いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十八  主上わが公の平癒を祈らせ賜う     『京都守護職始末2』

 洗米を下賜さる     わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた。
 九月二日、殿下は家臣神保利孝を召し、「主上には容保の病気に甚だ叡慮をかけさせられ、天下多事の今日、一日も早く全快するよう望ませられている。よって、ごく内々にて煎薬、菓子を賜わる」とのことであった。
 こえて六日、殿下はまた家臣を召し、「主上は内侍所に出御あって、容保の疾病平癒を祈らせ賜い、その洗米【注一】を下賜された。但し、このことはごく内々にすべし」とのことであった。けだし、このようなことは摂簶槐門【注二】においてすら、古来稀有の優恩である。いわんや武門においておや。真に千古未曽有の恩遇である。
 五日、聖上は、わが公の七月十九日の戦功を叡感あり、左の勅賞を垂れ、御剣一口(赤銅の鳩の丸、金の桐の御紋、鞘は梨子地、鍔には金の御紋を散らしてある)を賜うた。

このたび長藩の士暴挙に及び候ところ、速やかに出張、凶徒を追い退け候段、叡感斜めならず候。これによって、御剣一腰(ひとふり)これを賜い候。

 別紙
たびたび宿衛、家来どもにも大儀に思し食(め)され候事

 



 関東の情況     わが江戸在住の重臣が、同役に書を送って、関東の情況を報じてきた。

当九日、御逢いに相成り趣につき、私(野村直臣)ならびに富次郎(広沢安任)、才一(柏崎才一、留守居)、桑名様にて小寺、秋山罷り出で候ところ、伯耆守様(宗秀朝臣)、和泉守様【注三】(忠精朝臣)御逢いに相成り候につき、委細これまで申し上げ候御進発の儀をはじめ段々申し上げ候ところ、御尤もと仰せ聞かせられ候えども、御心に入り候御様子にこれなく、御式一通りの御逢いと存ぜられ候。
その節、仰せ聞かされ候には、二百年来泰平打ち続き、武備弛緩し候ゆえ、簡易の御取調べにても何分敢取を果たさず、しかし、軍装御上覧(これよりさき、幕府は旗下の士の軍装上覧を令した)にも相成り候順序に相運び候事ゆえ、御進発の期限は申し聞かせ難く候えども、面々心に占い候わば、大方相分り申すべき旨仰せ聞かされ候については、近寄り候儀と存ぜられ候。
尾州前様〔徳川慶勝〕、御総督の儀御請に相成らざる趣につき、一橋様御相当の儀を申し上げ候えば、御選挙筋私どもより申し上げ候儀御腹立の御様子に御座候ところ、御名様(わが公を指す)より仰せ聞かされ候儀機密といえども、これまで申し上げ来たり候次第を申し上げ候えば、御落意に相成り、なお御評議もこれあるべき旨仰せ聞かさる。但し、尾州前御病気の御模様により、京師までは御出張遊ばさるべき趣、委細は久太郎(小森久太郎)京師へ申し上げ候わずの旨(以上は野村直臣の口上)、左兵衛(直臣)申し出で、御老中様より御名様への御書御渡しに相成り候由にて差し出し候。
さてまた、「一昨十一日、大御目付衆より御呼び出しにつき罷り出で候ところ、京都御守護職重き御用向につき、早打ちにて罷り下り候者の中には、公用人調役体(てい)の者罷り下り候やに相聞え、その上、御役宅に罷り出で相伺い、甚だ宜しからず。以来は公用人に限り申すべし。右御用振により御逢い等願い候節は、御役宅へ罷り出でず、西丸へ罷り出で、御逢い願い候わば早速御逢い成されるはず、土井出羽守様、京極越前守様【注四】御出座にて御口達これあり。このほど御老中方、野村左兵衛をはじめ御逢いこれあり候ところ、左兵衛儀、日数相立ち候まで御逢いこれなく、何か不快に存じ候ようにては宜しからず、じつに御用多く、やむをえず延引に相成り候儀に候間、悪しからず存じ候よう申し聞かすべき旨をも仰せ聞かされ候」(以上は荒川登の口上)旨、荒川登(わが江戸留守居)申し出で候。
右については、右兵衛儀「この上は逗留罷りあり候とて、ほかに周旋方の見込み御座なく候間、右の御書持参して罷り登り、これまでの順序委細に申し上げ候方しかるべきや」(以上は野村直臣の口上)の旨、演説申し出で候ところ、「御上坂御促しの儀については、在京の諸藩よりも罷り下り、周旋致し候やにも相聞え候ところ、御家にて残らず帰京致し候形相、相聞え候わば、右罷り下り居り候者の気込みもいかがこれあるや。いずれ御出馬の御模様相済まざるうち、残らず相登り候儀は然るまじく候間、御自分ならびに才一儀は相残り、一同精力致し、秀次、富次郎儀、右の御書持参し、早々に出で起(た)ち罷り登り、これまでの手続き委細申し上げ候よう」(以上はわが重臣の口上)申し聞け候。
(九月十二日)






 わが公の憂い     十四日、幕府は特に守護職在勤中、毎月金一万両、米二千俵を賜い、費用に充(あ)てしめた。
 いったい、将軍家が進発するか否かは、幕府の死活に関するところであるのに、老中の人々はこれを察せず、遷延日月を送り、わが家臣の東下した者に謁見を許すことさえ容易でない。これは畢竟、彼らが上国の形勢にうとく、征長進発のことを重大視せず、座しているのみであるからである。わが公は深くこれを憂え、九月十七日、書を直に将軍家に奉り、その進発をうながした。その書にいわく、

伏して啓上奉り候。秋冷いよいよ増し候ところ、ますます御機嫌よくあそばされ候御儀拝承仕り、恐悦至極、敬賀し奉り候。
然らば、過日、長藩人恐れ多くも禁闕を憚からず発砲仕り、不届き至極、言語に絶し候儀に候ところ、早速諸藩へ追討仰せつけられ、引き続き御進発あそばさるべく旨仰せ出だされ候につき、天朝においても御頼もしく思し召され候よう伺い奉り、一統にも有難く存じ奉り、勇躍奮起罷りあり、中輿の御大業立てなさるべきと、大早の雨、久霖(ながあめ)の晴を祈る思いを成し、じつに千載の一時失うべからざるの好機会と御進発を仰ぎ望み奉りおり候ところ、今もって御日限も仰せ出でられず、天朝においても甚だ御案思あそばされ候ように伺い奉り、一統にも疑惑致し、気勢弛み、惰気生じ候ように見聞し仕り候。
昔、唐国の楚の荘王【注五】は、荊楚一国の重にてすら、自国の使者が敵国にて殺され候旨聞くや否や、投袂して素足、丸こし(丸こしとは無刀のことを言う)にてただ一人駆け出し、剣、履、車等は跡より漸く追いつき参り候くらいに急速に進発致し候て、攻め囲み候ゆえ、難なく敵を討ち平らげ、服従致し候。まして、堂々たる神州征夷の御職掌にあらせられ、余多(あまた)の大小名が羽翼を推戴し候儀にて、楚荘とは格別の御儀に御座候。仰ぎ願わくば神祖の沐雨櫛風、万死一生、嶮岨艱難、あくまで嘗めさせられ候御事、深く厚く御想像あそばされ、創業開基の思し召しあらせられ、御一己様御方寸より勇断憤発あそばされ候わば、靡(な)びき従わざる従者は一人もこれあるまじく存じ奉り候。はたまた、御一己様へ御不敬仕り候儀とも違い、禁闕へ発砲致し候ほどの者を御征伐のための御進発御遅緩に相成り候ては、天朝御尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して翼戴奉り、勇躍奮起仕り候諸藩も追々瓦解致すべく、中輿の御大業いかがあらせらるべきかと杞憂仕り罷りあり候。
当節柄、自余のことはしばらく差しおかれ、ただただ一刻も早く御進発あそばされ、上は叡慮を安んじ奉り、下は一統の望みに叶いなされ、速やかに御退治、中興の御大業を立てなされ候よう仕りたく、不肖を顧みず、忌諱を憚からず、寸忠、言を包まず言上仕り候。何とぞ深く御諒察成し下され候よう、万々願い上げ奉り候。恐惶再拝謹白。


再び白(もう)し奉り候。次第に秋冷相増し候ところ、皇国のため厚く御自愛あそばされ下され候よう願い奉り候。私儀、春来の長病、今もって平癒仕らず、不動にして曠職罷りあり候身分にて、御進発を促し奉り候も恐縮至極に御座候えども、皇国安危の機会黙止し難く、病中ながら執筆し献芹仕り候螻蟻(ろうぎ)の微忠【注六】、御諒察成し下され候よう伏して懇願奉り候。

三たび白(もう)し奉り候。御進発御遅緩に相成り候につき、促し奉るべきため、肥後、薩摩、久留米、桑名等の諸藩よりそれぞれ家臣出府仕らせ候由にこれあり、私よりも家臣差し下し、御老中まで申しつかわしおき候ところ、情実貫徹致さざる儀と相見え、今もって御日取も仰せ出でられず、病躯にて万事行き届きかね、胸中甚だ切迫仕り候につき、今般は御煩労を掛け奉るをも憚らず、御直(おじき)に献言し奉り候。幾重にも御垂仁、御採納下しおかれたく嘆願し奉り候。

 



 捗らぬ将軍進発     また、江戸にある重臣は、書を京師の重臣に送って関東の形勢を報じた。

一 御進発の儀、追々御延引に相成りおり、今に御比合等も相分らざる振合にて、じつに機会を失せられ候ては御取戻しにも相成らざる儀につき、御主意を奉じ、せいぜい尽力致し候よう、野村左兵衛、石沢民衛(わが江戸留守居)へもくれぐれも申し聞かせおき、昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子もいちじるしく相見えざる段、当惑の事に候。
すでにこの間、久留米藩久徳与十郎、罷り下り候由につき、薩州海江田武治(今の信義)、熊本藩上村彦次郎等申し合わせ、しきりに御果敢行の儀、尽力致し候由のところ、先達てより御家において左兵衛はじめあまり迫り候て申し上げ候儀、閣老方もっとも御嫌いに相成り、御城へ罷り出で、大小監察〔目付〕へ申し上げ候儀も何となくうるさく存ぜられ候様子、追々相分り候由。
右につき、与十郎存じ寄り申すには、尊藩仰せ立てらるるの趣、尤もと御聞き成され候ても、公辺の御事業相運ばず、上より前段の通り御嫌い成され候にてこれあるべく候間、少少手を御引き、御見合わせ成されたく、さ候わば、拙者ども申し合わせ、閣老方へ激さざるよう、天下公論をもって尊藩の御論へ応援致すべく候。是非とも御急ぎあそばされ候よう致したき趣、談ずるこれあり候由につき、その意を任せ、暫次手を引かせおり候儀に候。

一 作二十二日、薩州岩下佐治右衛門(今の方平)早追いにて上京致し候由、右の訳柄(わけがら)は、もと御側御用御取次相勤められ、当時勤仕並大久保越中守〔忠寛〕殿の心付(こころづけ)にて、京都表の島津備後〔薩州藩主島津茂久の弟〕様よりの御口上をもって、御進発御促しの儀、天璋院様【注七】へ申し上げ候わば、御同方様には、かねて御勢いもあらせられ候由につき、京地の事情呑み込みの上御沙汰出で候わば、御果敢行に相成るべしとの策略の由、機密に承り候由に候。

一 松平伊豆守(信古朝臣)様、御留守居閣老方の内へ罷り出で、公用人をもって伺い候には、吉田(信古朝臣の居城)御宿城の取調べにつき、修復罷りあり候ところ、十月末までにこれなく候わでは出来かね候趣に御座候ところ、右にて御差支えは御座あるまじきやの旨申し候えば、公用人相伺い候上、来月末までに御出来に候わば、御気遣いこれあるまじき旨内密に申し候由。右等をもっても、来月中には御六ヵ敷かに察せられ候趣申し出で候。

一 京都織殿へ、御進発御入用の御旗御注文に相成り、未だ出来申さず候由。

一 久留米藩下村貞次郎儀、御目付石野民部殿へ罷り出で、密々相伺い候には、いずれ御進発近々に相成り候由申され候由。右石野殿は、久留米末家の由にて存ぜられ候儀は、腹臓なく相咄され方の由に候。
右条々は左兵衛申し出で候。なお、この先、機会を見合わせ、存分に尽力致し候よう申し聞け候。なおなお、この筋の公辺の御取り計らいぶり、先達て中と違い、諸藩周旋等のために御処置付け候と申す体(てい)にこれなく、すべての機至極密にしおかれ、とみに発せられ候と申す御振合に相成り候ところ、近頃異国より至極堅牢なる軍艦御買入れに相成り【注八】、未だ着船に相成らざる由。右着にも相成り候わば、にわかに海陸に転ぜられ、御出帆などと申す御都合等に万一相成るまじき儀にもこれなくと察せられ候由、左兵衛申し出で候。(九月二十三日)






 武市半平太ら死す     二十二日、幕府はわが公の名代安部摂津守を江戸城に召し、老中が台命を伝えて、左の賞賜があった。

御上洛の筋、御用向格段心配取り扱い候につき、これを下さる。(大和包清作刀一腰)

 山内豊信朝臣は、過激の徒が国家の大計を誤まるのを憂え、土佐藩士中、京地にあって有害無益の暴論を主張するものに帰藩を命じたが、その徒らはなお先非を侮悟せず、跋扈(ばっこ)旧に倍する有様であったので、怒り、この月五日、安岡哲馬ら二十余人を斬り、武市半平太、平井収二郎らを幽閉し、次いでこれを誅した【注九】。





 二条殿下の詰問     十月朔日、老中阿部豊後守正外朝臣が二条殿下に入謁し、摂海防備の未だ整わないことを説いて、暗に通商を拒絶することができないことを諷した。
 すると、殿下は怫然(ふつぜん)として、「外国の船舶が摂海に入った場合、将軍がその職にいられると思うか」と言われた。正外朝臣は黙していた。殿下は重ねて、「さきに征長の勅を発して、将軍の上洛をうながしたけれども、その後、絶えて消息がないではないか。よって、不日さらに勅使を遣わし、上洛をうながすことに決定した」と言われた。正外朝臣は愕然として、「正外、謹んで教命を奉じ、将軍上洛のことは死をもって私が促進致します。どうか勅使東下のことをお取り止め下さい」と述べた。殿下は、ようやく顔色をやわらげられた。
 正外朝臣は、翌日京師を発って、江戸に帰った。

 



 尾張藩士をなじる     さきに、幕府が徳川慶勝卿を征長総督に任ずるや、卿は尾張の城邑にあって、命令を受けても出立しようとしなかった。すでに朝廷は将軍家の上洛を督促するに至っているのに、慶勝卿はなおも発途しようとしない。
 そこで、わが公は九月二十六日、家臣小森久太郎を名古屋につかわし、出発をうながしたところ、ようやく入京してきた。けれども、依然として征西の色はなく、十月七日に及んで、はじめて先鋒諸藩の重臣らを自分の館(知恩院)に招き、宴会を催すという有様であった。
皆はその緩漫さを怒って、ただちに辞去し、さらに肥後藩の上田久兵衛、道家角左衛門、久留米藩の吉村武兵衛、安芸藩の梶川虎蔵らの諸藩士(薩摩、肥後、土佐、久留米、安芸、彦根、宇和島、津、松山、小倉、小田原、忍〔おし〕、桑名)がわが藩士手代木勝任のもとに会合し、尾張藩士を招いて、出征緩漫の事由をなじった。そして、「征長総督の大任を受けて、このように遅緩するようであれば、諸藩はこれにより惰気を生じ、人心解体して、遂に不測の変を生ずるに至るだろう。また戦は機に投ずることが肝要であり、この機をひとたび失えば、幕府の威権はたちまち失墜し、必らず瓦解土崩の乱境に陥るだろう。あなた方はこれをどうされるおつもりか」と言うと、尾張藩士らは陳弁して「兵は国の大事で、万一失錯があれば、ひとり尾張藩のみでなく、ひいては宗家の興廃に関するので、百事完備するのを待って出発しようとしているのだ。さきに数ヵ条のことについて幕府の指示を請うたが、未だその指令がこない。だから遅れているのだ」と言う。
 諸藩士は即座に反駁して、「まず敵境にのぞんで機変を制するのが軍旅の常套である。いたずらに坐して事の完備するのを待つのは、じつに兵を知らないもののなすことである」と言うと、尾張藩士はさすがに折れ、遂に十四日に大阪に行き、諸藩を部署に配置しようと約束して、去った。





 老中どもの愚かさ     これまで、わが公はしばしば家臣を東下させて、将軍進発の猶予すべからざるを老中に説かせてきたが、はかばかしい返事さえなかったのに【注十】、ようやくこの月(十一月)九日になって、老中の人々から左の書をわが公に送ってきた。

毛利大膳父子等の儀は、もとより朝敵御征伐御急務の事につき、御所向へ対せられ候ても片時も御遅緩これあるわけにはこれなくは勿論の儀に候間、速やかに御進発、御征討あそばさるべき思し召しにて、すでに右御用意等もそれぞれ急速に仰せつけられ、御進発の儀については決して御動(おんゆるぎ)はあらせられざることに候えども、尾張前大納言殿はじめ追悼の面々、未だ一戦の含みもこれなく候間、右の面々攻めかかりの注進次第、速やかに御進発あそばさるべき思し召しにて、なお、このたび別紙に申し進め候通り、前大納言殿はじめそれぞれ仰せ出でられ候につき、右注進次第、早速御進発あそばされ候はずに候えども、当節御地の形勢いかがに候や。当地にては、大膳父子御処置ぶり、寛緩の御沙汰も出るべきやとの風聞、諸藩にもこれあり、右等一同甚だ心配致し候。上にも、深く心配あそばされ候儀に御座候。
前書の通り、注進次第速やかに御進発あそばされ候についても、堂上方そのほか御所向面々のうち、なお彼に心を傾け候か。その余にも、かれこれいかがの周旋等致し候ようの輩これあり候ては、一同人気立ち候折から、一層混雑を生じ、御所向御取り締まりは勿論、当節の場合なおさら御一大事にもこれあり、容易ならざる次第に候。以後、諸藩より何様の儀申し出で候とも、関白殿はじめ堂上の面々等一同いよいよ決心し、御所向において御不都合の御処置は決してこれなくと申す儀をしかと御承知あらせられたく、もはや右様の儀もこれあるまじく候えども、もし大膳父子等寛緩の御処置等の説これある次第に至り、右等の勅諚にても万一出で候ようにては、何分御処置も相立ち難く、その辺深く心配致し候間、御自分よりその筋へ仰せ立てられ、右様の儀は決してこれなくと申す儀、御所向よりしかと御書付をもって出で、右を当地へ御差し越し相成り候よう致したく、この段厚く御含み、しかるべく御勘考、御取計らいこれあり候よう存じ奉り候。(十月九日)


 別紙
毛利大膳父子はじめ御征伐の儀は、最も御急務のことにつき、追々尾張大納言殿はじめ追討の面々へ仰せ出でられ候次第もこれあり、もはや御手順も相整い候えども、右は面々未だ攻めかかりの注進これなく候につき、なおこのたび別紙の通り前大納言へ仰せ出でられ、攻めかかりの注進次第、速やかに御進発あそばさるべき思し召しに候間、右の御心得にて伝奏衆へもしかるべく御達しおかれ候ようにと存じ候。(十月九日)

なおもって、前大納言殿へ仰せ出でられ候儀は、今更、美濃守(老中稲葉長門守、のち美濃守正邦朝臣)へ申し越され、同人御使を相勤め候はずに候。かつ前文の趣、一橋殿へも申し上げおかれ候ようにと存じ候。

 尾張前大納言殿へ
毛利大膳父子はじめ御征伐の儀は、かねて仰せ出でられ候通り御急務のことにつき、御遅延相成り候ては、御所へ対せられ仰せられる訳もこれなく、すでに御進発御用意等ももはや相整いおり、即今御発途あそばさるべき思し召しに候えども、一戦の御左右もこれなく候に、御軽率に御進発はあそばされ難き思し召しにつき、右の御注進をなされ待ち候御儀に候間、急速に御出張、討手の面々へ御指揮あられ、攻めかかりの次第迅速に仰せ下され候様との上意に候。

 右の書によれば、関東の閣老等は、関ヵ原の役に東照公〔徳川家康の法号〕がたやすく出発されなかった故事を学んだもののようであるが、それと今とは場合が異なるのに、その轍(わだち)を踏もうとして、遷延時期を失ったのは笑止のきわみと言うべきである。また、長州を寛大に処置すべからざる旨の書付を、朝廷より下賜せられることをわが公に委託するがごときは、上国の形勢を知らず、迂愚をつくしたものと言うべきである。





 三条らの処置問題     十二日、征長総督徳川慶勝卿、副将松平越前守茂昭朝臣が入朝して、階辞した。朝廷は剣馬を賜わり、これを節刀【注十一】になぞらえた。次いで、二将は大阪へ行った。わが公は家臣小野権之丞ら四人を派遣し、征長諸藩の労をねぎらった。
 この時にあたり、過激派の堂上はことごとく要路を去ったので、今は朝議をひるがえす憂いはなくなったようであるけれども、大炊御門家信をはじめ三条、毛利に荷担する人々は堂上に少なくなく、時勢の非なるを見て、彼らは一時的に雌伏(しふく)しているが、また何らかの陰謀をはたらくかもわからない。長州征討に際して、まず三条以下の人々の処置が一歩でも誤ったならば、過激派の人々はこれを口実として、何らかの事を企てるかもわからない。
 この日、幕府は閣老稲葉正邦朝臣を参内せしめて、三条以下の処置に関して朝廷の令旨を賜わりたいと請わしめた。朝廷は、彼らは今は庶人であるから一切関与するところではない。との令旨であった。





 聖上短刀を賜うた     十六日、伝奏衆飛鳥井雅典卿より、わが公に左の勅を下した。

凝華洞に於ける御警衛詰、今しばらく勤仕これあるよう先達て仰せ出だされ候ところ、日を追い向寒の頃ひとしお苦労と思し召され候えども、征長相済み候までは、同所に於いて守護これあるべく、更に御沙汰候事。

 二十五日、聖上は更にわが公の勤労を叡感あり、左の勅を下し、御短刀一口(兼恒作、金具模様、蒔絵等、下絵は檜腹内匠少允平在照、金具造りは後藤勘兵衛光文、蒔絵は永田習水斎)を賜うた。

国家のため、じつに励忠、出格の廉(かど)、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事。





 再び将軍に発途を促す     わが公が、しばしば将軍御進発の建議をしたにもかかわらず、幕府老中の人々の、征討戦争の始まるのを待って関東を発信しようという考えの愚なることは、今さら論ずる必要はないが、しかし中川宮殿下をはじめ皆は、将軍家が進発して早く征長問題を処分することを希望していた。
 この頃、中川宮はわが家臣小森一貫を召して申されるには、「将軍進発の勅命が再三に及んでいるのに、未だ発途の様子もない。もはや朝廷においては、専命の勅使を発するほかはないということに朝議はほとんど決定した」とのことである。一貫は帰って、このことをわが公に報じた。
 わが公はそこで、久太郎を東下させ、次の親書を将軍家に奉った。

一礼謹みて申し上げ奉り候。このたびの征長御進発の儀、かねて御所にて深く御案じあそばされ候につき、阿部豊後守(正外朝臣)へ御深切に仰せらるる含みも御座候ところ、これまた勤めずの由相聞え、いよいよ御案じを増し、勅使差し立て相成り候ほかこれなくとの御評議に御座候趣、伺い奉り候。
然(しか)はもとより上様の思し召しより出で候えば、御威光も相立ち候儀に候ところ、勅使の御促しを御請けあそばされ候ようにては、せっかくの思し召しも相立たず候ゆえ、右を御控え下され候よう一橋殿ならびに所司代一同、かたく相願いおき候場合に差し迫り、追討の諸藩は勿論、一統手を合わせて御進発を仰望仕り候気向(きむき)に御座候間、なにとぞ御英断をもって急に御発ちあそばされ候よう仕りたく、伏して懇願奉り候。
(十月二十九日)


一筆拝呈仕り候。日を追い寒冷相募り候ところ、公方様にはますます御機嫌よく御座あそばさるべく珍重に存じ奉り候。各方にもいよいよ御精勤に御座候わん、賀し奉り候。
追々御進発も、その御地御都合もあらせられ候わんなれども、当表の風評区々に相成り、最先達て奏聞致し候御申し遣わしの儀もこれあり、ほどよく申し上げおき候えども、御所にてはいよいよ御案じあそばされ候が、豊後守殿御勤めずの由相聞え、畢竟、過日御深切に仰せ含められ候廉々(かどかど)相立たざる儀とますます御案じを増し、勅使差し下し候ほかこれあるまじくとの御評議に御座候由、相伺い候。しかしながら、それにては、御威光も相立ち難きにつき、御控えに相成り候よう強いて相願いおき、まずまず勅使のところは相止めおり候えども、この上御延引に相成り候ては、勅使いよいよ差し下され候勢に相見え候。拙夫においても毎々申し上げ、この上申し上げ方もこれなく、しかしながら、勅使さし止められ候力もこれなく候間、なにとぞ御精精のほど願い奉り候。別封(将軍への上書をいう)、右の趣意にて申し上げ候間、御前へ御差し上げ下され候よう願い奉り候。(十月二十九日)
 
なおなお、時下せっかく御自愛なさるべく、国家のため願い奉り候。当今時情の儀、紙上に尽くし難きことども、公用人態(わざ)と差し下し候間、御繁用の御中御聴き下さるべく候。


 十一月四日、朝廷は十五万俵増献のことを嘉納した。





 長藩三家老の首級を差し出す     この月十八、征長総督徳川慶勝卿は、広島より使を上(たてまつ)り、長門藩謝罪のことを上奏した。

毛利大膳家来志道安房儀、当月十三日、芸州二十日市と申すところまで罷り出で、申し達し候は、当七月、京都において暴動に及び候罪魁、益田右衛門介、福原越後、国司信濃三人の首級持参仕り、実検に備えたく、よろしく指図これあるよう仕りたき旨、松平安芸守家来まで申し立て候。
右は右衛門介等存命に候わば、生活のまま差し出さるべき筋合のところ、安芸守をもって先達て申し聞け候趣、未だ相達せざるうちに斬首し差し出し候につき、右首級、広島国泰寺へ護送の上、同寺へ差し置き、護衛仕らせおき、臣慶勝儀、一作十六日広島表へ到着仕り候につき、今日、右衛門介始め首級実検仕り候ところ、相違御座なく候。且つ、暴動に及び候みぎり、参謀大膳家来宍戸左馬介、佐久間左兵衛、竹内庄兵衛、中村九郎儀国もとにおいて斬首申しつけ、ならびに久坂義助、寺島忠三郎、来島又兵衛儀、暴挙の筋京師において相果て候旨安房申し立て候。それについては、右衛門介始め三人の首級実検ずみの上、吉川監物へ差し遣わし【注十二】申し候。
右等の趣、幕府へ申し達し候につき、これにより言上し奉り候。誠恐敬白。






 天狗党討伐     これよりさき、水戸藩重臣武田正生〔耕雲斎〕らは、攘夷の先鋒と唱えて浮浪の徒を嘯集し、常州、野州の間を横行【注十三】していた。
 幕府は若年寄田沼玄蕃頭意尊を総将とし、隣邦諸藩に命じてこれを討伐させた。正生等は支えきれず、残兵を率いて亡命し、慶喜卿に嘆訴することがあると声言し、中山道より越前に入った。沿道の諸藩はこれを防止できない。そこで、急を慶喜卿に報じた。慶喜卿はみずから出陣して、これを蕩平しようと奏請した。
 この日(十一月十八日)、伝奏衆は勅を伝え、討伐にわが藩兵を随伴させることになった。

このたび常野脱走の徒鎮撫のため、一橋中納言出張に相成り候間、その藩、人数を差し添うべし、尤も、京都守護職にこれあり候間、必ず多人数には及ぶまじく候。

 そこでわが公は、隊長生駒直道、大砲奉行林安道(権助)、軍監井深重義等に、その部下を率いて従わしめた。



 複雑な関東内部の思惑と動向     この頃、東下させていた家臣小森一貫(久太郎)より、関東の情報をその同役に送ってきた。

なおなお、円覚院(上野東叡山の塔中〔たっちゅう〕)より承り候には、固く口留めの誓紙を差し出し候ことゆえ、御心得下されたく、中将様(わが公)へも申し上げくれまじき旨。

御道中いよいよ御障りなく御上着なされ候わん、賀し奉り候。しからば、豊田少進(上野宮の侍なるべし)のこと委細承り候ところ、今暁出立致し候由、別紙の通り申し越し候。
昨日、円覚院より承り候ところ、御門主様【注十四】(上野宮を言う)には御上京の御沙汰はまずこれなく、併せて京師の模様次第には何とも申し難き候趣申し候。右少進御差し登せの儀は、もともと政府と御懇談の上、去年二十五日御門主様御登城、御書付御老中様へ御渡しなされ、それより当月六日、伯州公(老中松平宗秀朝臣)上使として上野へ御出でに相成り、少進御登させのことに相成り候由。
右の御主意は、諸藩にてこの筋は疲弊甚だしく、この上御追討等仰せつけられ候ては、ますます難渋に行き迫り候次第、殊には関東にても両度御上洛、諸方、海防の御手当等御散財のみ打ち続き、この上御進発あそばされ候ようにては、御取賄(おんとりまかない)つきかね候仕合せゆえ、御進発御延引朝廷より仰せ出でられ候よう、尤も長州へは御門主様より御説得これあり、これまでの罪状、赦願致し候ようなされたく、さ候えば万民塗炭の苦を免かれ候こと、且つ長州も大国のことに候えば、なかなか早速の御追討にも相成るまじく、この筋御進発になられ、外国も間近に碇泊致しおり候ことなれば、その虚を伺い、いかようのことを仕出で候やも計り難く、且つ長州のこと、これまでも御堪忍なされおき候ことゆえ、ここにて御堪忍袋を御切りなされ候ては、これまでの御仁恵もこれなく相成り候ゆえ、是非是非寛仁の御処置あそばされ候よう、御門主御嘆願の由に御座候。
その余、細々の儀もこれある様子に候えども、まず大意は右の趣に御座候。昨日までは少進の出起相分りかね候につき、今日、間合せつかわし候ところ、出立し候趣、別紙(この別紙は伝わっていない)の通り申し越し候間、明朝、高松氏(阿部の家臣)出起し、早(早追のこと)にて登り候由にて、この事のみ申し上げ候。(十一月十二日、野村直臣宛)


豊田少進の上京の趣は、委細高松佐吉登り候筋、野村氏へ書状をもって申し上げ候間、御承知下され候はずに候。高松の出起につき、十二日暮ごろ参りくれ候につき、右の一件相咄し候ところ、一向に存ぜざる趣申し候につき、なお豊後様(白川藩、阿部豊後守正外朝臣、老中)に有無相伺いくれ候ように相頼み候ところ、早速相伺い、右の次第、実事においては、手紙をもって早速申しつかわし候はず、もし虚説に候わば、申しつかわさざるはずに相約し候ところ、なにごとも申しつかわさずに出起致し候。よって、豊後守様にも御承知の由、仰せられ候事と相見え候。
右をもって相考え候えば、やはり豊後様も一つ穴の狐にはこれあるまじき、甚だ不審なることに存ぜられ候。しかし、少進上京の上いかようのことを申し候や、小子より申し上げ候次第に候わば、いよいよ不審このことと存じ奉り候。右の筋は、高松はじめ御家臣共、同藩同様の心得にて、なにごとも打ちあかし候は御見合わせなされたきことに御座候。かようの筋には、御家へ間者につけおかれ候も計りがたく候間(中略)、御用心専一と存じ奉り候。二条様、宮様、徳大寺様辺へも、しかるべく御都合なされおき候よう愚考仕り候。且つ不審の廉(かど)、もっとも一事に御座候。石の上にも三年と申すことを豊州様が申され候趣に御座候ところ、さほどの事に候えば、営中にて皆々存じおり、坊主共もことごとく存じ居り候ものに御座候ところ、一向に存ぜざる由に御座候間、これらのところはなお探索の上、あとより申し上ぐべく候。
且つまた、尾州様よりきびしく御進発御促し、豊州公の御策略も段々愚考仕り候には、右等をもって御追討を引延しおき、御門主様の御嘆願をもって寛大の御処置などの御注文にはあるまじきや、よっては尾州様より御促しは宜しかるべく候えども、御促しは御促し、御取詰は御取詰と申すようにありたきことに御座候。いずれにても、同時の形勢にては、日々に御進発の気候は薄く相成るように伺われ候。
酒井侯(老中酒井雅楽頭忠績朝臣)、泉州侯(老中水野和泉守忠精朝臣)、豊州侯も、小子へ御逢いなされ候事と申すことに相成りおれど、今にいずれ様よりも御日取りは申し参らず候。小子が持参仕り候御直書の御模様は、右の次第にて、一向に相分り申さず候間、なお追々申し上げ候。くれぐれも白川藩の御用心は肝要の御事と存じ奉り候。まったく懐中の虫にこれあるべくと存ぜられ候。右等の次第共、とくと御評議の上、御用の間(わが在京都の家老たちを指す)御前へも仰せ上げおかれ候よう伝々。(十一月十四日)
追啓、長州近辺へ御老若御用の趣は、御座の間にて仰せを蒙られ候儀故、一切相分らず候。


別紙、豊州様の儀は、愚考の趣を取り調べ、上田一学(わが在江戸の若年寄、のち学大輔)殿へも相伺い候ところ、御同人の御心付けには、豊州様には、京都方の仁と、ここもと御閣老方の存ぜられ候ところより、この度の一条、豊州様へは御咄合い御座なき故、まったく御存じこれなきことにもこれあるべきや、一学殿の御心付に御座候間、この段も御含みまでに申し上げ候。さりながら、本書に申し上げ候通り、この一事ばかりに候わば、上田殿御心付御尤もに候えども、石の上にも三年のところをもって考え候えば、いかがこれあるべきやと存じ奉り候。なお、御勘考下さるべく候(十一月十四日)。

また、

水野様(水野和泉守忠精朝臣)へ御逢いの儀相願い候ところ、今日は御不勤故、御逢いなさりかね候えども、そのうち御逢いなさるべき旨、一応御用人値賀(ねが)をもって申し上げ候よう仰せられ候につき、七左衛門(値賀のこと)をもって申し上げ候は、この度、御名直書をもって申し上げ候次第、まずしばらくのところは御差し控えに相成り候えども、この上御進発の御日取りも仰せ出だされず、いよいよ御遅寛と申すことに相成り候ては、とても一橋様、桑名様、御名も御尽力のなさるべきようこれなき段に相至り申すべくと、御一統様御苦心至極の思し召し、しかし勅使御下向と相成り候わば、かよう御申し開きこれあり候間、御下向相成り候てもよろしと申す御折りもあらせられ候わば、その段相伺い、御一統様の御苦心あそばされざるよう仕りたく存じ奉り候。さなくば、幾日頃までには御進発仰せ出だされ候御都合に候間、それまで勅使の御沙汰を御差し控えに相成り候ようと申す御都合に候わば、そこを以て、御一統様御尽力あそばされ候ようにも申し上ぐべく存じ奉り候。
さりながら、あまり寛々とあそばされ候うちに、打出の方々御取りかかりに相成り、吉川の見込みの通り、手を束ね、降を願い候節は、もはや御追討、御進発の名目も無と相成り、御進発あそばさるべき時節を御失いなされ候よう相成るべきやと存じ奉り候。
さて、禁闕に向って、かくまで乱暴致し候朝敵を御見かけ、ただよそよそしく御覧あそばされ候よう相響き候ては、臣子の情実において、いかが御座あるべきや。他より非を入れ候節は、非も入るべきことと存じ奉り候。この節、御進発あそばされ候えば、第一御尊奉の筋相立ち、御武威を更に張り仕り、諸藩の気請けもよろしく、人気引立ち候次第、毎々申し上げられ候通りの大機会に御座候ところ、御進発これなく候えば、右に反し候は顕然の儀に御座候。
畢竟、この度の勅使の御沙汰は、右等のところ厚く御含みあらせられ、誠に御深切より出で候事にて、関東を悪しかれとての御沙汰には御座なく候えども、万一□□□れ候節は、御信切の深きほど、御悪(にく)しみもふかく相成り候は人情に候えば、甚だ御大切の御場合と、御一統様御苦心あそばされ候次第に御座候。且つ、只今は諸藩の□□関東を押し立て、天下を治めず候わでは相成らずと申すところ、一定致しおり候ようには候えども、勅使御下向の節は、程よく御断り相立ち候御妙策あらせられ候とも、後日に至り、またまた激論沸騰致すまじきも計りがたく、尤も、諸藩共に激徒大分にこれある様子に候えば、時勢により、当時は鎮り居り候えども、その中には隙を伺いおり候者も多分にこれあるべく候えば、一昨年、作春のごとき世に相成り候は、まことに紙一重に御座候ところ、さよう相成り候節は、きっと違勅と申す儀を相唱え候は必定と存ぜられ候。その節に至り候ては、なかなか御名尽力には、とても行き及び申さず候。
尤も、当職を仰せつけられ京都表へつかわされ候も、恐れながら、上様御手長仕り、御尊奉の筋をはじめ、関東の御都合相整い候ための儀に候えども、京地の御模様何程申し上げ候ても、右に御応じ下されず候わでは、彼地にまかりあり候詮(せん)もこれなく、いかんとも尽力仕るべきよう御座なく、その上、自然、京都方などと申す名目を唱え出し、離間説を申し触らし候ように相成候は、目前に御座候。
すでに、この節、御上には御座あるまじく候えども、京都方などと申しおり候者もこれありやに相聞き候。右様の御振合に相成り候ては、彼地にまかりある御為筋はさしおき、却(かえ)って御不都合を生じ候段に相至り申すべしと苦心至極に存じ奉り候。
右等の次第とも、厚く御勘考の上にて御返書下されたき旨申し上げ候えば、一々御尤もの次第にて、一存にて御挨拶成りかね候次第もこれあり候間、なお出勤の上、逢い候よう致すべき旨仰せ聞けられ候につき、罷り帰り、その後、御出勤なされ候翌日、御退出へ相伺い候ところ、値賀をもって仰せ出され候には、一々御尤もの次第に御座候えども、当春上京のみぎり、御直断申し上げおき候通り、何もここもとの形勢相変り候儀もこれなく、御進発のところは、御総督様より第一左右次第と申すことに相成りおり候えば、まもなく御左右もこれあるべく存ぜられ候。
春中上京の節、関白様へ御直談申し上げ候事共も、罷り下り候ては、なにぶんその通りにも運びかね候事情もこれあり、苦心致し居り候次第にて、御名様思し召し通りにもいらず、甚だ心配致しおり候事ばかりに候。御返書の儀は、御用番が取り計らい候事に候えば、なお、阿部様へとくと申し上げ候よう致すべく、逢い候ても外に申すべきようもこれなく、尤も、御用も取り込みおり候につき、逢わざる趣、仰せ聞けられ候。
白川侯には、委細、野村氏御承知の通り、藩中より罷り出で候嫌疑を御厭いなされ候趣につき、御用人まで手紙にて問い合わせおり候ところ、十八日に至り、日取りをきめ候ことは、御用の有無によりむずかしく候間、御退出へ罷り出で、相伺い候よう申し聞けられ候間、すぐさま十八日に参殿し、相伺い候ところ、御用これあり、御逢いなされかね候趣につき、それより日々二十三日まで相伺い候ところ、御用多にて、なにぶん気の毒ながら逢いかね候間、御返書したため相渡し候節は御逢いなさるべき旨、河久保(小石衛門、阿部の家臣)をもって仰せ聞けられ候につき、御返翰御したためなされ候上お逢いと申すにては、申し上げ候ても詮なき事ゆえ、水野様へ申し上げ候通り、同人より申し上げくれ候よう相願い候。
その節、同人の申し候には、三四日のうちには、御返翰御出来なさるべきやと相伺い候ところ、出来候と仰せられ候えども、二十六日は御寄合日に候間、その節、御同職様へ御相談に相成るべく候間、二十七日に罷かり出で候よう申し候につき、同日参殿致し候心得に候えども、多分御返書御渡しには相成るまじくと存じ候。いずれ、御進発の有無、御談じに相成らざる内は、御返書は出で申すまじく、この御返翰はよほど御ひねりなされ候事と考えられ候。


一 二十二日、松前(老中、松前伊豆守崇広朝臣)公御出起、甲州路より御上りの由、武田耕雲斎、甲州へ越し候風聞【注十五】これあり候につき、御見廻りなされ候由、愚察には、なるたけ手間取り、芸州辺へ御出でなされ候ころは、もはや長州辺は降参に成りおり候えば、御進発は御見合せの注進なさるべき御策略かと相考え候。
その外、上野の豊田の一条【注十六】もこれあり、かたがた御進発御延引と相成り候上にて、御返翰も入らぬものになされたき御含みかも計りがたく、いずれも手のつけようこれなき仕懸けにばかり御取り計らい付候ように伺われ、右の様子とも御局中御評議の上、御用の間(わが家老を指す)御前へもよろしく御取り計らい下されたく願い奉り候。(十一月二十四日)


なおなお、先便の豊田少進の一条、阿部様御承知なされざるよう申し上げ候ところ、河久保へ高松が頼み参り候由、跡にて相分り候。
営中の御様子は全虚に御座候。この段御心得までに申し上げ候。


 



 天狗党の最後     十二月三日、慶喜卿は、その弟徳川昭武(わが公と嗣子の約束がある)とともに京師を発した。幕府の歩兵と、わが藩兵、加賀、筑前、小田原等の兵がこれに従い、大津に宿をとった。
 たまたまそのとき、大垣藩から檄を飛ばして、武田正生らが越前から西近江に向おうとしていると急報してきた。そこで、堅田から今津、岡村を経て、十六日、慶喜卿は海津に、昭武は山中村に屯宿した。そして、左のような令を諸隊に下した。

賊徒共、嘆願の筋これある趣をもって、加州はじめ段々に手配のもようと相聞え候間、右ようの儀に取り合い、襲撃の機会を取り失い候ては、大事に及ぶべきは勿論、たとえいかようの嘆願の筋これあり候とも、一旦公辺の御人数へ敵対致せし者につき、加州はじめ早々手はずの上、残らず打留め候よう致すべく候。

 この夜、加賀の藩兵から、賊が新保に至り、明日開戦すべきを報じてきた。慶喜卿はすぐさま、わが藩の兵を疋田(越前)に向わせた。時に、天(そら)は大雪が降り、酷寒ほとんど膚(はだえ)を裂くばかりであった。所存の村民はみな乱を避けて、家はみな空屋であるので、兵士の飢寒は甚だしかった。わが兵糧奉行の河原善左衛門は、四方に奔走して食糧を提供した。
 十九日、賊軍は疋田、曽々木に達し、険要の地を扼すにいたった。二十二日、幕府の目付織田市蔵が来たって、賊が加賀藩に降伏したことを報じた。慶喜卿はすぐさま令を下し、戒厳を解き、降人を加賀、彦根、若狭の三藩にあずけた。その後、これを敦賀の寺院、倉庫に禁錮し、明くる年二月、幕命によってことごとく斬罪に処した。





 【注】

【一 洗米】 神仏に供えるため清く洗った白米。

【二 摂簶竹槐門】 摂簶は摂政の異称。槐門は大臣の異称。

【三 伯耆守様、和泉守様】 老中本荘宗秀(宮津藩主)、同水野忠精(山形藩主)。

【四 土井出羽守様、京極越前守様】 大目付土井利用、同京極高朗。

【五 昔、唐国の楚の荘王は…】 春秋左氏伝にあり、春秋戦国時代に、宋と争っていた楚の荘王は、使臣の申舟が宋の謀臣華元により殺されたと聞いて、怒り、家臣が後を追うひまもなく率先して敵に向ったという故事をさす。

【六 螻蟻の微忠 】 螻蟻は小人という意味。忠義のへりくだった表現。

【七 天璋院】 将軍家定夫人。薩州藩主島津斉彬の養女敬子。近衛忠熙の養女として家定の夫人となる。

【八 軍艦御買入れに相成り】 アメリカから買い入れ、慶応元年二月二十日引き渡された富士艦であろう。

【九 これを誅した】 武市瑞山を首領とする土佐尊攘派については、一巻一八七頁注一を見よ。土州藩の尊攘派は、文久二年十月の攘夷勅使東下の時期が最盛期であった。こののち山内豊信の公武合体論が藩論を支配するに及んで、藩庁の圧迫が加わり、文久三年六月、平井収二郎(隅山)、間崎哲馬(滄浪)、弘瀬健太ら領袖が自刃を命ぜられ、九月二十一日にはいっせいに弾圧がおこなわれ、多数の志士が投獄処罰された。瑞山はこの時逮捕され、慶応元年閏五月十一日切腹を命ぜられた。こののち尊攘派の多くは脱藩して、倒幕運動に従事することとなる。本文中の安岡哲馬は、前記間崎哲馬と同じ尊攘派志士安岡覚之助(正義)とを混同した誤りと推測される。

【十 はかばかしい返事さえなかった】 幕府が将軍進発の実行をおくらせたのは、第一には、進発を布告さえすれば長州藩にただちに服罪するであろうと甘く見ていたこと、第二に、進発の準備が整わなかったことのためであった。老中阿部正外は征長副将松平茂昭(越前藩主)にたいし、「御進発あるべき事は疾(はや)くより治定せられてあれど、二百余年中絶せし事故、万事不整頓。第一諸物頭は老人のみ、其組子も老幼打交じりなり。故にこれを淘汰するのみも容易ならざる事業なるに、武器類も多くは古損に属し、其を修繕するにも多数の時日を要し、頗る困却」(『征長出陣記』)とのべている。幕府は、征長総督が出陣し、戦闘が開始されれば、将軍は進発すると弁明し、これにたいし征長総督徳川慶勝や諸藩は、まず将軍が進発し、軍の士気を高めるべきだと主張した。両者ともに、諸藩兵の士気と戦争の勝敗に自信をもたず、万一の敗北に責任を負いたくなかったのである。

【十一 節刀】 奈良時代、将軍出征の時、天子から賜わる刀。中国の制にならったもの。

【十二 吉川監物へ差し遣わし】 監物は長州藩支族(岩国)吉川経幹。長州藩主毛利慶親は、朝廷と幕府への斡旋を経幹に依頼した。経幹はこれに応じ、芸州藩に周旋を頼んだ。他方長州藩内では、保守派が抬頭し、藩権力をにぎって、幕府への恭順謝罪という方針を決定した。時に征長総督徳川慶勝およびその親任をえて参謀の役をしていた薩州藩士西郷吉之助(隆盛)は、戦わずして屈服せしめること、長州人同志をして争わしめること、を得策とすることとの意見をもち、経幹と会見して、妥協工作をすすめた。この結果、長州藩庁は、急進派藩士の反対をおさえ、十一月十一日、禁門の変の責任者益田、国司に自刃を命じ、その首級は岩国に送られ、福原も同地に護送され自刃、さらに萩の獄に拘禁されていた宍戸左馬助、佐久間左兵衛、竹内正兵衛、中村九郎の四人の参謀も斬罪に処せられた。三家老の首級は広島に送られて征長総督の実検に備えられ、経幹も、広島で幕使に会い、長州藩処分の寛大を嘆願した。

【十三 常州、野州の間を横行】 本書五九頁注一六を見よ。

【十四 御門主様】 輪王寺宮慈性法親王。一八一三~一八六七。有栖川宮韶仁親王の第二子。弘化二年江戸上野輪王寺の門跡となり、慶応三年五月寺務を公現法親王(のちの北白川宮能久親王)に譲った。親王は水戸の徳川斉昭夫人(有栖川宮熾仁親王の娘)の甥にあたっていたので、斉昭に接近し、攘夷運動の同情者と見られ、坂下門外の変(一巻一七頁注一を見よ)にも、尊攘派志士は輪王寺宮を擁立して挙兵する計画を立てた。

【十五 風聞】 この風聞は誤伝である。耕雲斎の再期については五九頁注一六を見よ。

【十六 上野の豊田の一条】 上野輪王寺宮の使者豊田少進が上京した件。
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  1. 2012/11/17(土) 16:24:57|
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