いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二  諸浪士の跋扈     『京都守護職始末1 』

軽薄なる攘夷論     さきに井伊直弼朝臣の凶変があり、つづいて老中安藤信正朝臣の坂下門外の遭難【注一】のことがあって、それ以来幕府の威厳はとみにおとろえ、ようやく軽悔の念をいだくものが多くなった。
 特に京師では、諸藩脱藩の武士や草莽の徒がみずから有志者と名のって、さかんに攘夷を主張し、陸続として踵を接し、公卿の門に入説した。およそこの徒の言うことは、幕府が開国を断行したのは、多年昇平になれて遊惰にながれた余弊のしからしめるところで、おぞくも外国人の威嚇に恐怖し、決然とこれと争う勇気なく、一時の偸安に出でたものだとし、外国人を夷狄禽獣と呼び、嗷々として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことでなく、はなはだしいものは昔の元寇【注二】とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。
 そして公卿と言えばまた、おおむね宇内の大勢を知らず、かつ多年の窮乏に苦しんで、ひそかに武家の隆盛をうらやむものが多く、好んでこれらの入説に耳を傾け、ただちにそれが実現されるもののように迷信し、相ともに尊王攘夷を唱えた。
 そのようなわけで自然、公武の方針が表裏になり、昔は百事幕府に委任し、垂拱して治平をみそなわした朝廷が、いまはかえって幕府を掣肘するに至った。そこまできても幕府は、何らみずからを顧みるところがなく、いたずらに旧套を墨守するだけで萎靡してふるわない。そこで、それを見兼ねた海内の雄藩がそれぞれその反省をうながし、かつは内治の釐正について進言献策することとなった。
 そのもっとも率先的なものは、薩摩、長門、土佐の三藩である。俗に三藩の称があるのもそういうわけであるが、この三藩がまたその議を一つにせず、あるものは豊臣氏の制度にならって、雄藩主五人を挙げて幕府の大老となすべしと言い、あるものは将軍に後見職を置き、雄藩一、二を挙げて大老となすべしなどと、意見を異にするが、その根底の攘夷の実現ということでは、衆論は同一轍であった。
 そこで、有志と自称する浮浪の徒は開戦が旦夕に迫っていると妄想し、輦下をはばかりもせず、数十人党を結んで京中を横行し【注三】、あるいは富豪に迫って軍資と称して米金をかすめとり、あるいは異論者を殺戮して血祭と唱え、横暴至らざるところのないありさまである。当時、彦根の藩兵が京都守衛に当たっていたが、この暴勢に辟易して手の下しようもない。

 



 島津久光の上京     たまたま島津三郎(実名忠教、後久光、はじめ周防和泉三郎と称し、後従四位上左近衛権中将に任じ、大隅守と称す)がその主に代わって上京するとの報があった。京都では訛言がふりまかれた。三郎のくる目的は、浮浪の徒を駆って攘夷の先鋒を奉請するにあると。
 所司代酒井修理大夫忠義朝臣(若狭小浜城主)はあらかじめ事変を慮って、倉皇として二条城に入り、みずからまもると同時に、急を幕府に知らせた。京中はそのため加担して起ち、白昼戸をとざし、夜間は行人の姿を見ないありさまとなった。
 やがて、三郎は京師に入った。浮浪の徒はこれを待ちうけ、強請すこぶる騒擾をきわめた。朝廷はすなわち三郎に命じてこれを鎮定させた。三郎は勅旨もってこの連中を諭し、そのうち頑強で屈服しないものはこれを殺戮し、日ならずして事がまったく平定した(世にこれを伏見寺田屋の変【注四】という)。これ以来、三郎の名声は一時に隆々としてきた。
 そのときすでに、三郎は時事について奏上するところがあったが、その概略は次のとおりである。

一 閣老久世大和守に早々上京致すよう、きっと仰せ渡され候てはいかが御座あるべく候や。

一 栗田宮(尊融法親王)、鷹司太閤(政通公、法体となられて後拙山と号した)、鷹司右府公(輔煕公)御慎み【注五】解きあらせられ候てはいかが御座あるべく候や。

一 関東においても一橋殿、尾張大納言、越前中将、土州、宇和島、御慎み解きあらせられ候てはいかが御座あるべく候や。右は罪科の有無まったく存じ奉らず候えども、天下の風評、かつはこの節難波辺の所々に充満致し居り候浪士の説を承り候ところ、この御方々を恨み奉り衆怒の帰するところに御座候間、これらの御所置これなく候では、爆発目下におこり、人心一和と申すところに至り申すまじくと存じ奉り候につき、愚慮の程心胆を叩いて申上げ奉り候。

一 関東において安藤対馬守にはすみやかに退役仰せつけられ候ように御座候では、人心□乱、変乱の基と相成るべくと存じ奉り候。

一 御慎み解きの上は、一橋殿御後見、越前中将殿御大老職にあらせられ候てはいかが御座候や。右等の処、人心一和の基本と恐れながら存じ奉り候。

一 前件の儀仰せ渡されについては、恐れながら朝廷の御威光立たせられ候わんによって、関東有司急速にこれを取用いの儀いかが御座候やと存じ奉り候間、一、二の大名へ御内勅下され、結局見届け候よう仰せつけられてはいかが御座あるべく候や。

一 越前在職候わば、上京仰せつけられ、朝廷御遵奉の道相立ち、邪正の弁も明白に相成るよう仰せきかされたく存じ上げ奉り候ことに御座候。公武御合体、上下一致の上、異人の所置は天下の公論をもって、永世貫徹致し候明断定めさせられ、皇威諸蛮へ輝き候ようなされたく存じ奉り候。右は、近頃僭越の至り、もとより鉄鉞(てつえつ)の罪をまぬがれず、恐縮し奉り候儀に御座候えども、近来、世態を観察仕り候ところ、綱維日に廃弛し、人心和せず、滅亡の極変故四出し、終に異人の正朔(太陽暦)を奉じ候よう相成候やも計りがたく、恐れながら玉体も安らかならせられざるように承り、かつは本文の事件叡慮の向かわせられ候ところに候やと伺い奉り候。遠慮を徹底し、公武御合体を補佐し、人心一和の道を御成就なされ候よう御座ありたく、一二件国論を受け、内々言上し奉り云々(うんぬん)、


 



 勅使東下す     朝廷はこれを採納されて、この年(文久二年)五月、大原左衛門督重徳卿が勅使として東下され、三郎がその護衛をつとめた。勅書にいう。
    
朕惟うに方今の時勢、夷狄猖獗をほしいままにし、幕吏措置を失い、天下騒然として万民、塗炭に墜ちんとす。朕ふかくこれを憂い、仰いでは祖宗に恥じ、俯しては蒼生に愧ず。而して幕吏奏して曰う。
近来国民協和せず、それをもって膺懲の師を挙ぐるあたわず、願わくば、皇妹を大樹(将軍)に降嫁されんことを。すなわち公武一和、而して、天下力をつくして以て夷戎を掃攘せんと。故にその請うところを許す。
而して、幕吏連署して、十年内必ず夷戎を攘わんと言う。
朕甚だこれをよろこび、丹誠をぬきんで神に祈り、以てその成功を待つ。昨臘和宮関東に入るや【注六】、千種少将、岩倉少将を使して【注七】天下大赦の事を諭し、且つ告げて曰う。国政は旧によって大概を関東に委ねるも、外夷の事のごときはすなわち我国の一大事なり。その国体に係るごときはみな朕に問うて後議を定め、或いは二、三外藩の臣に夷戎の所置を予り聞かしめよと。幕吏対えて曰う。
宸意、事甚だ重大にして、にわかに奉行し難し。請う、しばらく猶予あれと。而して頃日、列藩ひそかに謀議を献ずるものあり。薩摩、長門の二藩は、殊に親しく来りて事を奏す。かつは山陽、南海、西国の忠士、すでに蜂起し、密かに奏して言う。幕吏、奸徒日々に多く、正義を地に委し、王家を蔑にし、戎狄に睦んで物貨濫出し、国用の耗、万民困弊の極は、ほとんど夷戎の管轄を受けるに至るは日ならずと知るべきなり。ねがわくば旌旗を挙げ、鸞輿を奉じ、函嶺において幕府の姦吏を誅せんことをと。或いは曰う。
大平漫閑遊惰の弊をのぞかんためには、京師の姦徒を誅すべしと。
又曰う。幕府を顧みず、攘夷の令を五畿七道の諸藩に下すべしと。
その衆議のごとき、ついに忠誠憂国の至情に出ずといえども、事甚だ激烈なり。まず薩長を喩して、事鎖厭せしめ【注八】、その他、幕府の老吏久世大和守を召すに、往復して日をふれども未だ唯諾を告げずして、先に昨臘喩すところの大赦を行う。
それ大樹猶弱にして、何ぞ失これあらん。但し、幕吏因循にして安きをむさぼり、撫馭術を失うことかくの如くならば、国家の傾覆立って待つべきなり。
朕日日憂懼す。所謂、一日の安を倫んで百年の患を忘れるという整賢の遺訓、以て鑑とすべし。まさに内文徳を修め、外武衛を備え、断然として攘夷の功を建つべきなり。
ここにおいて衆議を斟酌し、中道を執り守り、徳川をして祖先の功業を再構し、天下の綱紀を張らしめんとす。よって三事を策す。その一に、大樹に令して大小名を率い、上洛して公卿大夫と共に国家を治め、夷戎を攘わんことを議し、上は祖神の宸怒を慰め、下は義臣の帰嚮(ききょう)に従い、万民和育の基を啓き、天下を泰山の安きに比せんとなり。その二には豊太閤の故典にならい、沿海の大藩五国をして五大老と称し、国政、防禦、夷戎の処置を諮り決せしめば、すなわち環海の武備堅固となり、確然として必ず攘夷の功あがらん。その三には、一橋刑部卿に令し、大樹を授けしめ、越前前中将を大老職に任じ、幕府内外の政を輔佐せしめ、まさに左衽(ひだりえり。異人の風俗のこと)の辱め受けざらしむ。
これ万人の望むところとして、恐らくは違わざらむ。朕が意、この三事を決す。
この故に、使を関東につかわすは、けだし幕府をして三事のうち一を選んで以て行なわしめんとすなり。
これ以てあまねく群臣に詢れ。群臣も忌憚するところなく各々心丹を啓沃し、よろしくとう言を奉れ。」(本書は重徳卿の関東にもたらしたものと世に称するけれども、末文のところ疑わしくも思われる。)

 




 幕政を改革     幕府は綸命を受けて大いに悟り、一橋刑部卿(慶喜卿)を後見職に、松平慶永朝臣(越前旧主隠居、時に春嶽と号した)を政治総裁職【注九】にあげ、将軍上洛のことを議定し、つづいて旧来の弊政改革を決行して、「非常の厳革」とそれをよんだ。 まず諸大名の家眷をその領地にかえし【注十】、また、平素の服装や儀従の人数をへらし、華美の弊習を去り、簡易な実用を採り、閑職や冗員の陶太を行った。特に、戊午の大嶽で罪をうけて幽閉されている輩をゆるし【注十一】、故井伊直弼朝臣がこの大獄を決行したことが専恣な取り計らいだったという理由で、その封十万石を削って退咎し、それに組した役人たちを処罰するなど、着々実行して、一時は人目をおどろかした。中でも井伊家の退咎のごときは、前後撞着の処置で、すこぶる失体に類することであるが、これも一時人心を収攬するためとあって、やむをえない処置に出たものである。

 



 【注】

【一 坂下門外での遭難】 坂下門外の変という。井伊大老亡きあと、幕閣の中心にあったのは、老中安藤信正(信睦)であった。彼は安政の大獄後、悪化していた朝廷と幕府との関係を改善する「公武合体」を実現しようとした。
そのため将軍家茂(慶福)の夫人に、孝明天皇の妹である和宮を迎える策をたて、公卿や志士の反対をおしきって、これを実現した。このため安藤は志士のうらみを買ったが、これを助長させたのは、幕府が孝明天皇の退位を陰謀しているという噂が流れたことであった。長州藩と水戸藩の尊攘派は、安藤襲撃計画をたて、これに宇都宮の兵学者大橋訥庵らの挙兵計画が合流した。かくて文久二年(一八六二)一月十五日、水戸の浪士平山兵介ら六人が、坂下門外で安藤をおそって、これを傷つけた。安藤はまもなく老中の職を去った。

【二 元寇】 文永十一年(一二七四)および弘安四年(一二八一)に元のフビライの軍が博多に来攻、将兵の奮戦と台風の助もあって元軍を大敗させた事件。

【三 京中を横行し】 文久二年(一八六二)後半、京都では、尊攘派の手によって、張り紙、投げ文、放火、生晒し、暗殺などの脅迫行為が次々におこなわれた。彼らはこれを「天誅」すなわち天に代わって逆賊を誅するのだと称した。暗殺の被害者は、佐幕派公卿の九条家の家臣である島田左近、尊攘派に反対する行動をとったと見られた越後の浪士、本間精一郎、京都町奉行組与力渡辺金三郎ら四名をはじめ十数名をかぞえた。また井伊大老の片腕である長野主善の愛人村山可寿江は、生晒しのはずかしめをうけた。また両替商、質商、米穀商、貿易商の不正を非難し、天誅を加えるとおどしたり張り紙、投げ文がばらまかれた。これにたいし所司代や京都町奉行は、ほとんど取締りの力をもたず京都は無警察状態の混乱におちいった。

【四 伏見寺田屋の変】 薩摩藩主島津茂久の父島津久光が、藩兵千人をひきい、幕政改革を実現させる目的で、鹿児島を出発したのは、文久二年(一八六二)三月十六日であった。京都に集っていた薩州藩をはじめ諸藩の尊攘派志士は、これを機会に倒幕の兵を挙げようと計画していた。しかし久光は、幕府と朝廷との協力関係、すなわち公武合体を目標としていて、倒幕の急進的行動には反対であった。志士側は、西郷吉之助(隆盛)を派遣して、久光を説得しようとしたが、久光は面会を許さず、西郷を流罪にした。そこで京都の尊攘派は、自分だけでまず兵をあげ、情況を打開しようとした。彼らは、薩摩の船宿である伏見の寺田屋に集合した。これを知った久光は、奈良原喜八郎(繁)を使者として、薩摩尊攘派の旗頭である有馬新七に挙兵の中止を命じた。しかし有馬はこれにしたがわない。奈良原ら使者側は「上意」とさけんで斬りかかり、有馬ら六名の薩摩志士は死んだ。これが寺田屋の変であるが、これにより真木和泉、田中河内介ら志士も、意気を失って、挙兵をとりやめた。そして、この鎮撫に成功した久光の名声は、一段と高まることとなった。

【五 御慎み】 安政の大獄の措置として、幕府は水戸藩への内勅に関係した朝臣の処罰を朝廷に要求した。安政六年二月十七日、天皇は栗田宮(青蓮院宮尊融法親王、のち中川宮)を慎に、内大臣一条忠香、権大納言二条斎敬に十日の慎、儀奏久我建通、武家伝奏広橋光成に五日の慎、武家伝奏萬里小路正房に三十日の慎、儀奏加勢正親町三条実愛に十日の慎を命じた。さらに朝廷、幕府間の接衡の焦点となっていた前関白鷹司政通、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔熙、前内大臣三条実萬は、辞官・剃髪・慎の処分をうけた。

【六 和泉関東に入る】 和宮が将軍家茂と結婚したこと。文久元年(一八六一)十月二十日、和宮は京都を出発、十一月十五日江戸に着き、翌年二月十一日婚儀の式をあげられた。なお、本章注一を参照。

【七 千種少将、岩倉少将を使して】 和泉の東下に随従した左近衛権少将千種有文と右近衛権少将岩倉具視。千種と岩倉は、天皇の意を受けて、老中久世広周、同安藤信正に面会し、第一は鷹司政通、同輔熙、近衛忠熙らの処分の解除を求めるとともに、幕府に廃帝の企てがあるとの風説について詰問した。将軍はその企てがないとの誓書を出した。また和宮降嫁の条件である攘夷の期限と方略を質問したのにたいし、老中は、いずれ条約を破棄する計画であるが、時期は慎重にしたいと答えた。

【八 事鎖厭せしめ】 別本によれば「薩長の輩を喩して鎮圧せしむ」とある。

【九 政治総裁職】 当時の資料には「政事総裁職」とある。越前前藩主松平慶永を政事総裁職とし、幕政の中枢にすえることに、幕閣は異論はなかったが、一橋慶喜の登用には反対があった。しかし慶永の説得によって、文久二年七月六日、慶喜は将軍後見職に、同月九日慶永は政事総裁職に就任した。

【十 家眷をその領地にかえし】 大名の妻子は人質の意味で、江戸藩邸にとどめおくきまりであったが、江戸藩邸の家臣を減じ、その費用を節約するため帰国を許すこととなった。なおこの時、参勤交代制の全般的改革があり、従来隙年であった江戸在任を三年に一回とした。各藩財政の窮乏を救い、これを軍備充実にふりむけさせるため、大名統制をゆるめたのである。 

【十一 幽閉されている輩をゆるし】 文久二年八月、久世広周(関宿藩主)、安藤信正(平藩主)の老中在任中の失政を責め、隠居、急度慎に処した。さらに十一月には、安政大獄の審理関係者を罰し、彦根藩主井伊直憲にたいして、直弼の追罰として、十万石の削減を命じた。他方、和宮婚儀の祝儀として大獄連座者をはじめ、桜田門外の変、坂下門外の変など、尊攘運動遭難者のいっせい大赦をおこなった。

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  1. 2012/10/25(木) 16:58:33|
  2. 京都守護職始末1
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