いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十六  戦端を開く     『京都守護職始末2』

 長軍諸戦に敗る     十八日の夜、亥の刻〔午後十時頃〕に、福原越後は兵五百ばかりを率いて伏見を出発した。
 天竜屯集の藩兵がにわかに変を生じたので、鎮撫のために入京するのだとふれさせながら、進んで直違橋を過ぎた。ここを守る大垣藩の守兵は、あらかじめ路傍に埋伏していたが、福原勢が近づくと、にわかに起って、これを砲撃した。賊兵は狼狽し、数丁ばかり退いた。越後らは、兵を叱咤して、備えを立て直し進んだが、大垣兵は大砲数発を放って、これを撃った。もとより浮き足立った賊兵が、何でこれを支え得よう。総崩れとなって大敗し、越後はわずかに命を免かれたが、遂に見方軍と合することができなかった。
 一方、伏見を守っていた彦根兵は、伏見の長州邸に火を放って砲撃をはじめた。賊兵は今は伏見にも居たたまれず、大阪をさして奔走した。
 稲荷山の砲声が禁闕に達するや、朝廷は左の勅書を授けて、わが公を召された。

長州脱藩の士等の挙動すこぶる差し迫り、すでに兵端を開くの由、相聞ゆ。速やかに総督以下、在京の諸藩の兵たち、力を尽して征伐し、いよいよ朝権を輝かすべきこと。

 



 砲声中を参内     時すでに暁天となり、砲声が蛤門の方から聞えてきた。わが公が参内しようとすると、たまたまそこへ、小森一貫(久太郎)が、伝奏衆の旨を受けて馳せ来って、建春門から参内するようにと告げた。
 わが公は、そこで病を勉めて、駕籠で凝華洞を出て、建春門、北穴門で駕籠から下り、左右から助けられて、承明門(禁闕南門内で、紫宸殿前の門である)前を過ぎ、平唐門(唐門を入って右に行き、神嘉殿に行く間にある門)内の仮屋まで着いた。定敬朝臣が先に来ていた。大原重徳卿がわが公を迎え、病苦を労(いた)わり、手を執り扶(たす)けて殿上に進ましめた。そして、殿下に就いて、天機をうかがった。





 中立売門へ攻撃     その頃、国司信濃は、すでに夜半に嵯峨を出で、天竜寺に屯集していた兵の一部を率いて、その一手は、中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門(うらもん)から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。
 これよりさき、唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家に砲声が起るや、ことごとく北にのがれ、いまはただ、わが内藤の一隊だけが門前を守っているばかりであった。賊兵は、日野邸の塀のうちを拠点にしてさかんにわが兵を攻撃したが、わが兵はあいにく拠るべき地物がなかった。そのうち硝薬が尽きたらしく、砲撃は数刻で止んだ。




 賊兵散乱     わが軍事奉行飯田重慎、甲長の町野伊左衛門らは奮励して衆を鼓舞し、槍を入れさせた。部下の窪田伴治が率先して槍をふるい、敵中に飛び入って数人を倒して、みずからも死んだ。飯河小膳、町野源乃助らが、あとにつづいて槍をふるい、大いに戦った。
たまたま薩摩の隊長某が部下を率いて、乾門から吶喊(とっかん)して来て応援した。
 賊兵は遂に敗れ、日野邸に逃げ込み、鳥丸邸をぬけて烏丸通へのがれ出たが、そこへたまたま相国寺の薩摩邸から出てきた薩摩勢が、烏丸通の北からやってきてこれを撃ち、筑前兵は中立売門内から、これに応援した。
 敗余の賊兵が、どうして新手の薩兵に当ることができよう。ひた崩れに崩れて、ちりぢりになり、信濃はわずかに身をもってのがれた。

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  1. 2012/11/15(木) 20:45:59|
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