いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十九  七月戦役の行賞     『京都守護職始末2』

 金七千両を賞賜     この月(十二月)十八日、幕府は、わが公の名代米津伊勢守を江戸城に召して、老中から左の台命を伝え、将軍家の佩用の刀(筑前国弘作、代金百枚)を賜うた。

毛利大膳家来、多人数押して京に入り、禁闕に迫り、乱防に及び候節、病中のところ早速参内し、御守衛の儀、格別勉励相勤め、家来共には身命を惜しまず、烈戦致し、諸手の救応ならびに防禦の指図など、諸事相届き、かつ賊徒集屯まかりあり候山崎表へも人数を差し出し、速やかに攻め落し、抜群に相働き候段、御聴に達し候ところ、かねて仰せつけられおき候職掌を厚く相心得、家来の末々に至るまで申し付け方よろしく、一同忠勤にて、身命を惜しまず相働き候段、御満足に思し召さる。これによって拝領物仰せつけられ候。

 また、わが将士にも金七千両を賞賜された。わが公と同時に、左の賞を行なわれた。

刀 (備前国倫光、代金五十枚) 一に兼光 井伊掃部頭直憲朝臣

刀 (備前国雲次、代金五十枚) 一に兼次 松平越前守茂昭朝臣

刀 (越中国則重、代金百五十枚) 島津修理大夫茂久朝臣

刀 (筑後国光世、代金七十枚) 一に常世 戸田采女正氏彬朝臣

刀 (豊後国国行、代金十三枚) 蒔田相模広考

 
 蒔田相模守は備中浅尾藩主で、同時、幕府見廻組組頭として在京し、七月の戦役に功があった。そのゆえに、特にこの賞を受けた。

 



 老中わが公を嘲笑     これよりさき、再応勅を下して、将軍家の西上を促したが、幕府の諸有司は、征長三十六藩の向背が未だ測り知れず、しばらく西上の期日を延ばし、その動静を見る方がよいとし、ただ大目付の中で一、二人、進発を可とするものがあったが、旗本の輩は皆こぞって、このことを忌み、中には、一人の大名が叛くのに、大将がみずから親征に乗り出す必要がどこにあるという口実をもって、強硬に反対するものもあった。老中のなかには、これを憂慮するものもあったが、一、二の力では如何ともしがたく、漫然として遷延するのみである。
 わが公は、再応の詔勅があるのに、将軍家がこれを報じないとすれば、遂に宸怒に触れるに至ることを憂え、しばしば老中に書面を送って促すのだが、これまた答えようとしない。よって、更に書面をしたため、家臣小森久太郎に旨をさずけて兼ねて東下させ、このことを促さしめたのことは前に記した通りである。
 時に、老中板倉勝静朝臣は辞職し、酒井忠績朝臣、水野忠精朝臣らが旧進をもってもっぱら事にあたっているけれども、京師の事情に暗く、ひたすら旧套を墨守し、わが公を指して、「彼はただ京師の守護にすぎない。大将軍の進退をかれこれ言うのは僭越だ」とか、「彼は朝廷にとり入って、実行し難いことを言いたてて幕府を困らせるものである」などと言って嘲笑し、久太郎が三旬にわたって、東下在留していても、一辞の答えるところもなく、遂に要領をえないまま帰らねばならなかった。





 松前崇広上京     たまたま老中松前伊豆守崇広朝臣【注一】が、長門藩処分の命を奉じて大阪に来た。禁裏守衛総督慶喜卿は、武田正生等を掃蕩のため越前に向っており、崇広朝臣が海陸軍総奉行を兼職していたので、この月京師に入り、かりに総督の任を摂することになった。
 そこで二条殿下、中川宮、山階宮らが彼を召して、叡旨を諭し、速やかに東帰して将軍の西上を促し、それでもなお出発しないようならば、中川宮が勅使として下る旨を述べられた。





 老中の責任     この時にあたり、幕府の老中もしくは元老中の人で、有能な人物となると、まず板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣、松前崇広朝臣の三氏に指を屈しなければならない。
 勝静朝臣は、幕府の賢相松平楽翁定信朝臣の子で、三氏のうちでもっとも年長であり、職見も高く、人を見る明もあった。また家臣中にも、よくこれを補佐する者がいた。朝臣はしばしば京師にのぼって、上国の形勢にあかるく、公武一和が大勢上の基本であることをよく認識し、深くわが公を信頼していた。しかし、このころ勝静朝臣は老中を免ぜられて、職になかった。
 長行は果断で、実行力に富み、賢良を起用してこれを信任し、幕府の役人中、長行の推薦にあずかったものは、どれも一時の才物であった。長行もまた京師の形勢に通じ、常にわが公に同情を表わしていた。その長行も、前に償金の件により官位をうばわれ【注二】、また職にいない。
 崇広朝臣は庶子、貧窮の境遇から松前家に入って相続した人で、深く下情に通じていた。また、その性質は剛腹、果敢で、おのれの信ずるところは必らず行う勇気をもった人であった。しかし、朝臣は未だ京師の大勢については暗く、幕府が今日のように衰勢に陥ったのは、畢竟、諸侯の意思、進退に気がねをして右顧左眄(うこさべん)、いたずらに逡巡苟且し、祖宗の大法に従って、政治を強力に進めないからであると考え、今その衰勢を挽回するには、御三家も頼みにならず、越前、会津も頼みにならず、親藩に依頼することがそもそも幕府の失威の病根とし、兵制を改革し、諸侯には頼らずして、旗下の兵力だけで長州の鼻柱をくじく外はないと思い込んだようである。わが公が久しく京地にいて、公武一和を主張するのを、ただ朝廷におもねり、幕府に不利なようにするものとして、わが公を猜疑する幕府有司中の巨魁は、この朝臣であった。それゆえに、わが公らが将軍家進発を主張するのを疑い、これは、いたずらに幕府の威光を衰退させるものと思い込み、わが公が東下させた家臣らに対し、あからさまに不同意を表明したのは、この朝臣一人のみであった。
 しかるに、将軍家の進発は、もと勅諚に出たものであって、いたずらにそのままにしておくわけにもゆかないので、崇広朝臣自身、京師の形勢を究めつくそうと思い立ち、遂に上京ということになったのである。
 しかし、来てみると、京師の状況は関東において想像したとはその趣きを大いに異(こと)にして、且つわが公の誠意に一点の疑うべきところのないことを洞視し、従来の主張を一変するに至った。今また、中川宮殿下らの教命によって、崇広朝臣ははじめて叡慮の優渥なことと、公武一和が大勢上の根本であることをさとり、恐れ、且つよろこび、謹んで命を奉じたが、その時は大勢がすでに去り、機会はふたたび来ず、内には良臣を退け、外には外藩の歓心を失い、幕府を孤立無援にし、遂に救うことができない事態に至らしめたのは、朝臣のあずかるところが多く、その責めを逃れることはできない。





 崇広朝臣の陳弁書  慶喜卿もまた、崇広朝臣の上京を聞き、左の書を送って、帰京するまで待つように言ったが、崇広朝臣はこれに従おうとせず、書を贈ってこれを謝し、またわが公と定敬朝臣に左の書をのこして、怱忙として東下していった。

一橋公より御直書つかわされ、拝見致し候ところ、別紙写しの通りに候間、則(すなわ)ち、別紙の通り御受け差し上げ候。御心得までに貴覧に入れ候。仰せに随い候て滞京罷りあり候ては、出立の日限極めがたく、しかる節は、じつに機会を失し候のみにてはこれなく(中略)、不都合相生じ申すべく候間、今般の大事は天下の安危に係り候重大の儀に候間、もはや決心仕り、御受け差し上げ候事に候(中略)。
今日すでに桑名侯へ決心申し置き候通り、断然と一進を捨て候覚悟に罷りあり、これにより今日もわざと貴亭へ出で申さず(中略)、内々一紙は、すなわち二通したため差し上げ候。右にてしかるべきや、又は宜しからず候わば、仰せ下され次第、したためかえ差し出すべく候(前後略す)。
十二月二十三日  伊豆守


  会津賢公
 なおなお、御用込み乱筆、文略御免

  来書写し 一橋卿書


寒天の砌(みぎ)り、この度は遠路を御苦労千万に存じ候。殊に拙者出張中、京地の御守衛も御心得、御入京の由、わけて御大儀の事と遠察いたし候。この程は、京地の模様いかがに候や。段々存外の長陣にて、久しく消息も絶えおり候ところ、さだめて御鎮静これあるべく、自然、異状も候わば、御申し越し御座候よう致したく、はた又御用筋これある儀にて、御帰府相成るべきやの由にも伝承致し候ところ、賊徒の処置ぶりも大略目途相立ち候につき、拙者儀、明日方帰陣し、大抵二十六日方には着京の心得にこれあり候。
右につき、出張以来の沿革、形勢をくわしく関東へ申し上げたく、御用筋は相心得ず候えども、苦しからざる儀に候わば、拙者の着京までの間、暫時、御滞留これあり候よう相成るまじきや。
この段、御報承知致したく候。陣中、取り込み草々申し入れ候。書余は面唔を期し候。以上。
  海津にて 一橋中納言  
  松前伊豆守殿


 御受書写し
御書下され、拝見仕り候。甚寒の節に御座候ところ、ますます御機嫌よくあらせられ、恐悦に存じ奉り候。陳(のぶ)れば、仰せ下され候趣、委細畏れ奉り候ところ、この度、俄かに帰府仕り候儀は、差向きの御用柄にて時日を移しがたく候につき、滞京の上、御目通りと申すわけは相成りがたく候間、御暇仰せ出だされ次第、速やかに出立仕り候心得に御座候。
尤も自然御暇前(いとも)に御帰京にも相成り候えば、当地において御目通り申し上げ奉り候儀に存じ奉り候えども、前文の通り、取り急ぎ候間、なにぶんにも御帰京御待ち申し上げ奉りかね候。さりながら、仰せ下され候御日割通り御帰陣相成り候わば、大津駅辺にて御目通り相成るべきやとも存じ奉り候。この段、御請けかたがた申し上げ奉り候。恐惶謹言。
  十二月二十三日  松前伊豆守中納言様


  極秘要書 裏謹封
一 帰府の上、尽力致し候儀は、決心罷りあり候故、必ず御進発の儀、事実を尽し極めて申し上ぐべく、さりながら、いかようの御沙汰を蒙るべきやも計りがたく候間、この段相聞かれ候わば、同列へ厳重の御沙汰仰せ出され候よう、きっと御周旋これありたく、この条、堅く御約束申し候えども、その上にもなにぶん御因循相成り候とて、急ぎ勅使御下向の処置に至り候ては、じつに殿下へ仰せられ候通り、それまでの御事にて恐れ入り奉り候ことに御座候間、この条を再三再四御猶予、御尽力にて、厳重に巨細の御模様柄仰せつかわさるべく候。または、御両君の内、急いで御出府候とも、いずれの道、勅使下向は御止めこれありたく候えども、その上のところはこれ天、と嘆息の外御座なく候。

一 拙者が御咎めを蒙り候とて、もとより天下のため、君へ忠勤と覚悟致し候上は、さらに驚き申さず候。しかし、過日御内話の通り、殿下の思し召しもこれあり、なんとか仰せつかわされ方御座候時は、ふたたび尽力も相成るべき場に至り申すべく候。しかし、これも思し召し次第に候。

一 立花出雲守【注三】は、御内談通り御暇出(いとま)で候わば、成るべきだけ御延しに相成り、拙者の着府と同日ぐらいか、又は、一二日あとにて着相成り候ように致したく候。御軍艦に候えば、五六日ぐらいにて着に相成り候間、当地より下坂、それより乗組の隙など御考え合わせこれありたく候。尤も、今度仰せつけられ候御用向き相済み候えども、外に御用筋のこれあり、尤も少々の内滞京申すべき旨仰せ出され候方、しかるべく候。

一 過日御沙汰これあり候同列上京の有無は、今に返事相達し申さず候。不審に思し召され候間、早々否可を申し上げ、尤も、拙者帰府仰せ出だされ候節、御沙汰これあるべきところ、談落(はなしお)ちに相成り候故、厳重に旅行先まで申しつかわし候よう御沙汰の旨御したため入れ、御書状つかわさるべく候。その内へ、豊後の不都合の儀にて着し候えども、尹宮の仰せの程もこれあり候条、申し通す方失念申さざるようと、尹宮より仰せられ候旨に御したためこれありたく候。

一 同列が上京致し候節は、随分御叱りこれあり、悔悟致し候程の御沙汰これなくては宜しからず候。さりながら、それきりのように相成り申すべきようの御沙汰はこれなきよう。これは、くれぐれも御頼み申し候。寛大にても、征伐にても、御進発これなくては、天下の治乱の際、御安危の場合と申すところ十二分に発明申し候よう、寛猛の御説得第一に候。右は立花出雲守も同様に御座候事。

一 拙者の出立あとより御申し越しこれあるべきの段、及び御談じ候同列の儀は、過日の御沙汰出でおり候上は、もはや取りつかわしに及ばず候。

一 殿下、両宮【注四】には、段々厚く御沙汰を蒙り、関東の御為と相成り候儀は、即ち国家のためにて、この機会を御失いこれあり候ては、じつに瓦解、御尽力もなにも取り成しかたこれなき旨、品々御心底御抱えなく仰せ聞かされ、まことに有難く、安心仕り、一増気力を得、速やかに尽力致し候儀、御礼篤く、しかるべく御頼み申し候。

一 御談にこれあり候えども、じつに変心など致すべき存念これあり候えば、御存じのごとく、殿下、両宮へ大言致され候者にはこれなく、直に覚悟仕りおり候故、もはや証文相立ち、一書は差し上げず候。この書面が則ち至極の証にこれあり候。
右条々したたむべき儀にこれなく候えども、つまるところ天下の為と存じ候故、極秘に手違い出で申さざるまでに、したため差し出し候。後日御都合済みの時に、御返却これありたく候。以上。
  十二月二十四日  福山(松前)
  会津君
  桑名君

 
 二十七日、慶喜卿が帰京され、ただちに参内あって、賊徒掃蕩の事を上奏した。徳川昭武とわが藩兵もまた、帰京してきた。





 長防鎮定の件々を上奏     この日、征長総督徳川慶勝卿が広島からの使いを派遣して、左の書を奉り、毛利敬親の謝罪があったので、解厳の事を上奏した。

毛利大膳父子追討、臣慶勝、総督として芸州広島へ出陣仕り候ところ、彼に於ては、ひたすら悔悟、伏罪仕り、長防はまったく鎮静に及び、この段御届け申し上げ候。これによって、長防の鎮静の方を三末家【注五】、吉川監物ならびに大膳家老にきっと申しつけ、松平越前守をはじめ討手の輩に、陣払いの儀を申し渡し候。慶勝儀も引払い申し候。委細は近日登京し、奏聞仕るべく候えども、件々の次第、別紙に取り綴り、言上し奉り候。

 別紙
一 罪魁益田右衛門介、福原越後、国司信濃は厳刑に行ない、首級実検に差し出し、その余の参謀の者どもも斬首申しつけたる旨申し出で候事。

一 暴臣ども、輦下に於て騒擾の始末は 、大膳父子の平常の緩(ゆるが)せの罪科逃れたく、これによって寺院に蟄居し、恐懼(きょうく)し罷りあり候。なにぶんの御沙汰を待ち奉る旨、自判の証書ならびに国司信濃へ軍令状を相渡し候始末恐れ入り候旨の書付をも添えて差し出し、三末家の者よりも恐れ入り候自判の証書を差し出し、右証書等、都合五通を差し出し候。

一 山口は新築の事につき【注六】、破却致すべく申し渡し、則ち見届けのために、家老石河佐渡守を差し向け、並びに立合いのために御目付戸川鉡三郎を差し出し候ところ、破却の体(てい)、異議これなき旨、佐渡守、鉡三郎よりこれを申し達す。

一 三条実美はじめ五人【注七】は、松平美濃守、細川越中守、有馬中務大輔、松平修理大夫、松平肥前守に分配し、各々国元へ引き取り、御預り取り計らい候はずのこと。

一 大膳父子の萩城立退(たちの)き、寺院蟄居の体(てい)、佐渡守はじめ見届け候ところ、城中異議なく、父子は菩提所天樹院に蟄居罷りあり、謹慎の体(てい)疑わしき儀これなき旨、佐渡守、鉡三郎より申し達し候。

一 長防領内の村市人民も、謹慎、恭順の体(てい)疑わしき儀これなく、佐渡守、鉡三郎これを申し達す。





 軽率なる陣払い     敬親父子が悔悟、伏罪し、長防が全く鎮静した旨、この上奏書に記されてあるけれども、これは全く表面のことであって、毛利藩の過激派が一時、佐幕党に圧迫させられたにすぎなかった。この事情を深くも探明しようとせず、その所罪の軽重によっては、佐幕党といえども、たやすく承知するか否かも、未だわからないのに、慶勝公は、軽率にも解厳の令を発して、討手の諸侯に陣払いを命じられたことは、奇怪至極なことである。これが原因の一つとなって、後日、天下の紛議を越し、幕府滅亡を招来したのである。





 慶勝卿の所見     長防処罰に関しての慶勝卿の所見は、彼が若年寄稲葉兵部少輔正己(房州館山藩主)に送った書に、つまびらかである。

別紙の通り御届け申し候。それについて、今般の御処置ぶりにより、実に天下の安危、治乱の界にこれあり、この上なき御大事と存じ奉り候。
いかが相成り候て御為然るべきやと苦心の至りに堪えず、昼夜、寝食を安んぜず熟考仕り候えども、なにぶん不肖の某、殊に一己の偏見にては甚だおぼつかなきにつき、諸藩をも承り、とくと折衷仕り候ところ、結局別紙の御処置に相成り候方、至極の御為と一決、存じつめ候儀に御座候。
もし、これより超え候御処置に相成り候ては、当今の形勢、思わざる破れを生じ申すべく、さよう相成り候て、段々増長し、遂に天下の大乱をも引き出し候も計りがたく、きわめて御不為の至りと存じ奉り候間、必ずここに御決評相成り候よう、朝暮に志願し奉り候。尤も、罪案の儀は総督において申し上ぐべき儀にはこれなく候えども、この一件、御処置の次第により天下の安危に関係仕るべき御儀と存じ奉り候につき、見込みの大綱の趣、別紙に書き取り、申し上げ奉り候事。(十二月)


 別紙
一 毛利大膳父子に隠居仰せつけられ、薙髪(ていはつ)仰せつけらるべく候こと。

一 毛利家の儀、祖先以来、公武の勤め筋の旧功もこれある家柄の訳をもって、親族の内しかるべき者へ家名御立て成し下され、長防のうち十一万石を削除し、その余、萩城をも下さることに相成るべきこと。
但し、削地の儀は、諸大名の内へ御預けに相成るべきこと。

一 毛利三末家の儀は、本藩御所置の釣合いをもって、それぞれ相応に仰せつけらるべきこと。

一 御削除の儀は、当節長防の四民、恭順誠慎の体(てい)をもって相考え候ては、旧来の恩信格別に相見え候間、当分の内、御削除はもちろん、別紙の通りに御座候えども、さらに旧主を離れ候ては、人心の変動も計りがたく候間、やはりそのままに御領置きに相成るべきや。なお、御参考のため申し上げ候。且つ右削地の儀は、摂海辺、海岸御厳備の折には宛(あ)て行ない候ても、なおさら別格の儀に存じ奉り候。

一 三末家の儀は、本藩に準じ、御処置あらせらるべきかに御座候ところ、当時鎮静方について尽力罷りあり候儀につき、その品(しな)をもって御処置御座あるべく候わんやのこと。

一 吉川監物儀、宋藩の鎮撫方を誠実に尽力いたし候儀につき、なんらの御沙汰あらせられざる方に候わんやのこと。






 幕命行き違う     さても、そのようなわけで、徳川慶勝卿は、元治二年(この年四月、慶応と改元した)正月元日、広島の陣を撤収し、海路帰途についたが、同日大目付大久保紀伊守、目付山口駿河守が上使として、閣老連署名の幕府の命令書をもって広島に着いた。しかし、その時はすでに総督慶勝卿が出帆の後であったので、両使者は陸を馳せて、本郷駅で総督に謁し、命令書を渡した。その文にいわく、

一 毛利大膳父子を江戸表へ差し下しのこと。
 但し、御人数のうちにて警衛のこと。

一 三条以下七人を江戸表へ差し下しのこと。

一 大膳家来共相慎しませおき、御下知を相待ち候よう、吉川はじめ末家共の内へ御達しなさるべきこと。

一 江戸表より御下知これあり候まで、所々出張の御人数をはじめ、引き揚げこれなく、いよいよ油断なく護衛なさるべきこと。

右の通り御取計らいなさるべく候こと。
  子十二月二十七日  老中連署

 
 総督慶勝卿は、この書に対して左のような返翰を書いた。

毛利大膳父子ならびに三条以下の御所置の儀につき、御書付の趣、畏り奉り候。しかるところ、右一条については、段々熟考の上、見込の次第等委細、稲葉民部大輔、永井主水正、戸川鉡三郎をもって申し上げ、なお家来をもって老中まで申し達し候儀につき、只今に於て、右の外なんとも勘弁をよくしたがたく、ともかく前顕申し上げおき候趣をもって、とくと御評議成し下させられ候よう仕りたく、尤も前以て伺い申すべきかに候ところ、さ候ては、遠路臨機の取計らい、とても行き届かず、兼ねて御墨印を拝領し、御委任の御儀につき、専ら公武の御為を存じ上げ候て取計らい候儀に御座候間、右等の趣、厚く御汲み取り、この上の御所置御座候よう仕りたく存じ奉り候。よって御受け申し上げ候。
一旦解厳の令を布いたあとで、すぐまた陣払いの命を取り消すなどということは、至難なことに違いないであろう。且つ慶勝卿は、長門の実力をきわめて軽くみて、四方に兵を備えて囲むまでもなく、長藩はどのような幕府の命令にも従順なものと見なしたようである。また、長防はともかくも、西国の雄藩らが寛大な処置を主張するのを見て、おのが所置こそ公武の御為と思われなされたらしく、そのようなわけで、幕命を顧みず、解厳の命を実行してしまったのである。






 再び将軍上洛の勅     元治二年正月四日、征長総督徳川慶勝卿から、毛利敬親父子伏罪の状を上奏した。よって、朝廷から、左の勅を幕府に下した。

毛利大膳父子伏罪の形跡、相顕(あら)われ候につき、追討諸藩一同、凱陣に及び候由、尾張前大納言、書取りをもっての言上を聞し召され、この上は防長の所置の儀、即今の急務にして、もっとも皇国の大事と思し召され候間、かねて御沙汰の通り、大樹速やかに上坂し、叡慮を安んぜられ候よう、きっと所置これあるべき旨、更に仰せ出だされ候事。





 将軍不発途を令す     そもそも将軍家の上洛のことについては、去冬、二条殿下から阿部正外朝臣に、つづいて殿下および中川宮、山階宮から松前崇広朝臣に、つぶさに叡旨を伝え、将軍家の上洛を促しつづけた。二人もまたよくこのことを諒承し、教命を奉じて江戸に帰ったが、その後、絶えて、何の消息もない。
そこで、今この勅を下されたのに、幕府はそれに反して、この月十五日、左のような令を頒布した。

毛利大膳父子追討のため、総督尾張前大納言殿芸州表へ出張致され候ところ、ひたすら悔悟、伏罪致し候段、前大納言殿より仰せ上げられ候については、長防共鎮静に及び候につき、この上の御所置の儀は、当地に於てあそばさるべく候。よって、御進発はあそばされず候。時宜により、なおまた仰せ出だされ候儀もこれあるべく候間、かねてその心得にて罷りあるべく候。

 また、毛利父子を江戸に召して、その所置を決しようと、尾張藩にその護送を命じ、三条実美以下の公卿も同じく、彼らを留置している久留米、筑前、肥後等の五藩に江戸へ護送するように命じ、大目付駒井甲斐守、目付御手洗幹一郎にその指揮をさせるなど、毫も朝旨などを問題にせず、依然として、幕府の旧套に拘泥するのみであった。一方、朝議では、諸大名を召して、毛利父子の所罰について諮詢されようとしていた。朝廷と幕府の所置の相表裏していること、かくの如くであった。

 



 わが公江戸行きを決心     わが公は、これを見聞するに及んで、憂悶にたえず、幕府の有司たちが、朝旨を顧みず、みだりに旧套に拘泥して、ひとり得々としている迷夢は、厳に警醒しなければならないと同時に、朝議もまた、さきに幕府に政治を委任する聖詔を出しておきながら、いままた勅を下して諸侯を召さば【注八】、政令が二途に出ることになって、恐らく物議紛乱を招くであろう。それに、幕府の有司らは、京都の事情に暗いところから、遂には、綸命反覆の誹議を蝶々とし、その結果、公武の間の不協和を来たすことになることも図り知れない。じつに、国家のために座視していられる秋ではないと考え、急に病を勉めて、馳せて伝奏衆を通し、諸侯を召す命を出すことの延期を請い、同時に、幕府の有司らの無経験なことを陳弁し、みずから江戸に出向いて、叡旨の真意をよく説き諭し、将軍家と相携えて、速やかに上京する旨を内奏した。
 二日朔日、朝廷は、わが公の東下を裁可され、伝奏衆、飛鳥井雅典卿から、左の旨を伝えられた。

昨晦日、神保内蔵助をもって、東下の御暇(おいとま)を内願候ところ、京都守護職の儀は、至極大切にて、必至と御許容あそばされがたき筋には候えども、国家のため、深く存じ込み候誠意を叡感に思し召され、しばらくのうち御暇仰せ出だされ候。
 ただし、両三日の内、御暇の参内仰せつけられ候事。






 二老中上京の報     たまたま老中松前崇広朝臣から、密々に左の書を送ってきて、幕府の情勢を報じてきた。

御用にて下り候を因幡(老中諏訪忠誠朝臣)、備前(同上牧野忠恭朝臣)、雅楽(同上酒井忠績朝臣)大いに懸念致し、木村摂津守(目付)をして、途にて大磯に迎え、朝命の旨趣を問わしむるとえども答えず候ところ、又々同人をもって、品川に止り御沙汰を待つべきの趣申し越し候。あまりのことにつき、日を詰め候て、八日(正月)着くや否や、水野(老中忠精朝臣)へ行き論じ候ところ、種々なだめ、且つしばらく登城見合わすべき旨につき、止むをえずその意に任せ候ところ、御用ぶりも承り届けざるに、十一日、俄かに伯耆(老中松平宗秀朝臣)、豊後(同上阿部正外朝臣)、京都への御使い仰せつけられ候次第にて、拙生は遠からず厳命を蒙るべく候。
両人の上京の用向きは、多少の黄金をもたらし、大砲一座、歩兵四大隊を率い、賂(まいない)を行ない、御上洛、御進発なからしめ、諸藩の九門御守衛に替わるに歩兵をもってせんと欲するなり。備(牧野)、因(諏訪)などは、国家の事はさしおき、飼鳥、植木に心を労し、諸役人役替はみな酒井、牧野、諏訪の三人の手になる。かくの如くにては、国家収まり、上の御安堵に帰すべき見据えはかつてこれなく候。
今度、両人着京候わば、殿下はじめ、厳命をもって両人の屈服仕るように致したく、右服し候わば、御上洛か御進発かに相成るべく候。しかし、勅使御下向となれば表向きに相成り候。両人のところは、即刻御地を出立に成り候とも、内々の事と考えられ候、御含み下さるべく候。
別紙個条書の廉々(かどかど)、御怒りの色にて十分御責め相成り候よう、もし承服これなきときは、これまでの御尽力の廉々、みな水泡と相成るべく候。
追い返しなされ候程に候えば、私へ仰せ含められ候御用筋のところも相立ち申すべく候。その外、大嘆息の次第これあり、尤も御為に相成らず候間、備、因を退くべし、退くべし。
もはや、かくの如き上は、恐れながら百事瓦解し、列藩は相背き候段に至るべきか。今この機会を失い候ては、のちにいかほど御沙汰候ても、甲斐あるまじく候につき、この段、伯、豊両人の着以前に申し上げ候。拙生、関白殿、両宮へ申し上げ候条々もこれあり候ところ、もはや再び拝謁の面皮はこれなく候間、遠からず致仕願うべく存じ居り候。しかるべく仰せ上げられ下されたく候。(前後を略す。正月十二日付、わが公、桑名侯宛、崇広朝臣署名)


別紙個条書
殿下、尹宮、山階宮へ罷り出で候節、御沙汰の旨相伺い候内、和泉〔老中水野和泉守忠精〕へ咄しおき候分の覚え。

一 勅使御下向御内決相成り居り、当時しばらく御見合せの事。但し野宮〔以下記述なし〕

一 尹宮御自身御周旋のために御下向の思し召しにあらせられ候ところ、叡慮も御暗合に候こと。

一 御進発これなくとも、天機御伺いに御上洛なされず候わでは相すまず候。君臣の礼儀に於て、是非御上洛これあるべきこと。

一 毛利が朝敵の罪を謝し奉り候とも、そのこと当るや否や。列藩も異存の程御尋ねこれあり、上にも入らせられ、朝議の上御決しのこと。但し、寛大の所置と相成り候ときはもちろん、御進発、御上洛の内これなく候わでは相成らず候事。

 
 公はこの書を得て、大いに驚き、切に阿部正外朝臣、松平宗秀朝臣の上京を待ちわびた。そのため、東下の期日を延ばすこととし、このことを二条殿下に啓(もう)した。
 十三日、二条殿下から叡慮を伝えて、聖上が特に、わが公の東下について、将軍上洛のことを凝滞(とどこおり)なくはこび、叡慮を貫徹せしめるように、また病中の旅の安全のためにと、内侍所と吉田神社にお祈りあったことを告げ、その御符を賜うた。





 手当一万両を停止     この日、幕府の有司らは、総督、守護職勤務中の例月の一万両の賜金を停止した。その理由は、総督、守護職、所司代らが心をもっぱら朝廷のためにのみ傾けて、幕府の不利を顧みないという幕府有司らの猜疑心からである。
 世間の流説によると、宗秀朝臣は京師に着くなり、伝奏衆野宮定功卿を訪ねて、内儀八個条の奏請を乞うたということである。その第四条は、慶喜卿を江戸に帰らしめること、第五条は、わが公をも帰して守護職を廃すること、第八条は、定敬朝臣の所司代を免職し、宗秀朝臣が老中のままで兼職するという三個条が入っていたという。しかし、朝廷の有様を察するに、その議がとうてい実行できないことをさとって、その奏請を罷(や)めたということである。





 二条公激怒     すでにその時、正外朝臣、宗秀朝臣の二閣老が入京した。その行装は、松前崇広朝臣が報じてきた通りであった。
 二条殿下は二人を招いて、まず正外朝臣を責め、「卿は去年、大樹上洛の勅を奉じて東へ帰り、その後、松前伊豆守が上京したので、同じく勅を示して東帰させるなど、事再三に及ぶも、実行する様子がない。今また、突然に多衆を擁して来たのは、何のわけか」と申されたので、正外朝臣は答えに惑い、「上京の理由は、常州、野州の乱が未だ全く鎮定しませんので、一橋中納言を迎えるためでございます」と述べた。
 すると、その言葉も終らないうちに、殿下は、「一橋中納言は、去年大樹に代って輦下に留まり、現に禁裏守衛、摂海防禦総督の重要な職にある。幕府がこれを召還しようとするのはどういうわけか」と詰問した。宗秀朝臣がその時、進み出て、「これは同役の老中共の決議で、将軍の命というわけではございません」と答えた。「そうすると、卿らは、大樹に稟せずに勝手に事を決めるのか。また酒井雅楽頭、水野和泉守は、すでに去々年以来の事情を知っているはずである。その決議には、彼らも参画したのか」という殿下の質問に、宗秀は、「いや、これはただ宗秀一個の意見を申し上げておるのです」と答えた。
 この時、殿下は赫(かつ)として、「卿は、新たに職について、公武の事情を知らないのに、みだりに一時を糊塗しようとする。だから、言葉の前後が整わないのだ」と申されたので、二人とも言葉に窮し、それ以上弁疏することもできない。二人は速やかに東下して、将軍の上洛を促すことを命ぜられて、引き下った。
 ついで、左のような勅旨を授けられた。

大樹、数度の上洛ありといえども、東西懸け隔たり、事情否塞す。よろしく早々上洛して協和の策をめぐらし、宸襟を安んずべし。

 そこで二十五日に、正外朝臣は京師を発し、江戸に下った。宗秀朝臣は大阪に留まって、征長のことに当ることになった。
 十三日、伝奏衆飛鳥井雅典卿が、左の勅を伝えて、わが公の東下を停めた。

先般、東下の御暇を仰せ出でられ候ところ、今度、阿部豊後守へ厚く仰せ含められ、差し下され候については、豊後守より一応様子を奏聞致し候まで、これまで通り罷りあり候よう、さらに仰せ出だされ候事。





 わが公黒谷へ移る     三月朔日、わが公は病痾がまだ本復せず、医師たちがしきりに忠告するので、この日、左の書を奉って奏請した。

容保儀、去夏変動の節【注九】、病中を押して御花畑へ相詰め、その後、追々快方には趣き候えども、とかく食事相進まず、気分も全く相復さず候ところ、畢竟は運動これなき故にも御座あるべく候や。この上、歩行にても仕り候わば、果敢行全快仕るべくと存じ奉り候。よって、人数は残しおき、御警衛仕らせ、この節より黒谷旅宿へまかり越し、加養仕りたく存じ奉り候。
 
 七日、伝奏衆野宮定功卿が、左の勅を伝えてこれを許可した。

過日、願い立て候黒谷引移りの儀、御許容あそばされ候。しかし、御用の節はもちろん、さなく候とも、折々御花畑へ相詰め候よう仰せ出だされ候事。

 よって、この月九日、黒谷の営に移った。





 将軍上洛延期策     正外朝臣らは上京したものの、その目的を達することができず、かえって将軍家の上洛を促す勅旨を奉じて東帰する、との報が江戸に達すると、幕府の有司らは案に相違し、老中の人々は、左の書をわが公に送って、その期日を延ばす運動をするように言ってきた。

今度御上坂の儀、なお又、御所より仰せ出だされ候御趣意のところ、委細御承知あらせられ、早々にも御上坂あらせらるべきはずのところ、長州御所置の儀は、それぞれ御厳重に御取り掛りに相成りおることゆえ、唯今のところにて、当地を御踏み出しに相成りては、とても御十分の御所置は出来させられがたく、毎々の御沙汰のところは、深く恐れ入り思し召され候えども、当今のところにて、当地を御動きに相成り候ては、かえって皇国の御為、然るべからず候間、右御所置、大方御見留の上にて御上坂あそばさるべく、いささか聖慮に違わせられ候思し召しは毛頭あらせられず候えども、誠にもって御拠(よん)どころなき御場合につき、いずれにも御猶予のところ、厚く御含み御取計らいに相成り候よう。
しかしながら、長州の動静により候ては、時宜次第、速やかに御上坂の上、御所置もあそばさるべく思し召し候儀につき、この段も御含み、関白殿へも厚く仰せ上げられ候よう存じ候事。






 わが公切に上洛を促す     わが公はこれを見て、彼らの天下の形勢に暗く、かつ朝旨を軽んずることになるのを慨(なげ)き、すぐさま左の書を書いて、切に将軍家の上洛を促した。

御所より伯耆守殿、豊後守殿へ御渡しに相成り候書取の儀につき、仰せの趣、承知致し候。右は、一通り書取をもって御承知なされ、直に御申し越しなされ候にこれあるべく候えども、御所にても、この節の形勢、深切に御考えあそばされ、止むを得させられず委曲を仰せ含められ、豊州、そのために東下にも相成り候儀に候えば、同方着の上、御模様親しく御聞取り、なお深く御勘考御座候よう致したく、且つ長州の御処置の儀は、それぞれ厳重に御取掛りに相成り候については、その表を御動座に相成り候ては、御為しかるべからざる旨、御申し越しの御旨意、さだめて深く思し召しあらせられ候わんなれども、この節の形勢にては、大膳父子を召され候とも、とても出府致すまじく、御所にても前文の通り深き思し召しこれあり、度々仰せ出だされ候儀に候えば、いずれにも御上洛の上御所置御座なく候わでは相成らざる儀、さもなく候わでは、じつに容易ならざる御不為を相生じ申すべく、甚だ心痛、御案じ申し上げ候。
右の次第に候えば、御所間の取計らい方なにぶん当惑のみならず、甚だ御不都合に相成り候。
いずれにも豊州より親しく御聞取りなされ候わば、御分りなさるべく候間、なおその上にて厚く御勘考御座候よう致したく、右は越中守(所司代松平定敬朝臣)にも見込みを相尋ね候ところ、同論に候。これらの時情御推察、悪しからず御汲み取りの程、国家のために祈り奉り候。まずは貴答まで、かくの如くに候。


 また、特に左の書を阿部正外朝臣に送って、速やかに上洛の決行あらんことを奨めた。

この程、そこもと御同列より、御拠(よん)どころなき儀にて御上洛をしばらく御延引あそばされたき旨申し越され候ところ、その表の御都合は、委詳、先日貴所より相伺い推察致し居り候えども、ここもと差し迫り候ことも貴所御実検の通りにて、御上洛あそばされず候にては、救うべからざるの勢に相成り、百事の病根はここに帰し候間、即ち御実検のところをもって御精々(せいぜい)の程をこれより祈り候。
御同列よりの来翰は、一通りの書面にて承知の上申し越され候ことにて、貴所が親しく御演説なされ候わば、さだめて貫通致すべく、小子の所願は、じつにこれのみに御座候。もっとも御同列は、貴所の御着の上、親しく聞き取りも候わば、ここもとの模様相分り、御上洛も自然御引立てこれあるべく候間、右御承知の上、吉報を日夜仰望し、待ち奉り候。右申し上げたく、早々かくの如くに御座候。






 江戸の情勢     ところがこれと入れ違いに、正外朝臣は左の書簡を送って、江戸の情勢を報じてきた。

御上洛の一条も、帰府の上段々申し上げ、同列へもとくと申し談じ候ところ、委細に相分り、なおなお商議をつくし、種々の難事これあり、なにぶん十分に行届き申さず候えども、まず御上坂と申すことには一決仕り候ところ、連状にて申し上げ候通り、速やかと申すことには参りがたく、右のところはなにとぞ御含み下さるべく候。
就いては、伝奏衆へ右の段、拙より申し上ぐべきはずに御座候ところ、別文の通り、御所より仰せ出だされ候御趣意のところには、なにぶん及び兼ね候御答え申し上げ候も、深く恐れ入り候間、甚だ恐縮の至りには御座候えども、この段御含みにて、よろしく仰せ上げられ下さるべく候。
且つ、貴兄御出府の儀は、当節甚だ不都合に御座候間、必らず必らず御差し含みしかるべく候。押して御参府等御座候ては、かえって御上坂も御難しきように相成るべくと深く心痛致し候間、くれぐれも御見合せと存じ奉り候。


 江戸の情勢が右のごとくであるので、四月二日、わが公は書面を裁し、家臣外島義直にこれを持たせ、また、つぶさに京師および長防の状況を含めて東下させ、将軍家の上洛を催促させた。





 老中らの反省     この月(四月)六日、さきに江戸につかわしてあった家臣の井深重義(宅右衛門)が、路を急いで帰京し、報告して言うには、去月二十九日に至って、俄かに老中が重義を江戸城に召して、次のように言った。
 「将軍家上洛、上坂についてはしばしば詔勅が下り、また肥州(わが公)の鎮定上申があったので、将軍家の進発はとり止めた。
 しかるにこの頃、長防に激徒が再起して、朝命に反抗するという報がある。さきに尾張総督から鎮定の由を上奏したのに、またもや宸襟を悩ましめ奉ることに至ったのは、じつに恐悚に耐えないところである。これも畢竟、派遣した大目付、目付らが事をゆるがせに扱ったからで、賊徒らが未だ心をゆるせぬ状況であると見てとったら、いかに尾張総督から鎮定の言上があっても、つまびらかに事情を調べて上申すべきで、その時、速やかに進発あって、追討すべきであったのだ。今に至って、倉皇として上洛してみたとて、いささかの名義も立たず、朝廷へ上奏する要件さえなく、真に軽怱の挙にすぎないであろう。
 ゆえに、まずこの地にあって、さきに派遣した大目付、目付らの報告によって、長防の処置を議決し、しかる後にこれをもたらして上洛、上奏し、あわせて、昨年来の上洛の遅緩の罪を謝し奉ることと決まった。
 よって、いましばらくの延期を、肥州から奏請あらんことを切望する。
 また従来、肥州の身上について、讒誣(ざんぶ)の説が紛々として、一時は同列中にも、これに惑わされたものがあったが、今日では、一意、公武一和のために尽瘁(じんすい)せられている事情が明白となり、一点の疑いを抱くものも絶えてなくたった。
 顧みると、去年以来、あるいは使者を東下させ、あるいは書面を送るなどして、しばしば忠悃を尽くされたにもかかわらず、こちらからの報告は委曲を尽くさなかった。思えば、慚愧に耐えない次第である。自今以後は態度を改め、そちらからの使者を東下せしむれば、速やかに面会することにする。特に京師の事情については、〔尾張・紀伊・水戸の〕三家諸卿からの報告でも一切採用せず、一々肥州の報ずるところに従い、東西一致して事に従うつもりである。卿もよろしくこのことを服膺(ふくよう)して、つまびらかに肥州に開陳せよ。また、上洛のことについて、万一、予期した時日よりも遅延することがあっても、肥州が東下することのないことを希望する。そのわけは、方今の形勢をみて、守護職が一日も闕下を去るべきでないと思うからだ。
 以上は、同列の間で決議したことではあるが、一一上聴に達し、裁可を得て縷陳するのである」
 というのであった。大目付大久保豊後守と杉浦兵庫頭らが、しきりに守護職が輦下を去るべきでないと忠告したとのことである。





 依然たる延期奏請     けだし、当時の幕府の情勢は、諸有司の議論が両岐に分れていた。一つは、上洛の事でしばしば勅命があり、また、殿下および総督、守護職らが切にそのことを促すので、止むをえず進発を発表はしたが、時たまたま東照宮二百五十回忌【注十】の大祭があるので、これを口実に、しばらく発程の期を延ばせば、その間に、長門藩のごときも、君臣が憂悶のあまり内変を生じ、骨肉相食み、自滅を招くに至るであろう、今、激徒蜂起の聞えがあっても、元来烏合の浮浪の集まりで、何のなすところもあるまい。なまじいに怱々(そうそう)として上洛し、みずから威厳を減殺するよりも、泰然として江戸に腰をすえ、おもむろに威勢を更張すべきである、というもので、酒井忠績朝臣、水野忠精朝臣らの持論である。因循、苟安を事とする輩は、これに付和し、その数はすこぶる多衆であった。
 もう一つの説は、今日なお旧套を墨守して、一日を過せば、一日だけ衰廃を招き、救いがたい結果になってしまう。非常時には、非常な所置でのぞまねばならない、というので、松前崇広朝臣、阿部正外朝臣の主張である。有為の人たちがこれに賛同するけれども、その人数は甚だ少ない。そのため、今上洛に決しながらも、なお延期を奏請するに至ったのである。





 長州反逆の兆     この時、老中松平宗秀朝臣が大阪にあって、長防の所置を担任していたところ、毛利敬親父子が激徒のために迫られ【注十一】、遂に朝旨に違反し、恭順を破って近国に兵を出そうとするなど、反逆の形跡が著明になってきたので、宗秀朝臣は大目付の永井主水正らを大阪に止め、みずから東下して、台命をうかがいに来ることになった。
 そこで、わが公は上洛延期の奏請を止め、八日(四月)ふたたび井深重義を東下させて、将軍の上洛を促した。





 【注】

【一 老中松前伊豆守崇広朝臣が…】 本書の記述では、老中松前崇広上京の事情は必ずしも明らかではない。
長州藩が三家老・四参謀の処刑を行ない、恭順の意を表してのち、十一月十五日藩主は萩城外天樹院に蟄居し、伏罪書を征長総督に差出した。総督徳川慶勝は、参議の西郷吉之助の意見より、長州藩の処分の正式決定をまたず、とりあえず撤兵する意見であった。しかしこれには江戸の幕閣首脳は反対であった。というのは、長州藩内に恭順に反対する勢力が強く、十二月十六日高杉晋作は、遊撃・力士の二隊を率いて下関の会所を占領、萩をめざして進撃をはじめていたからである。在府老中は、総督の撤兵方針は、在京の一橋慶喜の画策によるものと誤解していた。事実は、慶喜自らも、征長総督の真意をはかりかねて不満であったのだが、以前からの慶喜にたいする江戸の老中の猜疑が、こうした誤解を生んだのである。
十二月十五日、老中松前崇広・若年寄立花種恭(出雲守)は、京都に到着した。
その目的は慶喜を江戸に還すことであった。しかし慶喜が江戸に行くことは、関白二条斉敬から拒まれ、かえって関白・中川宮・松平容保から将軍の上洛を促された。他方で征長総督は、長州藩内の内戦勃発にもかかわらず、藩内は鎮静恭順しているとの理由で、十二月二十七日征長軍の撤兵をした。

【二 償金の件により官位をうばわれ】 生麦事件償金支払を弁明するため、兵を率いて上京し、処罰されたこと。一巻一三一頁注二を見よ。

【三 立花出雲守】 若年寄立花種恭。松前崇広とともに上京した。本章注一を見よ。

【四 両宮】 中川宮(朝彦親王、駕陽宮)と山階宮(晃親王)。一巻五一頁および二三〇頁注四を見よ。

【五 末家】 長州藩主毛利家と同族である徳山藩主毛利元蕃、長府藩主毛利元周、清末藩主毛利元純。

【六 山口は新築の事につき…】 文久三年長州藩は攘夷実行にあたり、萩城は海上からの外国軍艦の攻撃をうけやすいので、藩主の居所から山口に移し、ここにかりの築城をした。総督府は長州藩伏罪の様子をたしかめるため、目付戸川鉡三郎、尾州藩家老石河光晃 (佐渡守)を巡見使として派遣した。戸川らは十一月十九日山口に至り、同城破却の見分を行ない、異状なく破却と報告したが、それはたんなる形式に止まった。

【七 三条実美はじめ五人】 文久三年八月十八日政変に長州に走った三条実美ら七人の公卿(一巻一九七頁を見よ)のうち、沢宣嘉は生野の乱(一巻二二九頁注一を見よ)参加のため脱走、錦小路頼徳は元治元年四月二十五日病没した。三条はじめ五卿については、幕府は長州藩にたいして、その引き渡しを恭順の条件としていたが、長州藩急進派の諸隊がこれに反対した。そこで征長総督は、筑前藩の周旋によって、とりあえず五卿を筑前に移す妥協案を出し、西郷の長州藩にたいする説得が功を奏して、慶応元年正月十四日、五卿は長府を発し、太宰府に移り、筑前・薩州・佐賀・熊本・久留米五藩がこれを警固することとなった。

【八 勅を下して諸侯を召さば】 徳川慶勝は、長州藩処分協議のため有力大名を召されたいとの内願を関白に申し出た。そして一橋慶喜はこれに同意した(『徳川慶喜公伝』)。

【九 去夏変動の節】 禁門の変(蛤御門の変)のこと。本巻九〇頁以下を見よ。

【十 東照宮二百五十回忌】 慶応元年四月七日から十七日まで、徳川家康二百五十回忌の法令が下野日光山で行われ、勅使左近衛権中将松本宗有、右近衛権中将四辻公賀が参列した。

【十一 激徒のために迫られ】 元治元年十二月、高杉晋作らの下関襲撃があってから、長州藩急進派の諸隊の態勢がかたまり、慶応元年正月六日、奇兵隊・南園隊・膺懲隊百余名が藩庁軍を襲って会堂を占領し、ついで本営を山口に移した。諸隊の蹶起とその優勢をみた中立派の藩士は、藩庁の粛正と内戦の中止を主張し、藩主敬親もこの意見を納れて、保守派を要路から退け、三月、外に恭順を尽し内に武備を厳にするとの急進派の主張をもって藩論を統一した。
諸隊結成の先駆は、文久三年六月、外国との交戦に備えるため高杉晋作によって結成された奇兵隊にあった。これは家格・身分にかかわらず、力量本位をたてまえとする隊で、したがって農・商身分の者も入隊できた。こうした正規の藩士軍隊以外の諸隊は、御楯隊・鴻城隊・遊撃隊・南園隊等十一も結成され、急進派の統率する軍事力となった。ほかに農・商兵を編成した農商隊、たとえば郷勇隊(農兵)・市勇隊(商兵)・神威隊(社人)・金剛隊(僧侶)・維新団(部落民)等多数が編成された。
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