いがぐり史料館

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二十二  征夷大将軍徳川家茂公薨ずる     『京都守護職始末2』

 薩藩挙動を一変     七月二十日、征夷大将軍右大臣従一位徳川家茂公は、大阪城で薨じた。秘して、喪を発しなかった。
 この日、わが公は、前夜守衛総督が帰京されたので、まさに下坂して伺候しようとしている時、大阪から目付田村駒次郎が馳せつけて、急に守衛総督の下坂を促し、またわが公に、将軍薨去のことを告げて、下坂を止めた。わが公はこれを聞き、将軍の病中、一回も親しく伺候することのできなかったことを思うて、哀痛の情に堪えず、未だ殮(かりもがり)しない前に伺候しようと思い立ち、二条殿下、中川宮に願って、しばらく下坂の暇を内請した。
 すでに将軍の喪ははやくも京師に漏れ伝わっていたが、この時にあたり、薩摩藩のごときは、前日とはまったく挙動を一変し、公然と征長の非を鳴らして出兵を拒み、陸続と大兵を京師に入れるなど、物情騒然としてきた。
 ゆえに殿下は、詔を伝えて、わが公の下坂を許さず、守衛総督、守護職がみな輦下を去れば、叡慮を安んずることができない、容保はしばらく哀悼を忍んで、闕下を守護するようにとのことであった。それで、南下を思い止まった。





 慶喜卿継嗣を断る     幕府の継嗣問題が未だ定まらないので老中の人々は、わが在坂の家臣を城中に召して、慶喜卿を継嗣とすることをわが公に謀り、同時に二条殿下、中川宮から、叡慮をうかがうように命じた。そこで、家臣らは京師に馳せ帰り、ことの次第を報じた。わが公は、ただちに殿下と中川宮を通して叡慮を伺ったところ、天意もまた、すでに慶喜卿にあったので、そのことを大阪に報じた。
 その時、松平慶永卿は大阪にあり、老中の人々とともに慶喜卿に謁して、宗家をつぐことを懇請した。慶喜卿は辞退し、「予の資性は庸劣で、その上、人心を服する徳望がない。どうしてその任に当れようか。それに、往年継嗣問題のあった時にも、決して宗家を相続すまいと心に期しているのだ」と言って、急に袂(たもと)を払って、京師に帰ってしまった。
 老中板倉勝静朝臣は、後を追って京師に入り、わが公のもとで、松平定敬朝臣をまじえて会談の末、二条殿下と中川宮に請うて、慶喜卿を諭すことに一決し、ただちに両所に伺候し、このことを願った。殿下も、宮も、このことをもっともとし、慶喜卿を召して、叡慮のあるところを示し、継承のことを諭したが、慶喜卿はなお従わず、「万一叡慮をもって臣に継承を命ぜられるならば、自尽して謝罪し、継承の意のないことを明らかにしよう」と言い出した。
 殿下も、宮も、それ以上強うることができず、わが公、定敬朝臣も、ともに懇請してみるけれども、その答えは前と同じで、断乎として受け居れない。
 二十六日、わが公は板倉勝静朝臣とともに慶喜卿の館に詣り、言辞凱切(がいせつ)に継承を勧進すること再三に及んだので、卿は辞屈し、「内外の諸制度を予の意の通りに釐正することを許すならば、あるいは卿らの言葉に従ってもいい」とのことである。勝静朝臣は承諾したものの、すこし難色の気配があった。わが公は固くこれを誓い、切に継承を勧進して立ち去った。





 慶喜卿継承を諾す     この夜、殿下はまた慶喜卿を召して、「征長の師を出して、未だ功を奏しないうちに、大樹が逝去した。その上、新将軍の継承は未だきまらず、人心は疑惧を抱いて、日々恟々としている。これがために、畏くも叡慮しばらくも安んぜられない。卿はじめ将軍の後見たるものは、今、天下の安危をどう見るのか」と、すこぶる悃切に諭されたので、慶喜卿も慨然として、「慶喜不肖ではありますが、宗家の継承については、仰せに従いましょう。ただし、将軍職は、不肖にはとても荷が勝ちすぎておりますので、たとえ、他の諸侯に任ぜられることになっても、一一叡慮に従いましょう。ただ征長のことは、奮ってこれに当り、みずから旗下と譜代の諸侯を帥いて、征討の勅旨を奉行致すつもり。もし平定の日が来た時、その時、閫外の任を賜わる場合には、あえておことわりは致しますまい」と述べた。
 これで継承の問題も定まり、この月(七月)二十八日、わが公、定敬朝臣、勝静朝臣とともに、殿下を経て左の書を奉り、これを奏請した。

臣家茂儀、初春以来深疾罷りあり、その後やや治術を相加え、快和に趣き候ところ、当月初旬より再感、すでにこの程勅使をもって寵問を蒙り、じつに過分の鴻恩感戴の次第、しかるに病勢いよいよ進み、繁務に堪えず候より、この上危篤に臨み候わば、家族慶喜に相続仕らせたく、尤も防長の儀は至急につき、名代として出張仕らせたく、この段勅許の御沙汰成し下され候よう願い奉り候。

 そこで裁可の詔が下り、徳川慶喜卿は宗家に入って継嗣となった。





 敗報しきり     これよりさき、征長先鋒の官軍は連戦利あらず【注一】、長門藩兵らは勝に乗じて近隣を侵略し、津和野城を攻略して、城主亀井隠岐守茲鑑を降伏させた。つづいて、浜田城を陥るの報が、踵(くびす)を接して到来した。
 防長の士民は、薩摩藩に書を送って、その非行をのべて救いを請うた。
 よって七月二十二日、在京の薩摩藩留守役内田仲之助は、書を在京の三十余藩に伝え、越えて二十七日、島津久光朝臣、島津忠義朝臣らは連署して上奏し、幕府の失体を条挙し【注二】、長門藩を救解した。





 わが公決戦を主張     わが公はこれを聞いて、奮然として、「長門藩兵らが勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば、在京の薩摩兵は必ずこれに応ずるであろう。はたして、しからば、前門の虎、後門の狼となり、如何ともなすすべがなくなるであろう。坐して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない」と考え、「すなわち京師の守護を所司代に譲り、松平慶永卿、山内豊信朝臣にこれを輔翼させ、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、中納言は山陽道の軍を督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も、また覚醒して、軍気を挽回することができよう」と、その謀を中納言に啓(もう)し、また重臣を老中のもとにやって、出征を催促した。
 中納言はこの議に賛同せず、ひたすらに、わが公が輦下を去れば朝議がたちまち一変するかも知れないと慮り、あえて許そうしない。すでに八月八日となった。
 中納言慶喜は参内し、十二日をもって征長の途に就く旨を奏上して、階辞した。朝廷は、御剣一口を賜うて、速やかに功を奏するようとの詔があった。





 休戦の議     官軍の敗報はしきりに達した。その上、肥後、柳川の兵が自国に引き上げてしまったので、小笠原長行朝臣は手の施しようがなく、舟で長崎に退いた。
 八月二日、長州兵は小倉を侵略し、城主小笠原豊千代丸は城に火を放って、香春(かはる)にのがれ、八月八日、官軍はことごとく広島に退いた。
 ここにおいて中納言は、征西の奏功しがたいことを慮り、俄かに休戦の評議にかかった。わが公は、大いにこれを不可とし、切に争ってみたが、容れられず、よって十一日、左の書籍を呈して、所思を陳上した。

一 台慮御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せつけられ、粉骨をつくし候藩もこれあり、あるいは城邑を失い候藩もこれあり。しかるに、只今に至り、御筋目違い候儀これなきに、解兵を仰せ出だされ候ては、上は天朝へ御対しあそばされ、中は諸侯、下は万民へも信義立たせられざる事。

一 奉命尽力の諸藩を御見殺しなされ、武道筋に於ていかがこれあるべきやの事。

一 違勅をもって賊名を負い候ものに、再勅出で候ては、義賊分明せず、忠否乱れ、天下の耳目違乱致し候事。

一 長賊、休兵の勅に応ぜず、長駆の勢に乗じ押寄せ候節に至り、諸藩へ進撃仰せつけられ候とも、一惰気に相成り候人衆の憤発致し候こと、これあるまじき事。

一 これまで天幕の命に応じ、攻めかかり諸侯藩へ、彼より復仇致し候わば、いかが御処置あそばされ候やの事。

一 諸侯上京して衆議をつくし候よう仰せつけられ候とも、これまでの御沙汰にも惑乱致し候末、披露の極、応命致さず候わば、再び振起の根、断絶致し候事。

一 たとえ上京致し候とも、疲弊の極、事実、再び出立致し候事相成るまじき事。応命出京候とも、天理に反し候師に候えば、解兵を当然の旨申し立て、あるいは申し募り、朝廷御動揺あそばされ候節はいかがあそばされるやの事。

一 天前に於て仰せ立てられ候件々、ことごとく相反し、節刀をも賜わり、御懇に仰せ聞かされ候件々の次第、御申訳これなく、勅諚御改めと相成り候わば、これまでのところは皆偽勅と相成り申すべき事。

一 前将軍様、半途にして薨御あそばされ、御相続様〔慶喜卿〕欲しいままに御変革あそばされ候ては、御孝道に於て御筋合いかがやの事。






 慶喜卿の変身     ついで家臣をやって、旨をうかがったが、中納言〔慶喜卿〕も老中も、一顧もしない態度であった。
 さきに継嗣の評議があったとき、中納言は、「予が将軍様の代理となって征長の局に当れば、三十日を出ずして山口を陥れ、防長をたちまち恭順させてみせる」と傲語し、節刀を賜わって階辞したのは、じつに未だ八月八日のことである。それが、十一日、九州よりの報告を得るや、すぐさま征長発途の令を取り止め、休兵のことを議するに至ったのだ。
 わが公は、ただただ慨嘆するのみであった。
 十五日、中納言は殿下のもとに詣り、休戦の議を陳述した。
 殿下は愕然として、「卿はさきに、故大樹の遺志をついで征長の任にあたり、すでに節刀まで賜うている。しかるに、未だその途にものぼらず、たちまちひるがえって休戦を唱えるとは、そもどういうつもりか。それで、列藩に対する面目はどうするのか」と詰問された。中納言は、「まことに仰せの通りではありますが、今日の事態となっては、また今日の時宜に応じた処分をせねばなりません」と述べ、十六日参内して、左のような書を奉った。

かねて言上仕り候通り、薄力菲才の私共、この上諸藩の指揮は所詮おぼつかなく、なおまた諸藩に於ても、かねての御主意も御座候折から、俄かに解兵仕り候わば、必定、それぞれの見据えも御座あるべく、就いては、この場に於て急速に諸藩を呼集し、めいめいの見込みもとくと承りとどけ、利害得失を論定の上、天下公論の帰着をもって、進退仕るべく存じ奉り候。
私議、これまで格別の御寵恩をもって、厚き御沙汰を蒙り、出陣に臨み、右様の儀を言上仕り候は、朝廷へ対し奉りじつに恐懼千万と存じ奉り候えども、この上御大事を誤り候ては、なおなお恐れ入り存じ奉り候につき、至情黙しがたく言上仕り候。この段、なにとぞ寛大の思し召しをもって、微衷の程よろしく聞し召し分けさせられ、御許容の御沙汰下され候よう願い奉り候。云々






 勝安房を起用す     朝廷の裁可があったので、十八日、中納言は勝安房守【注三】を中国に、梅沢孫太郎【注四】を鎮西につかわして、休兵の事を処置させた。
 安房守はかつて海軍を練習し、その名が諸藩の間に聞えていた。彼は、防長再征の挙があってから、幕府の有司に列して、これを不可とし、しきりに休戦を主張していた。それゆえ、彼にこの命が下ったわけである。彼は長州に出向いて、藩士らを諭し、兵を退けさせたが、中納言はわが公の反対を恐れて、そのことを告げなかった。そのうちに、すでに休戦の勅栽があったので、十九日、京師を辞して大阪城に入った。





 休戦の勅     八月二十日、幕府は大将軍の喪を発し、訃を奏したので、朝廷から左の勅を中納言に賜うた。

今度相続致し候につき、言上の趣もこれあり候えども、前将軍同様厚く御依頼あそばされ候間、政務筋はこれまでの通り取り扱い候よう相心得べき旨、御沙汰候事。

 また、休戦について左の勅が出た。

大樹薨去、上下衷情のほど御察しあそばされ候につき、暫時兵事を見合わせ候よう致すべき旨、御沙汰候事。

 よって二十五日、幕府は勅を伝えて、征長の師を回(かえ)した。ここにおいて、中納言は大いに規画するところあらんとして、手書を尾張、越前、筑前、土佐、肥後、薩摩、宇和島等の熱望のある列藩に送り、召集した。





 政体改革等を上訴     これよりさき、長門藩に通じる諸藩のものがしきりに宮、公卿の間に出入りして、朝議をひるがえそうと勉めていたが、聖上が叡明で、征長の綸命は終始一貫、赫々として烈日のごとくであったので、乗ずべき機がなくて、むなしく月日をすごしていた。そこへ今、休兵の勅命が出たのをみて、時至れりとなし、三十日(八月)、権大納言中御門経之卿、前左衛門督大原重徳卿以下二十三人【注五】が、俄かに参内して、国家重大の事件を親しく上奏することを要請した。
 その大意は、第一には、方今の時勢紛乱し、万民が塗炭の苦しみを受けている。これは必竟、幕府が、攘夷の叡旨を遵奉しないことが原因である。政体を改革されること(幕府は廃止すること)、第二には、壬戌、癸亥、甲子【注六】の年に勅勘を蒙った九条円心〔尚忠〕以下をことごとく赦免されたいこと、第三には、諸侯召集のことは、幕府の手でなく、朝廷から直接下命ありたいこと、などにすぎなかった(壬戌に勅勘を蒙ったのは九条尚忠公、久我建通公、岩倉具視朝臣、富子路〔敬直〕、〔千種〕有文朝臣らである。癸亥に勅勘を蒙ったのは、すなわち三条〔実美〕等の諸卿であり、甲子に勅勘を蒙ったのは、有栖川宮、鷹司輔煕公以下十余人である)。
 殿下はこれに答えて、「第一条は、幕府に限らず、斉敬もまた当職にあるから、その責をのがれることはできない」と言われた。経之卿らは、「いや、殿下ばかりではない、中川宮も、いやしくも輔佐の重任にあるからには、また責任を免れない」と論じた。殿下が重ねて、「第三条は、すでに幕府に委任の綸命が出ていて、今さらひるがえすことはできない」と言うと、重徳は身を進めて、「それならば第一条、第二条は、速やかに勅栽を仰ごう」と意気昂然として迫ってきた。





 聖上激怒     殿下がやむをえずこのことを奏上すると、聖上は赫と宸怒され、「重徳は何ものぞ。その身君側にありながら、党を結んで濫訴するとは。まずその僭上の罪を問わねばならぬ」と言われたので、殿下は恐悚してこれを救解し、出て綸命を伝えた。経之卿らは恐懼のあまり、額背に汗をながし、梢然と隊朝した。
 つづいて九月二日、堂上大原重徳卿を召して、親しく前日の濫訴を責め、また建議の趣旨を勅問された。重徳卿は恐懼、戦慄し、切に疎暴を謝して退朝した。





 中川宮ら暗殺の噂     その頃、経之卿らが宣言して、「殿下と中川宮の参内をうかがって、刺そうと企んでいるものがある」と言ったのを聞いて、衆情恟々として、真にそのことが起るような思いでいた。けだし、それも宮、殿下を威嚇して、みずから引退せしめようとしたものである。殿下と宮も、要慎をするのあまり、四日(九月)、ただちに辞表を奉った。





 朝議空白を生ず     権大納言柳原光愛卿が、この頃に内大臣近衛忠房公に送った書簡がある。左に録して、当時の情勢の一斑を示そう。

遅刻参内、相役六条、久世【注七】、武伝〔武家伝奏〕、飛鳥井〔雅典〕等が示談候ところ、同心につき、一同御前を願い申し上げ候。円心〔九条尚忠〕、素堂〔久我建通〕以下、出仕の御沙汰に相成り候わば、関白、賀陽宮〔中川宮〕は、決して出仕あらせられず、尤も、御前および国事御〔用〕掛、九条大納言〔道孝〕殿にも御同様の旨、御時節柄、関白殿以下国事御掛、御一人もあらせられず候ては、朝議は今日限りと相成るべく、さよう候わば、宸襟を悩ませられること十倍たるべく、恐れ入り候旨、言上に及び候ところ、御当惑、いかがなるべきやと仰せられ候。
よって申し上げ候には、なにとぞ去る三十日建白の輩へ、円心、素堂以下御赦免の事は一切御沙汰に及ばせられず、巳後この儀の建白は無用たるべき旨、中御門以下へ仰せ下され候て、関白殿を召し留めの御沙汰、早々にあらせらるべく申し入れ候ところ、御沙汰に、至当の儀、その分、早々参向して申し入るべく、尤も、急務は諸藩を召すの儀、早々御参、御取り計らいあるべきよう仰せ出だされ候。表向頭弁は【注八】、仰せ詞をもって例のごとく召し留め、巨細は只今、久世が勅使となって参向し、申し入れらるべく御治定候。
しかし、入夜に相成り、殿下御畏縮の旨、万一仰せられ候わば、明日は是非午〔十二時頃〕早早御参あり、諸藩召し以下御取計らい仰せ出だされ候。まず殿下のところは、この分御治定に候。賀陽宮、国事御扶助御断りを召し留められ候に御治定候。しかし、これは関白殿御出仕の上御沙汰の旨、御決答に候事。






 幽閉堂上の赦免を奏請     殿下が辞表を奉るに及んで、濫訴の公卿が俄かに勢いを得たあとに従って、有志と称する堂上が続々とあらわれ、この月(九月)五日、裏辻位公愛卿がまた書を奉って、幽閉堂上の勅勘赦免を奏請した。その大意は、

壬戌の幽閉人は朝廷を欺き、幕府に親しみ、恐れ多くも皇妹を東下し、それ以来毒気深く入り、縁によって朝廷を軽侮し、外夷を馴養し、公武一和を口実として、攘夷鎖港を一夕話に付し、陽に三港の勅許を称し、陰に兵庫の開港を約す。その期限の迫ること、外国の新聞にあらわる。
長防の乱も、その原因は夷因は夷国の猖獗を憤ることに起る。しからばすなわち、方今の乱階はみな壬戌の幽閉人の方寸より生ず。叡旨確乎、その罪を釈されざるを聞いて、正明至当の英断を感戴し、さらに衆庶をして勧懲の英断を仰がしめんことを願う。あえて叡慮を矯(た)むるに非ざるなり。
そもそも癸亥、甲子両度の幽閉人に至りては、過激にして上を凌(しの)ぐの罪を免れざるも、その本源は醜夷の猖獗を悪(にく)み、幕府の専権を憤り、国辱を雪(そそ)ぎ、皇威を復し、もって宸襟を安んじ奉らんと、自ら諸藩の激論に沈溺し、恍惚として覚えず疎暴にわたる。その跡悪(にく)むべきも、その心は感賞すべきものあり。しかるに、その情実を酌量せずして、これを壬戌の幽閉人に併せ、禁錮し、遂にその淑慝〔善悪〕を分たずんば、浮説流言、あるいはまさに不慮の姿を生ぜんとす。ゆえに今、長防解兵に際し、特別の御憐愍をもってこの輩を寛宥し、その器に従って、追次、朝班に臚列(ろれつ)せしめんことを願う。聞く、近日諸藩を召す。請う、早く淑慝を分別し、諸藩をして翕然(きゆう)、公明寛大の朝旨を仰がしめん。






 岩倉具視の密謀     過激派の視点より見る時は、裏辻卿の論ぜられたところこそ、当をえたものと見えるであろう。
 そもそも壬戌の年に勅勘を蒙った九条公以下は、みな佐幕の嫌疑で幽閉、退隠等に処せられたのであって、癸亥、甲子の罪人はまったくそれとは趣を異にしている。特別大赦などに止まり、幽閉を解かれるというだけならともかく、経之卿、重徳卿らの意向では、単に幽閉解除に止まらず、その官位を復し、重職にも輔せられたい希望であったことは、前に掲げた柳原光愛卿の手簡でも明らかである。
 経之卿がこのように矛盾した建議をしたのには、そもそも理由のあることである。岩倉具視朝臣は、公卿のなかで、智略と胆力に富んだ人であったが、かつて関東の有司と相談して和宮降嫁を画策し、大いに公武の一和を計ろうとして、時の不遇により遂に幽閉の身となった。しかし、勃々たる野心は彼をして遂に退隠の地にあらしめず、現在の情勢がすでに公武一和のむすがしいことを、早くも看破して、ひそかに倒幕を規画し、身近にある経之卿等に説いて、朝政に乗り出そうとする密謀に出たものである。裏辻卿はこれを知らず、昔通り公武一和説の岩倉とみなし、これを退けようとしたのみであった。





 辞職を諫止     その頃、中納言は大阪にあって、殿下と中川宮が辞表を出されたことを聞き、急に馳せて京師に入り、六日(九月)、伝奏衆から左の書を奉り、これを止められんことを奏請した。その大意は、

両殿(関白殿下と中川宮をさす)御辞職御差し留めに相成り候よう。もし重徳等の建言を御採用あそばされ、御辞表允(ゆる)され候時は、下として上を凌(しの)ぐの儀にて、朝慮立たせられまじく候間、是非とも両殿の辞表を御差し留め相成りたく、云々。

 時に中納言は、継承のゆえをもって、故将軍家の喪に服していた。よって、老中板倉勝静朝臣から、この書を奉った。
 この月、わが公も、伝奏衆飛鳥井雅典卿を経て、左の書を奉った。

この度、関白殿、賀陽宮の御辞職仰せ立てられ候由、当今、紛乱の御時勢に、枢密の御職務、万一御動揺に相成り候ようにては、天下の動静に相かかわり、国家の御為、もっての外の御儀と深く痛心仕り候。殊に、この程言上の通り、諸藩参集、速やかに利害得失を論定仕るべき折から、すべて御変遷の儀に御座候ては、御不都合の御儀と存じ奉候。
いわんや、万機の任御輔翼の職を一時に御辞職仰せ立てられ候段、朝廷いかようの御混雑これある儀と諸藩の疑惑を開き、この上意外の事変相生じ候よう相成り候ては、折角言上の素意も相貫かず、且つ追々の御勲労もこれあり、格別の御信任もあらせられ候御事ゆえ、この場に至り、かれこれの御次第これあるべきはずも御座なく、かたがたもって、早く差し留められ候儀もちろんとは存じ奉り候えども、じつに国家の御一大事に相かかるべしと、過慮仕り候につき、なにとぞ速やかに右の御沙汰下しなされ、上下安堵仕り候よう御取り計らいのほど願い奉り候。なにぶん切迫の御時勢、この段黙止しがたく言上仕り候。






 朝議二分す     この時に当り、大勢上の第一の主眼は、召集の諸藩の衆議を誰が主栽するか、ということにあったが、これについては、朝議が両岐に分れ、殿下と中川宮は、ひとえに汗の如き綸命を重んじ、幕府にこれを掌らしめようとし、山階宮および中御門経之卿以下三十余人は、諸藩士の煽動に惑わされ、綸命をひるがえすことが時宜に適した変通の路とし、殿下、中川宮の不参をよい機会として、朝議を手のうちに収めようと謀ったが、聖上が確乎としてこれを斥けられ、七日(九月)、伝奏衆飛鳥井雅典から、わが公に左の勅を下された。

徳川中納言言上の趣もこれあり、諸藩の衆議を聞こし食(め)さるべく候間、決議の趣は中納言をもって奏聞あるべき旨、仰せ出だされ候事。





 聖上辞職を許さず     これによって、諸藩の衆議は、依然として幕府の掌るところとなった。しかし第二の問題としては、二条殿下と中川宮が国事掛を辞任するか否かということがあった。なぜなら、殿下と宮は、常に一意専心、聖慮を奉戴して、公武一和の実績を挙げようと期し、その間、亳も他の私議を傾聴されなかった。いわんや諸藩士の入説などにおいておや。
 それゆえ、諸藩士は殿下と宮を傾けようと、堂上家を煽動して、あるいは公然と建議をもって、あるいは隠に威嚇するなど、種々の手をめぐらしたが、聖明の照鑑はあえてその辞職を允(ゆる)したまわず、まず殿下の参任を促し、超えて十四日、特に議奏衆から宮に左の内詔を下した。

去月三十日の列参にて言上の段は、甚だよろしからず思し召し候。よって、右の面々の御処置の儀は、有志の諸藩に御咨(と)い謀りあそばされ候はずにつき、宮にはすこしの御疑念もあらせられず候間、早々御出仕なされ候よう思し召され候事。

 宮はこれを辞退して、「叡慮の優渥は、じつに感荷恐悚に堪えず、速やかに参朝致しますが、自ら省みるに、不肖寸功を奏せず、聖恩にもとること多く、償う道もないほどです。ただ切にお願い致したいことは、関白に、一日も早く事を執らせたいことです」と奉答した。そこで、このことをひそかに中納言とわが公に報じ、叡慮のあるところを知らせた。
 それと言うのも、先月三十日以後、殿下と宮が参朝せられず、中納言もまた服喪中で、他人と接しなかったので、従って、宮中の情勢をつまびらかに知ることができないだろうと推察して、特にこの教命があったものと思われる。





 除服の期日問題     また、大勢上の第三の主眼は、中納言の除服〔忌みあけ〕の期日を早めるか否かにある。何となれば、中納言が除服すれば、必らず殿下と宮に祗候して、切にその辞職を諫止し、相提携して朝廷を固うし、他より乗ずる機会を与えないようにすることは必定である。ゆえに、除服の期を緩くして、急にお召しの諸侯を催促し、その来集を待って、はじめて除服の勅を下せば、中納言らは、朝廷の事を如何ともすることができないであろうと、これまた、諸藩士らが、もっぱら宮、堂上の間に入説【注九】するところであった。
 しかし、聖明の照鑑は、方今、国事多端の折、幕府の職を一日も空白にしてはおけないとあって、除服の期を十六日(九月)に早めた【注十】。
 それは、山階宮が参内、上奏されて、「慶喜の除服の期日は、従来の典例とは違っている。加うるに、たとえ彼が除服しても、関白殿下が未だ出仕されないから、朝議に列席させることはできないであろう。ゆえに、衆諸侯の参集の後に、除服の宣下あれば、典例の上からも、時宜の上からも、二つながらよろしかろうと存じます。」と申された。そこで、議奏衆が殿下に謁して、叡慮をうかがったところ、聖上は、それは時宜をわきまえない意見であるとして、斥けられた。
 宮は恐悚にたえず、十八日、上表して国事掛を辞退された。聖上はそれを允(ゆる)されなかったが、宮は自称して、宸怒をはばかり、参朝を停めた。
 この宮の建議は、じつは諸藩士入説の私議をそのまま挙奏したものにほかならなかった。およそ彼の輩の所論は、一方では時宜によって変通せねばならぬと蝶々しながら、自家のために不便なことがあると、昔の典例を膠守する。その説の前後矛盾していることは、常にこの類のことが多かった。
 二十六日(九月)伝奏衆から中納言へ左の勅が伝えられた。

大樹薨去につき、黄門〔中納言〕忌服を受けられ候ところ、当節の急務御多端について、格別の訳をもって別勅、除服これあるべき叡慮に候。この旨、申し入れ候事。





 各国使節を謁見     これよりさき、各国の使臣が、幕府の代替りが行われたについて、国書を呈し、入謁することを請うていた。中納言は未だ除服の勅がなかったので、その期日を延ぼしていたが、十月七日、左の上表をして大阪に赴いた。

横浜在留の仏蘭西(ふらんす)人、かねて国書を持参【注十一】致し候につき、大樹へ直渡ししたき旨たびたび申し立て候えども、進発中につき相断りおき候ところ、今般、代替りについては、各国使節と面会致し、その節、右の国書も受け取り候よう仕りたく存じ奉り候。しかるところ、方今、東帰仕り候おりもこれなく、その内、延期も相成りがたき儀に御座候間、五六日滞在の見込みをもって大阪表へ呼び寄せ候つもりに御座候。右は帝都に近きの儀につき、この段申し上げおき候事。





 謝恩の参内を排す     その頃、伝議の両奏衆が勅旨を奉じて、しきりに殿下の参仕を促したが、殿下は紛議を厭うて未だ参朝しない。しかして中納言は、ようやく除服の宣下があったのに、外国使臣謁見のゆえに大阪に行った。
 そこで在京の諸藩士らは、宮、堂上の間に入説して、中納言が除服をしても、謝恩の参内ははばかるべきだと痛論し、あわせて、朝廷がこれを受けることは非礼にあたると言い立てた。ゆえに、朝議もほとんどその方へ傾いた。思うに、除服の宣言がたとえあっても、謝恩の参内のない間は、朝議に列することができないしきたりがあるので、彼らはことさらにこの議を主張してすこしでも期日を延ばし、諸藩の参集を待とうという肚(はら)であった。





 提示所撤去事件     さきに、毛利経親が、その家臣に禁闕を犯させて以来、三条大橋の西詰の制札掲示所に、長藩が嘆願に名をかりて強訴し、禁闕に発砲した朝敵の所業を書いて掲示してあったが、この年の八月以来、何者かがこれを撤去すること三回に及んだ。
 わが藩では、これを探索させていたが、土佐の藩士がすこぶる疑わしい形跡があり、わが藩士の諏訪常吉が、土佐藩士荒尾騰作とそれについて語り合ったところ、騰作の言うには、「軽輩中に、あるいは檄徒がいるかもしれない。土佐藩士であるからと言って仮借(かしゃく)することなかれ」ということであったので、この月(九月)十二日の夜、新選組に命じ、掲示を徹する暴徒を捕えさせた。
 新選組では、退士二十余名を選び、これを二手に分ち、原田左之助、新井忠雄らにそれぞれ部下を率いさせ、橋の東西の商家に埋伏させた。別に退士二を乞食姿に扮装して、橋の上に伏させて、待期させた。子の刻〔深夜十二時頃〕になって、果して十名ばかりの暴徒が来て、掲示を撤去しようとしたので、橋の上の退士がそのことを報告した。二手の退士は、橋の東西から迫り、これを捕えようとすると、暴徒は抜刀してこれに抗してきた。遂に一名を斬り、一名を捕えた。詰問すると、土佐藩士宮川助五郎と名のった。
 土佐の留守居中村是助(弘毅)が、これを聞いて来り、「寡君父子は、公武の合体に尽力されること数年、今この無頼の臣を出したことは慙愧に堪えない。願わくば、助五郎をひそかに渡してほしい。藩法で処罰する」と言ったが、わが公は手代木勝任をやって、幕府の有司に相談させた。しかし、今になって、これを曖昧にするのは、典刑の許さないところだというので、遂に助五郎を送還することを取止めとなった。しかし、土佐とわが藩との旧交は、そのために害せられることはなかった。





 聖上大久保らの密謀を破る     十月十五日の夜、初更(亥の刻)、俄かに勅があって、伝議両奏衆を召し、聖上が親しく左の詔を下された。

徳川中納言の家督御礼、参内の儀につき、諸藩士共かれこれ申し立て相妨げ候段、陪臣として朝議を阻む、甚だもって相済まざることに候。自今、いかようの儀を申し候とも、決して御採用相ならざる旨御沙汰候事。

 そして、これを議奏衆柳原光愛卿から、山階宮と正親町三条実愛卿らに伝えられた。
 思うに、この宮以下の人々が諸藩士の所説を採用して内奏するところがあったけれども、聖上は、断然としてこれを斥け、さきに十五日をもって中納言の御礼参内の日とする勅を、儀奏衆に下されたのに対し、たまたま薩摩藩士大久保市蔵らが、前夜、近衛忠煕公の第(やしき)に祗候し、迫ってこの議を阻んだことが天聴に達したので、俄かにこの勅が出たのである。





 わが公辞職を申請     十六日(十月)、徳川慶喜卿参内し、本家継承の恩を謝した。わが公は老中、所司代とともに、これに扈従した。朝廷の恩遇はすべて、故将軍家の時と同じであった。
 その時、わが公が考えるには、「中納言は資性穎邁で、つとに声望があり、それに、先に本家継承を勧進したとき、内外諸政の確新のことを約束した。今、すでに継承もすみ、謝恩の典も終ったのであるから、きっとその実行にうつることであろう。そのときにあたり、不肖、守護職として京師にあること数年、嘱望が集って、あるいは新立の将軍家と掎角の勢いで対立するようなことがあっては、これ全く私事としても不利なことであり、国家にとっても有害である。速やかに職を辞し、将軍家に永く輦下に止まり、親しく禁闕を守護し、公武一和の実績をあげしめるにしく得策はない」と。
 また、この時に当って、諸雄藩が輪番に京都の守護に当るべきだという説が、諸藩士の間に行われていた。つまり、それをもって、わが公を退け、幕府の権力を殺(そ)ごうとする下心に出た策であった。
 わが公としては、将軍が滞京されて、守護の任に当られれば、諸雄藩守護の輪任など行われずにすむという考えであったので、十七日(十月)、左の書を呈して事態を申請した。

私議、先年当職を仰せつけられ候節、微力短才、重任に堪え候者にこれなく、強いて御詫び申し上げ候ところ、まもなく公方様御上洛あり、御直衛あそばさるべく、その中、しばらく相勤め申すべき旨仰せつけられ、御請け申し上げ候事に御座候。それ以来、種々の形勢に変じ、久しきを歴(へ)候うちには、自然権威を招き候姿になりゆき候心配も少なからず、かねがね懸念罷りあり候儀に御座候。
全体皇国の総容に於ても、京坂は中央枢要の地にて、鎌倉以来の得失、判然たる義のように相見え、御当家に於て遠く関東御開府あそばされ候は、その節おのずからその深慮あそばされ候儀に御座あるべく候えども、今日に推移候ては、天朝をば御直衛あそばさるる外に、重職御設けあそばされてしかるべくと存じ奉らず候。よって、私に当職を御免なし下され、相応の御用を仰せつけ下され候わば、別して有難く、いかにも微力をつくし、御奉公仕り候にて御座あるべく候。この段、厚く御垂察下されたく願い奉り候。謹言。


 幕府では老中板倉勝静朝臣から、「卿は従来、朝廷より厚く御倚頼あるから、その進退を、幕府で私に裁量しがたい。また現に、防長の処置も未だ終局していない。あるいは、さらに大旆を出すことにならぬとも測られない時である。従来通り職にあって、公武一和のために励むように」と辞職の申請を却下した。
 これよりさき、二条殿下は、しばしば参仕の召勅があったので、ようやく辞職の念をひるがえし、二十七日(十月)参内されたところ、俄かに詔があって、山階宮をはじめ正親町三条大納言実愛卿、大原前左衛門督重徳卿以下二十三人の公卿の参朝を停め、謹慎、閉門などの譴黜(けんちゅつ)があった。
 殿下は大いに畏れ、これもまったく臣が不肖で、その職に堪えないところから起ったことであるとして、しきりに寛宥を哀請されたが、聖上は、「かくのごとき上を上としない徒輩を宥(ゆる)さば、朝憲を何によって立てられよう」と仰せられて、厳としてこの宸断があった。
 満朝は悚然となり、それ以上、誰一人とて哀請するものはなかった。





 【注】

【一 連戦利あらず】 大島郡方面では、六月十一日、幕兵および松山藩兵が占領したが、高杉晋作の率いる第二奇兵隊、浩式隊等が奪回に向い、十五日に征長軍を敗退させた。芸州口方面では、六月十三日幕兵および彦根・高田・紀州・大垣・宮津の諸藩兵と奇兵隊の遊撃・御楯等諸隊を主力とする長州軍が交戦したが、征長軍を広島に退けることに成功した。石州口方面では、大村益次郎の指揮する南園隊等は、浜田・福山・津和野・紀州の諸藩兵を破り、浜田城を囲んだ。浜田藩主は七月十八日城を焼いて松江藩に逃れた。また小倉口方面では、高杉晋作、山県狂介の率いる奇兵隊等が、小倉・熊本・久留米・柳河・唐津および幕兵の征長軍と戦ったが、熊本藩家老長岡監物(是豪)は、再征反対意見を総指揮官小笠原長行に出し、兵をまとめて小倉を去った。幕兵や他藩兵も戦意なく、小倉藩が独立で戦うこととなったが、小笠原長行は将軍家茂の死を聞くとひそかに長崎に退去し、孤立無援の小倉藩主は、八月朔日城に火を放って田川郡香春に退去した。
征長軍の敗因は、軍隊の士気が低下し、戦意を失っていたこと、従軍諸藩間の協調を欠いていたこと、武器、戦術が旧態依然たるものであったことによる。幕兵および紀州藩兵の様式訓練をへたものを覗けば、大部分は立烏帽子、陣羽織、甲冑に刀槍をたずさえるという情況で、慶応元年の軍政改革によって、装備、戦術の様式化された長州軍に比し、いちじるしくたちおくれていた。

【二 幕府の失体を条挙し】 この建言の要点は、現在内外の憂患が百出している際、幕府が無名の軍を起したのは、大乱をひきおこすおそれがあるので、朝廷は長州藩にたいし寛大の詔を下し、かつ公儀の正論をつくさしめられ、政体変革、武備更張、遠戎賓服の中興の功業を成就せられたいというにあった。書中、慶応二年の百姓一揆、都市民のうちこわし、就中大阪、江戸のうちこわしの激発に言及したのは注目すべきことである。すなわち「既に一昨年、大乱の機相顕われ、屡々干戈を動かし、幾多の蒼生を殺し候上、眼前若州・信州辺の天災及び丹波・大和の一揆、兵庫・大阪・江戸の騒動(うちこわしをさす)伝承仕り候。即今兵庫・大阪の儀、将軍家御在陣中、号令整粛、軍威四方に煇くべきの処、却て足本の卑商賤民の如き厳威を憚らず大法を犯し候儀、いわゆる民、命に堪えざるの苦情に出候事にて、忍ぶべからざるの次第に御座候。
もはや鎮定の形にて候えども、米価はもちろん、諸色(物価の意味)未曽有の騰貴にて、既に当年災早水溢の憂も図られず、此上兵端を開き候ては、争論日に長じ、率土分崩(国家が分裂崩壊すること)救うべからざるの勢に及び候は案中にて、其時に当り外患を受け候節は、何を以て防禦仕るべきや、是れ卑臣年来痛心慨嘆する所に御座候」とのべている。

【三 勝安房守】 一八二三(文政六年)~一八九九(明治三二年)。名は義邦。海舟と号した。時に軍艦奉行。蘭学を学び、安政二年海軍伝衆生として、長崎でオランダ士官から伝習をうけ、ついで万延元年軍艦咸臨丸を指揮して太平洋を横断した。元治元年、神戸海軍操練所総管となったが、学生に坂本竜馬、陸奥宗光等があり、激徒養成の嫌疑をうけて免職された。彼は海軍関係を通じて、西南諸藩の志士と親しく、とくに西郷は勝の識見に心腹していた。

【四 梅沢孫太郎】 水戸藩士。一橋家用人として一橋慶喜に仕えていたが、慶喜が将軍となるや幕府の目付、ついで大目付に登用された。慶喜の腹臣として信頼が厚かった。

【五 二十三人】 列参の人数は二十二人である。この企ては、洛北岩倉村に蟄居していた岩倉具視の画策にもとづくものであった。

【六 壬戌、癸亥、甲子】  壬戌は文久二年、一巻一九七頁注九を見よ。癸亥は文久三年、一巻一九七頁を見よ。甲子は元治元年。

【七 六条、久世】 議奏六条有容、同久世通熙。柳原光愛も議奏であった。

【八 頭弁】 蔵人頭(天皇に近侍する蔵人の詰所、蔵人所の長官)で、大・中の弁官を兼ねた人。

【九 宮、堂上の間に入説】 慶喜は復臣原市之進をして、除服参内の宣旨を賜わることを運動させた。これにたいし薩州藩の大久保一蔵は、晃親王(山階宮)および近衛忠房等に入説してその妨害を試みた。

【十 十六日に早めた】 原文にはおそらく脱字があるであろう。慶喜は原市之進をして、十六日除服して、十七、八日頃参内の宣旨を賜わりたいと関白に請わしめた。これにたいし、薩摩の入説をうけた山階宮は反対し、諸大名の上京ののち、除服の宣下ありたいと上奏したのである。

【十一 かねて国書を持参】 フランス公司ロッシュが、ナポレオン三世の国書を捧呈することを申し出ていた。
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  1. 2012/11/19(月) 13:22:43|
  2. 京都守護職始末2
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