のような奉答を上奏した。

聖旨の趣、謹んで畏り奉り候。臣家茂、不肖にして、その任に堪え難く候えども、精力をつくし、職掌の相立つよう勉励仕るべく候段、御請け申し上げ奉り候。以上。

また、別紙の奉答を上(たてまつ)った。

前文の条々、謹んで畏り奉り候。横浜の儀は申すに及ばず、海防筋において格別肺肝をくだき、叡慮を遵奉し、微忠を相尽すべく存じ奉り候。
長州の儀は、なおまた別段の御沙汰の次第もあらせられ候につき、寛大を旨として、至急の処置を仕るべく候。この段、御請け申し上げ奉り候。以上。


 二十一日、幕府から、わが家老横山常徳、野村直臣、小野権之丞、小室当節、手代木勝任、外島義直を二条城に召し、去秋以来の勤労を賞し、時服を賜うなど、分に越えたものがあった。





 守護職を拝命す     この日、わが公は病褥にあって、前日幕府から賜わった勅書を拝読し、悚然として痛心にたえず、綸命重大、悠然として病気保養をしている時ではない、むしろ職に斃れて、祖宗に報ずべきだと決意し、翌日、左の書を幕府に呈して、守護職の命を拝した。

拙者儀、病気につき、再応守護職を辞退申し上げ候ところ、厚き御優待をも成し下され、御懇篤の台命を蒙り、不肖の身分かくまで御依頼成し下され候は、じつもって冥加至極、有難き仕合せと存じ奉り候。この上、辞退申し上げ候ては、深く恐れ入り奉り候間、病中ながら押して御請け申し上げ候。快癒の上、尽力、奉職仕り候にて御座あるべく候。以上。

 ついで朝廷では、わが公が守護職に復したので、わが藩をまた唐門、蛤門の守衛につかせた。幕府もまた、わが家臣神保修理らの摂海の築堡の事を免じた。





 朝廷尊崇の十八カ条     二十九日、これよりさき、わが公が守衛総督および越前、薩摩、宇和島の諸侯の意見を問い、幕府に建議して、朝廷尊崇の実をあらわすため上奏させるようにした。そこで朝廷では、意見の条々を批准したうえで、これを幕府に下した。

一 昨年中御沙汰の趣も御座候につき、別段の訳をもって、当子年(ねどし)より、年々二千俵ずつ神宮へ御供料御加増仕るべく候こと。
 附札【注四】格別の御事につき、現米二千石御増加のこと。

一 闕字(けつじ)、平出等(へいしゆつ)の儀【注五】、令条のごとく相守り、海内に布告のこと。

一 御誕辰六月十四日、仕置〔刑の執行〕致すまじきこと。

一 仁孝天皇【注六】御忌日六日、新朔平門院【注七】御忌日十三日、右は例月その心得これあるべく、海内に布告のこと。
 附札 幕府の精進日の通り心得べきこと。

一 大樹の代替り、将軍宣下の後、御札のため上洛仕るべきこと。
 但し、実年十七歳以下なれば、名代をもって御札申し上ぐべぐ候。十七歳とも相成り候わば、上洛仕るべく候こと。
 附札 書面の通り。

一 三家はじめ万石以上の面々の家督、官位の御札として上洛仕るべく候こと。但し書は前条に同じ。

一 西国大名の関東へ往来の便に、天機を伺うこと勝手たるべきこと。
 但し、滞京十日を過すべからざること。
 附札 諸大名、山城の地を往来の節は、天機を伺うべく候こと。但し、滞京の儀は十日を過ぐるべからざること。

一 国務、これまでの通りすべて御委任のこと。もっとも、国家の大事件は叡慮を伺って取り計らい候こと。
 附札 昨年御沙汰これありし通り、御委任の儀、今更仰せ出でられ候までもこれなく候。
 但し、君臣上下の名義を正し、末々までも恭順の意相貫き、書付の類、瑣末の儀までも心得違いこれなきよう、これあるべきこと。

一 九門護警衛は万石以下、三千石以上の者へ申しつくべきこと。
 附札、万石以上の者へ申しつくべきこと。

一 諸社行幸のこと。
 但し、山城国より遠からざる場所にて、春秋両度位を御定めおかれ、かねて仰せ出だされ候通り、諸人が難儀致し申さざるよう御手軽に願い奉り候事。
 附札 なお、追々仰せ出でらるべく候事。

一 諸大名は、国産のうち一両品を年々貢献のこと。
 但し、諸侯疲弊の折柄に候えば、申し合わせて、五ヵ年目に手軽の産物を使者をもって所司代へ差し出し、貢献致すべきこと。
 附札 書面の通り。
 但し、武伝(武家伝奏)へ所司代より日限を相伺い、武伝より指図のうえ、その面々より奏者所へ差し出すべきこと。

一 親王、丞相〔大臣〕薨去あり、朝廷にて廃朝の御方には、海内、鳴り物を停止(ちょうじ)のこと。
 但し、日数、親王、丞相においては三家三卿の通りとなすべく、伝奏、議奏両役は、停止日数などすべて老中の通りたるべきこと。
 附札 幕府の親族死去の節は、勾当掌侍(こうとうのしょうじ)【注八】をもって取り計らい、物音を止められ候えども、以来はその儀止められ候こと。

一 宜秋門【注九】辺、御取り広げ相成り候よう仕るべく候こと。
 但し、禁中より宜秋門は、西方へ歴面にて大将軍の凶方【注十】につき、当年は御見合わせられ、来る丑年、または寅年、吉日良辰をえらび、取り掛り申すべきこと。

一 御築地東北の辺、御花畑を御取り広げ、仙洞故院を御取り繕ろい仕るべく候こと。

一 泉涌寺【注十一】の御掃除筋、御手入れなど、せいぜい入念候よう申しつくべく候事。

一 禁中御賄向、御改革に念を入れ候よう、なおまた申しつくべく候事。

一 皇子、皇女、なるべく御法体にならせられざるよう仕りたきこと。
 但し、御永続の良法、とくと評議のうえ申し上ぐべく候こと。
 附札 下札(さげふだ)のほか、個条それぞれ書面の通りたるべきこと。


 そこで守衛総督慶喜卿、総裁職松平直克朝臣、老中酒井忠績朝臣らは連署の書を上って、このことを奏した。

この度奏聞仕り候十八ヵ条の書面、御下札【注四】をもって御沙汰御座候趣、逐一畏り奉り候。もっとも、諸事、朝廷尊奉の道を尽したき誠意より申し上げ候件につき、八ヵ条目御下札の趣は、暗合の筋もこれあり、別して不都合これなきよう仕るべく候。





 わが公将軍東帰を嘆く     この日、将軍家が参内あって、東帰の賜暇を奏請した。わが公は久しく病に臥し、幕府の議に列席しなかったので、かつてこの議のあったのを知らず、今はじめて聞いて、愕然自失、痛嘆するばかりであった。
 そもそも将軍家の滞京は、元来、叡望に出たもので、今春、大阪に着いたとき、ただちに二条殿下から慶喜卿、慶永朝臣、並びにわが公らに詔をつたえ、将軍が上洛したからには倉皇に東帰しないで、永く輦下にあって万機を裁き、宸襟を安んじ奉るようにとの言葉が、今なお耳にのこっている。慶喜卿らの、はやくもこれを忘失したような態度は何事かと、急に筆をとって、病気を押して書面をしたため、重臣によく言いふくめて、慶喜、慶永朝臣のもとに遣わし、将軍家の滞京を勧めたが、幕府の有司たちは、頑としてその言葉を容れようとせず、慶喜、慶永二人の力もこれをひるがえすことができなかった。
 と言うのも、けだし去歳八月の変乱【注十二】のあとで、島津久光朝臣が勅召に応じてまず上京し、つづいて慶永朝臣、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、慶喜卿らが漸次上京して、わが公と胸襟をひらいて協議し、中川宮、二条殿下、その他伝議両奏らにしばしば入謁して、公武一和の事に力をつくした。そののち将軍家が上洛されたので、官位昇進をはじめ、外交のこと、長門藩の処置など万機をことごとく旧(もと)の通り委任され、しばしば内宴を賜わるなど、恩遇の渥いことは前古に比がない程であった。公武一和の効果は、ここにあがった。





 幕府有司の猜疑     幕府の有司らは、これをもって、すでに衰えかけていた権勢を恢復したと誤認し、それを維持するのに汲々とするあまり、ながく滞京すると、また権威を失墜するかもしれないと恐れを抱くにいたったのだ。それにまた、わが公や越前、薩摩、土佐、宇和島などの諸侯が朝政の参豫となって、その声望がはるかに幕府の老中の上に出たのを、彼らはいつも不平に思い、ただすら旧套にこだわって、参豫の連中を嫌悪し、幕府の不利を謀るもののように猜疑するようになった。参豫の連中もまた、幕府の有司の大勢に暗いことを侮っていた。ゆえに、大議のある度に議論が紛然として、幕府有司の言葉がしりぞけられることが多く、彼らはますます将軍家の滞京がじぶんたちの威権を減殺するものと思いこむにいたった。
 そこで、慶喜卿の後見職を解き、禁裏守衛総督、摂海防禦指揮として、守護職の上に置いて、朝廷尊崇の気持をあらわしておいて、遂に東帰を発令した。





 定敬朝臣を所司代とす     幕府はこのころ、また松平定敬朝臣を所司代として、守護職の下において、その輔翼にあてた。定敬朝臣は高須少将義建朝臣の第五子で、わが公の実弟であった。養嗣子となって、桑名藩を嗣(つ)ぎ、溜間詰【注十三】であった。
 桑名藩は、定敬朝臣の高祖父の定信朝臣【注十四】(世俗にいう白川楽翁)以来の樸実の風をついで、文教、武備を兼ね整え、親藩中で有数の雄藩とされていた。幕府の恒例として、帝鑑間詰【注十五】の譜代諸侯から所司代を選択し、所司代をつとめたあとで、溜間詰をゆるすことになっていた。定敬朝臣は、すでに溜間詰であるから、その人を所司代にするのは不当の感がないでもなかったが、非常の場合、この雄藩を事に当らしめざるを得なかったのである。それに、わが公と同胞の間柄であることも、いっそう便宜であるので、強いてその職につかせることにした。





 公武一和疎隔の兆     あたかもそのとき、水戸の藩臣らは互いに党を樹(た)てて相争い、遂に田丸稲之衛門、藤田小四朗らが攘夷の先鋒と号して浮浪の徒を嘯集し、常州、野州、総州の各地に日々に騒擾【注十六】がひろがってきたとの報があったので、幕府の有司等は膝元の騒動とみなし、また横浜居留の外人に杞憂を抱き【注十七】、にわかにこれらのことを口実にして将軍家の東帰のことを奏請するに至ったのである。朝廷としても、幕府に切迫した事情があるのを照諒されて、留めることもならず、事が平定したあとで、さらにすみやかに上京するようにということで、裁可となった。
 ここに至って、成りかけていた公武一和も、たちまち疎隔の兆をみせ、土佐、越前、薩摩等の諸侯も、事のなすべからざるを見てとって、各自その国に帰っていった。





 わが公襲撃の噂     わが公の病は未だ癒えず、浄華院の旅館から、時々黒谷の宿営に帰って保養することを請うて、その許可を得た。
 ところが、浮浪の徒らがこのことを知って、途中でわが公を要撃する企てがあるとの報があった。重臣等は心配して、途上の従者を増やそうとしたが、わが公は許さない。重臣らは、やむをえず途次に藩士を布列させて、不慮の備えにしたという。当時近臣某の筆記に、

長州人大勢入りこみ候由にて、探索のうえには、容易ならざる聞えこれありにつき、この度、黒谷へ御戻りの御途中の儀、内蔵助(家老神保利孝)大いに心配し、御道筋に見え隠れ、御供等の儀、それぞれ配りもこれあるやの趣、御耳に入る。御沙汰これあり候は、供増しの儀はかねて申し聞けおき候通りの次第にて、元より私心をもって取り計らい候にはこれなく、天、幕の命を奉じ候てのことなれば、道理に於て、なにも懸念致すべき筋にこれなく、さりながら万一、いかようの暴発人これあるやも計りがたく候えども、それは天命と申すにて、その筋、人を増しおき候えばとて、それほどの用をなすものにもこれなく、決してこれらは心配なく、供増しなど差し出ださざるよう厚く仰せ聞かされ候。
それよりして、御戻りの節、御道筋の所々に御家来のおり候を御見かけあそばされ、御戻りの上にて、浅羽忠之助(小姓)へ御沙汰には、御道筋に罷り出で候ところ、何者に候やと尋ね候よう仰せつけられ候につき、御刀番原政之進へ相尋ね候ところ、久々にて御戻りあそばされ候につき、御家来共、有難く拝しに罷り出で候段を申し上げ候。
但し、右御沙汰の趣もこれあり候えども、各衆(藩政に加判する重臣)深く心配のうえ、まことに内々にて御目に触れぬよう、ところどころへ配り致され候儀のところ、右のごとく断然と御立居りにて、すこしも御懸念あそばされざる段、まことに恐れ入り奉り候。御刀番も御尋ねに行当り候より、必竟は本文のごとく御答え申し上げ候事。






 わが公へ恩賜     五月五日、将軍家は京師を発するにのぞんで、わが公に左の恩賜があった。

これまで一通りならざる誠実、尽力の段、満足致し候。家来共も、格別骨折のことに候。よくよく申し聞け候よう。なお、この上とも御所御守衛向は勿論、諸事これまでの通り、斟酌なく十分指図に及び、せいぜい勉強、忠勤致し候よう。これによって、鞍、鎧を遣わす。

 また、わが家老横山常徳、神保利孝および野村直臣、外島義直、小野権之丞、小室当節、手代木勝任を二条城に召して、謁を賜わった。(常徳は帰国し、直臣、権之丞は事故があって拝謁ができなかったが、後、二人は大阪城で謁を賜うた。)





 【注】

【一 列藩より国是の建議】 元治元年三月十六日、幕府は在京の諸大名三十人に命じて、開鎖の国是に関し意見を提出させた。その中で攘夷鎖港を主とするものが、もっとめ多く、武備充実を主とするものがこれに次いだ。また定見なしと答えたものは、十三人であった。一橋慶喜は、これに批評を加えて、朝廷に奏した。

【二 幕府へ一切御委任】 文久三年三月五日、将軍名代一橋慶喜に庶政委任の勅諚が出たことを指す。上巻八六頁を見よ。この元治元年四月二十日の勅は、再度の庶政委任の御沙汰といわれるもので、大名・公卿の間に、朝令・幕令二途にわかれ粉砕する政局を憂い、制令帰一を求める声が高かった結果である。

【三 宰相】 長州藩主毛利慶親。宰相は参議の唐名で、慶親は文久三年正月参議に任ぜられた。

【四 附札】 以下の各条にあらわれる附札(つけふだ)とは、今日でいう付箋のようなもので、つまり幕府から上奏された書類の各条項に、朝廷側で紙札をつけて意見を述べたのである。したがって、「附札」以下の文字は、朝廷側で示した意見とみなされる。下札(さげふだ)も同じ意味。

【五 闕字、平出等の儀】 「闕字」は、文章中に天皇・貴人などの名を書くとき、敬意をあらわすため、そのすぐ上を一字または二字あけて書くこと。「平出」は、文章中に天皇または高貴の称号など敬うべ文字のあるとき、次の行に上げて、前の行と同じ高さにその文字を書くこと。ともに敬意をあらわすためで、養老令の公式令にその規定が出ている。

【六 仁孝天皇】 孝明天皇の父。

【七 新朔平門院】 仁孝天皇の女御、藤原祺子。

【八 勾当掌侍】 掌侍は内侍司(ないしのつかさ)の女官。勾当掌侍は、その首位のもので、奏請・伝宣をつかさどる。長橋局(ながはしのつぼね)、長崎殿という。

【九 宣秋門】 京都御所西側の中央に位置する門。公卿門、唐門ともいう。上巻挿込図版「御築地内図」を見よ。

【十 歴面にて大将軍の凶方】 大将軍とは陰陽道でいう八将軍の一のことで、この神の方角は三年塞がるとして万事に忌まれた。

【十一 泉涌寺】 一巻七〇頁注一六を見よ。

【十二 去歳八月の変乱】 文久三年八月十八日政変のこと。一巻一九三頁を見よ。

【十三 溜間詰】 一巻九頁注八を見よ。

【十四 定信朝臣】 奥州白河藩主松平定信。一七五八(宝暦八年)~一八二九(文政十二年)。田安宗武の第七子で、白河城主松平定邦の養子となる。天明七年老中首座となり、田沼意次失脚後の幕政を担当し、寛政の改革を指導した。寛政五年老中を辞した。彼は学問・文系にも通じ、「花月草紙」「宇下一言」「国本論」など多くの著書がある。白河楽翁と号す。

【十五 帝鑑間詰】 江戸城中の大名の詰所による家格の表示。帝鑑の間には、越前家の庶流、十万石以上の譜代、交代寄合が列した。溜間より一段下の家格である。

【十六 日々に騒擾…】 安政年間水戸藩主徳川斉昭は、士庶に文部の修行をさせるため、領内各地に郷校を設けた。この郷校を中心とする郷士、豪農層に攘夷思想が盛んであり、彼らは藤田子四郎(東湖の子)、田丸稲之衛門(直允)らを首領とし、元治元年三月、攘夷の兵を築波山にあげた。そして四月東照宮に攘夷の祈願をし、老中一橋慶喜をはじめ因州、備前藩主に上書し、太平山を占拠した。この築波勢は、攘夷の資金と称し富豪より金穀を徴発し、あるいは外国貿易に関係したという理由で、商人を威嚇、殺傷し、その勢は常野総の一円に及んだ。世に天狗党の乱という。
この争乱は、五月になると、水戸藩内の党争と結びついた。藩内党争は、安政の大獄以来、尊王攘夷派と、保守佐幕派と、中間派の三派の間で、藩政の指導権をめぐってはげしく抗争されてきたが、朝比奈弥太郎、市川三左衛門らの佐幕派および中間派は、藩庁要路をしめていた武田耕雲斎、興津蔵人、山国兵部ら尊攘派の責任を追求して処罰に付し、かわって藩要路についた。この政変の成功に呼応して、幕府は六月追討軍を出征させた。しかし藩庁では、榊原新左衛門、戸田銀次郎らによって、再度の政変がおこなわれ、藩政の実権はふたたび尊攘派の手に奪回された。藩主慶篤の名代として水戸におもむいた支藩宍戸藩主松平頼徳は、築波勢に擁され、朝比奈、市川勢および幕軍と戦を交えることとなったが、幕軍、諸藩兵の攻撃をうけて勝味を失った築波勢は、在京の一橋慶喜に攘夷の志を朝廷に達せられたいと訴え、京都におもむくため、十一月武田を将として西上を開始した。彼らは中途で諸藩兵と戦いながら、苦心の末越前敦賀に到着したが、目的を達せられぬをさとり、十二月十七日加賀藩に降伏した。翌慶応元年二月、幕府は武田・藤田をはじめ三百五十余人を斬り、百余人を遠島に処したが、さらに関係者数百人が死罪となり、また牢死した。

【十七 …外人に杞憂を抱き】 幕府は横浜鎖港の実現を天皇に誓約したが、同時に生糸貿易の制限を強化した。この結果、横浜貿易の中心をなした生糸貿易は、元治元年前半期、いちじるしく衰退し、外国側はこれをもって横浜鎖港のなしくずし的実行だと見、横浜居留外人は、外交団にたいし、武力行使の実現を要望する運動をおこした。

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  1. 2012/11/14(水) 16:55:45|
  2. 京都守護職始末2
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