いがぐり史料館

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十五  長防追討の勅による総督慶喜卿の令と部署     『京都守護職始末2』

 長剿討の令を発す     福原の挙動を察するに、勅諚を奉ずる意のないこと判然たるものがあるので、朝議でも、退去時刻の経過を期として追討することに決し、守衛総督慶喜卿に、すみやかに違勅を剿討(そうとう)すべしと勅を下した。そこで総督は、諸藩にこれを命令した。

長州藩士、頃日出願これある趣に候えども、多人数兵器を携えて屯集し、穏かならず候につき、早々引払い、福原越後少人数にて伏見に罷りあり、出願の儀は穏かに、その筋をもって寛大の御沙汰を相待ち候よう、朝廷の御趣意をもって説諭致させ候えども、侮悟、鎮静と相唱え、国司信濃、増田右衛門介など引き続き罷り登り、かえって人数追々と相増し、再三願書を差し出し、恐れ多くも去る八月【注一】以後の御処置は、実の叡慮にこれなきなどと申し立て、兵威を仮り、遮りて嘆願罷りあり候条、朝廷を劫(おびや)かし奉り候所業、不届至極につき、屯集罷りあり候長藩のもの征伐の儀、天朝より仰せ出だされ候。
就いては、長防二国の動揺も計り難く候間、押えの儀きっと相心得、以後罷り登り候者はもちろん、国許に於てもいかがの所為これあらば、すみやかに人数をさしむけ、誅戮致すべく候。
但し、時宜の見計らい、主人々々が出張口より攻め入るべきこと。


 



 各藩の部署     すでにして、左のごとく部署を定めて、それを諸藩に令した。

伏見
一ノ先 戸田采女正氏彬朝臣(病気につき、重臣名代) 大垣藩

二ノ先 井伊掃部頭直憲朝臣 彦根藩
 但し、掃部頭は禁闕を守るべし。かつ桃山は井伊家にて、只今より取り布くべし。

二ノ見 松平肥後守容保朝臣 会津藩
    松平越中守定敬朝臣 桑名藩
 但し、職柄につき方面の諸軍を令し、進退を司るべし。

伏見長州屋敷へ入る
    蒔田相模守広孝(京見廻組組頭) 備中浅尾藩

監軍 御目付某
 但し、二ノ見にありて諸軍に令を伝うべし。

遊兵 有馬遠江守道純朝臣 越前丸岡藩

   小笠原大膳大夫忠幹朝臣 小倉藩
 但し、伏見勝利の後、戸田、有馬、小笠原の三手、地形をしめて、ここに備え、その余ら山崎の奇兵たるべし。

八幡 松平伯耆守宗秀朝臣 丹後宮津藩
 但し、事発せざる前には、八幡山を取り布くこと肝要なり。

山崎
先手 柳沢甲斐守保申 郡山藩

二ノ見 藤堂和泉守高猷朝臣 津藩
但し、藤堂は八幡も心得べし。

東寺 一橋中納言慶喜卿

本陣警衛 会津兵

監軍 御目付某

奇兵 細川越中守慶順朝臣 熊本藩
   有馬中務大夫慶頼朝臣 久留米藩

天竜寺
右一ノ先 島津修理大夫茂久朝臣 薩摩藩

右二ノ先 本多主膳正康穣 近江膳所藩

右二ノ見 松平越前守茂昭朝臣 越前藩

左一ノ先 大久保加賀守忠礼 小田原藩

左二ノ見 松平隠岐守勝成朝臣 予州松山藩

洞ヶ峠 九鬼大隅守隆都 丹波綾部藩
     織田山城守信氏 丹波栢原藩

坂本 朽木近江守綱張 丹波福知山藩

伏見土州屋敷 山内土佐守豊範朝臣 土佐藩

市中廻り 市橋下総守長和 近江仁正寺藩

長州対州屋敷押え 前田筑前守慶寧朝臣名代重役 加賀世子

監軍 御目付某
 但し、二ノ見にありて方面の諸軍に令を伝うべし。

遊兵 青山因幡守忠畝 丹波篠山藩

締り役 前田筑前守慶寧 加賀世子
 但し、三条辺りにありて機に応じ応援すべし。

豊後橋 間部卍治 越前鯖江藩
    小出伊勢守英尚 丹波園部藩
 但し、宇治橋も心得べし。

老ガ坂 松平豊前守信篤朝臣 丹波亀山藩

下加茂 仙石讃岐守久利 但馬出石藩

上加茂 池田相模守慶徳朝臣 因幡藩

鷹ガ峯 池田備前守茂政朝臣 備前藩

上加茂より川側手前 尾州勢


 右の部署のうち、対州の邸に抑えの軍を置いたのは、この藩の動向が未だ知りたがたいことによってのことと見える。

 



 逆寄せの計画     朝議がいよいよ征討と決すると、因州藩のみならず、他の藩士でも長州に同情を表するものがあって、このことを長州人に報告した。長州人が目ざす相手は、わが藩である。長州が坐して征討を受けるとなると、他の藩も止むをえず勅令に従い、長州を敵としなければならないから、むしろ逆寄(さかよ)せして、禁闕に迫り、会津兵にのみ挑戦することになれば、他藩は両端を顧望して動かないであろう。そうすれば、一挙に会津を破り、至尊を擁し奉って天下に号令すれば、宿望を達すること掌中にありと考えて、兵を次のように部署した。
 福原越後が率いる伏見邸の人数を本街道にすすめ、河原町の長州屋敷に潜伏している長州藩士と浪人たちと合併し、鷹司邸の裏門から入って、凝華洞の正面に出る。また、益田右衛門介の率いる長州藩士と浪人組は、福原と同時に鷹司邸に集合するものとし、また、嵯峨の天竜寺にこもる国司信濃の率いる長州勢は、児玉小民部、来島又兵衛に随伴し、三手に分れ、中立売、蛤、下立売の三門から御所に突入することにした。その他、若干名の銃手を精選して、長州と気脈を通じる公卿日野、勧修寺、石山などの邸内に埋伏させ、わが公が唐門から参内せられるのを狙撃させようとして、塀裏に足場をかけて埋伏させた。
 わが公が、唐門ではなく建春門、北穴門から参内されたため、この謀計が水泡になったことが、後になってわかった。





 国賊肥後守     十八日の夜、国司信濃は、その部下に左の部署の令を発した。福原越後もまた、同じような令を発したことであろう。

国賊肥後守を討ち取るため、今夜子(ね)の刻〔深夜零時頃〕御花畑(凝華洞)の宿所へ押し入り申し候につき、信濃は中立売、児玉小民部は下立売辺、森鬼太郎(来島又兵衛)は出水通を行軍し、九門に入りこむ戦略、肝要たるべく候。しかしながら、敵は肥後守のみのことにつき、列藩の内なるたけ取合いに及ばざるよう致すべき旨申し説き候うえ、無理に指揮候えば、余儀なく相戦い申すべく候。第一御所内の事に候えども、賊を討ち洩らし候ては相すまず候えば、大砲小銃の打ち方を用い候よう仕るべく候こと。(越前藩人がこの令書を拾得した)

 



 わが藩兵は千五百     この時、京都にあるわが藩兵の軍勢の数は、昨年八月以来、二陣(八隊)であって、外に公の親兵らを合わせると、およそ千五百人内外であった。
 そのうち一陣、すなわち四隊の兵と、大砲打手ならびに新選組をば、家老神保利孝に与え、竹田街道の九条河原に陣をとり、伏見の長州勢に備えた。残りの一陣の兵のうち、陣将内藤信節は唐門前を守り、番頭一瀬隆智、山内蔵人はそれぞれ一隊を率いて蛤門を守衛した。また番頭生駒直道は、一隊の兵をもって黒谷の本営の留守をした。
 この夜(十八日の夜)、深便におよんで長州勢が逆寄せするらしいとの報を得たので、警戒し、ますます守りを厳重にした。
 この時、諸門、各藩の受持ちは、寺町門は肥後、堺町門は越前、下立売門は土佐、石薬師門は阿波とし、禁門の南門は一橋、建春門(俗に日の御門という)は紀州、唐門はわが藩、清所門は桑名藩とした。これは主なる守衛兵を掲げただけで、各門【注二】に他の藩士がいて、これに応援する手はずになっていた。





 【注】

【一 去る八月】 文久三年八月十八日の政変をさす。

【二 各門】 御所各門の概略図(上巻一二〇頁)および御築地地内図(上巻挿込)を見られたい。

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  1. 2012/11/15(木) 18:42:28|
  2. 京都守護職始末2
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