いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十七  蛤門の戦     『京都守護職始末2』

 わが死傷者甚大     さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との間に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って闖入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。
 はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待っていたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。賊兵は、遂に敵することができないで、公卿の石山邸に入って、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵が潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆した。賊衆は瓦解して敗走した。
 その日の戦でもっとも激戦だったのは、蛤門であった。ゆえに、この日の戦を蛤門の戦と世称するようになった。
 これよりさき、わが江戸の重臣達は、京地に変のあることを慮(おもんぱか)って、一隊の兵を編制し、井深重義を将として上京させた。この朝(七月十九日)、黒谷に着いた。留主の重臣は、井深隊に黒谷を守備させ、それまで留守をしていた生駒直道の隊をやって、わが蛤門の守衛を授けさせた。直道は堺町門から入り、凝華洞前に屯集した。





 賊鷹司邸に拠る     さてまた、益田右衛門介は、十八日の夜、真木和泉、寺島忠三郎、入江九一らを鷹司邸に潜伏させ、十九日には、伏見の兵、河原町藩邸の諸兵と合流して、禁中に攻め入ろうと計画を立てた。益田自身は、小兵で山崎の陣の留主をし、その余の者は、ことごとく鷹司邸に集合せしめた。
 しかし、伏見の兵は、大垣兵のためにもろくも破られて合体することができず、ただわずかに河原町の藩邸から小人数の兵が会してきただけであった。
 賊兵は、鷹司邸の塀を楯にして、横から堺町門を守る越前兵を砲撃した。露出した越前兵は、塀のうちからうち出す賊兵のために撃ち破られ、北をさして退いた。つづいて彦根、桑名の兵が来て授(たす)けたが、賊兵は鷹司邸を固守して、容易に退く気色がない。
わが生駒隊は、西院参町から迂廻して、裏門から九条邸に入った。





 十五ドエム砲を放つ     凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲【注一】が一門備えてあった。わが大砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒家と手はずをきめて、鷹司邸の西北の角を砲撃し、塀の崩壊するのを合図に、生駒隊は九条邸から出て鷹司邸を破り、邸内に闖入し、大砲の打手も、崩壊した西北角から攻め入ることを約束した。
 十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門扉をうち破り、野村秀次郎らが門内に突入して、門内から扉をひらき、わが衆はことごとく邸内に進入した。大砲の打出たちも、同時に邸内に進入した。大砲の打出たちも、同時に邸内におどり込んだ。
 賊は狼狽して敗走した。





 久坂義助ら     その時、薩摩、越前、桑名の兵も来って助けたが、たまたま鷹司邸から火が起ったので、賊将久坂義助、寺島忠三郎、入江九一らは、逃げきれないことを知って、屠腹して死に、真木和泉は負傷しながらも、残兵を率いて、鷹司邸の南裏門から逃れ出た。





 砲声雷の如し     はじめ九条河原に屯集していたわが兵は、夜半に稲荷山の砲声を聞くや、陣将神保利孝は、部下の長坂光昭の一隊と新選組を稲荷山に派遣したところ、戦はすでに終って敵の集騎も見えないので、九条河原に帰ってきた。
 すると、また北の方に、雷のような砲声である。
 急いで北上し、蛤門に来てみると、ここでも戦はすでに終っていた。神保の部下の加須屋の一隊は、稲荷山の砲声を聞いたとき、陣将の命で、桑名兵の一隊とともに伏見に行ってみたが、ここもまた賊が逃げたあとで、影もない。ただ彦根兵が長州邸に火をかけているのを見るのみであった。
 神保の部下の坂本隊、大砲隊は、北方の砲声を聞いて、馳せつけて丸太橋通に来てみると、鷹司邸内で、戦いの真最中であった。そこで、彦根兵らと南裏門を囲んでいると、そこへ真木和泉らの突出兵が現われ、これを迎え撃って敗った。真木は、わずかに身をもって逃れた。
 彦根兵、浅尾兵らは真木らを追撃して、多くのものを斬獲した。
 さきに、中立売で薩兵のために破られた賊の残兵が、商家に隠れ込んだので、薩兵はただちに火を放って、これを撃った。たまたま風がはげしかったので、火の手は所々に飛び散り、鷹司邸の火と合して、西は堀川まで焼けひろがり、南は九条野まで至るありさまで、ほとんど洛中を焼きつくした。





 殿上人の恐怖     この日、長州兵のうち出す諸門への砲撃は猛烈をきわめ、弾丸が内垣に雨とふりそそいだ。殿上人らは、こぞってふるえ上った。
 わが公は、所司代定敬朝臣とともに玉座を守護し奉ろうと、小御所の廊下まで進むと、慶喜卿が出てきて、「予が出て、諸兵の指揮にあたるから、君らは入って玉座を守護し奉るように」と言った。そこで二人は、常御殿の廊下に進んだ。二条殿下は、わが公を進めて、御前の縁にさぶらわせた。
 やがて、侍従が警蹕(けいひつ)の声を発して、わが公と定敬朝臣の家臣を退かせ、殿上正面の障子が開いた。二人が稽首粛拝すると、聖上は、かしこくも親しく慰労の詔を賜うた。
 そこで、わが公は殿下に向って、謹んで本日の騒擾が宸襟を驚かし奉るに至った止むをえぬ事情を奏し、戦いが一時激しくても、数刻を出でずしてこれを掃蕩するつもりであるから、どうか毫も天意を労することのないようにと述べた。聖上もその言葉を諒承された。それで、車駕遷御の私議【注二】もたちまち止み、殿上人の心もはじめて安堵を得た。わが公は、定敬朝臣とともに、小御所の庭上に席を設けて、宿衛した。伝奏、議奏、その他の諸公卿がやってきては、しばしばなりゆきを議した。
 そのうち、鷹司邸に火の手があがったので、堂上人はまたまた狼狽し、堺町門の官軍が敗北して、賊兵が凝華洞に放火したのではないかと言って騒ぎ立てた。わが公は答えて、「火がもし凝華洞であるならば、洞内の家屋は新築であるから煙が白いはずだ。この煙が黒いところをみると、必ず凝華洞ではなく、鷹司邸であろう。いまに勝ちいくさの報がある」
 と説いたので、衆心ようやく安堵した。
 しばらくすると、はたして賊兵が退却したという報知が至った。





 泰然たる聖上     その前に、総督が殿上をさがると、建春門で、わが公用人手代木勝任に出会い、「慶徳(因幡侯。慶喜卿の実兄)、茂政(備前侯、慶喜卿の実弟)は、わが同胞であるが、その家臣共の気持は測りがたいものがある。ゆえに、自分が出て指揮をとろうと思う。ただ心配なのは、禁中の驚動が甚だしいことで、万一車駕が宮廷を出て遷幸するようなことになれば、大事は去ることになるかもしれない。汝はやく禁内に入って、この気持を中将に告げよ」と言った。勝任は馳せて、このことを公に報告した。
 しかし、聖上の御言動は、泰然として平素に変ることなく、砲声や喊(とき)の声も、鳥声が耳に過ぎるように気に止められない。殿上はそれによって、はじめて粛然とした。
 晩におよんで、総督以下諸藩に左の勅を賜わり、戦功を賞された。

鳳闕の下、不慮の乱擾のところ、一同勢を出し、丹精を抽(ぬき)んで候段、叡慮めならず、大儀に思し召し候事。

 わが公は、大阪城代の松平信古朝臣に激をとばせて、長州兵追討の勅旨を伝令した。

長州人みだりに押し入り候につき、御所より追討候よう仰せ出だされ候間、もし在坂の者は二念なく打ち留めらるべく候。登坂の者は、摂海にて打ち留めらるべく候。

 この戦で、わが兵の死傷者は合わせて、五十余名であった。後日、それぞれの功労によって賞を賜うた。

 



 六角獄舎の悲劇     この日、六角の獄舎において【注三】、三条家の臣丹羽出雲、平野次郎、長尾郁三郎、その他浮浪の徒ら三十余人が破獄を企てたという理由で、ことごとく斬罪に処された。
 そもそもこれらの徒は、その跡は悪(にく)むべきであるが、その志は決して悪むべきではない。いわんや、その罪状も未だ判然としていないのである。それに、三十余人がことごとくそろって、破獄を企てたとは考えられない。けだし獄吏が破獄と誣(し)いて、断罪したにすぎない。
 あとになってこれを聞いて、わが公は大いに憂え、きびしく町奉行らを戒められたということである。





 真木和泉ら自尽     二十日、薩摩兵は、嵯峨の天竜寺に向った。 賊はすでに逃げ去り、僅かに足軽一人を捕えただけであった。その時、たまたま敵の遺留していった硝薬が火を発し、轟然と暴発し、寺塔がことごとく破砕した。
 わが藩の神保利孝の隊と大砲隊、新選組等は、山崎天王山に向い、二十一日の暁天に、山麓から進撃した。賊は山嶺に拠って、応戦数刻に及んだが、やがて、賊営から火が起った。わが兵が争い登ってみると、賊将真木和泉をはじめ、ことごとく自尽し、伏屍二十余人、焦爛したものが多かった。わが兵は大砲二門と器械、弾薬等を収めて、帰った。





 長藩の大阪邸を破壊     はじめ勅命が出て、長州兵に退去を命ぜらるるや、長州の三将ならびに久坂、寺島、入江らは、国許からの大兵を待っても、とても間に合わないうち追討の命が出ることを見越して、やや退兵の方に意が傾いていたのを、真木和泉らの浮浪の徒は、それをもって、幕府を恐れているからだと言い、慶喜卿が八方慰諭してわれわれを退兵せしめようとしているのは、畢竟、長州の兵力に拮抗できないのをさとっているからに外ならず、ゆえに、幕府や会津、薩摩の恐るるに足りないことは火を見るよりもあきらかなことである。今、このような千載一遇の機会に際し、退兵するなどとはもってのほかで、一戦に雌雄を決し、宿望を達するのは、この秋(とき)をおいてほかにないと論じ立てた。かかる場合、勇壮な論が勢力を得るのは、ありがちなことであるから、真木らの論が遂に実行されて、この一戦になったもののようである。
 しかし、真木が天王山に逃げのびてきた時、久坂、寺島、入江らはすでに戦死し、長州の三将はすでに西奔していた。真木は、前言の責任上、遂に自殺したものであるという。しかし、ここで死んだ者のなかには、長州藩の兵は一人もいなかった。
 天王山を落したわが勢は、次いで長門藩とその末藩の大阪邸を破壊し、米四万八千俵を収めて帰った。幕府は後に、その米を京師の罹災した人民にふるまった。





 長防へ追討の勅令     二十三日、長門藩兵の不臣の所業が、藩主毛利慶親卿父子の命令に出たものである証拠が明確になったので、朝廷は左のような勅命を布告した。

松平大膳夫儀、兼ねて入京を禁じ候ところ、陪臣福原越後をもって、名は嘆願に託し、その実は強訴にて、国司信濃、益田右衛門介ら追々差し出し候につき、寛大の仁恕をもってこれを扱うといえども、さらに悔悟の意なく、言を左右に寄せ、容易ならざる趣意を含み、すでにみずから兵端を開き、禁闕に対して発砲し候条、その罪軽からず、加うるに父子黒印の軍令状【注四】を国司信濃に授けし由、全く軍謀顕然に候。かたがた長防へ押し寄せ追討これあるべきこと。





 長州派公卿の参朝を停止     次いで、慶親卿父子の官位を褫(うば)った。
 この日、朝廷では、有栖川宮および鷹司前関白輔熙公、大炊御門大納言家信卿、正親町大納言実徳卿、中山前大納言忠能卿、日野大納言資宗卿、橋本中納言実麗以下、公卿十余人の参朝を停止した。これは、さきに長州兵の入京を許すことを主張し、また長門藩を曲庇したことがあったからである。





 将軍家上洛を促す     この時に当って、公武一和の基礎を造ろうとするならば、戦勝の余威に乗じて、将軍家みずから進発して征長の任に当り、一挙に長防を破り、すでに傾きかけた幕府の威信を張るに如くはないと、わが公から建議書を関東の閣老に送った。その書面にいわく、

一翰拝呈致し候。残暑未だ退かず候えども、天機ますます御麗しく御座あそばされ候間、御降心なさるべく候。将軍様にも、ますます御機嫌よく御座あそばされ候わん、珍重と賀し奉り候。各位様にもいよいよ御清適、御勤仕珍重と賀し奉り候。
過日、使者を差し下し候間、委細御聞き取り下され候わん長藩の逆意は、今日に相始まり候ことにもこれなく候えども、すぐさま禁闕に発砲致し候わんとは、じつに意外の挙動にて、恐れ多くも主上は常御殿に成らせられ、神器【注五】も舁(かつ)ぎ出し候ばかりに致し、玉座殆ど御遷(うつ)りに相成り候わんこと数度に及び、公卿、御宮等、供奉(ぐぶ)の用意を致し、宮中の鳴動雷のごとく、形情筆紙に尽し難く候。
右は十九日に御座候ところ、二十日夜、怪しき者宮中に入りこみ候とか申し、又々動揺致し、この時に、主上には紫宸殿に出御あそばされ、三器〔三種の神器〕も舁(かつ)ぎ出すばかり、外よりは御警衛の者共入り込み、混雑申すまでもこれなく、ようやくの事にて沈静に相成り候。
右等に就いても、一橋殿はじめ役々の尽力一方ならざる事に御座候。さて又、諸手差し向け候ところ、嵯峨は一人も残りこれなく、薩州の手にて焼き払い候。山崎は少々残党もこれあり、砲戦致し候えども、家来共にて乗取り候。伏見は井伊、戸田等にて打ちとめ、焼払い、八幡は前日より残党これなく候。大阪も追々の注進、落人打取り、召捕等少なからず、屋敷内には一人もこれなく引払い、西宮、兵庫辺に長人落ちゆくの模様、追々申し来たり候。長門守には、備後鞆(とも)の津まで出で候由に御座候。この上は九門内外をはじめ、大阪、兵庫、明石等、それぞれ備えを設け、西海並びに山陰、山陽、南海の二十三国に命じ、押し申しつけ候ところ、今日追討の御綸旨も出で候間、諸手相そろえ、進み候ばかりに御座候。
ついても、先達て中より申し進め候通り、御無人にてなんとも行き兼ね候間、力量これあり候者は破格に御擢用、御役免ぜられ候者も、それぞれ長ずる所をもって御用に相成り、右等御召しつれにて、すぐさま御上洛、万端の御指図あそばされ候わば、中輿の御功業日を指して成就致し候ことと存じ奉り候。諸手の監軍等、その人にこれなく候わでは、御威光、なんとも振起仕らず候間、この段御熟察下さるべく候。右申し進めたく、早々かくの如くに御座候。以上。
七月二十三日。


追啓、時下御自愛祈り奉り候。一橋殿はじめ小子等、いずれも御所内に於て廊下など拝借、今に詰めおり候。いずれも無異に御座候間、憚りながら御休意下さるべく候。

別啓、再三申し進め候えども、無人にてはなんとも致しかたこれなく候間、大和守、周防守等はじめ、杉浦兵庫頭、大久保豊後守、岩田半太郎等、大小監察、御使番等、復職仰せつけられ候よう仕りたく、この節柄、たがいに私意を去り、公義に趣き候よう御処置これなく候わでは相成らず、右は一橋殿へも、とくと申し上げ候上申し進め候間、急速に御伺いの上、御取計らい御座候よう伝々






 京鎮静にかえる     二十四日、朝廷は、京中がようやく鎮静にかえったので、総督、守護職、老中(稲葉正邦朝臣)、所司代の宿衛を免じた。さらに、二人を隔日に宿衛させることにした。よって、わが公は翌日、凝華洞の仮営に移った。つづいて、総督、老中、所司代の宿衛も免ぜられたが、なお兵士をして禁門を守らせた。
 三十日、朝廷では、わが兵の連日の宿衛の労をねぎらい、饌を賜うた。





 親藩譜代に人材なし     この頃、わが公は天下の大勢を察するに、親藩、譜代の諸藩外の諸藩中、薩摩藩の内心は容易に信をおくことができないにしても、公武一和はもともと久光朝臣の宿論であるから、今後、幕府側の失態がなければ、まず与党とみなすことができよう。土佐、仙台、肥後、筑前、久留米の五藩は、一和論の士人が藩政に当っているから、これも憂えるには足りないであろう。ただ芸州、因州、備前、加賀のみが長州の説に傾いているようであるが、今度の勝利の勢を駆って、一挙に長州を挫けば、芸、因らの諸藩はもとより与(くみ)しやすい。この時期を失ってはならない。
 しかるに、わが公は病がますます重く、徳川慶勝卿も未だ出京していない。親藩中で頼みになるのは、ただ慶永卿があるのみである。その慶永卿が京都守護職を免ぜられたので、家臣中には、往々にしてそれを越前家へ侮辱を加えたものとみて、慶永卿が隠居の身で、なまじいなことをし出して、恥を受け、その上財力を費したことで不満としているものが多い。したがって、慶永卿もまた心平らかでなく、藩土に籠居して、国事に無関心のごとくである。慶永卿は、織見はあるが決断力に乏しく、智はあっても勇気に欠け、永くともにことをなす人ではないが、この人をのぞいては他の有為の人がない。





 慶永卿へ出馬要請     そこで、慶喜卿と謀って、慶永卿の出京を促した。慶喜卿は目付役戸川鉡三郎、わが公は手代木勝任を福井にやった。その書面にいわく、

一朶(ひとえだ)呈上仕り候。秋暑いまもって甚だしく御座候ところ、いよいよ御安寧賀し奉り候。然らば貴君、この程は少々御不快の由拝承し、いかがなされ候や、御案じ申し上げ候。なお、委細を相伺いたく存じ奉り候。
さてこの度、長州藩士、恐れ多くも禁闕を犯し、逆跡、言語同断に御座候。即ち御家来、堺町の烈戦、感佩仕り候。しかるところ、官賊の名義いよいよ一定し、すぐさま防長を追討の御綸旨を下し給わり、天下皆これに赴き候。この上の一挙は、治乱の機間に候ところ、残憾至極に御座候えども、御家門、御譜代等の人物に乏しく、政府の御威光は甚だおぼつかなく、万目ひとえに公に属し候間、御所労中なんとも御煩労に御座候えども、皇国のため徳川御家のため、至急に御命駕なされたく、少子に於ても懇願奉り候。よって、家臣手代木直右衛門を差し出し候間、委細は同人より御聞きとり下され候よう希い奉り候。右申し上げたく、かくのごとくに御座候。
(七月二十七日)


 勝任に、慶永から渡された返書は、

貴翰拝閲仕り候。尊論のごとく秋暑甚だしく候ところ、まずもって御壮剛にて御奉職、欣賀の至りに御座候。
さてこの度は、長藩暴発にて禁掖を犯し奉り候逆罪、言語同断の次第ども、逐一伝承し、恐惶に堪えず候。その節も相変らず御忠節、共に御予備も御行届き、その上御藩臣、その所々にて苦戦し、義勇を励まし、賊魁も御手に死し候趣、天下の御名誉これにすぎず、感憤の至りに存じ奉り候。
右については、官賊の名義一定し、長賊追討の降勅にて、この上の一挙、治乱の機間に候ところ、御家門、御譜代等人物に乏しく、政府の御威望もいかにも御残憾の旨、御同意千万に存じ奉り候。右ゆえ、小生上京して参謀も仕るべき旨、わざわざ御家臣直右衛門御差し下し、委細仰せ下され候趣、逐一拝承仕り候。
則ち、一橋殿よりも戸川監察を差し下され、申し達し候趣とも御同様の儀にて、身にとり家にとり、本懐の至りに候えども、唯々重任に堪えず、何とも当惑至極仕り申し候。
右につき、一橋公へ御請の次第もこれあり、委細直右衛門へ家来共より申し聞け候間、御聞取り下され候よう仕りたく存じ奉り候。賤恙(せんよう)の儀、御懇尋下され、万謝し奉り候。先日来、瘧疾(おこり)を相煩い居り候えども、この頃は追々軽少に相成り、不日全癒仕るべく、別して秋暑に逢い、かたがた難儀罷りあり候。右裁答、かくの如くに御座候。頓首。(八月三日)。


再び暢(の)ぶ。賢兄にも永々御不快の趣、甚だ懸念罷りあり候ところ、追々御快然の御模様、天下のために賀すべきの至りに候。この節、一方ならず賢労、恐察に堪えず候。時下御自愛専一と存じ奉り候。又云う。直右衛門を呼出し、面唔に及ぶべきのところ、一昨日、戸川と応接し、その後瘧疾起り、昨日は大いに疲れ候。早々、不本意に候えども、面尽するあたわず、御海恕希い奉り候

 慶永卿は、遂に立たなかった。





 老中を東下せしむ     八月二日、当時在京の老中阿部正外朝臣に命じて、東下して、将軍の上洛を促さしめた。この時、家臣野村直臣、広沢安任に命じて、正外朝臣に随行させ、将軍家の上洛を謀らしめた。
 八月三日、総督は感状を薩摩、越前、桑名、彦根、大垣およびわが藩等におくって、去月十九日以来の戦功を賞した。
 四日、幕府は、さきにわが藩士が京中の不逞の徒を追捕したことの賞として、金千両を賜うた。
 五日、征長の勅諚が江戸に達したので、守護職、所司代に次の旨を下した。

長防征伐の儀、諸家へも仰せつけられ候えども、なお引きつづき御進発もあそばさるべき旨、仰せ出だされ候。よって、銘々いよいよ忠勤を励み、御主意の趣、厚く相心得候よう致すべき旨、仰せ出だされ候。





 征長総督の人事     十三日、幕府は薩摩、肥後、安芸、久留米、土佐、彦根等三十余藩に命じて、征長の部署をきめ、徳川茂承卿を征長総督に任じた。次いで、これを罷(や)め、徳川慶勝卿に代らせた。
 はじめ朝廷での内議では、慶喜卿を征長軍の総督とし、慶永卿を副総督とすることに内定していたが、関東で別人を任命したので、長州の処分など百事御委任の方針をもって、内議は遂に実行に至らなかった。
 幕府はわが公の功労を賞して、左のような感状を与えた。

松平大膳大夫の家来共入京し、禁闕に迫り、砲発及び乱妨候節、その方早速参内し、御守護相勤め、家来共も烈戦に及び、兼ねて御委任の新選組にも速やかに出張し、多人数を打取り候段、巨細御聴に達し候ところ、常々申しつけ方よろしく、一同忠勤を励み候段、比類なき動き神妙に思し召し候。この段申し聞かすべき旨、上意に候事。





 更に閣老に書を送る     阿部正外朝臣の東下するや、その目的は将軍家の上洛にあったにもかかわらず、その後、何らの報告もなく、また随行した家臣たちは、老中の人々から謁見の許しもない。今日の場合、猶予してはいられないので、この月十九日、幕府の監察小出五郎左衛門に、柴太一郎と桑名藩の森弥一左衛門を付して、大阪から海路江戸に下らせ、左のような書面を関東の閣老たちに送った。

一書拝啓仕り候。日を追って秋涼を相催し候ところ、天朝にはますます御安全、御地に於ても上々様いよいよ御機嫌よく御座あそばされ、恐悦至極に存じ奉り候。次に、各様もいよいよ御安健に御勤めなさるべく、恐賀し奉り候。
然して、長州御征伐を諸藩へ仰せつけられ、引続き御進発あそばされ候旨仰せ出だされ、一統勇踊、奮興罷りあり、じつに千載に一時も再得すべからざるの好機会に御座候間、なにとぞ一刻も早々御進発あそばされ候よう仰望奉り候。
万一御遅延に相成り候ようにては、討手の諸藩に於ても、自然気勢相弛み、顧慮、傍勧の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速を貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に御進発御座候よう存じ奉り候。
さて、本月五日より夷人ども長州へ砲戦【注六】に及び候由、よっては、長州の御処置ぶり議論もいろいろに御座候ところ、いずれも夷人どもに是非とも戦相止め候て、急に引取り候よう説得仰せつけられて然るべき筋と、一橋殿はじめ評議相決し、すでに朝廷に於ても、もっともと御聞きずみにも相成り、肥、薩、土州、久留米等の外藩の向きよりも打ち置かず説得し、急に引取り候よう幕府に於て御処置これなく候わでは、議論紛々と相生じ申すべしとの建言もこれあり、すぐさま引取り候よう、一橋殿より御指図これあって然るべき義と存じ奉り候えども、元来、横浜出帆の砌(みぎり)、御応接の次第も相分らず、前後不都合の応接に成りゆき候ては、外国に対し候ことにもこれあり、御取戻しも相成り難く、少少手遅れに相成り候とも、その御表より速やかに引取り候よう、使節遣わされ候よう致したく、委細の儀は、一橋殿より小出五郎左衛門を差し遣わされ候えども、なおまた家来へ申し含め差し下し候間、当地の事情御尋ね御座候よう存じ奉り候。(八月十九日)






 幕府雍蔽の極     柴太一郎が東下の後、書をその同役に送って、関係ある事情を報じてきたが、当時の形勢を知るに役立つ。その書面は、

着後、御模様を御伺い候ところ、御地とは一体に気候違い居り、とかく因循、沙汰の限りにて、第一、御進発それぞれ御手配これある御様子には御座候えども、未だ御発途の御日限なども定まらず、急には御むずかしき勢いに御座候。来月中旬、御旗本の行軍御上覧仰せ出だされ候。
右御覧後の事に候えば、来月末か十月始めに相成るべくとも申し候。またこの度は、前広(ママ)御日限等は仰せ出でられず、臨時御進発と申すに相成り候儀にて、右の行軍御上覧には、御含みもこれあるようとの風評も御座候。いずれ急には御運びには相成らざる形勢に御座候。


一 御総督の儀、老公(慶勝公)より御詫び仰せ上げられ候。その趣意は、総督儀は至極重任に候ところ、不肖儀、殊に所労にて不行届の儀、関ヶ原、大阪、神君の御親政の例をもって御進発あそばされ候わば、たとえ病中ながらも押して出陣し、幕下につき尽力仕るべく候間、総督の名義は御免下され候よう仰せ立てられ候由。
右について、彦三郎(尾張藩士、水野彦三郎)出府致し候。しかるに、是非是非御請なされ候ようとの事にても御許容これなき趣にて、彦三郎帰国致し申し候。よって好機会ゆえ、一橋公に潜らせられ候ようと、しきりに周旋致し候えども、御同公、ここもとにて存外御疑い【注七】おられ候振合いにて、中々御冰解に至りかね、遺憾の事共に御座候。

一 長州襲来の外夷御説得の義は、御趣意通りに御処置に相成り候由に御座候間、御安堵下されたく候。さて、この度出府仕り見候ところ、大雍蔽(ようへい)の極に相成りおり、御役人御逢いこれなく、着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて、未だ閣老方へ拝謁も仕らず候。左兵衛(わが藩士野村直臣)先生なども、同様未だ拝謁これなく、阿部様へ両度御親類(わが松平家の三世正容公の室は阿部正武朝臣の息女である。また、わが五世容頌公の室は阿部正允朝臣の息女である)の訳をもって、御内々に拝謁致され候由、小生共を差し下され候せんもこれなく候ゆえ、左兵衛先生はじめ、森、小寺(ともに桑名藩士。森弥左衛門、小寺新五左衛門)など一同に、閣老へ罷り出で、迫って拝謁相願い候ても、委細は小出または監察より聞き届け候儀に候とて、御逢いこれなく、遂には激論に及び候えども、御用多または御所労とて、いつもむなしく帰り候次第。止むをえず公用人に御模様を相伺い候ところ、これまた近頃はなにも御洩らしこれなく、一切存ぜず候由にて、ひそかに伺い候ところ、近年言路御洞開の蔽、近頃はみだりに相成り、御威光にも相響き、折角の御治定に相成り候ことも、入説より相変じ、かえって御都合に相成らざる故、藩士等へも御逢いこれなく、且つ廟堂の儀は一切洩らさざるようとの御趣意にて、御役人御申し合せの上、じつは御逢いこれなき由、御目付様などへ相願い候ても、御伺いの上ならでは、御面会これなきの振合いに候。みだりに御逢いこれなきは、至極御尤もに御座候えども、事柄により、人により、この度の御使などは御事柄余事とは違い、野村先生はじめ御逢いこれなきと申すは、論を得ず、言語同断の儀にて、なんとも憤怒に堪えざる仕合せ、種々手をつくし、右の雍蔽(ようへい)より破却仕らず候わでは、余事の周旋も致し方これなき次第にて、日々桑藩はじめ打寄り、まことに枝葉のことにて空しく日を送り居り、なんとも嘆息の至り、是非に及ばざる儀を御推察下さるべく候。
この度、阿部候、小出様御登りに相成り候ところ、御用ぶりすら相伺い候こと相成らざる仕合せ、御局中(わが藩公用局)御人少のところ、ただ空しく滞留致し居るも恐れ入り候間、御同船相願い、帰京仕るべくと存じ候えども、右の通りにて、なにぶん報命仕り候ようもこれなく候間、もすこし滞留、御進発の日限にても相分り次第、帰京仕り候つもりに御座候。

一 広沢事も、小生着以前、親対面として帰国、一両日中には出府と考えられ候。

一 その後、御地の御模様はいかが御座候や、さぞ御心配どもと遠察罷りあり候。かように御処置、御因循相成り候ては、せっかく諸藩憤発仕り候ところも瓦解仕るべくと、懸念罷りあり候。なお、この上諸君の御尽力、国家のために願い奉り候。(八月二十八日)


別啓 今日御城へまかり出で、御勘定奉行小栗上野介様へ御逢い申し、御進発の儀相伺い候ところ、御同人様には、一々御同論の御様子にて仰せられ候は、自分なども、是非この度は急に御進発に相成らず候わでは第一御職掌も立たせられざる儀にて、かように御遅緩相成りおり、もし瓦解仕り候えば、とても御挽回の道はこれあるまじき義、かれこれ存じよりも申し上げ候えども、近頃、自分共にも閣老衆は容易に御逢いこれなきことに相成り、もっとも筋ちがいの儀として、御採用これなき次第に候。
右、御進発急に御運び相成りかね候には、きっと伝伝これある事にて、阿部公なども、大いに御尽力もこれあり候御様子に御座候えども、ここもとにては、とても成され方これなき故、御上京の上、御名様(わが公を指す)はじめ、仰せ談ぜられ、御一策あそばされ候御積りにての御上京と察せられ候旨仰せ候につき、右御差支えの次第はいかようの御事にやと押して相伺い候えども、じつに自分の愚察に候えば、委詳は存せずとて、決して仰せ聞けられず、小出様に相伺い候御咄のうち、同様、御進発は急に御運びに相成りかね候には、大いに次第これあることにて、何程ここもとにて尽力仕り候ても、右の病は去りかね申し候。その次第、只今申し聞かせ候ても栓なき儀、もっとも申し聞かせかね候由に候とて、御口外これなく、委細は京師にて相談すべしとの事に御座候(中略)。御両人の御口気を卜し候に、なにやら閣老中御異論の御方にてもこれあるよう察せられ申し候。
右の通り、大小御目付衆などへも容易にこれなき様子にて、だいぶ御不平の御方もこれあり、随分沸騰致し居り候ことにおぼえ申し候。右の次第どもにて、阿部様、小出様にも、ここもとにて他の都合もこれあり、御逢いこれなく候とも、その地にては御子細もこれあるまじく候間、委詳は御同人より御聞取り下さるべく候。(八月二十八日夜)


 



 毛利父子の官位を剥奪     八月二十四日、幕府は、勅命によって毛利慶親卿父子の官位を褫(うば)い【注八】、同時に、松平の称号と将軍家慶の諱(いみな)である慶の一次を褫(うば)った。

松平大膳大夫家来共、禁闕に迫り、発砲し候条、天朝を恐れざる次第、特に父子の軍令状を家来へ遣わし候始末、重々不届の至りにつき、父子とも官位並びに御一字の御称号、召し放され候旨仰せ出だされ候。この段心得のため、向々へ達せらるべく候。
その後、慶親はみずから敬親と称した。






 勅命も上洛を促す     三十日、朝廷では、さらに左の勅を下して、将軍家の上洛をうながした。

長防追討仰せ出だされ候につき、大樹にも進発これあるべき旨、至当の儀に思し召され、日を逐って支度これあり、いよいよ進発とは思し召され候えども、自然因循に及び候ては、人心にも差し障り候間、早々上坂これあるようにあそばされたく仰せ出され候事。

 この日、池田筑後守等が欧州から帰航し、通商拒絶の議【注九】が遂に就(な)らなかったことを復命した。幕府は、彼が使命を果さなかったことを責めて、職を褫った。
 この頃(八月五日)、英仏両国の軍艦が馬関を砲撃【注十】して、去年の復讐をした。長門藩は応戦してみたが、手もなく敗北し、遂に辟易して和を講じた。






 幕府役人の暗愚     九月朔日、幕府は元和大阪征討の例【注十一】にならって、将軍みずから師を率いて長州を征伐するに当り、この日、令を下して、文久二年以前の制【注十二】に復し、諸侯は各隔年に江戸に参覲し、かつ家眷をふたたび江戸邸において、人質にしようとした。しかし、朝廷からその許可がなく、そのことは遂に実行にいたらなかった。
 この時代において、参覲、人質等の制度を復旧することが不可能なことは、上国の実状に通じているものならば、誰が知らぬ者があろう。しかるに、関東の有司輩は、一時の過激党の失敗を誤認し、暴威が旧に復したものとおもいなし、行うべくもない法令を分布しようとするに至ったものである。





 【注】

【一 十五ドエム砲】 ドエム(duim)はオランダの長さの単位。センチメートルの旧称。十五ドエム砲とは口径十五センチメートルの大砲のこと。

【二 車駕遷御の私議】 放火のはげしかった時には、宮中では、下賀茂遷幸の議がおこり、板興を常御殿東階下に準備したが、実行なくすんだ。

【三 六角の獄舎において…】 戦闘のため生じた火災は、市中広範囲におよび、火は六角獄にせまろうとした。獄吏は、囚人がこの機に生じ破牢を企てていると称し、三十三人を殺した。この挙は、上司の指令を持たず、獄吏が独断で実施したものと思われる。この遭厄志士の中には、大和天誅組の変(一巻二一〇頁注二を見よ)、但馬生野の変(一巻二二九頁注一を見よ)の関係者が多数をしめていた。

【四 父子黒印の軍令状】 六月二十四日毛利慶親父子が国司信濃にあたえた、黒印をおした軍令状のことで、内容は本書六七頁に掲載されている。これは禁門の変の時、中立売門の辺で薩州藩の手に押収され、長州藩主父子がみずから京都攻撃を指揮したとの証拠とされた。

【五 神器】 古来天皇の皇位のしるしとされた八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種の宝物。鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮に祀られてからは、曲玉と模造の鏡・剣とを宮中においた。

【六 夷人ども長州へ砲戦】 四国連合艦隊が長州藩に砲撃を加えた事件。本書七七頁注四および本章注一〇を見よ。

【七 御疑い…】 一橋慶喜は、つとに将軍に二心をいだいているのではないかと老中から疑われていた。慶喜が在京幕吏を代表して、将軍は征長に進発すべしと主張したのにたいし、江戸の老中は、将軍進発を呼号すれば、実行しなくても、長州藩は屈服するであろうと見、実施を引きのばしていた。

【八 慶親卿父子の官位を褫い】 大名の官位任叙の権は幕府がもち、幕府の推挙によって行なわれることは、元和元年制定された禁中公家並公家諸法度できめられていた。
松平氏は本来家門(三家以外の徳川の分家)をして称さしめたが、外様にたいしても、恩恵として松平の姓をあたえた。
長州藩の毛利氏もその恩恵をうけた。将軍の諱の一字をあたえることも、大名統制策であり、毛利慶親の「慶」は将軍家慶の一字拝領を許されたものである。

【九 通商拒絶の儀…】 横浜鎖港談判のため渡欧した幕府使節池田筑後守(長発)の一行は、元治元年三月フランスに到着したが、すでに仏国政府は英・米・蘭政府と連絡し、日本の要求を拒絶する方針をきめていた。したがって鎖港の交渉は不可能であり、池田もあきらめて、五月パリー約定に調印した。パリー約定の内容は、下関海峡で砲撃された仏軍艦への賠償支払、下関海峡の解放、日仏間の貿易拡大のための関税改正というものであり、鎖国の目的とは正反対の結果となった。池田は七月十七日帰国し、海外の形勢を説き、攘夷の不可を主張した意見書を提出したが、幕府は幕令に反したという理由で、七月二十三日、筑後守の禄六百石をとりあげ、隠居・蟄居を命じ、副使河津祐邦にも小普請入・ 逼塞を命じ、かつ翌日、国内の紛乱をおこすおそれありとの理由で、パリー約定を廃棄した。本書は池田の復命の日を八月三十日としているが、これは誤りである。

【十 英仏両国軍艦が馬関を砲撃…】 英・仏・米・蘭四国連合艦隊十六隻と長州藩との交戦は八月五・六日に行なわれ、彼我の武器の差から、長州沿岸防備の砲台はほとんど破壊占拠された。そこで長州藩は講和に決し、高杉晋作を講和使節にし、井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)をしてこれを助けさせ、この交渉の結果、十四日、キューバ提督の要求をいれた講和条約が成立した。その内容は、下関海峡通航の外国船の優遇、償金の支払であったが、講和成立後、長州藩と四国、とくにイギリスとの友好関係が急速に開かれることとなった。長州藩尊攘派は、実戦の経験によって、攘夷の無謀をさとるとともに、幕府に対抗する軍備を整えるため、積極的に外国との交易を開く必要を感じたからである。

【十一 元和大阪追討の例】 元和元年(一六一五年)、豊臣氏を滅した大阪夏の陣。

【十二 文久二年以前の制】 文久二年潤八月、幕府は参勤交代制および諸大名妻子在府制度を改正したが(上巻二〇頁注一〇を見よ)、元治元年九月一日、この両制度をもとにもどすと発令した。しかし諸大名は、種々口実を設けて守らず、実行されなかった。
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  1. 2012/11/16(金) 16:34:39|
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