いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十四  長州藩士川端亀之助から定敬朝臣に呈した緘書ならびに送戦書     『京都守護職始末2』

 わが公の罪状を述べる     七月十八日、慶喜卿は、なおも人事において尽さないところがあるとでも思われたのであろう、長州邸の留守居役乃美織江を召して、兵を退けるように説諭されたが、織江は、自分の力ではとても実行できないと言って辞退し、家老を召されるようにと請うた。慶喜卿は、本日中に退兵させなければ、追討する旨を言い渡した。織江は退いて、このことを三家老に報じた。
 長門藩士川端亀之助(本名は椿弥十朗、長州の留守居役)は、緘書四通を所司代松平定敬朝臣の邸に呈した。
 その大要は、出奔した七人の堂上方と毛利慶親卿父子の冤(むじつ)を訴え、攘夷の朝議を去年の秋八月十八日以前の状態にひるがえし、また君側の奸をのぞくために、その軍勢がすでに山崎を発したという文言であった。その中に、君側の奸としてわが公の罪状を述べた書面もあり、その大略は次の通りである。

根体、今日、かくのごとく内乱、外患の一時に相迫り、神州崩裂の勢を醸し候は、別冊亡命の徒より縷陳申し上げ奉り候通り、まったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、天下衆人の知るところにして、今日に相成り候ては、私共に於ても、積年の叡慮をいよいよ貫徹し奉り、祖宗億兆に対させられ候御盛徳を奉らんと決心仕り候えども、亡命の徒同様、肥後守を誅除仕り候ほかは御座あるまじく存じ奉り候。
宰相と同姓の長門守も、右外夷畿海に闖入については、押して罷りのぼり御警衛仕り、なおまた叡慮を伺い定め奉り候儀もこれあるべきかに相聞き候については、私共臣子は、その主を輔翼するの情義により、せめて内乱の基と相成り候族(やから)なりとも取形付け候て、主人の責労を相分ちたく一同決心仕り候につき、大官重職の肥後守には候えども、僭越の罪は後日いかよう御厳刑蒙り奉り候ても苦しからず、眼前の神州の安危、存亡にかかわり候姦賊と相定め候うえは、しばらくも猶予相成りがたく候間、亡命の輩引き纏(まと)い、国賊を誅除仕り、謹んで天、幕の御指揮を待ち奉るべくと一決仕り候間、なにとぞ肥後守儀、早々九闕内を御追い払い、洛外へなりとも引き退かせ、尋常に天誅を請け候よう仰せつけられ、なお赫然宸怒あそばされ、国賊を誅除あそばされるの勅諚を、幕府並びに列藩へ仰せ出だされたく懇願し奉り候。
かようの儀、手下に於ては、つゆ相好み候次第は御座なきのみならずして、天下の大不韙を冒し候儀、いかにも憚り多く候えども、じつは国家の御為止むをえざるの仕合わせに御座候間、誓時、御恕免仰せつけられ下され候よう愁祈誠祷、泣血怨憤の至りにたえず、万死謹んで仕え奉り候。(七月十八日付、三家老連署)


  別紙 送戦書
謹んで按ずるに、陛下の攘夷の御志は弘化年来、終始画一の御事、今日といえども潜らせられ候御儀はあらせられずと存じ上げ奉り候ところ、去秋以来御撓(たわ)みあそばされ候よう相疑う儀これあり、民を恤(あわれ)むの儀は御天性にわたらせられ、猶更御深切にあらせられ、裏々島々の小民まで艱苦を致さず、億兆安然として、その所をえざるものこれなきようとの御素志にあらせられ候えば、普天率土、誰か感戴し奉らざらん。
しかるに交易に害にて、僻土に至るまで一民も疾苦を免るる者これなく、殊に輦轂の下にては殺気悽惨、人心恟々、朝に夕を恤(うれえ)ずとも申すべく、じつに恐れ入り候次第に御座候。
そのゆえんを相たずね候に、松平肥後守の所為に御座候。肥後守はその性剛服にて、庸劣、名文等を相弁えず、また家来共も奥州の荒僻の寒土に候えば、ただその威を張り、城市を虐げることのみにして、天朝の貴きところ、叡慮のかくも有難くあらせられ候御事をも相弁じ申さず、縉紳を欺き、義士を忌み、昔時の山法師の悪業よりも甚だしく、その罪を数え候に、十指を屈せずといえども、その大なるもののみあげ候わば、去年八月、調練を叡覧あそばさるべく仰せ出だされ候節、調練には不用の野戦砲数挺を御花畑へ相運びおき、劫喝のために相備え、同十八日未明に、御築地内をも憚らず連発仕り、禁闕へ押し入り候こと、これ大罪の一つなり。
関白鷹司公並びに三条殿以下、当時勅勘を蒙られ候御国事掛、寄人らの御方まで、いずれも国家の柱石にいらせられ、聖明を御輔佐あらせられ候ところ、その大徳、高才、純忠、至誠を恐れ入り奉り候より、百万讒毀(ざんき)し、にわかに参朝を停め、ついに幽閉、沈淪の御身となし奉り候、その罪の一つなり。
戎狄(じゅうてき)を悪(にく)ませられ候御事は申すに及ばず、外夷に相交り候儀は、その宗家、先に厳禁の致しかたこれあり候ところ、長崎表に役人をつかわしおき、国産絹糸、油等を交易仕り、年々些少の私利を得候穢心をもって、二港だけは残したき段、しきりに懇訴仕り、叡慮を遵奉仕らず、祖先の掟を破壊仕り候こと、これその罪の一つなり。
当春、延議にて、肥後守の守護職しかるべからずとて、越前家へ仰せつけられ候については、殆んど進退差し迫り、遷延罷りあり候うち、処処に謁を請い、またその職を得、窮困のあまり市井の無頼を致集して壬生(みぶ)に屯(たむろ)させ、且つ家来に祿米を宛て行ない申さざるや、市井に横行し、僅かに過ちあれば、ただちにその家産を没収し、あるいは夜陰辻切りして、持参の物を奪い取らさせ、洛中洛外を擾乱仕り候、それその罪の一つなり。
そのもっとも甚だしきにいたり候ては、去月五日の夜、にわかに兵勢を繰り出し、藩邸を取り囲み、かつ旅宿等に押し入り、多人数を殺害し、縛収し、家にあるところの財、衣服等まで盗み取り、なおまた同月二十七日、何故とも知らず、剣戟を相用い、にわかに参内し、乗輿を御玄関に平づけ、九闕をもって身囲いとなす手段、無法無礼にて、朝憲を憚らず、幕法を守らざる次第、普天率土、驚愕、憤怒の至りに堪えず候。その悪虐、暴戻の形勢に相顕われ候大なるもの、おおよそかくの如くに御座候えば、その小なるものに至りては筆紙に尽し難く、いわんやその心術、朝廷を軽視仕り候ことは、藤原信頼【注一】、木曽義仲【注二】にも相越え候。
畢竟、彼ようの者、重き御役儀を冒し候ゆえ、攘夷の叡慮も、恤民の思し召しも貫徹仕らざるのみならず、天下大乱の本、皇国必滅の秋に御座候。微臣ら主人、並びに三条殿以下、御寛宥仰せつけられ、攘夷の御国是すみやかに相立て候儀、天地鬼神に誓い、哀訴、嘆願申し出で訴ところ、かつてもって御採用仰せ出でられず、これまた肥後守の所為をもって、すでに時日を経、ついに浮浪煽乱の像を誣讒(ふざん)し、干戈内乱の禍を顧みず、列藩を欺き、廟議を促し奉り、あまつさえ、もったいなくも鳳輦を揺動し奉らんとまで姦謀を相巧み【注三】候段、もはや天下万民のために、そのままには相置きがたく、陛下祖宗の御為に誅伐仕らず候わでは相叶わざる儀につき、肥後守儀、闕下に於て討伐相加え候間、すみやかに九闕を御追い払い、洛外へ引退し候よう仰せつけられ、なお嚇然宸怒、天誅の勅諚をすみやかに仰せ出だし下され候よう願い奉り候。暫時、輦轂の下を騒擾仕り候儀もこれあるべく、深く恐れ入り奉り候えども、その段は止むをえざる義につき、御宥免仰せつけられ候よう願い奉り候。微臣ら恐懼に堪えず、屏居、懇祈、誠祷の至り、万死、泣血して謹んで仕え奉り候。
  長防浪士中


 右の問罪書が、福原、増田らの諸人の手に成るものだとしたら、福原たちの事理に暗いこと、いまさら論ずる必要のないことである。





 【注】

【一 藤原信頼】 一一三三(長承二年)~一一五九(平治元年)。平安末期の公卿。信頼は後白河上皇の親任をえて勢力をもっていた藤原通憲を排斥するため、源義朝と謀り、平清盛の熊野詣の隙に挙兵した(平治の乱)。一時朝廷を制圧し、権勢をほしいままにしたが、間もなく平家に攻められて、捕えらえ、殺された。

【二 木曽義仲】 一一五四(久寿元年)~一一八四(元暦三年)。源義賢の次子。治承四年、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて信濃に挙兵し、平家の軍を破って、寿永二年京都に入った。しかし後白河法皇は、義仲の排斥を策したので、彼は法皇を幽閉し、朝廷を改造し、法皇の近臣を解官した。だが源頼朝軍の攻撃をうけて敗れ、戦死した。

【三 奸媒を相巧み】 会津藩が天皇を彦根に移すことを計画しているとの噂が立ち、公卿や藩士の中にもこれを信ずるものが少なくなかった。長州藩側がこれを容保排斥の理由として宣伝したことは、いうまでもない。そしてこの彦根遷幸に、松代藩士で、当時幕府海陸備向掛手付の役にあった佐久間象山が関係していたとの噂が立ち、元治元年七月十一日、象山は京都木屋町の街上で浪士のため殺害された。

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/15(木) 18:01:28|
  2. 京都守護職始末2
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