いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十  わが公の病まったく癒える     『京都守護職始末2』

 わが鈴声に吉凶を卜す     時に、わが公は病がまったく快癒したので、この日(四月八日)参内して、天機をうかがった。また、病中しばしば勅問を垂れ、特に、典薬頭(てんやくのかみ)を賜うなどの恩を謝した。
 翌日、聖上は二条殿下から、「病気が全快致し候深く御満足に思し召され…」との勅を伝え、杉折三重に、文庫一個を賜わった。また殿下は、その諸大夫の北小路治部権大輔をもって、「さきに聖上は、容保の病気が久しきにわたるのを宸憂あらせられ、特に内侍所にその快復を勅祷され、畏くも、日々内侍所の軒廊まで渡御され、鈴の声を聞し召して、病の軽重を卜(うらな)い給うた。はじめは鈴の声がすこぶる陰気で、凶なので、大いに宸襟を労せられたが、日を経て、鈴のひびきが吉に転じたので、叡慮はようやく平らかになり、日々快復の報を待たせ給うていたところ、昨日、参内の由を聞し召され、御喜悦のあまりこの恩賜があったのだ」と説明した。
 わが公は、謹んでこれを拝承し、恐懼感激、おくところを知らなかった。





 外島義直の報告     二十二日、外島義直が江戸から早打ちで帰京し、老中の返答を報告した。
 それにゆると、「今回、将軍家が進発の令を布(し)いたのは、まず大阪に到って、専心、長防の処置を決する目的のためだ。ゆえに、長防の処置が決しない間は、将軍家を京師に招き、入覲するようとの勅召がないように切望する。これは、ひとえに肥州の尽力によるほかはない。その理由は、従来、有司の大半と旗下の武士らは、例外なく上洛、進発を嫌悪し、今もなお不賛成の議が紛々として絶えない。しかし、再三の勅召を黙止するわけにもゆかないと説いて、強いて進発を断行したのだ。しかるに、将軍家が一旦勅召によって入朝した場合、万一過激堂上に迫られて、そのため将軍家の威権を損ずるようなことがあれば、それこそ物議沸騰して、遂に人心瓦解に至ることも考えられる。そこで、肥州の尽力を煩わさねばならないのだ」とのことであった。
 義直は、その言い分の当らないことを難じて、固くこれを辞退したが、老中の人々は、「卿の言うことはもとよりその通りであるが、この地の事情が前述の通りで、ここで理非を論じている場合ではない。よろしく、この事情を肥州に開陳してほしい」と再三懇諭した。義直も、いたずらにここで理非を争っていると、あるいは進発をも取り止めるに至るかも図られない、と考え直し、了承して帰途についた。
 思うに、幕府の有司たちの大半は、朝廷の真意は幕府を倒すつもりであると猜疑し、それゆえに、しばしば入朝することは、将軍の威権を減殺することになり、遂には衰亡を招くものとなしていた。従って、旗下の武士たちは二百数十年の間の太平の遊惰に昏睡するのあまり、山川遠路の跋渉を苦に思い、将軍家が江戸を出るのを欲しない結果が、滔々として前説に不和雷同し、囂々(ごうごう)として否議を唱える結果になったのである。





 旗本連の怯懦     わが公はこのことを聞き、憤然として、「去年来、しばしば勅召があった末、ようやく上坂となったのに、将軍が宮中に入覲されないとなると、敬上の礼を失することこれより甚だしきはない。もし天譴を蒙ったなら、真に一言の謝辞もないであろう。事がそこまでいったならば、たちまち諸藩の心を失い、物議を招くだけではすまない。長防の徒の耳にそれが入れば、幕府が朝廷を軽蔑しているという口実を作り、非を鳴らすことは必至である。この時に、どう弁解の言葉があるか。旗下の士輩が沸騰するがごときは、要するに家来共の不平不懣で、これを取り鎮めることは、何の難しいことがあろう」と考えて、わが公は、すぐさま書面をしたため、老臣に持たせて東下させようとした。
 折も折、目付の由比図書がきた。そこで、公がその気持を語ると、図書は感奮して、みずから東下して、このことに当ることを願った。それで、図書によく旨をふくめ、義直を随伴者としてつけてやった。
四月二十八日、わが公は、召によって参内し、小御所で竜顔を拝した。聖上は特に、わが公の病気快癒についての最も憂渥なる恩詔を賜わった。わが公は感泣してこれを拝し、退いた。





 入朝問題にこだわる     五月六日、由比図書とわが家臣外島義直は江戸に着き、ただちに登城して、老中に謁見し、わが公の手書を呈して、その書にふくまれた本旨を説明した。
 老中はこれを聞いて、「元来入覲を嫌うのは、台慮ではなく、旗下の士たちの気持として、京師に滞在するのを喜ばないことに因るだけのことだから、肥州の尽力で、速やかに下坂の暇を賜わるようにしてくれれば、何の文句もない。ただし、このことは事前に指令されると、たちまち俗論が紛起して、風波を生ずることになるゆえに、その期にのぞんで、台慮だからと言って急に入覲の令を出せば、あえて異議をさしはさむものはないだろう」と答えた。
 その翌日、また義直を招んで、老中から、「入朝のことは、台慮はもとより、同列の間でも異議はない。ただし、上奏書がまだ決定していないので、台慮を労することが残っている」とのことであった。義直はこれに答えて、「すでに去年朝廷から、諸藩主が伏見を通行するときには、必ず入朝して天機をうかがうようにという勅書が出ている。いわんや、将軍家においておや、入朝するのに、別に奏聞の書の必要はないと思う。ただ肥後守に、この意を体して力を致すべき旨の報翰を賜われば、それで十分と思う」と言う旨を述べた。
 老中は同意したが、なお不安らしく、「将軍家が大津に着いた日、勅召の御使を賜わったならば、あるいは俗論の紛起をうながさずにすむと思うから、肥後守にも、あらかじめ頼んで、無事にゆくように尽力されることを望む」と言った。義直は、「それらのことは寡君の方寸にあることで、毫も諸公が煩慮されることはない」と答えた。議は熟し、ただちに義直は帰京の途についた。





 勤務手当復活     十四日、幕府は、わが公の名代として江戸の重臣を召して、老中水野忠精朝臣から左の台命を伝えた。

常野の賊徒、暴行して京師へ接近に及び候ところ、追討のため速やかに人数を差し出し、賊徒降参し、鎮静に及び候条、一段の事に候旨、仰せ出だされ候。

 十五日、水口の城主加藤左京大夫が、わが公に代って登城し、将軍家に謁し、太刀一腰、黄金二枚、錦三十把を献じて、藩祖正之卿の贈位の謝礼をし、さらに太刀一腰、黄金三枚、巻物十を献じて、増封の恩を謝した。
 十六日、幕府は、ふたたびわが公に、守護職勤務中、月々金一万両、米二千俵を賜うことになった。わけは、幕府の有司らの、わが公に対する嫌疑がすこしく解けたからである。





 膳所藩の内通者     すでにして、将軍家は陸路進発の途につき、閏五月二十一日、大津に入ったとの報があった。
 これよりさき、膳所藩士のなかに、ひそかに長門藩に通じて【注一】いたものがあって、その事が露顕した。藩主本多主膳正康穣は、ことごとくこれを誅し、その顛末を幕府に報告した。
 後また、本多の家臣らのうち、将軍家が膳所城に館(やかた)する日を待ちうけ、弑逆を謀るものがあるという訛言があった。幕府は疑念を抱き、路程と宿所を変え、膳所城を避けて、大津に進むように令した。
 康穣は、ひどくこのことを気に病み、重臣本多頼母をわが公のもとにつかわして、救解を求め、あわせて膳所城に御泊りのことを願い出た。わが公は、家臣の小野権之丞に書簡をもたせて、東下させた。途中、近江の守山駅で、台駕と行き遇(あ)うた。そこで、老中安倍正外朝臣に謁して、わが公の書を呈し、使命の趣を述べて、本多のために悃請してみたが、館を再三変更するのは事宜を失うばかりでなく、大津に直行した方が入朝に便利だという理由で、これを受け入れなかった。
 閏五月二十日、わが公は慶喜卿とともに参内し、まず伝奏衆から、将軍家が日ならず上洛の由を内奏し、また、殿下と伝奏衆に謁して、将軍家の入朝と下坂について内請するところがあった。これについては、何の異議もなかった。
 翌二十一日、重臣田中玄清を大津駅につかわし、台駕を迎え、あわせて長旅の安否をうかがい、また老中の人々に会って、前件の委細を上陳した。





 【注】

【一 ひそかに長門藩に通じ…】 膳所藩の家老戸田護左衛門の子川瀬太宰は、聖護院宮(嘉言親王)に仕え、文久二年尊攘運動に加わって活躍した。慶応元年川瀬を中心とする膳所藩尊攘派が、将軍が膳所城に入る日に事を起すを画策していると会津藩に訴える者があり、閏五月、京都町奉行の捕吏が川瀬を近江路に捕え、藩庁も彼の同志十一人を捕えた(川瀬は翌二年六月斬に処せられた)。
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  1. 2012/11/17(土) 18:51:52|
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