いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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二十一  将軍家入京、参内する     『京都守護職始末2』

 優渥なる恩待     二十二日、将軍家は入京し、参内された。わが公は先立って参内し、これを迎えた。聖上は小御所に出御あり、将軍家は進んで竜顔を拝し、去年以来、しばしば勅召があったのに、入覲の遅緩した罪を謝し奉った。
 聖上は親しく恩諭の詔があり、且つ「一橋中納言、会津中将、桑名少将は長らく京師にいて、よく人情形勢を知っている。卿はよろしく百事をこの三人に諮詢し、特に長防のことは遺算なく処理して、朕の意を安んぜよ」とのことであった。将軍家は謹んで、これを奉じた。やがてまた御学問所に召され、恩待数刻におよび、その優渥なことは、前年と変わらなかった。
 この日、将軍家へ伝奏衆から、小御所において勅書が伝えられた。その大意は、

一 防長の処置は滞坂して熟議をこらすべし。

一 処置の旨趣は奏聞すべし。

一 征長の事は軽挙に走るべからず。

一 公平至当に処置すべし。


 将軍家はこれを拝受し、天がようやく暁になる頃になって退朝された。わが公はつき従って、二条城に詣った。
 将軍家は今回の恩眷に対して、感銘の情が辞色にあふれていた。わが公もこれを拝聴して、感泣し、「よって長く在坂され、長防の処置を決し、また諸藩の革新を成就し、宸襟を安んじ奉らないうちは、誓って東下されることのないように」と悃々と上言した。将軍家も大いに然りとし、老中以下、席につらなる輩も、一人として異議を言うものはなかった。





 長州処分案     この日(二十三日)、慶喜卿とわが公、所司代が老中と会い、長防の処置を評議した。
 老中の意見は、おおむね毛利父子に切腹させ、所領は取上げというのであったが、中には、それを苛酷すぎると言う者が一、二あって、決定に至らなかった。慶喜卿は、父は蟄居、子は切腹、封土は減封という説であった。
 わが公の意見としとは、「いやしくも禁闕に発砲した大罪は切腹、褫封(ちほう)ももとより当然であるが、酷に失するとの物議のあることも考慮せねばならない。ひそかに聞くところでは、肥後、土佐、久留米等の諸藩は、おおむね幕府に委任するのを可としているが、その処罰については、父子の助命、封土の半分または三分の一を取り上げることを希望しているという。人心の向うところもまた察しなければならぬ。もし法度をふりかざして、厳罰を用い、万一、それを非とする諸藩が続々と群起することになれば、勢い兵力で平定しなければならない。顧みるに、方今の幕府の独力で、これを征服することができるであろうか。ゆえに、父子を助命し、周防一国を取り上げるのがよい」というのであった。このように衆議がかけはなれているので、遂に決定を見ずに終った。





 懇篤なる慰労     この日、将軍家は、特にわが公と定敬朝臣を近く召して、頻年その職務に劬労(くろう)したことを慰め、懇篤をきわめた。罷り出ようとする時に、なおわが公を留めて、去年からの病状を慰問され、かつ賊徒の禁門砲撃の状況を諮問し、時の過ぎるのも忘れて款語した。話のうち、往々、慶喜卿を嫌悪される口ぶりがあった。そこで、わが公は慶喜卿の忠勤ぶりをつぶさに称揚し、その意を解くことができた。
 わが公の退出にあたって、将軍家は、またさらに召して、「朝命もあることであるから、あとを追って大阪に来て、長防の処置の評議に参加してくれるように」と面命された。
 この日、老中らもまた、こぞって、去年以来のわが公の労をねぎらった。前々から幕府の有司たちは、わが公が一意朝旨にのみおもねり、幕府の不利など毫も顧みないものと猜疑していた。近頃、やや釈然としかけていたが、それでもなお未だ安んじないものがあったのが、ここにおいて全く疑いのかたまりが氷塊し、わが公が依頼するに足ることをはじめてさとり、それからは百事を相談するようになった。何と遅々たるものであろうか。
 しかし、この信頼もまた一時のことで、まもなくまたもと通り、わが公を信じなくなるに至った。





 小笠原長行再任     二十四日(閏五月)、将軍家は二条城を発して、大阪に行く。
 二十七日、わが公は、翌日大阪に行くので、参内、階辞し、二十八日、大阪に至り、一心寺に館をきめた。日々登城し、廟議に参与し、六月十五日に帰京した。
 この時、幕府の諸有司中、有志の者は、小笠原長行を再び老中に補することが目下の急務であると主張した。わが公もそれに賛成であり、大阪に在る間、慶喜卿とともに老中たちを説得して、長行の再任を議した。まもなく長行は老中に補せられた。





 毛利淡路ら哀訴     これよりさき、長門の支藩毛利淡路、吉川監物らは、安芸藩を中に立てて書を幕府に呈し、宗藩のために哀訴するところがあった。よって、幕府はこれを大阪に召し、既往現今の事情などを推究して、そのあとで、処置を決めることにし、十七日(六月)、慶喜卿、わが公、老中安倍正外朝臣とともに参内し、このことを上奏した。
 伝奏衆はそれに対して、総督、守護職が同時に下坂すれば、京師の守護の責任者がいない、毛利淡路らが上坂するまでは、二人のうち交番で下坂するように、との勅を伝えた。それ以後、総督とわが公が交番に下坂して、大議に参じた。
 八月朔日、幕府がさきに(元治元年二月)賜うた加棒の地のとりきめがあり、近江で一万五千石、和泉で一万石余、越後で二万五千石を賜うとの命があった。
 九月朔日、京師の下立売の官邸が落成したので、この日、ここに移った。





 長藩の情勢一変     この頃、長門藩では敬親(毛利慶親は、さきに幕府から下賜された前将軍家慶の慶の字をはぎとられ、慶を敬に改めた)父子を中心に、過激派が全く勢いを得てきていた。そして、さきに砲撃して怒りを買った諸外国とひそかに和議を結び、また薩摩、土佐、筑前等の雄藩と款(よしみ)を通じて、緩急の時の援助を請い、大いに幕府と戦う準備を整えて、しきりに兵衆を鼓舞して、気ほとんど関西を呑む勢いとなった。
 朝廷、幕府は、未だそのことを夢にも知らず、単に孤立無援で、制御しやすいものと思い込み、淡路らが上京するのを待ち暮らしていた。あにはからんや、先方の情勢ら一変して、前日哀訴した時とは比較にならないので、淡路は病気と言って延期を願い出てきた。
 幕府は、さらに毛利讃岐、毛利左京および本藩の家老二人に上坂を命じ、八月十七日から四十日間を期日とし、もしその期を過ごしたら、ただちに大旆(たいはい)を進めて再三の違勅の罪を責めることを通告した。先方はおもてには恭順を示し、それを承諾しながら、期日が迫っても、なお病と称して出てこようとしない。
 わが公は、いよいよ将軍家の出征と聞いて、慶喜卿、定敬朝臣と相議し、「征夷のことは、幕府が私敵を討伐するのとは違い、畏くも勅旨を奉ずるのであるから、いま大旆を出す前に、よろしくまず入朝して、事の次第を奏上し、階辞の典を挙げるべきである」と建議した。将軍家もこのことを嘉納し、ただちに十五日(九月)、大阪を発して京師に入った。よってわが公は、家老萱野長修(権兵衛)をつかわし、郊迎させた。十六日、わが公は二条城に登城し、将軍家の入居を賀し、その後、日々登城して大議に参与し、画賛【注一】するところが多かった。






 将軍出征の階辞     二十二日(九月)、将軍家が参内あって、左の表を奉り、階辞した。わが公も、それに扈従した。

防長の儀については、かねて奏聞仕りおき候通り、条理、順序を追い、不審の件々をとくと糺問の上、それぞれ処置仕るべく存じ奉り、毛利淡路、吉川監物大阪表へ早々罷り登り候よう申し達し候ところ、登坂延引仕り候につき、自然、両人に於て差し支え候わば、外の末藩ならびに大膳の家老共のうち、申し合わせ、当月二十七日までに相違なく出る坂候よう重ねて申し達し候えども、今もって登坂の模様もこれなく、この上いよいよ違背に及び候わば、もはや寛宥の取り計らいも仕りがたく候につき、余儀なく旌旗(せいき)を進め、罪状相糺し申すべく存じ奉り候。尤も兵機は緩急、その外とくと熟考の上、遺算これなきよう処置仕るべく存じ奉り候。この段奏聞仕り候。

 聖上は、これを嘉納あらせられ、親しくなって黽勉〔勉め励み〕事に従うべしと詔あって、恩遇きわめて渥く、また御剣と陣羽織を賜わったが、それは、古代の節刀の儀式に凝したとのことである。将軍家は謹んで奉戴し、翌日大阪に帰った。





 外艦兵庫へ来る     これよりさき(六月十九日)、英、仏、蘭三国の軍艦九隻【注二】が兵庫港に舶し、切に開港のことを幕府に迫った。しかし、いまはその時機でないという理由で、幕府は要請に応ぜず、懇諭数十日に及んだが、事が決しない。
 ところが二十四日(九月)に、俄然、将軍家から使者を馳せて、左の手書を慶喜卿に渡し、卿とわが公とを召した。

一筆申し進め候。外国人と応接のため、昨日豊後守をつかわし候ところ、唯今罷り帰り、委細に承知候ところ、天下の重事じつに言語に絶し候次第に至り候間、即刻御下坂相成るべく候。
書外にて申し入るべく、他事これなく候。不備。なおなお、肥後守儀も御同道これあるべく候。


 老中からも書を贈って、慶喜卿の下坂を請うてきた。その大意。

一 国事の急務につき、極々すみやかに御下坂あそばさるべく候こと。

一 右の儀につき、関白殿へ仰せ上げられおき候こと。

一 前条の事件につき、近々御上洛あそばされ候こと。

一 なおもって、肥後守儀是非とも下坂候よう、きっと仰せ出だされ候間、この段御意相願い候。
くれぐれも速やかに、即刻、前後御考えに及ばず候間、御下坂専一に存じ奉り候こと。


 そこでわが公は、慶喜卿とともにただちに二条殿下に詣り、下坂の暇を請うた。殿下はこれを聞いて、事情はやむをえないとしても、中納言〔慶喜〕一人下坂し、守護職は任が重く輦下をはなれてはならないとのことで、二人が再願しても聴き入れられなかった。よって、重臣西郷近潔(勇左衛門)を慶喜卿に随伴させて、その事情を述べさせることにした。





 幕府開港を許す     二十六日(九月)、二条殿下は、わが重臣を召して、某々の諸藩士(肥後藩士浅井春九朗、久留米藩士久徳与朗とのこと)が幕府に重大な議があると聞いて、会津中将は列藩の嘱望する人であるから、是非とも下坂して、会議に出席すべきであると建議した。中川宮も、それに賛成し、相共に奏聞したところ、はやく下坂させよとの命があった。夜に入って(亥の刻)、伝奏衆が勅を伝えて下坂の暇を賜わった。
 その時、慶喜卿から、会議が終って帰京する旨を家臣に報じさせてきたので、しばらくその帰京を待ってから、下坂することを奏請した。
 暁になって、さきに大阪にやった家臣の西郷近潔が帰京して、慶喜卿からの伝言を伝えた。その大意は、はじめ慶喜卿が下坂してみると、老中から使番某を途中までつかわして、外国人との商議はおだやかに局を結ぶことになろう。ゆえに、総督も、守護職も下坂なさるには及ばないという知らせであった。慶喜卿は、事の委細を極めなければ帰京して奏聞のしようもないと思い、急に馬に鞭を打って、暁天大阪城に着き、ただちに老中に面会し、事の理由を問うた。
 阿部正外朝臣が進み出て、「英仏人が、かねがねの条約に改めて勅許を得るとともに、条約通り、兵庫開港のことにつき、明日中に許否の確答がほしいと迫ること切で、僕らが意をつくし、百万諭してみたが、彼らは頑として聴こうとしない。もし明日が過ぎたならば、闕下に推参するか、もしくは大阪城に詣り、親しく大君にあって談判しようと、辞色決然として、とうてい翻心させることができない。ゆえに、止むをえず開港を許すことに決定した」とのことである。





 天譴を覚悟     慶喜卿はこれを聞いて大いに驚き、勅許も得ずに、幕府がひそかに開港を許したことの不当を詰責した。
 正外朝臣と松前崇広朝臣が言うには、「勅許を得なかったことの不当は、僕らもとよりこれを知っているが、これを拒絶すれば、その場で手切れという返答なので、はたして開戦とでもなれば、我に勝算なく、結果は言うにしのびない辱を受けることになろう。万一の時は、上は天朝に対し奉り、うちは祖宗に対せられ、下は億兆の民に対して、半言の詫びの言葉もない。今、勅許を得ないでひそかに開港を許せば、たちまち天譴(てんけん)にふれ、海内人心の紛擾を招くことは、必至である。しかし、これを前件に比べれば、事の軽重は言を費すに及ばない。ゆえにまずこれを許して、予らで責任をとり、天朝に謝罪し奉るのほかに道はない。万一、朝廷で御許しがない節は、将軍家がお咎めを引いて職を辞し、謝し奉るとしても、国家に災いを及ぼすよりはましである」と言い、論弁してやまなかった。





 将軍嘆息するのみ     ここにおいて慶喜卿は、将軍家に謁して、老中を召し、「開港のことは今、防長処置の問題があるので、それが結着するまで、期限を延ばしてくれるように言葉をつくして諭したら、彼とても、了解しないわけはあるまい。万一、無謀にも彼から戦端を開いてきたら、そのときは、じつに止むをえない。今、勝手に開港を許して、天譴を蒙るようなことがあれば、諸藩はことごとく立ち上って、幕府に背き、海内は四部五裂となって、遂に収拾のつかない事態に至るかもしれない。その際に乗じて、外人が不逞にも国をうかがうような事態となったらどうなるか。卿ら、さらに熟考して尽力するように」と懇々諭してみたが、正外朝臣らは「事がすでにここまで来てしまっては、施すべき手段がない」として、卿の言葉に従う気色もない。ほかの老中は、また一言を発しない。
 将軍家もまた、「予は叡慮に従い奉ろうと誓いながら、時勢が非で、事が意のごとくにならない。聖恩に背く罪は逃れる路がない」と言って、慨嘆するばかりである。
 慶喜公は早速、わが公に手書を送って、その事情を詳報した。





 髭、月代剃るまじく候     わが公はこれを見て、大息して思うに、「不肖、職を奉じて以来、一億幕府を輔翼し、叡慮を遵奉させ、公武一和の実績をあげて、国家の安寧を保とうとする以外のことは考えなかった。そもそも横浜港をすら鎖(とざ)すようとの勅があるのに、いわんや、今また勝手に兵庫港を許可するにおいておや。朝廷から幕府に、どのような所罰があっても、弁解の道はない。わが微力では、天朝と幕府の間の融和につくす道は、すでに絶えた。職を辞して、罪を待つよりほかはない」と、すなわちその旨を重臣に諭し、左の訓戒を発するように命じた。

一 この度の御一条については、中将様にも深く御恐縮、御慎みなされ御座候間、御家中一統にも、きっと相慎み、いかにも恐縮、逼塞罷りあり、高声、高咄、かたく相禁じ申すべきこと。

一 髭、月代剃るまじく候。但し、御所堂上方へ罷り出で候面々は苦しからず候こと。

一 所々御屋敷当番の面々は、夜中、穏便に交代致すべきこと。






 井上元七郎     二十八日の暁天、大阪にある家臣広沢安任は、慶喜卿の旨をふくみ、馳せて京師に帰り、次のように報告した。
 慶喜卿から急にお召しがあり、命があって、さきに英仏等の腹を探らせるために、ひそかに大阪の町奉行井上元七郎を召して、内意をふくめ、阿部正外朝臣の使いと称して兵庫に至り、三国の使臣に会見して、「開港のことは皇帝陛下の裁可を得るのでなければ条約は締結しがたい。たとえ大君(将軍家)が一時の条約を結んでも、それは大君だけの私の約束にすぎない。それで、皇帝陛下の裁可をうるには、今からおよそ十日間の時日を要する。諸君が、日本帝国の真正の条約を欲するならば、しばらく待て」と言わせた。
 三国の使臣は、しばらくはそれを信じなかったが、元七郎が、「わが国の習慣で言葉の真実なことを証明するのに血誓ということがある。いま諸君のために、これをしよう」と言って、脇差の小刀を取って、指を指した。
 使臣らは、あわててこれを止め、前の失言を謝し、その請を容れて、言うには、「もし十日で決定しなければ、なお四、五日は延ばしてもかまわない。さきに酷しく強請したのは、急に迫れば事必ず成就すると教えた人があったからだ。貴国の事情が右のごとくならば、なにも今明日と限ったわけではない」という言葉であった。





 一座唖然とす     元七郎は馳せ帰って、このことを慶喜卿に具陳した。すぐさま一緒に登城して、老中らを集め、元七郎にその顛末を語らせた。
 一座は唖然とすりばかりであった。
 慶喜公は、正外朝臣、崇広朝臣に向って、「卿らはさきに、再三懇諭してみたが先方で承知しないと言ったが、どうしたわけか」と言うと、二人は大いに慚謝した。そこで、退いて、後の命を待たせた。
 幕府の評議はこれで一変し、明日は将軍が上洛あって、三国要求の顛末を奏上し、勅栽を仰ぐことに決したというのであった。
 わが公はこれを聞いて、手を額にあて、「不肖容保の報効の道は未だ絶えていない」と言って喜んだ。





 二老中罷免     この夕、慶喜卿が帰京した。そこで、相共に参内して、明日、将軍家が上洛の由を奏上した。
 ところが、すでに二十九の昼すぎになったが、将軍家の上洛がない。すぐに大阪からの伝説があって、阿部、松前両閣老が事にあたり、幕府の評議がまた変ったと言うのである。
 そこで慶喜卿は、わが公と定敬朝臣を招き、「将軍家上洛の遅延した理由を奏上しなければ、朝廷に対して失礼となる。それに、正外、崇広の二朝臣が依然として政務をとるとなると、必らず紛議が起るであろう。急に行って処置しなければ、おそらく悔いても及ばないことになろう。察するところ、事態は容易ではない。中将も共に行って力をつくしてほしい」とあって、相共に参内し、殿下から事の次第を奏上し、下坂の暇を請うた。
 殿下は、守護職の下坂をゆるさず、また言うには、「近日の面倒は、全く阿部正外と松前崇広の二人から出たものである。速やかに勅旨を下し、二人に厳刑を加えれば、事がうまくゆくのではないか」とのことであったので、慶喜卿とわが公は、二人のために哀請し、ようやく殿下を承知させた。
 しばらくして勅があり、阿部正外、松前崇広の二人の官位をうばい、領地に帰って、後命を持たせるようにとあった。また徳川慶喜が急いで下坂し、大樹の上洛を促すようにとのことであった。この間、数刻の時をすごし、暁近くなって、二人はようやく退朝した。





 茂徳卿らの動向     その頃、徳川大納言茂徳卿(尾張藩主、後に茂栄と改めた)と老中小笠原長行朝臣とがともに伏見まで来て、何事か奏請しようとしていると報じてきた。わが公はさきに、正外、崇広の二人を罪し、将軍家の上洛を促すこととなれば、旗下の動揺【注三】が甚だしかろうと憂慮していたところへ、今茂徳が老中とともに入朝しようとしていると聞き、これは必らず一紛議があったに違いない、予が出向いて、朝旨を開示しなければ、どのような事変になるかもしれないと思って、慶喜卿に謀り、殿下のもとに詣って、下坂の暇を請うた。
 殿下は依然として許さず、「まず伏見に行って、徳川茂徳、小笠原長行の来意を尋ねよ」と言われた。そこでわが公は馬を飛ばして、伏見に赴いた。じつに十月朔日、申の刻〔午後四時頃〕のことである。
 つづいて慶喜卿、定敬朝臣も来て、茂徳卿の館に詣り、その来由を問うた。すると、卿は「この事は秘密で、奏上に先立って漏らすわけにはゆかない。ただ諸君は、その通りに奏上せよ」と言って、慶喜卿が一、二耳にしたことについて質問しても、答えない。
 慶喜卿は憤然として座を立ち、定敬朝臣とともに京師に帰った。その時に、長行朝臣は未だ到着していなかったので、わが公もまた家臣一、二人を残して、京師に帰った。





 わが公茫然自失     二日の暁、長行朝臣が伏見に着いた。わが家臣が、わが公の命をうけてこれを迎え、来意を問うたが、長行朝臣は「じきに貴邸を訪ね、肥州に会って話そう」と言うだけで、他は答えない。
 晩になってから、長行朝臣が来て言うには「事秘密に属するのであるが、いささか大意を告げよう。一つは開港の勅許、一つは将軍職を慶喜卿にゆずることの奏請である。決して他にもらさないように」とのことであった。わが公はこれを聞いて、茫然自失し、一語も発することができなかった。
 けだし、両条とも至大の重事で、殊に将軍職の謙職のことのごときは、あらかじめわが公に諮詢してしかるべきなのに、ひたすら秘密のうちにこの大事を奏請するに及んで、なおその事情の委曲を告げもせず、従来の重き委任を無視するのは、じつに意外なことであって、わが主従は憮然とするばかりであった。





 将軍辞任の上表     この日、茂徳卿から左の上表があった。

臣家茂、幼弱不才の身をもって、これまでみだりに征夷の大任を蒙りながら、日夜勉励も及ばず罷りあり候ところ、内外多事の時にあたり、上は宸襟を安んじ、下は万民を鎮むる能わず、加うるに国を富まし、兵を強うして、皇威を海外に輝かし候力これなく、ついに職掌を汚し申すべしと痛心のあまり、胸痛強く、鬱閉致し罷りあり候。
しかるところ、臣家茂家族の内にて、慶喜儀は年来闕下に罷りあり、事務にも通達仕り、大任に堪え申すべく存じ奉り候につき、臣家茂退隠し、慶喜に相続仕らせ、政務を相譲りたく候間、臣家茂の時のごとく、諸事御委任下しおかれ候ように希い奉り候。尤も、当今、時務の儀については、別紙をもって奏聞仕り候間、右慶喜へ御沙汰御座候よう願いおき奉り候。


 別紙
臣家茂、謹しみて宇内の形勢を熟考仕り候ところ、近来、追々変遷致し、和親を結び、有無を通じ、互いに富強を計り候風習に推移候。
これ天地自然の気数、止むをえざるの勢にこれあるべく存じ奉り候。ついては、皇国に限り一向御外交存じなされず候わでは、卑怯退縮の姿と相成り、御国体、御国威とも相立ち申すまじく、すでに先年、下田港において【注四】、アメリカ使節と和親条約を取り替わせ相成り候も、右等斟酌の上、奏聞をとげ、御許容相成り候儀にて、それ以来、追々鎖国の旧格を変じ、富強の基ゆうやく相開き候ところ、その後、外交拒絶の儀仰せ出だされ候につき、成るべきだけは聖諭遵奉仕りたき志願に御座候えども、無謀の掃攘は致すまじき旨、なお仰せ出だされ候趣もこれあり候間、いずれにも富国強兵の策相立ち候上ならでは、膺懲の典も行なわれがたく、ついては、彼の長ずる所を採り、貿易の利をもって多くの船礟〔軍艦大砲〕を設備し、夷をもって夷を制するの術を講じ候こと、当今第一の急務と存じ奉り候。
これまで種々苦心罷りあり候折から、防長の事件相起り、遂に大阪城まで出張仕り候ところ、料(はか)らずも夷舶兵庫港へ渡来し、条約の廉々(かどかど)、改めて勅許これあり候よう申し立て、もし臣家茂に於て取り計らいかね候えば、彼闕下へ罷り出で、直に申し立つべき旨申し張り、種々論談をつくし応接仕り候えども、なにぶん承諾仕らず、さりとて無謀の干戈をうごかし候ては、必勝の利おぼつかなく、たとえ一時の勝算これあり候とも、四方環海の御国柄、東西南北、旦(あした)に暮に攻掠を受け候て、戦争やむなき時は、皇国の生民の糜爛(びらん)このときより相始まり申すべく、不仁不慈、この上はこれあるまじく、まことにもって嘆かわしき儀、臣一家の存亡は差し置き、宝祚の御安危にも関係仕り、じつもって容易ならざる儀にて、陛下万民を覆育あそばされ候御仁徳にも相戻り申すべきや。
臣家茂に於ても、職掌相立ち申さざる間、右等のところ、とくと思し召し分けさせられ、恐れながら、衆口にも御動揺これなく、断然と御卓識を立てさせられ、なにとぞ改めて条約につき、虚を去り、実を存じ、至当の談判仕り候儀、判然と勅許成し下され候よう仕りたく、さ候えば、いかようにも尽力仕り、外は外夷制馭の実備を立て、内は防長追討の功を遂げ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安堵せしめ、祖先の志に報い申すべき志願に御座候。いかように英武の御国に候とも、万一内乱、外寇一時にさしあつまり、西洋万国を敵に引きうけ候ては、ついには聖体の安危にもかかわり、万民塗炭の苦に陥り候は必然の儀にて、まことにもって痛哭、慨嘆の極み、かりにも治国、安民の任を荷い候職務に於て、いかよう御沙汰御座候とも施行仕り候儀は、なにぶんにも忍び嘆く存じ奉り候。
よって、前文申し上げ候通り、速やかに勅許の御沙汰を成し下され候わば、宝祚の無窮、万民の大幸この上なく、千々万々、懇願し奉り候。まこと不任、悲嘆、号泣の至りと存じ奉り候。尤も、外夷、闕下に罷り出で候よう相成り候ては、深く恐れ入り奉る儀につき、せいぜい尽力、談判をとげ、来る七日まで兵庫港へ差し控えさせ候間、なるべく早々御沙汰成し下され候よう仕りたく、この段奏聞し奉り候。


 幕府はまた井上元七郎を兵庫につかわし、三国の公使に会見して、十日間の延期を締約した。





 東帰引止めに奔走     三日(十月)、わが公は慶喜卿のもとをたずね、将軍家よりの上表の件については商議した。その時に、大阪から飛報があって、将軍家が東帰の令を発し、今夜伏見に宿泊すると知らせてきた。つづいてまた、東帰は海路をとり、いま船の支度中であるとも言ってきた。
 わが公は、愕然として蹶起し、今日将軍家が東帰されれば、大事はことごとく去るだろう、引き止めねばならぬとして、奏請するいとまもなく、馬を馳せて淀橋まで来ると、はやくも旗下の武士が隊を整えて前進してくるのに出会った。そこで、東帰の路程を尋ねると、「将軍家は陸路を帰られることとなり、僕らはその前駆であります」と答えて、過ぎていった。
 その時、また大阪から飛報があり、将軍の東帰は陸路であるとのこと。時はすでに申の刻〔午後四時頃〕を過ぎていた。定敬朝臣もまた馳せてきて、共に伏見まで帰った。
 そこへまた総督が追いつき、伝奏衆からのわが公への左の勅を伝えた。

実否計りがたく候えども、大樹の東帰の催しこれあるかの由、風聞候。ただ今もし東帰候ては、たちまち混雑大事に及ぶべく候間、滞坂これあり候よう、早々下坂し、尽力これあるべき旨御沙汰候事。





 紛々たる報知     その時、流説があって、将軍は陸路で帰ると見せかけて、じつは海路をとるのだという。そこでわが公は、慶喜卿とともに、急に淀に向った。そこへ、たちまち飛騎が来て、「陸路をとられるのが真実です」と言う。それでは、とわが公たちが轡(くつわ)を返そうとすると、さらに海路であるという知らせ。一報一説、紛々として、いずれが真実で、いずれが偽報なのか、見当がつかない。
 しばらくして、また報があって、台駕は今夜、枚方(ひらかた)に泊るとのこと。日はまさに暮れんとしていた。
 わが公は、報告が転変して信を置くことができない。もし逡巡していれば時期を失う、速やかに枚方にゆくよりほかはないとして、定敬朝臣を京師に帰して、守護に充(あ)て、夜の四つ半〔午後十一時〕頃、慶喜卿とともに川舟に乗って伏見を発し、橋本までゆくと、また早馬が飛んできて、「台駕はすでに枚方を出発して陸路を数里も進んでいる。暁方には伏見に着くだろう」と知らせてきた。
 そこでまた、急に舵を転じ、川をさかのぼって、伏見に帰って待っていると、果して、四日未明に、将軍家の駕が伏見に着いた。
 定敬朝臣もまた京師から駈け来って、相共に将軍家に謁し、「条約開港の事は、元来叡慮の厭(いと)わせられることではあるが、今日の時勢はもはや前日の比ではないので、よろしく情状をつまびらかにさせて奏請し、臣らもまた至誠をつくして奏請すれば、聖明も必らず照鑒(しょうかん)を垂れ賜うであろう。それに、防長のことが未だ結局していないのに、中途でにわかに東帰されれば、たちまち天下人心の帰嚮を失い、これを挽回することは不能である。従って、祖宗の業も、これで地に堕ちることになろう。願わくば台駕を二条城にとどめ、朝旨を奉じて庶績を挙げるように」再三苦請したので、将軍家の心もようやく釈(ひら)け、これを嘉納して、ただちに東帰をとりやめ、二条城に入った。





 条約勅許を上書     そこで、慶喜卿、わが公、定敬朝臣、長行朝臣らが参内して、伝奏衆から左の書を奉った。

この程、計らずも外国人兵庫港へ渡来し、条約の儀を改めて勅許これあり候よう申し立て、もし幕府に於て取り計らいかね候わば、闕下へ罷り出で、直に申し上ぐべき旨を申し張り、種々力をつくし応接仕り、来る七日までは相控え候えども、いずれにも御許容これなく候わでは、退帆仕らず、さりとて無謀の干戈(かんか)を動かし候えば、必勝の利おぼつかなく、たとえ一時の勝算これあり候とも、わが一孤島の地をもって西洋万国を敵に引き受け候えば、幕府の存亡はしばらく差し置き、ついには宝祚(ほうそ)の御安危にも拘わり、万民は塗炭の苦を受け申すべく、まことにもって容易ならざる儀にて、陛下万民を覆育あそばされ候御仁徳にも相戻り、ついに治国安民の任を荷い候職務に於て、いかよう御沙汰御座候とも施行仕る儀、何分とも忍びがたく存じ奉り候。右のところ、とくと思し召し分けなされ、早々勅許成し下さられ候よう仕りたく、さ候えば、いかようにも尽力仕り、外国船退航仕り候〔よう〕取り計らい申すべく存じ奉り候。以上。





 条約遂に勅許     書を奉ったが、朝廷はしばらく可とせず【注五】、明日(五日)、加賀、薩摩、肥後、肥前、越前、土佐、久留米その他十五藩の重臣三十九人を召して、このことを諮詢した。わが公は家臣野村直臣、広沢安任、手代木勝任、上田伝治らを評議に参加せしめた。
 諸藩の議論は、それぞれ趣を異にしているが、おおむね大同小異で、開港許可は止むをえないというところに帰着し、ただ一、二藩の異議があったのみであった。これで評議ははじめて決定し、この夜、伝奏衆から優詔を垂れ、将軍の譲職をお許しなく、また開港条約について左の勅を賜わった。

このたび兵庫表へ異船渡来につき、作四日大樹より一橋中納言、松平肥後守、松平越中守、小笠原壱岐守をもって、段々遮って言上の次第これあり、夜を徹し、今晩に至って追々議論し、今日諸藩共を召させられ、御尋問のところ、十に八九は御許容しかるべしとの衆評暗合し、まことに止むことを得させられず、別紙の通り仰せ出だされ候事。
十月五日
条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の所置致すべき事。
別紙の通り仰せ出だされ候については、これまでの条約は品々不都合の廉(かど)これあり、叡慮に応ぜず候につき、新たに取り調べ伺い申すべく、諸藩衆評の上にて御取り極め相成るべき事。
兵庫の儀は止められ候事。


 



 外舶悉く去る     ここにおいて、数年の間むすばれて解けなかった条約の問題は、はじめて解決をえたわけである。将軍塚は、これを奉戴して、謹んで左の書を奉った。

臣家茂、幼弱不才の身をもって大任を蒙り、内外多事の時にあたり、遂に職掌を汚し申すべく、且つ近来胸痛、鬱閉の症を相発し、大任に堪えがたく存じ奉り、叡慮の程をも顧みず、退隠の願書を差し出し候ところ、御沙汰に及ばれがたき段、仰せ出だされ、何とも当惑仕り候。
もとより決心仕り候儀、今更思い止まりがたく、再願仕りたく再三再四熟考仕り候ところ、これまでの不行届は御咎めもこれなく、加うるに御沙汰に及ばれがたきとの朝命を蒙り、感激のあまり病を推して出勤仕り、従前の非を改め、日新の徳を修め、浮華を去り、質実をつとめ、政道を確然と相立て候上、上は宸襟を安んじ、下は万民を保ち候ようお呼ばずながら勉励仕るべく存じ奉り候。これによって、謹んで申し上げ奉り候。


 右のごとく条約の勅許があったので、すなわち老中松平宗秀朝臣、大目付永井玄蕃頭(主水正尚志)、大阪町奉行井上主水正(初名元七郎)を兵庫にやって、三国の公使にその旨を通じ、さらに横浜で商議するように伝えさせた。公使らはこれを了承して、八日、九日の二日の間に、ことごとく兵庫を解纜(かいらん)して横浜に向った【注六】。




 わが公の苦労     思えば、はじめわが公は攘夷の不可能なことを知り、守護職に補せられた時、まず幕府に書を奉り、三港(長崎、函館、横浜)の開港をゆるし、他の港を拒絶することを建議した。守護職の職について、上京するに及んで、叡慮が固く攘夷にあるのを知って、如何ともしがたく、持論を変えるわけではないが、謹んで叡慮に奉従していた。ただ心中では、常に叡慮をひるがえされる時のくることを望み、ひたすら公武一和に尽瘁してきたのである。
 今や幕府が開港の勅許を請うに及んで、大勢のやむをえないことを洞察し、遂に意を決して、これに賛同した。この頃には、朝廷の当路の人々もまた、攘夷が不可能で、開港のやむをえないことがわかっていたけれども、前説をたやすく変えるとの誹(そしり)をはばかって、しばらくはこれに賛同しない人が多かったので、わが公は、公用人を諸藩の有志の人のもとにやって遊説させ、遂に十余藩の会議にまでもちこみ、開港の勅許をこうむるに至ったのである。
 わが公は、この事に関して、前月二十五日からこの日までの間に、伏見に馬を馳せること二回、その他、公卿の間をあちこち奔走すること十日、その間、ほとんど寝食の暇もない有様であった。蒲柳(ほりゅう)の質の上に、病上りの労躯であったわが公に、万一のことでもあってはと、家臣どもは、深く憂慮していた。





 薩長連合の風説     この月(十月)二十七日、将軍家の参内があり、前件の恩を謝した。わが公が扈従したことも例の通りであった。越えて十一月三日、将軍家は大阪に行った。
 これよりさき、長門藩がひそかに薩摩、土佐の諸藩と相和しているとの説が、ようやく聞えてきたので、幕府は大目付永井玄蕃頭、目付戸川鉡三郎を安芸につかわし、不審数件【注七】について審問させた。わが公もまた新選組の頭取近藤勇を随伴せしめ【注八】、十一月七日、一同は大阪を出発した。





 近藤勇の報告     この月(十二月)二十二日、新選組の頭取近藤勇が帰京して、長防の情勢を報告した。その大略は、

一 芸州に来りたる長門藩家老宍戸備後介は、その実、奇兵隊用掛、山形某と称する軽輩にて、その余もみな偽名【注九】なること。

一 君臣、陽に謹慎、恭順を表すといえども、陰に戦闘の準備に汲々たること。

一 山口に会議所を設け、諸隊より選抜の者これに会し、諸事を決し、且つ削封は、寸地もこれを背(がえん)ぜずと主張し、諸藩もまたひそかに征長を可とせざること。

一 芸州出張の旗下の兵、彦根、榊原らの諸藩兵、勇気沮喪甚だしく、これをして戦わしむるも勝算おぼつかなきこと。
右のごとき情態につき、長門藩は謹慎恭順を表し、伏罪の形にこれあるについては、この上ふかく取詰るに及ばず、寛大の御処置の方しかるべくと存じ奉り候。


 この夕、永井玄蕃頭が上京し、書面をもって具陳してきたことも、ほぼこれと同じであった。
 そこでわが公は、定敬朝臣とともに慶喜卿の館にまいり、再三審議のはて、遂に小笠原長行朝臣、若年寄の稲葉兵部少輔正己、大目付永井玄蕃頭に、なお室賀伊予守を加え、更に安芸につかわし、敬親父子を糺問することに決し、二十五日、永井玄蕃頭と滝川播磨守に書面をもたせ、大阪にやって、このことを建議した。しかし、幕府は躊躇して、しばらくその採否を決しようとしなかった。





 慶応元年は暮れぬ     二十七日、わが公が召しによって参内したところ、伝奏衆、野宮定功卿から、左の恩詔を賜わった。

山陵多年荒蕪に及び、かねがね恐れ思し召され候ところ、去る文久二年、大樹においては、御修補の儀を尊奉し、一切戸田越前守へ委任、同人の代として同性の大和守を上京せしめ、五畿内、丹州の諸山陵百有余個所の御修補【注十】、すみやかに成功相成り候段、畢竟、発業の砌(みぎり)、厚く評議の上差図致し候ゆえ、積年の叡慮一時に遂(と)げさせられ、御追考相立ち候段、御満足に思し召され、よって御賞として裏付の狩衣賜わり候事。

 わが公は、これを拝戴し、恩光一層を加えて、ここに慶応元年も暮れていった。





 再び毛利処分案     慶応二年正月四日、わが公は参内あって、小御所で天顔を拝し、正月の賀を述べ奉った。例年通りである。
 これよりさき、幕府は徳川茂徳卿を征長先鋒総督に任じたが、卿は辞退して受けなかった。思うに、その兄慶勝卿が再征に不賛成であったからである。そこで、徳川茂承卿を総督とし、茂徳卿に後殿(しんがり)を命じたが、この日、これを罷(や)めて、茂徳卿を江戸城の留守とした。
 去歳、わが公は慶喜卿、定敬朝臣らとともに、老中小笠原長行朝臣を安芸につかわして、毛利敬親父子を糺問せしめるよう幕府に建議した。幕府はその時は問題にしようとしなかったが、この歳になってから、老中板倉勝清朝臣、小笠原長行朝臣を京師につかわし、わが公と定敬朝臣を慶喜卿の館に会し、台命を伝えて、敬親父子の糺問のことはしばらく惜いて、特に寛大の処置をとるよう建議せよとのことである。
 慶喜卿はこれを非とし、糺問してから後にその罪を論ずるのでなければ、国家の典刑が立たないと、前からの持説をひるがえさない。勝清朝臣らは退いてから、ひそかにわが公に「中納言〔慶喜卿〕の言葉も理がないではないが、方今の情勢では実行困難である。どうか中納言を説き伏せて、台旨に従い、寛大な処置をさせるようにしてほしい」とのことであった。
 公はそこで、そのことを慶喜卿に告げ、ふたたび卿の館で会合した。慶喜卿の言うには、「長防〔三十六万九千石〕のうち、十五万石を与え、その余はとりあげ」とのことで、わが公と定敬朝臣とは、半分を削るべしという意見である。勝清朝臣が進み出て、「江戸の同列の意見では、十万石を削ることに決まり、台慮もまたすでに寛大を旨とされている。公らもまた台慮を体して、再考されたい」と言ったので、慶喜卿も、その半分を削る議に賛同した。
 しかし、勝清朝臣は固く前議を主張するので、遂に決定を見ず、その後、また勝清朝臣は、慶喜卿の館で会合することを求めたが、慶喜卿は人をやって、前日通りの議ならば会う必要がないと拒絶させた。勝清朝臣が再三請うたが、慶喜卿も頑としてきかない。そこで勝清朝臣らは憤然として、議が決しないままでいたずらに数日を経るのに忍びず、大阪に下って事由を将軍家に上陳すると言って、下坂の途に就いた。
 慶喜卿は勝清朝臣の下坂の決心を開くと、急にわが公と定敬朝臣に使いを出して、それを止めさせようとした。しかし、勝清朝臣はそれをきかず、下坂した。ほどなく勝清朝臣は上京し、慶喜卿の館に、わが公と定敬朝臣とを会し、十万石を削って父子を隠居、蟄居させるという台命を演達した。





 十万石取り上げ     そこで二十二日(三月)、相共に参内して、左の書を奉った。

毛利大膳父子、家政行き届かず、家来共一昨年七月、父子の黒印の軍令状【注十一】を所持し、京都へ乱入し、禁闕に対し奉り発砲に及び候段、天朝を恐れざる所行、不届き至極につき、大膳父子を厳科に処すべきところ、益田右衛門介、福原越後、国司信濃らに於ては、条々の主意を失い、非礼非義、暴動に及び候につき、三人を斬首して実検に備え、並びに参謀の者共にそれぞれ誅戮を加え、任用人を失うの段深く入り、侮悟伏罪し、相慎み罷りあり候趣、自判の書をもって申し立て、なおその後疑惑の件々相聞き候につき、永井主水正、戸川鉡三郎、松野孫八郎を差しつかわし、相糺(ただ)し候ところ、いよいよ恭順、謹慎罷りあり候趣につき、大膳父子の朝敵の罪名を相除き候。
さりながら、畢竟、不明にして統御の道を失い、家来の者、朝敵の名を犯し候段、その科軽からず、然りといえども祖先の忠勤を思い、格別寛大の主意をもって、高の内十万石を取り上げ、大膳は隠居、蟄居、長門は永の蟄居、家督の儀は、しかるべき者に相続申しつくべく候。右衛門介、越後、信濃の家名の儀は、永世断絶たるべく候。この段奏聞を遂げ候。以上。


 朝廷でも左の詔を下して、これを裁可された。

長防の処置の儀、祖先より勲功もこれあるにつき、寛典を行なわるる思し召しの儀を決議言上し、聞し召され候。なお、国内平穏、宸襟を安んじ奉るよう仰せ出だされ候事。

別紙
長防の処置の儀、決議言上、昨日聞し召され候えども、自然疎暴の処置これあり候ては、内憂外患の治乱にかかわり候儀につき、かたがた宸襟を悩ませられ候間、人心紛乱致さざるよう、公明至当の処置致すべく仰せ出だされ候事(正月二十三日)。

 二十六日に至って、さらに左の勅命を下された。

長防の処置の儀、決議申し含められ候。方今の形勢、外患内憂、紛乱にては、国体において深く宸襟を悩ませられ候間、仁恵をもって早々に至当の処置を施し、国内平穏に、宸襟を安んじ候よう仰せ出だされ候事。

別紙
拾万石いよいよ取上げに於ては、せいぜい下田(げでん)を撰び、拘乱せざるよう厚く勘弁あるべく、決して疎暴の処置これなきよう、かたがた申し入れおき候事(正月二十六日)。





 小笠原長行広島へ     これによって、幕府は老中小笠原長行朝臣に長防所置の全権を委ね、左の条章をさずけて、広島につかわした。

一 長防の処置の儀、全権を与え候間、万事見込み通り、十分に取り計らい申すべき事。

一 事の緩急により、必ず出馬致すべき事。

一 処置ずみの上は、速やかに上洛候条、必らず東下は致さざる事。
右の条々、その意を得るべきもの也。


 また、大目付永井玄蕃頭および室賀伊予守以下の有司を随従させた。みな、去年わが公等が建議した通りになったのである。
 越えて二月四日より、長行朝臣以下が前後して西に下った。

  



 薩藩出兵を拒む     この時にあたり、諸藩では長防再征の非を鳴らして、朝廷や幕府に建白するものが日に日に多きを加え、薩摩藩のごときは【注十二】、まったく前日の所思をひるがえし、断然として出兵の命を拒んだ。そのために、朝議がややもすればその方に傾きそうになるのであった。
 薩摩藩が幕府に奉った書にいわく、

即今、内外危急の時節、防長の御処置の儀、その当否によって皇国の御興廃に相成り候重事にて、まことにもって容易ならざる御儀に候ところ、追々御達しの趣もあらせられ、なおまた、来る二十一日までに大膳父子等召し呼ばれて、もしこの度、御請け仕らず候えば、速やかに御討入りに相成り候につき、その旨相心得、御指図を待ち奉り候よう仰せ渡され候趣、承知仕り候。
一昨年、尾張前大納言様総督として御差し向け、伏罪の筋相立ち、解兵と相成り候ところ、かえって御譴責同様の御都合にて、なかんずく神速に御上洛の朝命を御請けこれなきのみならず、改めて容易ならざる企てのこれある由をもって、御再討を仰せ出だされ、御進発に相成り、ついに今日の形勢に立至り、御討入りの時宜に相成り候えば、天下の乱階を開かせらるるの事実明白なる事に御座候。朝廷より、時世相応の御処置をもって、寛典に処せられ候御趣意もあらせられ候ところ、御奉戴これなき由伝聞仕り、天下衆人の物議喧々として聞くに堪えざる次第に御座候。
征伐は天下の重典、国家の大事にて、後世青史に恥じざる名文、大義判然として相立ち、その罪を鳴らし、令を聞かずして四方響応致し候ようにこれなく候わでは、至当と申しがたく、もっとも凶器、妄(みだ)りに動かすべからざるの大戒もこれあり、当節、天下の耳目相開き候えば、無名をもって会機【注十三】振るうべからざるは顕然、明著なる限りに御座候。万々一にも国人の討つべからずと謂うに於ては、かえって撥乱済世の御職掌にて、動揺を醸し出され候場合に相当り、前条の天理に相戻り候戦闘は、大義に於て御請け仕りがたく、たとえ出兵の命令を承知仕り候とも、やむをえず御断り申し上げ候間、虚心をもって御聞きとどけ下され候よう願い奉り候。右の趣、京都詰重役共より申し上げ候よう申し越し候間、この段申し上げ候。以上。(四月十六日)






 諸藩も出兵を拒む     征長の出兵を拒んだ他藩の論も【注十四】、ほぼこれに類似したものであった。
 これらの藩々の論のなかで、主眼とするところは、三家老以下謀臣の斬罪、父子の寺院蟄居、山口城の破却、五堂上【注十五】の引渡しなどをもって、長州に対する所罰は終局したもののように考えたようである。しかし、家老等の斬罪、蟄居は、彼らの方からただ侮悟、謹慎を表したのにすぎず、山口の旧城を再建したことが、当時行われていた法令に違背【注十六】したものであるから破却させただけで、このことを長州藩の処罰と見ることができぬことはもちろんである。また五堂上の引渡しも、五人の人々に対する処罰の手続きであって、長州に関したことではない。それなればこそ、長州でも処分が結了したとは認めていないで、「なにぶん御沙汰を待ち奉り候」と、自判の証書に記してあるではないか。慶勝卿が広島より陣払いをして京師にのぼり、長州の伏罪を上奏したときの勅令に、「この上は防長の処置の儀は即今の急務」とあり、前にのべた四ヵ条が長州処罰の結了であったら、どうして即今の急務であるはずがあろう。
 処分が未済であることは、上は朝廷、幕府から諸藩にいたるまで、これを認めている事実は明瞭である。それを早忽にも慶喜卿が、幕府の命もないのに兵を解散させてしまったので、長藩の処罰が困難なことになり、そのため時日は遷延し、薩摩藩などに無名の死に兵を出したくないという口実を与えることになってしまったのだ。それも畢竟は、老中連中が因循なために機会をのがし、遂に救いがたい結果を招くに至ったものである。





 小笠原長行の苦境     長行朝臣らが広島まで行っても、これがために奮って命を行なうことができず、ひそかにわが公に書を贈って事情を訴えてきた。左に録して、当時の情勢の一斑を示す。

去る四日大阪表を発程、同七日の夕芸州に着き仕り候。出立前より風邪気にて、大いに快方にはおもむき候えども、いまもってすきっと致さず、日々寄合いは致し候えども、なにぶん疲労甚だしく、右ゆえに御文通も延引に相成り候段、何とも恐悚し奉り候。
さてその後、御所中もいたって静謐の由、まったくいろいろ御骨折の儀と千万ありがたく、うしろ髪ひかれ候ようの懸念もこれなく、まずまず安心、この上とも御尽力ひとえに願い奉り候。
御栽許申し渡しも段々と延引と相成り、さぞさぞ御はがゆく思し召さるべく、遥かに察し奉り候。ようやく付人の人数も相揃い候間、処置に取りかかり候心得に御座候。
防長の模様も着後かれこれ承り候えども、なにぶん、しかと致し候事相分らず、当表へもなにか相応に入り込みおり候やにも相聞え、日々飲酒等にてしゃれおり、殊の外不行跡の様子に御座候。当領主格別の寛大にて【注十七】、右等の儀は一向に頓着致さず、そのまま差し置き候様子に相見え候。御裁可申し渡しの儀も、一旦は異議なく御請け申し上げ、その上にて嘆願など差し出し申すべきやの模様に相聞え候。万一、今一層寛大の御沙汰等、再三、再四嘆願致し候わば、その時、御所より、またなんぞ御沙汰候の儀も計りがたく、右様に御座候ては、処置は決して出来申さず候。
なにさま手を替え、品を替え、願い出で候とも、御所にて一切御取り上げこれなきよう致したく、万々一にも、嘆願の主意により取り上げずしては叶いがたき儀もこれあり候わば、小生より早早に申し上ぐべく、身不肖ながら小生儀は、上より全権を御付与下されて当地へ出張致しおり候上は、取り用うべき事は速やかに取り上げ、また取り用いがたき儀は差し押え候間、たとえ筋相もっともに聞し召され候とも、外方より願い出で候儀を御取り上げは堅く御無用に願い奉り候。この儀御採用これなく、筋ちがいの所より出で候事を御取り上げ御座候ては、なにぶんにも処置出来かね、つまり天下の御大事と相成り申すべく候間、皇国の御為を思し召され、よくよく御勘考あらせられ候よう、前もって関白殿、賀陽宮〔中川宮〕様その外へも仰せ上げられおき下され候よう懇祷し奉り候。
右等の儀は、かねて堅く御契約申し上げ候事ゆえ、またまた申し上げ候てはなにか尊君様を御頼みがいなく存じ上げ候ようにて、畏縮至極に御座候えども、御所のところ、なにぶん懸念に堪えず、くどくも申し上げ候段、深く御推察希い奉り候。もっとも、一橋殿へも申し上げ、越中守へも申しつかわし候間、御一同御一致にて、御所の予防、御尽力くれぐれも希い奉り候。右の段申し上げたく、かくのごとくに御座候。微衷深く御諒察下さるべく候。頓首謹言。(二月十三日)






 形勢日々に非     時に、形勢は日を追って非になり、事々に予期に反して逆行する事が多いので、朝議で万一の変替があってはと、四月六日、守衛総督、守護職、所司代が相携えて二条殿下および中川宮を訪ね、長防の処置について、他よりいかなる手段で何事かを建議があっても、すでに幕府に委任の詔のある上は、断乎として斥け、幕府をして委任の実功を立てさせるよう内請したところ、叡慮はすでに確乎としているから憂慮には及ばぬと慰諭された。





 倉敷代官所を襲う     この月(四月)十日、長門藩の亡命の徒が【注十八】、備中の倉敷の代官所と浅尾藩等に来攻した。
 藩主蒔田相模守広孝は、京都見廻組の組頭の役にあったが、この報を聞いて、いそいで帰国してこれを討伐することを願い出た。朝廷はこれを許されたので、わが公は家臣を随伴させた。しかし、未だ国元に着かないうちに、備前藩、松山藩の兵が賊を撃って、事は平定した。
 二十日、さきに八幡、山崎の関門営築が竣功したので、この日、幕府からわが公に、時服十五襲(かさね)を賜うて、その功を賞され、また、そのことに直接当った家臣に、時服と白銀を功の差に従って、それぞれ賜うた。
 これよりさき、すでに広島に着いていた長行朝臣は、同所の国泰寺で、大目付永井主水正、室賀伊予守、目付松野孫八郎など列座のうえ、毛利敬親の家臣ならびにその分家四家の家臣に、左のような申渡しをした。

毛利大膳、同長門、家政不行届にて、家来の者黒印の軍令状を所持して京師へ乱入、禁闕へ発砲候条、天朝を恐れざるの所業、不届至極につき、厳科に処すべきところ、任用人を失い、益田右衛門介、福原越後、国司信濃、出先に於て条々の主意を取り失い、暴動に及び候段、罪科のがれがたく、深く恐れ入り、三人の首級を実検に備え、なお参謀の者共斬首申しつけ、寺院に蟄居し相慎み罷りあり候旨、自判の書面をもって申し立て、その後、御疑惑の件々相聞え候につき、大目付をもって御糺問のところ、いよいよ恭順、謹慎罷りあり候由、申し立ての趣は御聞き届け相成り候えども、元来、臣下統御の道を失い、家来の者に至るまで朝敵の罪を犯し候段、その科軽からず、不埒の至りに候。
さりながら、祖先以来の勤功も思し召され、格別寛大の御主意をもって御奏聞の上、高のうち、十万石を召し上げられ、大膳は蟄居、隠居し、長門は永蟄居仰せつけられ、家督として興丸〔毛利敬親の孫〕へ二十六万九千四百十一石を下され候。家来右衛門介、越後、信濃の家名の儀は、永世断絶たるべき旨仰せ出だされ候事。(五月朔日)


 そして、期日を定めて、敬親父子の奉命の請書を徴することとした。





 遂に討伐軍進む     たまたま彼の藩臣が内訌を生じ【注十九】、百数十人が亡命するなど、紛擾を極めているという理由で、再三延期を請うばかりか、芸州にいる彼の重臣宍戸備後介(今の宍戸璣)、小田村素太郎(今の揖取素彦)らが、病気と言って、命を奉じない。その上、長門藩亡命の徒が備中倉敷などで暴挙の報があったりして、長行朝臣は大いにその不逞を怒り、五月九日、まず備後介と素太郎の二人を広島藩に拘禁した。二人はその罪を弁疎したが、聴かず、再三違勅の罪を鳴らして、断然討伐と決定し、その事情を幕府に報じ、六月二日、長行みずから豊前に航し、小倉口の軍を督した。
 幕府は長行朝臣の報によって、急に征長総督徳川茂承卿を進発させ、老中松平宗秀朝臣が副将となり、この月(六月)五日、広島に入った。





 征伐の顛末を上奏     七日、幕府は左の書を奉って、その顛末を上奏した。

五月朔日、毛利大膳父子に裁許を申し渡し、興丸へ家督を申しつけ、且つ家政を取締り、領内を鎮静候よう毛利左京、毛利淡路、毛利讃岐、吉川監物等へ申し渡し、なお過激の挙動に及び候につき、家来共のうち重立ち候者を広島へ呼び出し、その余の者共もそれぞれ処置仕るべき段、同月八日奏聞を遂げ候通りに御座候。
右はいずれも家来共の儀につき、早々帰国、二十日までに当人の請書差し出すべき旨を申し渡し候ところ、十八日に至って吉川監物より使者をもって、大膳父子はじめ申し渡す御裁許の条条、奉命の儀、闔国(こうこく)の士民惑乱し、名代の者帰邑しかけ、不都合の儀もこれあり、ようやくその節罷り帰り、かたがた道路懸隔の場所にて、急速に三末家の申し合せの都合もできがたく、二十日までの期限差し迫り、いかにも手段相成りがたく候間、二十九まで猶予の嘆願仕り、大膳父子の奉命不行届の事実、余儀なく候間、申し立ての通り承り届け、万一期限までに請書を差し出さざる候節は、速やかに門罪の師を差し向くべき旨をも達しおき候ところ、闔国の士民、疑惑、憂憤、切迫の情状、鎮撫届きがたく候間、この上なお寛大の御沙汰これあり候よう、三末家、監物より申し出で、彼より嘆願致し候。期限に至り、遂に受書を差し出さず候。
これまで国情の程を推察の上、斟酌、勘弁をつくし候ところ、右の始末に至り、朝命を遵奉致さず、裁許違背候条、国家の大典相立たず候間、余儀なく問罪の師を差し向け、抗命の者を征伐仕り候。この段、奏聞を遂げ候。


 朝廷では左の勅を下して、これを裁可された。

毛利大膳父子裁許の儀、大樹より先般、天聴を経候うえ申し達し候ところ、違背に及び候、問罪の師を差し向け候旨、奏聞を遂げ、聞し召され候事。(六月九日)





 長防国境へ進撃     幕府はただちに令を下して、兵を長防国境に進めた。そこで、京師でもまた戒厳する必要があるので、二十日(六月)、伝奏衆から左の勅をわが公に伝えた。

非常の節、九門のうち、家老以下八人までは乗馬にて苦しからず、唐門内の御警衛人員二十人まで入りこみ、塀重門【注二十】南東の方の仮屋へ相詰むべき事。

 すでにして、官軍の先鋒の諸藩の兵は長防を攻めたが、勝利を得ず、従って、日に日に戦意を失っていった。
 老中松平宗秀朝臣は、はかばかしい勝算もないとみて、さきに広島藩に拘禁しておいた宍戸備後介、小田村素太郎を独断で放ちかえし、その君臣に諭して、自新を促さしめた、征長総督徳川茂承卿は、その専権をせめ、屏居して後命を待たせた。





 ゲベル銃に敗る     七月五日、宗秀朝臣は左の書を大阪在住の老中におくって、このことについて陳述した。

この度、説得人をつかわし候儀は、壱岐守殿はじめ御役人向に一人も相談仕らず、愚存の見込みにて申しつかわし候ことに御座候。長防御討入りについては、諸大名へ人数差し出し候よう仰せつけられ候ところ、いずれも事を左右に寄せ、人数を差し出さず、たまたま差し出し候向きも少人数、すこし多き分は農民共が過半にて、御供御軍勢の向きは米、金に不自由し、拝借等相願い、兵勢甚だもって振わず。鉄砲等も官軍はゲベル【注二十一】甚だ少なく、火縄付きの和筒(わづつ)のみ。長は、農人に至るまでゲベル砲〔銃の誤り〕を相用い、必取の英気鋭く、なおまた薩人も長防へ心を寄せ、英夷も長へ応援【注二十二】致し候様子。この分にては、とても速やかに御成功はおぼつかなく、よってひとまず彼らの憤怒の気をゆるめ候ため、備後介を差し返し候伝々。

 幕府は、これを省せず、宗秀朝臣を大阪に召しかえし、その職をうばい、これを大阪城代のもとに禁錮した。





 将軍発病     これよりさき、将軍家は、大阪城にあって発病された。わが公はこれを聞いて、驚愕措くあたわず、七月二日、まず家臣野村直臣を馳せて候せしめ、以後家臣を大阪に留め、日夜、病をうかがって報告させたが、容態日々に重きを加えた。十六日(七月)、在大阪の老中から、奥右筆長谷川亥之助を馳せて、将軍の病状の危篤を急報し、また総督の下坂を促してきた。
 わが公は大いにおどろき、相共に下坂しようとすると、守衛総督はこれを止めて、「このような時勢に、君と二人賛下を去るのは得策でない。よろしく予の帰京を待って後に下坂されよ」とあったので、家老北原光裕(采女)を守衛総督に随伴させ、代って御見舞いにやった。
 はやくもこの事が天聴に達したので、畏くも深く宸襟を悩ませられ、十九日には、特に伝奏衆飛鳥井前大納言雅典卿を勅使とし、大阪城に行って病いを問わせ、見舞いの物を賜うなど、叡旨きわめて憂渥であった。





 【注】

【一 画賛】 将軍が長州藩征討の勅許を得るまでには、本書では述べられていないが、以下のような経緯があった。
将軍家は九月十六日入京し、直ちに参内勅許を奏請する予定であったが、延臣の間に再征反対論強く、そのため病気という名目で参内を延期した。朝廷内の異論は、すでに再征反対に藩論を決した薩州藩の大久保一蔵(利通)が晃親王・内大臣近衛忠房・議奏正親町三条実愛等にたいし、長州処分および外国交渉については、諸侯を京都に召集し、衆議をもって定むべきだと入説していたからである。これにたいし、慶喜と容保は、朝彦親王や関白二条斉敬に運動し、その結果二十日の朝議では、近衛らの反対を排して、ようやく翌払暁再征の勅許をあたえることを決した。しかし、大久保はさらに関白を説得し、将軍参内の当日に、関白は朝議の再議を主張した。慶喜・容保は、かくては将軍以下その職を辞するの外なしとまで極言し、ようやく関白を同意させた。このため将軍の参内は、六ツ半時(午後七時)に延び、退出したのは、翌日の丑の刻(午前二時)であった。

【二 三国の軍艦九隻が…】 英・米・仏・蘭の四国は、下関攻撃によって、長州藩が攘夷の方針を撤回するに至った結果に自信をもち、さらにすすんで、多年の希望である条約勅許と兵庫の無期開港を解決しようとした。すでにイギリスは、幕府が独力では対外問題を処理する力をまたぬことを見抜き、通商条約の勅許をえる必要を唱え、三国の同意をえた。また兵庫の開港期日は、はじめ条約では、兵庫は一八六三年一月一日(文久二年十一月十二日)開港する予定とされていたが、幕府は、朝廷および攘夷派の攻撃を緩和するため、兵庫・新潟の開港、江戸・大阪の開市の延期を交渉した。外国側も、幕府の苦しい立場を救うためこれを受諾し、文久二年五月、 ロンドン覚書を調印し、二港・二市の開港開市を慶応三年十二月七日まで延期することとした。ところが元治元年幕府が横浜鎖港を提議してきたので、外国側からすれば、ロンドン覚書を破棄する提案をおこなう理由ができたと見なした。まず期日に先立つ兵庫の開港がねらわれたのは、兵庫の背景である近畿の経済的重要さと、京都近傍の開港がもたらす政治的意義の大きさに着目したからである。
機会は、元治元年九月下関での外船砲撃にたいする償禁として、幕府が三百万ドルを支払うとの条約が成立したことによってもたらされた。幕府は、長州征伐のため財政困窮し、第一回分五十万ドル以外の支払の一箇年延期を求めた。そこで四国代表は、条約勅許、兵庫の先期開港、輸入税率の引き下げの三条件がえられれば、償金の三分の二を放棄するとの方針を決し、上坂中の 将軍と交渉するため、有力な艦隊を大阪に送ることとした。幕府はこの企てを中止させる努力をしたが、英・仏・蘭の九隻より成る艦隊は、慶応元年九月十六日兵庫沖に進航した。これは再征勅許奏請のため、将軍が上洛した当日であった。九月二十三日、老中阿部正外(豊後守)は、英国旗艦において四国代表と会見、その強硬な態度を知り、二十六日の回答を約束するほかはなかった。

【三 旗下の動揺】 当時は慣例からすれば、朝廷が幕吏の免職を幕府に命ずるということは、前例のないことであり、当然旗本の強い反対が予想された。

【四 先年下田港において…】 安政四年五月二十六日調印された日米約定(下田条約ともいう)をさす。内容は貨幣交換の規定と裁判権の規定を主とし、日米和親条約(神奈川条約)の内容を拡充し、通商条約への道を開いたものである。

【五 朝廷はしばらく可とせず】 慶応元年十月四日の朝議には、一橋慶喜、松平容保、松平定敬、小笠原長行も加わり、条約の必要を説いたが、決定しなかった。近衛内大臣は、夜ひそかに薩州藩士藤井良節らをまねき、薩州藩の力で外国人と応接し退帆させることを申し入れた。藤井は大久保一蔵、岩下佐次右衛門(方平)と協議し、勅使を差遣されれば、これを擁してわが藩では十に八、九交渉を成功させる見込みがあると回答した。そこで朝廷は大原重徳を兵庫に遣わし、薩摩をして護衛させるという案にほとんど内定した。もしこれが実現されれば、京都政局では、薩州藩が幕府に代わるほどの地位をえる結果となるので、慶喜と容保はその阻止に懸命の努力をはらい、ようやく五日午前三時、朝議は、在京諸藩の代表の意見を求めることに決定した。以上の経過は、本書では省略されている。

【六 横浜に向った】 列国は、兵庫を即時開港しない代償として、下関償金を期日通り支払うこと、税率の改訂は江戸で協議することの幕府の覚書をえて、艦隊を横浜に帰した。

【七 不審数件】 永井尚志らの訊問は、次の八項であった。(1)藩主父子が慎中、内訌鎮静のため出張した経緯、(2)内訌鎮静後も、藩主父子が山口にあり所々に巡行する理由、(3)一旦破却の山口城を再築したこと、(4)謹慎中、藩士が馬関来泊の英人と懇親接待したこと、(5)所持の蒸汽船をアメリカ人に売払うため、家臣村田蔵六(大村益次郎)に花押のある証書を差し遣わし、世子定広も夷人と対応したこと、(6)大小砲を夷人より買入たこと、(7)筑前の公卿と交通していること、(8)末家、家老の上坂延期のこと。これにたいし長州藩使節宍戸備後助は、そのすべてを否定し、暗に再征を非難する言辞さえ示した。しかし長州寛典論をもつ永井は、謹慎し命を待つとの宍戸らの書面を受け取り、帰坂した。

【八 近藤勇を随伴せしめ】 近藤勇は、宍戸とともに広島に来ていた長州藩士広沢兵助(真臣)を訪れ、帰藩の際同行されたいと願った。長州藩の内情を探るためである。しかしこれは拒絶され、結局藩内に入ることはできなかった。

【九 偽名】 宍戸備後介(本書には介とあるが、助が正しい)は山県半蔵(のちの宍戸たまき)の仮名である。彼は急進派で、元治元年九月、保守派のため小納戸役を罷免されたが、慶応元年十月中老雇に登用され、対幕交渉にあたることとなった。近藤勇の報告にある「奇兵隊用掛山県某」とは、藩内戦当時奇兵隊を指揮した山県狂介(有朋)をさすのであろうが、半蔵と狂介とは別人である。

【十 山陵百余個所の御修補】 一巻四一頁注二を見よ。

【十一 黒印の軍令状】 六七頁を見よ。

【十二 薩摩藩のごときは…】 薩州藩と長州藩の間柄は、文久三年八月十八日の政変および禁門の変によって、きわめて悪化していた。したがって第一回長州征伐のはじまる時期には、西郷吉之助も、長州にたいする厳罰論を唱えていたが、長州藩におもむいて急進派領袖と会見するに及んで、長州寛典論に変説するようになった。西郷や大久保一蔵(利通)は、長州再征には反対で、雄藩連合の力で時局を収拾する案を考え、反幕の色彩を強めた。しかし薩長両藩士の対立感情は根深く、容易に和解の糸口は開けなかった。
そこで土佐脱藩の士である中岡慎太郎や坂本竜馬が斡旋にあたった。その結果、慶応元年七月長州藩は、長崎で小銃、汽船の購入を薩摩の助力で実現することとなり、両藩提携の機運は急速にすすんだ。ついで慶応二年正月、桂小五郎(木戸孝允)と西郷・大久保・小松帯刀らの会談によって、幕府と長州藩が開戦した場合、薩州藩が援助することを約した薩長密約が成立した。

【十三 会機】 「会機」は『島津久光実紀』によれば「兵器」とある。

【十四 他藩の論も…】 征長再征に反対の意見を表明した藩主は、尾州藩の徳川慶勝、越前藩の松平茂昭、備前藩の池田茂政、芸州藩の浅野茂長、津藩の藤堂高猷、竜野藩の脇阪安斐、紀州藩の徳川茂承、阿波藩の蜂須賀斉裕、熊本藩の細川慶順等であり、いずれも、現在の時点で再征を行なうのは名義明らかならず、天下の紛乱がおこるもととなろうとの趣旨であった。

【十五 五堂上】 一五八頁七を見よ。

【十六 法令に違背】 幕府が大名統制のため制定した武家諸法度は、新しく城郭をきずくことを禁止している。

【十七 当領主格別の寛大にて】 芸州藩は芸州口先鋒を命ぜられていたが、藩論は、長州処分を寛大にして、戦争なく事態を解決せよというにあり、藩主浅野茂長は、小笠原長行に、事を慎重に運ぶべしとの意見書を出し、これが納れられぬこととなると、出兵を辞退してしまった。

【十八 長門藩亡命の徒が…】 第二奇兵隊(南奇兵隊ともいう)の脱退事件で、この隊は慶応元年正月結成されたものであるが、慶応二年四月立石孫一郎ら百余人(隊員の大多数)が暴動をおこした。そして本営を襲って兵器を奪い、脱藩して備中倉敷代官所を焼きはらい、さらに浅尾藩領に入った。浅尾藩は、備前藩、備中松山藩や幕兵の応援をえて、これを四散させた。暴動の理由は、明らかでないが、諸隊にたいする藩庁の統制が強まる中で、隊員の三四パーセントの士分格と、それ以外の庶民出身者の対立が増し、それに指導者間の勢力争いがからんだこと、隊員が藩庁の対幕方針が軟弱にすぎると不満をもっていたこと等によると推測される。

【十九 彼の藩臣が内訌を生じ】 慶応元年三月には、藩論は、急進派の主張する武備恭順に決定し(本書一五九頁注一一を見よ)、特に幕府が再征の方針を明らかにしてからは、挙藩一致して幕府に対抗する姿勢が固まったから、この時、内訌を理由に回答延期を求めたのは、真実を偽っての理由づけであった。

【二十 塀重門】 平地門ともいう。中門の一で、表門と母屋の間にある門。左右に方柱があって笠木はなく扉は二枚開きの中門。

【二十一 ゲベル】 天保三年以降高島秋帆らが輸入した歩兵銃。ナポレオン戦争時代まで欧州各国で用いられたもので、輸入品はオランダ軍制式銃。銃身は鍛鉄製、前装式滑腔銃で、照星と照門はあるが照尺度はない。銃尾の右側に火門があり、はじめは燧石式であったが、安政年間から雷管式のものが輸入された。幕末時代に最も多く輸入された銃で、かつ各藩で模型製造されたため、形状や口径のまちまちなゲベル銃が存在するが、舶載品では、口径一七・五ミリ、全長約一五〇センチ、重量四・八キロ。

【二十二 英夷も長へ応援】 四国連合艦隊長州攻撃事件および条約勅許の事件の後、イギリス公使パークスは、幕府にたいする信頼の念を薄くし、薩長等の反幕派雄藩の力に期待し、その接近につとめた。これにたいしフランス公使ロッシュは、幕府支持の方針を強く出し、軍事的・経済的援助をすすめた。慶応二年五月、第二回征長の役の戦闘勃発直前、パークスは海路下関におもむき、長州藩士と会見、ついで長崎を経て薩州藩を訪問した。
この英国公使の行動を牽制するため、幕府の勧告に応じて、ロッシュも長崎におもむき、薩州から帰ったパークスと会見、幕府と長州藩との間の調停を試みることを協議し、両人は下関海峡にもどり、各国に長州藩士と小笠原長行とに会見した。しかし調停の不可能を知ると、パークスは、予定に従って宇和島訪問に向かった。パークスの行動は、長州藩を激励する効果をもった。また彼と関係ふかい長崎市のイギリス商人グラバーは、薩長の武器輸入の求めに応じて活躍した。
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  1. 2012/11/18(日) 17:23:28|
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