いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十三  毛利慶親卿の重臣の入京および軍令状     『京都守護職始末2』

 長州兵入京     これよりさき、毛利慶親卿は、その重臣福原越後に兵数百を付し、江戸にいって請願するところがあると称し、海路大阪に出て、六月二十四日、伏見の藩邸に入らしめた。つづいて、重臣国司信濃、益田右衛門介に兵を率いて上京せしめたが、その出発にのぞんで、慶親卿は左の軍令状を信濃に与えた。

一 今度、その方こと上京を申しつけ、諸隊のものを預けおき候。諸事緩みなく管轄すべきこと。

一 組中の者は令を伍隊に受け、伍隊は令を伍長にうけ、諸隊は一和肝要たるべきこと。

一 私寇は言うに及ばず、軽挙、暴動に大事を誤まり候儀、もっとも厳禁のこと。

一 すべて非礼の振舞いあるまじきこと。

一 国家の動静をみだりに他に漏らすまじきこと。

一 姦淫、大酒など堅く禁止のこと。

一 僭上、虚飾の衣服はもちろん無用にいたすべく、候じて諸士、匹夫は、貴賤の分限を乱すべからざること。

右の条々違背のものこれあるに於ては、軍律をもって相糺し、品(しな)により切腹申しつくべきものなり。
  元治元年六月
   国司信濃どのへ
      黒印


 この軍令状は、七月十九日の乱【注一】に、薩摩藩士が拾得したものである。おそらく越後、右衛門介にも、これと同じ軍令状が与えられたものであろう。





 天王山等に布陣     六月二十四日、長州藩士と浮浪の徒、真木和泉、中村円太等が武装して、天王山、宝寺、離宮、八幡等にいたって陣営をつくり、旌旗を立て竝べ、攻守の準備を整えてから、書面を郡山藩の橋本にある陣営に送って、来意を告げた。その文の大略は、

七卿および主人父子は、従来、攘夷の叡旨を遵奉す。しかるに客年、我然勅勘を蒙る。家臣ら、その所由を知らず、爾来一年を経るも、未だに恩命を蒙らず。余輩、痛哭にたえず。ここに八幡宮に参旨し、神助を仰ぎ、もって朝廷に哀訴するところあらんとす。すでにこの意を稲葉閣老(美濃守正邦朝臣)に報じて、しばらく当社に駐足す。唐突に入京を為すにあらず。請う、このことを諒承せよ。

 というのであった。
 郡山藩士は急使を走らせて、これを総督、守護職にしらせ、長州藩士らが兵糧や武器をたくわえ、久しく駐屯する謀(たくらみ)があることを告げた。わが公はこの報をえて、ただちに番頭可須屋左近、阪本覚兵衛に命じ、兵を率いて九条河原を守らしめ、これに備えた。





 斥候急を告ぐ     二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。
 わが公は病をおして、本隊と内藤信節、生駒直道(五兵衛)、一瀬隆智(伝五郎)等の隊を率い、家老一瀬隆鎮(要人)を従えて清所門から参内した。禁裏付の糟谷筑後守が勅旨をつたえ、特に武家玄関前まで駕を入れることをゆるされた。わが公は、筑後守を通じて天機をおうかがいした。やがて、伝奏衆から、所労のところを押して参内、叡感ななめならず、よろしく宸儀咫尺のところにあって守護し奉るように、との詔をたまい、凝華洞を兵営にあてがわれた。
 そこで、わが公は凝華洞に退いて宿衛し、さらに家老神保利孝、番頭長坂光昭(平太夫)に兵をさずけて、九条河原に向かわしめた。
 この日、九門守衛の諸藩はことごとく門々をとざし、大小砲を拝列して命を待っていた。すでに、長州藩士来島又兵衛が浮浪の徒の将として嵯峨の天龍寺に入り、攻守の準備をなすこと、山崎と同じである。





 聖上宸翰を賜う     二十九日、聖上は左の宸翰を守衛、総督に賜わって、戒飭(かいちょく)された。総督はそれをわが公に示した。

一 この頃、世上騒がしき由、甚だもって心痛のことに候。昨年八月十八日の儀は、関白はじめ、予の所存をも矯(た)め候にてはこれなく、且つその後申し出候件々、各々真実に候。偽勅との風説これあり候えども、必々心得違いあるまじきこと。

一 親征行幸の儀甚だ好まず候えども、段々差し迫り言上につき、じつによんどころなく大和行幸を申し出で候えども、じつは意外のことに候えば、延引申し出し候。

一 十八日の一件、守護職の儀ゆえ肥後守へ申しつけ候。同人忠誠の周旋、深く感悦せしめ候。決して私情をもって致し候儀にてはこれなく、その旨違(たが)いなく心得べきこと。

一 長州人の入京は決して宜しからざることと存じ候。この儀も各々疑惑なくようのこと。


 なお、総督はこれを諸藩に伝示して、その方向を一つにせしめた。
 はじめ、長州藩士らが着京するや、嘆願を名目にしているといえども、じつは兵力で公武を恐嚇し、形勢を去年の八月十八日以前の状態に挽回しようという下心であった。 福原の上京にしても、嘆願者にあるまじき大兵を率い、そのうえ浮浪の徒を狩りあつめて浪人隊を編成している。また芸州、因州、備州、水戸等の諸隊は、もともと己と論を同じうしたものであるから、これを説けば味方になって進退を共にするだろうと思い込んでいた。しかるに、わが藩や桑名藩の兵勢が長州勢に比べて優勢であるのみならず、芸、因等の各藩も躊躇する様子であるので、これまた頼みにならない。
 そこで、七月一日、急使を馳せて、長州藩に大兵の上京をうながしたということである。
 七月二日、慶喜卿に左の勅命があった。

この頃、輦轂(れんこく)の下、かれこれ不穏につき、御守衛総督の辺をもって、諸事御委住あそばされ候間、もっぱら励精して、叡慮を安んじ奉り候よう処置あるべき旨、仰せ出だされ候。

 



 人材登庸を議す     これよりさき、小笠原長行が償金のことに連坐して【注二】職をうばわれた時、井上信濃守、向山栄五郎、水野痴雲らの人々【注三】もまた、その職を奪われ、また、板倉勝清朝臣等も罷(や)められ、ついで、諸有志のうち杉浦兵庫頭などの有能の人たちの多くが、その職を去った。幕廷は今や、群庸が満たすところとなった。
 わが公はこれを憂えて、将軍家に書面を呈して、人材登庸のことをすすめた。その書面にいわく、

当表、この程、松平大膳大夫の家来ども、容易ならざる形勢にて切迫致し候事ども、追々老中より申し上げ、御承知あそばされ候わんと存じ奉り候。はたまた承り候えば、外国よりも往々人数渡来致し【注四】、もっぱら長州を目がけ候様子、内外の大患今日に起り候ことにもこれなく、今更、既往(きおう)を悔い候も及ばざる儀に御座候間、この上の御処置は、御英断をもって仰せつけられ候ほかは御座あるまじく存じ奉り候。
ついても、専一の急務は、人物の御択(えら)びのほか御座なく候ところ、追々承り候えば、大和守〔老中久世広周〕、周防守〔老中板倉勝清〕をはじめ、大小の監察〔大目付、目付〕等御役御免を仰せつけられ候者少なからず候由に候えども、いずれも長ずるところこれある人物に候間、国家の急を重んじ、銘々の存意を張らず、一致一和にて合力致し候よう、直に仰せつけられたく存じ奉り候。定めて銘々一個の所見を持し、不勤も仕り候上にて御免にも相成り候ことには御座あるべく候えども、今日の危急は天下の浮沈に相かかわり、呼吸一息の間にも差し迫り候間、義の重きところ、各々おのれを屈し、一和合力の道これあるべく候間、右の意味をもって、懇懇と仰せ聞けられ候よう仕りたく存じ奉り候。
右申し上げたく、熊(わざ)と一書を言上仕り候。恐惶謹言。(七月)






 撤兵を勧告     七月三日、朝廷は、大目付永井主水正、目付戸川鉡三郎を伏見につかわし(その行装はきわめて簡単で、徒士目付、小人目付、それにわが藩と桑名、淀の公用方数人が随伴しただけである)、伏見奉行の庁に福原越後を召した。越後は病と称して出てこない。四日になってから、越後が奉行所に来たので、左のような命を下して、兵を退けるように言った。

このごろ、所願これある趣に候えども、兵器をたずさえ出張の由、甚だもって不穏のしかたに候。元来、その藩においては、勤王の志情深厚に候ところ、右ようの次第にては、事実と齟齬(そご)致し候間、天竜寺その外へ罷り出で候輩は、早早に帰国せしめ、越後儀は少人数にて伏見表に滞在罷りあり、願いの趣は穏かにその筋へ申し出でて、重ねての御沙汰を相待ち候よう致すべきこと。

 越後はこれを受け、退いてから、左の書を呈して延期を請うた。

過刻仰せ出だされ候趣、有難くその意を得奉り候。旅宿へ引取り、役方の者へも熟談仕り候ところ、いずれにも山崎はじめへ控えおり候者ども、とくと申し諭し候上にて御座なく候わでは、なにぶん御受け申し上げ難くと衆議仕り、ついては、私はじめ早速、御達しの趣、せいぜい懇諭を相加え、進んで申し上げ候よう仕りたく存じ奉り候。この段、御聞き済み願い奉り候。(両監察宛)

 しかし、これはただ一時を弥縫(びぼう)するための遁辞でそれからも長州藩士と浮浪の徒は天竜寺、天王山の険阻に拠って、いよいよ武備をかためるに余念がない。





 長藩時を稼ぐ     そこで、七月六日、総督は諸侯を会して、長州藩士の処分のことを評議した。わが公は、そこで、「越後らがその出のために哀訴しようというのは、臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵を擁して輦下に迫るのは、じつに不臣も甚だしきもの、宜しくふたたび諭して兵を退けしめ、もし応じなければ、すみやかに掃蕩すべきである」と言ったところ、総督は、「昇平三百年の間、京師は血なまぐさいことなく、それに今輦下で兵端をひらくことは、恐れ多い。おだやかに局を結ぶに如(し)くはない。追討のことなどは、万止むをえないという時になって始めて議論してもおそくはない」として、芸、筑前、因、備、対の諸藩の士を召し、七月八日を期して退兵することを説かしめた。
 越後は、それに従って退兵するつもりになったが、天竜寺、天王山の藩士や浮浪の徒は、説諭に服せず、長藩の激徒はなにかと事を左右に託して、後詰の大兵が到着するのを持っているのでるあから、百回説諭しても ただに時日を費すのみ。みすみす彼の計策に陥るのは炳乎として明白なことであるのに、慶喜卿は、そのことに覚らない。そして芸、因、対の三藩に命じて、十一日に日延べをし、退兵を説かせたが、長州人は遂にその命を奉じなかった。
 有栖川宮、大炊御門大納言家信卿、大原左衛門督重徳卿以下数十人の堂上と、因幡、備前、水戸、対州ならびに慶喜卿にしたがう水戸藩士などのごときは、それでもなお、寛大に処分するの議を建てた。肥後、土佐、久留米の藩士らは追討論を唱えたけれど、その当時、京地に兵をつれてきていない。薩摩藩の人士は、はじめのうち傍観の態度をとり、追討の可否についても一言も発しなかったが、けだし、それも兵力がなかったためである。ただしきりに追討の止むをえないことを主張したのは、わが藩と桑名藩だけであった。
 しかるに、七月十一日になって、薩摩の藩士数百名が京都に着いた。





 援軍続々と着く     これよりさき、七月九日には、長州の中老児玉小民部が、四百の兵を率いて京都に着き、山崎の陣営に投じ、翌日、家老国司信濃が兵三百をつれて、また山崎に到着した。十四日には、益田右衛門介が六百人を率いて京都に着いた。益田、国司、児玉らは、激徒を鎮撫するというふれこみで上京したが、じつは福原、真木らの援軍にほかならなかった。
 長州兵はますます大軍となり、一日もゆるがせにしていたら、困難は一層ますばかりであるのに、それを顧みず慶喜卿は、十一日に再度、永井〔尚志〕、戸川鉡三郎、の両監察〔目付〕を伏見にやって、長州兵に退散のことを説かせた。長州兵は、もとよりこれに応じない。

 



 西郷吉之助登場     七月十七日、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は、諸藩の重臣らを三本木の清輝桜に集めて、「今日、関白殿下が吉之助を召して命ぜられた。家信卿以下、長州藩を扶(たす)ける説は、聖上の断じてこれを斥けたもうところである、よって、汝、諸藩と力をあわせ、長藩をして兵をしりぞけしめよ、とのことであった。長州藩の是非は今は措くとして、越後らがみだりに兵衆を率いて、京都に迫り、強訴を企てるなど、天朝を蔑(ないがしろ)にするその罪は、決して赦すべきではない。諸君が、この上なお寛大な処分に賛成なら、わが一藩の力だけで、これに当ろう」と、すこぶる意気軒昂であった。わが君の主張とまったく同じである。諸藩もことごとくこれに同意した。





 慶喜卿の不決断     この頃、わが公は、書を慶勝卿にやって、上京を促すかたがた、兼ねて京地の情況を報告した。当時の形勢がすこぶるよくわかる手紙である。

去月二十三四日頃より、長門宰相の家来の者、まったく出陣の出立ちにて、表向は嘆願のように申し立て、伏見あるいは嵯峨、山崎辺に屯集いたし、往々大砲を並べ、細木をつらね、要所に備え設け、もっぱら勢炎を張り、威猛を示し候体、強訴の姿にて、嘆願の心はこれなく候。すでに二十七日には、伏見の長州藩人より、押して入京の趣を申し来たり、同所の役人、並びに大垣の家来共よりも、右の注進申し来り候につき、家来の者を竹田街道へさしむけ、小子も病体のまま参内し、御警衛仕り候て、今もって凝華洞の仮建中に罷りあり候。しかし、未だ親しき事を執り候ことにも相成らず、一橋殿の御委任にて、家来のうちにて、日として参殿、相伺い申さざることも御座なく候。
一橋殿にも、最初は大いに憤発にて、二十七日にただちに追討致し候もしかるべくとの儀を御所にても御発言これあり候。しかれども、その日はその場も遁れ候えば、いずれも人事を尽し候には如(し)かずと申す議にて、当二日に大監察永井主水正、小監察戸川鉡三郎を伏見につかわし、退去の儀を厚く諭解致し候。御所の御沙汰をもって申し聞かせ候ところ、それ以来、かれこれ申し立て、退去仕らず、もはや追討の外はこれあるまじくと一橋殿も決心致され候ところ、またまたその説を変じ、この上にも人事を尽したき旨にて、諸藩のうち見込み次第説得致し候よう申しつけられ候。しかしながら朝命、幕命をもって、大小監察の諭解に承服仕らず候間、諸藩の家来共にて諭解相届き候はこれあるまじく、且つ不体栽の至極に御座候。よって、多分は御請仕らず候ところ、その中にも御請申し上げ候藩もこれあり、当十一日までには、服、不服の段申し出で、そこにて決着致し候わずのところ、その間仔細これあり、おくれて御請申し上げ候など申すわけにて、一橋殿はまたまた御勧めに相成り候。その辺の儀は、なにぶん筆紙に述べがたく候。つまり、一橋殿御勧めにより起り、そのまた起りは、水、因、備三藩等の入説より出で候由に御座候。
さて、右等の伝々も捨て置き、前に申し上げ候強訴の者御許容相成り候ては、朝憲、幕威もこれより地に墜ち、天下は暗夜のごとく、その上長藩の申し立て候ように相成り候えば、脱走堂上の復職、浮浪の入説等は、昨秋以前より幾倍か暴なる世界と相成るべきは、差し見え候。
しかるところ、一橋殿、御決心に鈍り、数日の間因循致し候中、彼は鎮撫を名として、ますます大兵を引き入れ、備えを厳にし、制し難きように趣き候ゆえ、諸藩も堪えかね、熊本、久留米、薩州、土州、したがって御譜代の諸藩共も、同様に憤発致し、一橋殿あるいは宮方、堂上方へ出て、右の建言致し候ことに御座候。始めこの儀正しく、勢強く御座候て、なお一決の御沙汰これなしとは、じつに当惑の至りに御座候。しかるところ、関白殿下、中川、山科の両宮方、近衛殿などは、かえって決心致され、一橋殿は困られ候事に御座候。
一橋殿について、右よう申し述べ候は不本意千万に御座候えども、天下これより闇に成る、成らずと、随って、宸襟の安、不安とにかかわり、軽重比較しがたき儀にこれあり、また、他の御方とも違い、寸分も伏蔵仕り候ては、かえって恐縮仕り、直情に申し上げ候。その段よろしく御含みおき下さるべく候。
さて、右の通り決着これなきより、種々の議を生じ、必竟、幕府の御因循より事起り候ことと申すもこれあり、一通りもっともには候えども、これもって、今日に至らざる前にこれあり候こととて、彼より押し来り候上は、かれこれの議論はこれなきと存じ奉り候。一橋殿にも前段の通りにてこれあり、天下の大任、病床にあってはなんとも堪えがたく候間、御快方次第御上京あそばされ下されたく、待ち奉り候。(七月十七日)






 慶喜卿に憤る人々     この頃のことである。九条河原を防備していたわが藩の壮年者と新選組の者共が、慶喜卿が優柔不断で、大事を誤ることを憤って、卿の旅館に乱入し、暴挙に及ぼうとする形勢があった。わが藩の頭株や新選組の組頭らの面々も、鎮撫に方法がなく、凝華洞に急使を馳せて、わが公に報じた。わが公は、いそいで外島義直をやって、これを諭さしめ、ようやく事なきを得た。
 この日(七月十七日)、有栖川宮熾仁親王および中御門経之卿以下の諸公卿がにわかに参内して、二条殿下に迫り、長州藩の処分を寛大にして、京都を兵火からまぬかれさせることを請うた。しかし殿下は、それが叡慮にもとるという理由で、かたくこれをしりぞけた。





 再び撤兵を命ず     この日、総督はまた永井主水正を伏見につかわした。わが公は、家臣飯田重慎(兵左衛門)、床田又助らを、また松平定敬朝臣も、その臣小寺新五左衛門らを随伴させた。
 そして、前日の通り、越後を伏見奉行の庁に召した。越後は、病と称してこなかった。翌日(十八日)また呼びにやると、ようやく兵二十余人を従え、肩輿に助けられて姿を見せた。なにかすでに決心したような顔つきであった。
 主水正は、勅旨に抗し、なお兵を退けないことを責めた。越後の返事には、「臣は謹んで命を奉ずるつもりですが、兵たちが死を決して来たので、どうしても帰ろうとせず、そのため遷延しているのです」と、言葉のうらに暗に威嚇するもののようであった。主水正が、早速兵を退けるようにと命ずると、越後は承諾して退いた。
 その時、〔飯田〕重慎らが、「今日は御手切れを仰せ渡されるのかと存じましたが、ただ今の御言葉では、御手切れとは存ぜられませんが」と、桑名藩士とともに問いただしたので、主水正は越後を呼び返し、明朝退去しなければ、きびしく違勅の罪を責めることを言い渡した。越後はしばらくの間考え込んでいたが、「今夜、八ツ時〔午前二時頃〕を限って兵を引きましょう」と答えて去った。





 毛利の大兵帰国     この時、毛利定広朝臣が、大兵を率いて長門を発し、この月二十三日を期して着京の手はずであったので、越後は退去を延引させて、定広朝臣の着京を待ち、一手になって事を挙げようという計画であったのだ。しかし、わが藩の方でも、すでにこの策を探知していたので、重慎にふくめて、主水正に献言し、時日をはっきり決めさせたわけである。
 それゆえに、越後らの企らみも空しくなった。もし定広朝臣の大兵が着いてから事を挙げたとしたら、由々(ゆゆ)しき大事になったに違いない。
 あとで聞いたところによると、定広朝臣の上京が意外にも手おくれになって、讃岐の多度津港で京師の敗報をきき、そのまま国へ引き返したということである。三条実美等の人々も、定広朝臣とともに上京しようとされていたが、途中の敗報で、これまた周防へ帰ったということである。





 【注】

【一 七月十九日の乱】 元治元年七月十九日の禁門の変。蛤御門の変ともいう。本書九〇頁を見よ。

【二 償金のことに連坐して…】 一巻一五二頁注二を見よ。

【三 …らの人々も】 外国奉行井上清直、他に目付向山栄五郎(一履)、元勘定奉行水野忠徳(痴雲)らは、小笠原長行に随行した罪を問われ、罷免された。

【四 外国よりも往々人数渡来致し】 長州藩が下関海峡通過の外国船を砲撃したことにたいする報復として、元治元年七月二十四日、英、仏、米、蘭四国代表は、長州藩攻撃の実行を最終的に決議し、二十七日連合艦隊は横浜を出発し、八月四日長州藩と戦闘を交えた。

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  1. 2012/11/15(木) 17:06:58|
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